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第1話 紛れ込んだら、きっと誰にも分からない
しおりを挟む会社からの帰り道、渋谷のスクランブル交差点の前で俺は「ふぅ」と息を吐いた。
今年は暑い。
例年よりも早く気温が上がっているせいで、夕暮れの今でも背広の下に汗を掻く。
ならば一枚脱げばいいだけの話なのだろうが、そうすると手荷物が増えてしまう。
それがどうしても嫌で、せめて首元だけでも涼しくしようとネクタイの結び目をグイッと緩めたのだが、残念ながら体感温度に大した変わりはない。
耐えられなくて荷物を持っていない方の手でシャツを掴んでパタパタとしてみれば、やっと体感温度が少し下がった気がして安堵どか何だか分からないため息が口から漏れた。
目の前の信号機は、まだ『止まれ』を示している。
後ろにはもう次の青を待つ人々の気配と雑踏と話し声が少しずつ溜まり始めており、それが他の音と混じりあって軽い騒音の出来上がりだ。
そんな経過を耳で感じ取っていた時だった。
目の前の大型ビジョンに、とある映像が映し出されたのは。
「あっ、私これ知ってるよ!」
どこからか、そんな女性の声がした。
ビジョンに映っていたのは、最近オリコンチャートに登場し始めた4人組バンドのミュージックビデオだった。
白黒の世界で、ただひたすら音楽に没入して楽器をかき鳴らし、歌う4人の男たち。
その全てが、顔のどこかしらを隠しているのがひどく印象的だった。
そうでなくとも垣間見える素顔はどこにでもいそうな素朴さだ。
例えば服装ひとつ、髪型ひとつ変えるだけでも気付かれる確率はひどく減る事だろう。
「あぁあれだよね、『グランアンリミテッド』!」
「うん、分かってるのはメンバー構成だけで、MV以外では顔出しも全くしてないけどさ、何かこう……音楽がカッコいいからか、雰囲気カッコいい系だよね!」
「分かるわー!」
おそらく友達同士なのだろう。
そんな彼女達の会話を聞きつつ、俺は思う。
何だよ『雰囲気カッコいい系』って。
雰囲気美人、みたいな?
そんな言葉無いからな?
……でもそっか、近頃の若者はそんな言葉使ったりするのかな。
一応覚えとこう。
因みに彼女達が本当に若者であるかどうかは分からない。
だって実際に彼女達の姿を見た訳では無いのだ。
知っているのは、この声と会話だけ。
しかしそれで良いのだろう。
だってここは様々な人が集まり、そして通り過ぎるただの交差点なのだから。
なんて思いながらビジョンをボーッと眺めていると、映像は『全国ツアー開催決定!』という大きなテロップで締め括られた。
すると、どうだろう。
10人や20人なんてものじゃない、もっと多くの人々の驚きと喜色の波がドッと鼓膜に押し寄せてくる。
そしてそんな反応は彼女達も同じだった。
「えぇぇぇぇ?!」
「ちょっ、検索検索……」
そんなやり取りをする2人をよそに、歩行者信号は無常にもその色をパッと変える。
「進め」という無機物の思し召しに、俺は素直に足を踏み出した。
渋谷のスクランブル交差点は、四方の横断歩道が一斉に「進め」と告げる仕様になっている。
お陰で白黒のアスファルトへの人の侵食はあっという間に始まって、真ん中辺りで合流すると一面が人混みになる。
そんな中を、人は皆ぶつからない様にすれ違う。
そんな風に行き来するのだから、背中越しに声だけ知っているようなどこかの誰かなんて人も、あっという間に聞き失ってしまうのは道理だった事だろう。
俺が交差点を渡り切った時、聞こえていた彼女達は跡形もなく消え失せていた。
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