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紫苑と更

新しい出会い

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 桜が咲き誇る四月の頃。僕、仁科更にしなさらは、新たな生活をスタートさせようとしていた。
 整備された美しい並木道。洗練されたデザインの新しい制服。
(地元じゃ、学ランが当たり前だったもんなあ)
 おしゃれなブレザーを着ても、大きな眼鏡と自分で真っ直ぐ切り揃えた短い前髪が、野暮ったさを感じさせる。
 それでも、えんじ色のネクタイをいじりながら、僕は浮かれる気持ちを抑えられなかった。
 何といっても、ずっと憧れていた東京での生活が始まるのだから。
 僕が生まれた町は、田んぼと山に囲まれた超がつくほどの田舎だ。コンビニどころか、近くにある店と言えば齢八十になるおばあさんが経営する小売店くらいのもの。
 テレビのチャンネルも二つしかない。当然ながら、深夜アニメなんてものは一つも映らなかった。
 オタクである僕が、そんなド田舎で生活するということが、どれだけ大変なことか、都会の人間にはわかるまい。
 幸いにも、現代はネット社会だ。欲しい漫画やDVDは通販サイトで買うこともできるし、最近はアニメもネット配信が増えてきた。
 それでも、中学生だった僕が充分にオタクをするには、この町はあまりに田舎過ぎた。
 特に、オタクイベント……同人誌即売会に、僕はどうしても行きたくてたまらなかった。
 何故なら、僕の大好きな漫画『源さん家のヒカルくん』の作者である紫式部先生が、東京で行われるイベントに参加しているからだ。
『源さん家のヒカルくん』は、いわゆるボーイズラブ漫画だ。主人公の源ヒカルくんという超イケメンな男子高校生(攻め)が、たくさんの男を落としていく話である。
 僕は主人公のヒカルくんが大好きだ。自分もこんなかっこいい男になりたいと思うし、もしもそんなイケメンがいたら会ってみたいと思う。
 そして、この春。僕は晴れて東京の高校に通うことになった。
 ずっと日本各地で単身赴任中だった父親が、ついに東京勤務になったのだ。これに便乗しない手はない。
 死ぬほど勉強を頑張って、地元の進学校よりもはるかに頭の良い私立校に合格した。
 私立大和高校。中高一貫の男子校だが、高校からの入学者も多いと聞く。学年三位までは、学費が免除されるというのも魅力の一つだ。入試では何とか三位に入り込み、入学金と一学期分の学費を免除された。
 僕が学校に足を運んだのは、入試と入学手続きの二回。どちらも父と一緒に行った。
 父にはいずれ通学路になるのだから、と言われたものの、その時は初めての東京の風景にきょろきょろするばかりで、全く道順が頭に入らなかった。
 そして、入学式の今日。父は実家からくる母を迎えに駅に行っている。
 つまり、全く道がわからないまま、僕はこうして学校に向かっているのだ。正確には、きちんと学校に向かえているのかも不明である。
 今日知ったことなのだが、僕は方向音痴だったようだ。
 スマホの地図には、向かうべき学校も、道順も表示されている。しかし、自分の現在地がいまいち把握できない。画面の青い道筋は、目の前のどの道を表しているのだろう。
 途中までは、なんとなく見た景色だったのだが、勘で進んでいるうちに全く来たことのない場所に来てしまった。
 整備された歩道は、辺りを全て同じような風景にしてしまう。僕は、自分がどこから来たのかすらわからなくなってきた。そして、周りに学生のような人は見当たらない。
(そろそろ遅刻する時間だなぁ……)
  どこか他人事のようにそう思った刹那、一陣の風が吹いた。
  ハッと前を見ると、自分と同じ紺色のブレザーが駆けている。
「待って!」
  思わず走り出しながら、僕は風の主に声をかけた。
  しかし、彼はこちらを振り向きもせずに走っている。
  ここで見失えば遅刻は確定だ。僕は必死で彼を追いかける。
「僕、大和高校の、生徒でっ……! ま、迷っ……て、しま……」
  僕がいた町は、遊び場といえば野山や林だった。同級生は外を元気に走り回っていたが、家にこもって漫画ばかり読んでいた僕は、残念ながら体力が無い。
 息も絶え絶えな僕を見かねたのか、目の前の人物はようやく振り返る。
 やっとのことで追いついた僕は、肩で息をしながら彼の顔を見上げた。
(うわ、イケメン……!)
 さらりとした黒髪から覗いた顔はとても綺麗で、思わず見とれてしまう。
 陶器のような肌に、切れ長の目。そこに長いまつげが影を落としている。
 イケメンは、何故か前髪をゴムで括り上げていて、その整った顔を惜しげもなくさらしている。
「……新入生か」
 イケメンが僕のネクタイを見て呟く。彼のネクタイは青色だった。
 突然、彼が僕の手を握った。
「えっ……?」
 そのまま、僕の手を引いて走り出す。
「あっ、あの……!」
「黙って走れ。遅刻する」
 そう言われて、僕は口を閉じた。というか、彼のスピードに合わせて走ることに必死で、話す余裕もなかった。
 しばらく走ると、生成り色の壁に緑の屋根が見えてくる。校舎だ。
 どうやら、こちらは裏門側のようだ。
 キーンコーンカーンコーンと、チャイムの音が聞こえてきた。
「やべ」
 イケメンが速度を上げる。もう僕の体力は底を尽きかけていた。
「も、無理ぃ……」
 僕の泣き言に、イケメンがちらりとこちらを見やった。
「……口閉じろよ」
(え?)
 そう聞き返そうとした瞬間、身体がふわりと浮いた。
「うええええっ!?」
「口閉じろって。舌噛むぞ」
 景色が逆に流れていく。イケメンは、僕を米俵のように担ぎ上げていた。
 いくらもやしっ子とはいえ、男の僕を担ぎ上げるなんて、相当な力だ。
 そんなにマッチョには見えないのに、どこにそんな力が隠されているのだろう。
 というか、このイケメン、行動までイケメンかよ。
 あっという間に裏門に辿り着いた。しかし、裏門は閉じている。
「ここの門は朝閉じているから、生徒会も見張ってない。違反切符切られなくていいんだ」
 そう言いながら、イケメンは僕を担いだまま、片手で門を越えていく。
「ほら、降りろ」
「あ、ありがとうございます……!」
 頭を下げると、イケメンは僕の右斜め後ろを指差す。
「一年の下駄箱はあっち」
「あ……はい! あの、本当にありがとうございました!」
「はよ行け」
 その言葉に、僕はもう一度頭を下げて走り出す。
 遅刻は免れたが、ぎりぎりなのに変わりはないのだ。
(あの人、マジでイケメンだった……)
 顔だけでなく、行動まで、まるで漫画の主人公のようだと思った。
(そうだ、ヒカルくんに似てる……!)
 僕は一人で合点のいった顔をして、にやけながら教室を目指した。
(また会いたいなあ、ヒカルくん……)
 同じ学校なのだから、きっとまた会うこともあるだろう。
 その時は、また改めてお礼を言おう。
 新入生で溢れた廊下は、新しい学校生活への期待を春風のさざめきのように響かせていた。

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