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1巻

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 あっに取られて言葉も出ない私をよそに、リリアは「私は何ともありませんわ。心配かけてごめんなさい」と、寄せられた声をいったん受け止めた上で、得意のけなげな演技で皆に訴える。

「でも、どうかお願い! カリーナお姉様のことを悪く言わないで。いつも説明しているようにお姉様にそうさせてしまう、欠点が多く未熟な私が悪いの!」
「いいえ、いいえ、リリアさん! お話を聞いても、あなたに一片たりとも非があるとは思えませんわ」
「そうよ。どれについてもあなたのお姉様の仕打ちは、理不尽極まりないもの」
「とにかくこれからは、私達がそばについてお守りしますからね」
「ええ、お任せになって」

 そう宣言した瞬間から令嬢達はリリアを取り囲み、けんせいするように私をにらんで移動していった。
 一人取り残された私はといえば、玄関扉を背にぼうぜんと立ち尽くすばかり。
 自分の置かれている状況を思い知らされると同時に、今までのんに浮かれていたことが急に恥ずかしくなった。
 少し考えればわかることだったのに。
 ひんぱんに社交の場に出かけ交友を広げていたリリアには、学園にも知人や友人といった味方が多くいて当然。
 そして今までのやり口からして、事前に私をおとしめる印象操作――きょげんと演技を交えた周囲への根回しをしていないほうがおかしい。
 つまり私は入学前からリリアによって多くの敵を作られ、孤立していた。


 精神的なダメージのあまりその晩は夕食をとり損ね、空腹も手伝って最悪な気分で迎えた翌朝。
 入学式に出るために制服を着た私は、重い足取りで朝食をとるために食堂へ向かった。
 しかし、入寮時に渡された館内図を頼りに迷いながら着いたそこには、なぜか生徒の姿がない。
 場所か時間を間違ったのかとあせりつつ、おずおずとカウンターごしに調理場へ声をかける。

「あの、朝食をお願いできますか?」

 すると、食事が載ったトレーを差し出しながら、調理人が不思議そうな目で見てきた。

「あの、どうかしましたか?」
「いえ、生徒さん自ら食事を取りにくるのは珍しいのと、皆さん朝は忙しいので部屋で食べる方がほとんどだから」

 どうやら私以外の寮生にはみな使用人がついているらしい。
 それも道理で、王立学園は貴族学校だけあり、生徒一人につき世話係を一人だけ寮へ連れてくることが許されていた。
 とはいえ、私は子供の頃以来お付きのメイドのいない生活を送ってきたので、自分のことは何でも一人できる。
 逆に、常に入念に着飾っているリリアは、複数の手伝いの者なしには支度ができない。
 だから公爵家から二名メイドが同行していたが、両方ともリリアについていた。
 でも、それについては不満に思うどころか願ったり。
 今まで散々痛い目にわされてきたので、義母の下僕であるメイドが近くにいると、私は全く気が休まらない。
 食事にしても配膳なんかよりくつろげるほうが重要。一人で食べるのにも慣れている。
 私はさっさと朝食を済ませた。
 それより問題なのは、学園に来たばかりで右も左もわからない状態なのに、頼れる相手が一人もいないこと。
 どうもリリアのせいで、すでに私の悪評がかなり広まっているらしい。
 昨夜、遅れて対応に出てきた寮監の先生も、部屋まで案内してくれた寮監生の先輩も、私に対して極めて塩対応。とても質問や相談ができる雰囲気ではなかった。
 幸い、登校については、王立学園の校舎がお城のような外観で寮からでも目印の高い尖塔が見えたので、一人でも迷わずに済む。
 ただし向かう途中ですでに、周りから遠巻きに見られている感じがした。
 気のせいだと思いたくても、学園へ到着し、人でごった返した玄関ホールに入ったとたん、いっせいに視線が集まり、さっと近くから人波が引く。
 あきらかに悪い意味で注目され、皆から敬遠されている。
 その状態は入学式が始まるまでの待機場所である教室でも同じ。
 あちこちから視線を感じるのに、誰も目を合わせようとしてくれない。
 唯一の救いは家の序列で分けられる寮と違って、クラスがリリアと違うこと。
 しかし、クラスメイトの中に昨日寮の玄関ホールで見た顔が二つあって、待ち時間の間、彼女らを中心に複数の生徒が輪になり、こちらを見ては何やら話していた。
 内容は聞こえなくても昨日の経験から察せられる。
 それこそ初対面の名前すら知らない多くの人達から、すでに誤解されて引かれているというつらい現状。
 これでは友達を作る以前の問題で、ましてや『皆に愛される』という母の願いを叶えることなど絶望的に思える。
 期待したぶん落胆は大きく、すっかり肩を落として参加した入学式。
 高い円天井の大聖堂のようなホールで、大勢の新入生仲間と一緒に整列しながらも、私の心は領地にいた頃のような孤独感に包まれていた。
 ここでも私は一人ぼっちで、周りからもの扱いされるのか……
 そう思うと、学園長の話を聞きながら、無性に泣きたくなった。
 ――ところが、そんな暗く沈んだ気持ちが、次の生徒会長のあいさつの段になって一変する。
 なぜなら学園長と入れ替わり、まばゆい金髪をなびかせながら壇上に現れたのが、ずっと再会を夢見てきたルシアン様だったのだから。
 彼が皆の前に立ってこちらを見下ろした瞬間、圧倒的なぼうと存在感から放たれるオーラにより、会場内の空気がすっと変わった気がした。
 私は思わず呼吸も忘れ、すっかり成長したルシアン様の凛々りりしいお姿に見入る。
 離れた位置からでもわかる気品を増したたんれいな顔に、均整の取れた長身のたい
 会場を見下ろす水色の瞳からは、かつては感じられなかった強い意志力が伝わってきた。
 久しぶりに会えた感動と懐かしさで胸が熱くなり、冒頭のあいさつがまったく耳に入らない。
 幼い日のように彼にれる私の前で、王太子であるルシアン様は、将来の王に相応ふさわしい自信に満ちた態度で演説する。

「――このイクシード王立学園は歴史が長く、数百年前、国の特権階級である王族や貴族の子女を教育する機関として設立された。特権には必ず義務がともなう。ゆえに、それを果たせる力量とうつわが必要だ。この学園ではそれを身につけて育てるための最高の教育を受けることができる――とはいえ、当然ながら、学ぼうとする姿勢が必要だ……どうか新入生の皆さんには、学園生活を送る上で常に身分に相応ふさわしい高い意識と誇りを持ち、学業や武芸を修めることはもちろん、そのうつわとなるべき人格も磨いてほしい。この栄えあるイクシード王国の未来は、皆さんの肩にかかっているのだから」

 ルシアン様から贈られた激励の言葉に、私はかつてのように目が覚める思いがした。
 ――そうだ。学園は友達を作りに通うところではなく、自分を成長させる学びの場なんだ。
 いきなりリリアによって孤立させられ、公爵家にいた頃と何も変わらないと思っていたけれど、全然違う。
 ルシアン様がおっしゃるように、ここでは最高水準の教育を受けられる。
 今は何も持っていない無価値な私でも、知識や技術を学ぶことで、国や人のために役立つ能力が得られるだろう。もしかしたら将来、ルシアン様のお役にも立てるかもしれない。
 何よりこうしてルシアン様と同じ空間にいられ、遠くからだとしてもお姿を目にする機会が得られる。
 改めて学園へ来られて良かったと、感動の思いでルシアン様を見上げていたとき、話しながら会場を見回していた彼と目が合った。
 瞬間、また呼吸を忘れ、時が止まった気がした。
 そのまま水色の瞳から目が外せなくなり、動けないでいると、ルシアン様が先に、はっとしたように視線をらす。
 もちろん距離が離れているし、私の気のせいというか、願望が見せた錯覚だと思う。
 それでもその後、もう一度確認するように見られたときには、感激で全身の血がふっとうしそうになる。
 そうして熱くときめいた胸を抱え、ルシアン様を見つめながら、私は考えずにいられなかった。
 好きになってほしいなんてぜいたくは望まない。でもせめて嫌われたくない。
 きっとルシアン様も婚約者候補のリリアか弟のオリバー殿下、あるいはその両方から、私の悪い情報を聞かされているはず。
 でも、もしそうだとしても、ルシアン様の誤解だけはどうしても解きたい。
 少なくともこの八年間、私はルシアン様の励ましの言葉を胸に、天から見守ってくれている母に恥じぬよう、その教えを守って生きてきた。
 憎しみや恨みで心をにごさないように、義母やリリアに攻撃されても仕返しなど考えず。
 常に人として正しくあろうと、父になじられても根気良く真実を訴え続けてきた。
 母の教えを守り、毎日イクス神への感謝と祈りを忘れず、人として正しくあろうとしてきたのだ。
 何より、イクス神への感謝の心を決して忘れず、この八年間ひたすら祈りの日々を送ってきた。


   * * *


 その日の昼休みも私は一人で過ごしていた。
 寮や学園はもちろん、クラスでも相変わらず皆に避けられており、誤解を解く機会がなく、孤立したまま。
 心のなぐさめを得ようにも、上級生とは校舎が別棟だからか、入学式以来、ルシアン様を見かけることもなかった。
 そんな私にも心癒やされる場所がある。
 水の女神を信仰するイクシード王国だけあり、学園の敷地内は水で溢れかえっているのだ。
 噴水や壁滝、水盤、池など、水のある場所が多く、生まれ育った領地の城の中庭には水場がなかった私にとって嬉しかった。
 中でも特に生徒達に人気のいこいの場となっているのは、中庭にある巨大なイクス神像が中央に設置された縁が円形の噴水。
 ただし、そこは人が多く集まっているので、周囲から白い目で見られている私には落ち着かない。
 一方、リリアは顔が広く、男女問わず人気者らしい。
 見かけるたびに複数人に囲まれていて、その中には男子生徒も多かった。
 ゆううつなことにリリアの友人達は皆私を敵視しているらしい。通りがかりに色んな生徒からにらまれる。
 そういった理由で、なるべく人目につかない場所がないかと探して見つけたのが、この聖女像と水盤が置かれた裏庭。
 ここは校舎の陰になって日当たりが悪く、じめじめしているせいか常に人がいない。
 本日も私一人の貸し切り状態だった。
 私は水盤の正面にあるベンチに腰かけ、膝の上に敷いたランチョンマットに購買で買ったパンと水の入った水筒を並べる。
 公爵家からの仕送りは極めて少なく、学食で昼食をとる金銭的な余裕はない。初日に下見に行ったときは、料理の値段の高さを見てびっくりした。
 幸い、購買で売っているパンはそれほど高額ではなく、計算したところ毎日一個ずつ買えて、少しお釣りが出る。
 飲み物に関しては買う余裕はなかったものの、朝食のついでに食堂で水筒に水を入れてもらうことができた。
 なくなれば学園の水汲み場で足すことができるので、不自由はない。
 栄養についても、朝晩寮で食事が出るので、公爵家にいた頃より総合的に取れていた。

「イクス神様、今日もお恵みをありがとうございます」

 私は今日も心から感謝を込めて、食前のお祈りをする。
 それからパンを細かくちぎり味わって食べながら、正面にある聖女像をながめた。
 青銅製の聖女セリーナ像は伝説の一つを再現し、水盤に手をかざすポーズを取っている。
 母にそっくりなそのおもしを見つめ、私はメイドに勝手に処分されるまで繰り返し読んでいたお気に入りの本『聖女セリーナ伝』の内容を思い起こす。
 それによると、聖女の能力は生まれつきのものではなく、イクス神が相応ふさわしいと思った乙女を選んで加護を与えることによって出現するらしい。
 もちろん聖女セリーナもその例外ではない。
 当時、大陸には長い干ばつが続いており、作物の不作によるきんと疫病がまんえんし、食料を巡る争いが絶えなかったという。
 イクシード王国も例外ではなく、貧しさと飢えで人心が乱れ、国内の治安は悪化、宮廷内でも毒殺が横行し、神への信仰は地に落ちていた。
 聖女セリーナも戦乱に巻き込まれ早くに両親を亡くし、頼るべき叔父である大神官も毒殺される。
 それでも彼女は決して神への信仰を忘れなかった。
 神殿地所内にあるイクス神像が設置された『祈りの泉』の前で、来る日も来る日も雨乞いした。時には自分のぶんの食料さえも他人に差し出し、何日も水しか飲んでいない状態であっても。
 そしてついにある日、彼女は願いが聞き届けられるように泉が輝きだし、そこから生まれた光が天上に向かって立ち昇っていくのを見た。
 やがてその光が天に到達すると、雨雲が起こり、念願の雨が降り始める。
 これが聖女セリーナがおこなった最初の奇跡であり、神の加護を得たと判明した瞬間でもあった。
 以降、彼女は次々と奇跡のわざおこない、水不足だけではなく、水鏡を使った未来予知と過去見によってあらゆる問題を解決する。
 そうやってこのフレンシア大陸に長きにわたる平和をもたらしたという。
 まさに義母がいつか言ったように、三百年前たった一人だけ一族に現れた奇跡の存在。
 そんな偉大な先祖の伝説に思いをせているうちに、先日言われた『聖女のまつえいが聞いてあきれるわ』という言葉がよみがえり、私は彼女の子孫としてない気持ちになった。
 思わず食事の手が止まり、暗い気持ちで聖女像を見つめる。

「ここにいたのか、カリーナ。捜したぞ!」

 不意に大声がして、鼓動が大きく跳ねた。
 恐る恐る目を向けると、赤毛をなびかせ大股で歩いてくるオリバー殿下の姿が見える。
 それを確認した私は、悪い予感に襲われた。これまで彼が私に会いに来るときは、必ず文句を言うためだったから。
 内心でリリアの差し金かと疑い、警戒しながらたずねる。

「……オリバー殿下……私に何かご用でしょうか……?」

 すると殿下は不満げにふんと鼻を鳴らした。

「用事がないと会いに来ては駄目なのか? 俺はお前の婚約者なのだぞ?」
「そんなことはありませんが……」

 一応否定はしてみたものの、たとえ婚約者であっても会うたびに怒っているオリバー殿下は苦手だった。
 兄弟だけあって体格と顔立ちはルシアン様と似ていても、性格は真逆に近い印象だ。
 オリバー殿下は地面を踏み鳴らして近くまで来ると、ねめつけるような眼差まなざしで私を見下ろした。

「まあ、正直言うと、優しいリリアに、お前が毎日一人で寂しそうだから構ってあげてほしい、とお願いされて来たのだがな」

 遅れて理由を説明しながら、いやらしい感じに唇をげる。
 異様にニヤついた青い瞳を見返しつつ、私はへびにらまれたかえるのような緊張感をおぼえた。

「それは、お気遣いありがとうございます――ですが殿下、私は一人でいるほうが落ち着きますし、好きなので、どうかお構いなきよう願います」

 できるだけ丁重にお断りする。
 しかしオリバー殿下はその言葉を無視して言う。

「もちろんその前にお前をじっくりしつける必要があることはわかっている」
「しつけ……ですか?」

 発言者の品性と人格を疑うような表現だった。
 げんに思って問う私に、彼は口元にた笑いを浮かべ、いかにも愉快そうに答える。

「ああ、そうだ。従順さと可愛げというものをこれから時間をかけ、じっくりお前に教え込むつもりだ」

 勝手な宣言に思わず背筋がぞわっとした。
 私は身をこわらせて抗議する。

「私は、犬や猫ではありません!」
「ほらほら、カリーナ、そういうところだ」

 指摘するように言って、オリバー殿下が手を伸ばしてくる。

「きゃっ……」

 いきなり肩を掴まれそうになった私は、反射的にベンチを立って避けた。
 ところが、長い髪の端を掴まれてしまう。

「……うっ……⁉」

 痛みにうめく私の髪をこぶしに巻きつけ、オリバー殿下は強引に引き寄せる。

「お前のこの絹糸みたいに艶々つやつやした髪も、人形じみたお綺麗な顔も悪くはない。つまり問題はその腐った性根と生意気な性格だけだ。婚約者として意地でもきょうせいしてやろうじゃないか」
「痛いっ、離してください!」

 悲鳴まじりに懇願しても、逆に手の力をこめ、無理やり私をベンチに引き戻す。
 そして「座れ!」と怒鳴りつけ、肩を掴んで上から押さえつけると、彼はドン、と勢い良くベンチの背もたれに両手をついた。
 男性の大きな両腕と身体で囲い込まれた私は、突然のかんしゃくと暴力への混乱もあいまって固まる。
 オリバー殿下は、そんな私の鼻先につきつけるようにぐいっと顔を寄せ、いらった様子で叫ぶ。

「いいか、カリーナ。お前には俺に気に入られるように努力する義務がある。なぜならお前から望んだ俺との婚約なのだからな!」

 婚約パーティーの件でオリバー殿下に苦情を言われた際に知ったが、なぜかそういう話――私が彼をめて婚約を希望したことになっているらしい。
 でも、母が生きていた頃、つまり生まれたときから外出をいっさい禁じられていた私は、それが彼と初対面。
 有り得ないと何度も説明したのに、先月の誕生会の件と同様、義母とリリアの演技によって逆に嘘つき呼ばわりされた。

「……以前も申し上げましたが、私はあなたとの婚約など――」

 希望したことなどございません……と言い終わる前に、大きな手でパシン、と頬を引っぱたかれる。

「きゃっ!」

 瞬間、痛みより衝撃で勝手に目に涙がにじんだ。
 私は頬を押さえ、信じられない思いでオリバー殿下の顔を見上げる。

「……何を、するんですか……⁉」
「まずは口答えしたらどうなるか、わからせてやらないとな」
「暴力なんて最低だわ!」

 非難するとすかさずまた手が伸び、逆の頬を激しくぶたれる。

「……っ⁉」

 今度はバチン、という先ほどより鈍い音が響き、ぶたれた箇所から焼けるような痛みが広がった。
 どうやら言い返すたびに頬を打つ気らしい。
 そう悟った私が無言で震えていると、オリバー殿下は盛大な溜め息をついた。

「なあ、カリーナ、わかってくれ。俺だってできればこんな方法は取りたくない。でもリリアが強情なお前には口で言っても無駄だと、親切に教えてくれたのだ」
「リリアが……?」
「ああ、そうなると、身体に教え込むしか手段がないだろう? だからこれは仕方がない行為なんだ」

 あくまでもリリアの助言に従っただけで「自分は悪くない」と主張したいらしい。
 あきれた言い草に私は言葉を失う。
 たとえリリアにそそのかされたのだとしても、暴力行為を他人のせいにして正当化するなんて人間性が最低すぎる。
 ――こんな性根の腐った人が私の婚約者だなんて。
 込み上げてくる激しい嫌悪感と共に、私の中で一つの記憶がよみがえる。

『お母様はお父様が嫌いだから毎日喧嘩しているの?』

 幼かった私がある日たずねると、母はきっぱりと答えた。

『いいえ、カリーナ。決してそうじゃないわ。自ら望んだ結婚でなかったとしても、縁あって夫婦になったんだもの。お父様に良くなってほしいと思えばこそ、厳しいことを言っているの。私だってできれば無用な争いはしたくない。お父様が間違っていても口を閉ざし、逆らわず大人おとなしく従っていれば争いにならず、丸くおさまることもわかっている。でも、それは決して相手のためにならないことよ……何より私は聖女セリーナのように、いつでもどんな状況でも、正しいことは正しい、間違ったことは間違っていると、勇気をもって言える人間でありたいの』

 暴力の有無はあれど、まさに私が今置かれている状況は母と同じではないか……
 母は人としてけいべつに値する父を最期まで根気良くさとし続けていた。
 あの日、母が言ったように、逆らわなければ、口を閉ざしていれば、争いにならず、暴力もふるわれない。
 でもオリバー殿下は間違っている。
 私は勇気をふるってぜんと顔を上げ、震える喉から声を絞り出した。

「……ぶちたいなら何度でもどうぞ、暴力で人の心は支配できません」

 覚悟を決めて言い切ると、オリバー殿下は逆上するどころかニッと笑い、自分のえりもとを緩め始める。

「ふん、何も身体に教えるというのは、暴力に限った話ではない」

 遅れてその発言の意味を察した私は、慌ててその場から離れようとした。
 ところが、はばむようにバッと前側から抱きつかれ、そのまま芝生しばふの上に押し倒される。

「いやっ!」

 必死に起き上がろうとしたものの、肩を押さえつけられ、腹の上に馬乗りになられてしまう。
 オリバー殿下はまたがった状態で私のえりに手を伸ばし、性急な手付きでボタンを外すと、ぐいっとブラウスの前を開いた。

「きゃっ」

 胸元をはだけられた私は、生まれて初めて男性に下着を見られた羞恥しゅうちしんと恐怖で視界が赤くなる。
 このままでは力ずくで純潔を奪われてしまう。
 瞬間的にそう悟ると同時に、こんな男に汚されるくらいなら、舌を噛んで死んだほうがましだと思った。
 しかし、いくら死にものぐるいで身をよじり手足を動かそうとも、大柄なオリバー殿下の身体の下から抜け出ることは叶わない。

「誰か、助けて!」
「静かにしろ」
「んぐっ……!」

 挙げ句、助けを呼ぼうとした口を大きな手でふさがれ、絶望に目の前がまっ暗になった――まさにその時だった。

「いったいそこで何をしている?」

 りんとした声が裏庭に響き、誰かが駆け寄ってくる気配がする。
 なんとか首を動かし確認した私の視界に映ったのは、まばゆい金髪をなびかせる際立った長身の男性――ルシアン様の姿だった。


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