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第一章 悩める大人たちの狂騒曲
プロローグ
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わたくし、ルーシェ・アリスベルガーは、無事に王立魔法学院を卒業いたしました。そして、婚約者であるクリストファー・リザーズ様に嫁ぎ、はや二年になります。相変わらず、社交の場が苦手なために、限られたお茶会にしか顔をださないひきこもり妻となっています。それでも、クリストファー様もリザーズ侯爵家の方々も、そんなわたくしを暖かく見守ってくれています…といいたいのですが、やはり、嫁という立場でひきこもりというのは、外聞が悪く、舅のガルム侯爵様からは、遠回しに『息子の将来が不安でならんな』と言われる日々。
ですが、ご招待もされていないお茶会に出ることはできませんし、わたくしがお茶会を開いても、招待するのは学院時代に仲良くしてくださった方と決めています。だって、お茶会なんですから、楽しく女子トークに花を咲かせたいじゃありませんか!
とはいえ、ガルム様の手前、そうもいかず、リザーズ家の執事であるラフィードさんのご指導の下、侯爵家とご縁のある方々やガルム様がお付き合いを広げていくうえで重要とお考えになっている方々のご令嬢に招待状をお送りいたします。概ねご出席くださるのですが、ご挨拶を交わした後は、こちらから近づいても、みなさま何故かそそくさと適当なお天気などの話で茶を濁し、速やかにお帰りになられます。
学院時代のボッチスキルは、まだまだ健在のようですが、正直、助かっています。
「お嬢様…また眉間に皺がよっておりますよ」
「ごめんなさい。マリー…」
「わたくしに謝っても、お子ができるわけではございませんわ」
マリーは苦笑しながら、わたくしの髪を梳いてくれます。彼女はわたくしが嫁ぐときに、一緒についてきてくれた有能な侍女です。三つ年上で、わたくしにとっては姉のような存在であり、クリストファー様にも負けないほどわたくしを甘やかすのが上手です。
「ガルム様の言葉など気にする必要はございません。お子は天からの授かりもの。それにまだまだ新婚のお二人ですもの。焦る必要などございませんよ」
「それはわかっているのだけれど…」
たとえ義理の父であるといっても、男性から『まだ孕まぬのか』とあざ笑うように言われると、大変な侮辱と怒りを感じずにはいられません。
「ほらほら、そんな風にむくれていては、クリストファー様が心配されますよ。さあ、お嬢様お口をあけて」
「?」
「わたくしの実家から取り寄せたレモングラスのキャンディですわ。気分が落ち着きましてよ」
そういって、マリーはわたくしの口の中に甘くて澄んだ香りのキャンディを放り込んでくれます。
(うはぁ…美味しすぎますぅ)
こうしてわたくしの機嫌を、あっという間に治してしまうマリー。
「マリーがいてくれて本当にうれしいですわ」
「わたくしは一生お嬢様から離れる気はございませんから、ご安心くださいまし」
マリーはわたくしをぎゅっと抱きしめて、いつもそう言ってくれるのでした。
そんなある日のことでございます。
国王陛下のご命令により、クリストファー様が、ルシフィール王国の北北東に位置する辺境の地『ドラグーン』に向かうことになったのです。それも、わたくしを必ず同伴させよとの厳命でした。
「陛下は我が家を断絶させるつもりか!」
「父上、言葉が過ぎます」
「何をいうか!『ドラグーン』など不毛の地。ああ、こんなことになるのなら、もっと金をばらまいてでも家格の高いところから嫁を貰うべきだった!商魂たくましい子爵家の娘などにするのではなかったわ!」
クリストファー様が口を開きそうになったので、わたくしは袖を引いて首を横に振りました。クリストファー様は、小さくため息を吐くとわたくしを抱き寄せて、ガルム様の執務室を後になさいました。無言のままわたくしたちは夫婦の部屋へ戻りましたが、クリストファー様は悔しそうに噛んでいた唇から、ちいさくごめんという言葉をこぼされました。
「どうして謝ることがありますの?クリストファー様は何も悪くございませんわ」
わたくしはぎゅっと抱き着いて、大好きな旦那様の背中を撫でます。わたくしのために、怒ってくださることがとても嬉しいから。
「でも、あんな暴言…」
わたくしは、それ以上の言葉を必要としないので、自らの唇でクリストファー様のお口を塞ぎました。ちょっと血の味がするキスでしたが、とても幸せな気持ちになります。
「ルーシェ…」
「わたくしの実家が、商業が盛んな領地であることは事実ですし、わたくしは誰が何と言おうと領民たちを誇りに思っています。わたくしや両親がそれをきちんと理解していれば、それでいいのです。クリストファー様だって、みんなのことを『生き生きと楽しく働く、すばらしい人たちだねっ』て言って褒めてくださいましたわ。それで充分です」
「僕は自分が情けないよ」
「どうしてですの?」
「君をどんな害悪からも守りたいのに…」
「あら、いつも守っていただいてますわ。毎日、こうやってぎゅって抱きしめて甘やかしてくださるから、心が穏やかになって安心していられるんですもの」
それにとわたくしはまっすぐクリストファー様を見上げていいました。
「ガルム様のご事情がどうであれ、わたくしにクリストファー様をくださったことに変わりはありません。そこだけは心から感謝していますわ」
クリストファー様はようやく笑顔になってくださってわたくしはとても嬉しくなりました。
「ああ、僕の可愛いルーシェ。僕は陛下に感謝したいよ」
「どうしてですの?」
「だって、君を連れて行くということが絶対条件だから…。もし、単身で行って来いなんていわれてたなら、君をつれて行方をくらませることも辞さないよ」
クリストファー様はいたずらっ子のように微笑んでいらっしゃるので、わたくしも国中を二人で逃避行するつもりになってお答えしました。
「大丈夫ですわ。わたくし、クリストファー様から離れる気なんてございませんもの。でも、きっとマリーもついてきてしまいますから、わたくしの実家に逃げ込むように手配をしてくれるでしょう」
「そうだね。君のマリーは有能だから」
「ええ、自慢の家族ですわ」
クリストファー様は嬉しそうに、キスの雨を降らせます。
ああ、わたくし、本当にしあわせ者ですわ。
五歳でクリストファー様に出会ってから、前世の記憶を取り戻し、この世界が前世における乙女ゲームだと信じて悩み苦しみながらも、がんばって生きてきて本当によかったとしみじみ思っていると扉をたたいて、ラフィードさんがお湯の支度ができたことを伝えてくださいました。
クリストファー様は、わかったと返事をすると、わたくしの耳元で今日はいっしょに入ろうねと甘く囁くのでした。
それから、一週間は『ドラグーン』へ向かうための準備に追われました。マリーはそんな忙しい日々の中で、『ドラグーン』に関する詳細な情報を集めてまいりました。
「大変、治安が悪うございますわ」
わたくしとクリストファー様にお茶を出しながら、マリーは仕入れた情報を詳らかに語ります。
「警備隊は常駐していますが、日々、魔物退治に追われていますから、領内の治安を守るための人員が不足しています。その結果、領民のほとんどが盗賊として近隣の領地を荒らしています。土地は不毛と言われるほど、やせており、これといった産業を興すための手立てもありません。領主であるはずのブランカ伯爵は、長年にわたり、王都暮らしを続けており、領地に帰ることも、管理することも怠り続け、昨年お亡くなりになりました。ブランカ伯爵家の跡継ぎであるバンダム様は、遺産を放棄し、奥方のご実家であるサリルナ侯爵家の領地の一部を管理しています」
マリーはそこまで一気にしゃべると、ふっと深いため息を吐きました。そして、すぐにまた話し始めます。
「不毛の地ではありますけれど、魔物の出現は年に数回を数えるほどだったので、ブランカ伯爵が長年領地管理を怠っていても、警備隊がいれば十分だったそうですが、三年前から徐々に魔物の出現回数が増え、かつかつの暮らしをしていた領民たちは、逃げ出すか、近隣の領地を荒らす盗賊として生きるかを選ばざる得ない状況まで追い込まれてしまったそうです。警備隊からの報告と人員補充の依頼は、何度もあったようですが、国王の元に届いたのは、ほんの二か月前ということでしたわ」
それとといって、マリーは一枚の紙をテーブルに置きました。そこには、王家の紋章の上に二本の剣が交差している図案があります。
「これは、なんですの?」
どこかでみたような気もするのですけど、わたくしは思い出せませんでした。けれど、クリストファー様は、とても厳しいお顔で『グランジット』とつぶやかれます。マリーもどこか表情が硬いようなのですが…。
「質の悪いいたずらと流したい気分でございますが…どうお考えになられますか。旦那様」
「うん…マリーの言う通り、僕もそうであってほしいと思う。だが、魔物の出現が急激に増えている以上…見過ごすというわけには行かない。そう思うよ」
わたくしは、二人の会話がよく理解できませんでしたので、とりあえず、テーブルの紙をじーっと見つめます。穴が開くほど図案を見つめましたが、見たような、見なかったような…全く思い出せません。
「…お嬢様。そんなに見つめていても答えはでません。ああ、わたくし、幻をみたのでしょうか?学院を首席でご卒業されたお嬢様の幻を!」
マリーは大げさに嘆きます。ひどいですわ。幻ではございません。まあ、わたくし自身も未だに信じられない事実なのですが…。隣で吹き出すクリストファー様。
「…二人してひどいですわ。…わたくし、座学は苦手なのでがんばりましたのよ。その、首席というのは、確かに何かの手違いではと未だに思いますけど…」
「ごめん。ごめん。拗ねないで、ルーシェ」
クリストファー様は、わたくしを抱き寄せて、頭をなでながら『グランジット』について教えてくださいました。
『グランジット』。それは、ルシフィール王国建国百年目に起きた大規模な召喚術師たちの反乱でした。発端は酒に酔った貴族たちが、召喚術師たちが崇める『天使の子』と呼ばれていた少女を蹂躙し、殺害したという、とても忌まわしく悲しい事件だったそうです。召喚術についての文献は、この反乱によってすべて焼き捨てられ、現在、召喚術を受け継いだ者はいないと言われているそうですし、すでに事件発生から四百年は経っていますので、召喚術自体が失われた幻の術といっても過言ではないそうなのです。
ただし、絶対にとも言い切れず、特に魔物の出現に関わりそうな場合は、慎重にならなくてはいけないとクリストファー様は、おっしゃいました。
「怖い?行くのが嫌になった?僕はルーシェが嫌だと言うなら、陛下に土下座してでも『ドラグーン』行をやめるよ?」
「それは、駄目ですわ!」
わたくし、つい大声を出してしまいました。ごめんなさい。
「えっと…だって…新婚旅行だと思って…楽しみにしていますのに…」
ああ、恥ずかしい!わかってます!わかってますわよ!王命なんですから、お仕事なのだということくらい!!
やっぱりって顔で見ないでください!マリー!!
「…旦那様にお願いがございますわ。可能でございましたら、わたくしマリーを先に『ドラグーン』に派遣してくださいませんでしょうか。現地の状況は自分の目で確かめとうございますし、できるだけお嬢様が満足するような旅程で『ドラグーン』入りしていただきたいのですけど」
「マリーはそれでいいのか?僕としてはとてもありがたい提案だけど」
「まあ、お嬢様のお世話ができないことは心苦しくもありますが、状況が予断を許しませんので、最終的な安全確認はわたくし自身で行いたいのです。ついでに、領主の館の大掃除も必要でしょうから」
「わかった。お願いするよ。ただし、君一人で行かせるわけにはいかない。ラフィードを同伴させてくれ」
マリーの表情が一瞬で固まりましたわ。実は、歳が近いラフィードさんが、苦手なのです。それに彼の有能さはマリーに引けを取りません。
「わ、わかりましたわ。旦那様」
ああ、マリーが滅多に見せない引きつり笑いをしています…。わたくし、ラフィードさんは親切・丁寧・信用第一が服を着ているような方だという印象があるのですが、マリーは違うようなのです。それでも、ここまで露骨に表情に出てしまうほど、マリーが苦手意識を持つなんて珍しいこともあるものです。
そして、『ドラグーン』での新たな生活に向けてすべてが動き出したとき、その未来に待っているのがわたくしの早すぎる『死』だということなど、誰一人知る由もありませんでした。
ですが、ご招待もされていないお茶会に出ることはできませんし、わたくしがお茶会を開いても、招待するのは学院時代に仲良くしてくださった方と決めています。だって、お茶会なんですから、楽しく女子トークに花を咲かせたいじゃありませんか!
とはいえ、ガルム様の手前、そうもいかず、リザーズ家の執事であるラフィードさんのご指導の下、侯爵家とご縁のある方々やガルム様がお付き合いを広げていくうえで重要とお考えになっている方々のご令嬢に招待状をお送りいたします。概ねご出席くださるのですが、ご挨拶を交わした後は、こちらから近づいても、みなさま何故かそそくさと適当なお天気などの話で茶を濁し、速やかにお帰りになられます。
学院時代のボッチスキルは、まだまだ健在のようですが、正直、助かっています。
「お嬢様…また眉間に皺がよっておりますよ」
「ごめんなさい。マリー…」
「わたくしに謝っても、お子ができるわけではございませんわ」
マリーは苦笑しながら、わたくしの髪を梳いてくれます。彼女はわたくしが嫁ぐときに、一緒についてきてくれた有能な侍女です。三つ年上で、わたくしにとっては姉のような存在であり、クリストファー様にも負けないほどわたくしを甘やかすのが上手です。
「ガルム様の言葉など気にする必要はございません。お子は天からの授かりもの。それにまだまだ新婚のお二人ですもの。焦る必要などございませんよ」
「それはわかっているのだけれど…」
たとえ義理の父であるといっても、男性から『まだ孕まぬのか』とあざ笑うように言われると、大変な侮辱と怒りを感じずにはいられません。
「ほらほら、そんな風にむくれていては、クリストファー様が心配されますよ。さあ、お嬢様お口をあけて」
「?」
「わたくしの実家から取り寄せたレモングラスのキャンディですわ。気分が落ち着きましてよ」
そういって、マリーはわたくしの口の中に甘くて澄んだ香りのキャンディを放り込んでくれます。
(うはぁ…美味しすぎますぅ)
こうしてわたくしの機嫌を、あっという間に治してしまうマリー。
「マリーがいてくれて本当にうれしいですわ」
「わたくしは一生お嬢様から離れる気はございませんから、ご安心くださいまし」
マリーはわたくしをぎゅっと抱きしめて、いつもそう言ってくれるのでした。
そんなある日のことでございます。
国王陛下のご命令により、クリストファー様が、ルシフィール王国の北北東に位置する辺境の地『ドラグーン』に向かうことになったのです。それも、わたくしを必ず同伴させよとの厳命でした。
「陛下は我が家を断絶させるつもりか!」
「父上、言葉が過ぎます」
「何をいうか!『ドラグーン』など不毛の地。ああ、こんなことになるのなら、もっと金をばらまいてでも家格の高いところから嫁を貰うべきだった!商魂たくましい子爵家の娘などにするのではなかったわ!」
クリストファー様が口を開きそうになったので、わたくしは袖を引いて首を横に振りました。クリストファー様は、小さくため息を吐くとわたくしを抱き寄せて、ガルム様の執務室を後になさいました。無言のままわたくしたちは夫婦の部屋へ戻りましたが、クリストファー様は悔しそうに噛んでいた唇から、ちいさくごめんという言葉をこぼされました。
「どうして謝ることがありますの?クリストファー様は何も悪くございませんわ」
わたくしはぎゅっと抱き着いて、大好きな旦那様の背中を撫でます。わたくしのために、怒ってくださることがとても嬉しいから。
「でも、あんな暴言…」
わたくしは、それ以上の言葉を必要としないので、自らの唇でクリストファー様のお口を塞ぎました。ちょっと血の味がするキスでしたが、とても幸せな気持ちになります。
「ルーシェ…」
「わたくしの実家が、商業が盛んな領地であることは事実ですし、わたくしは誰が何と言おうと領民たちを誇りに思っています。わたくしや両親がそれをきちんと理解していれば、それでいいのです。クリストファー様だって、みんなのことを『生き生きと楽しく働く、すばらしい人たちだねっ』て言って褒めてくださいましたわ。それで充分です」
「僕は自分が情けないよ」
「どうしてですの?」
「君をどんな害悪からも守りたいのに…」
「あら、いつも守っていただいてますわ。毎日、こうやってぎゅって抱きしめて甘やかしてくださるから、心が穏やかになって安心していられるんですもの」
それにとわたくしはまっすぐクリストファー様を見上げていいました。
「ガルム様のご事情がどうであれ、わたくしにクリストファー様をくださったことに変わりはありません。そこだけは心から感謝していますわ」
クリストファー様はようやく笑顔になってくださってわたくしはとても嬉しくなりました。
「ああ、僕の可愛いルーシェ。僕は陛下に感謝したいよ」
「どうしてですの?」
「だって、君を連れて行くということが絶対条件だから…。もし、単身で行って来いなんていわれてたなら、君をつれて行方をくらませることも辞さないよ」
クリストファー様はいたずらっ子のように微笑んでいらっしゃるので、わたくしも国中を二人で逃避行するつもりになってお答えしました。
「大丈夫ですわ。わたくし、クリストファー様から離れる気なんてございませんもの。でも、きっとマリーもついてきてしまいますから、わたくしの実家に逃げ込むように手配をしてくれるでしょう」
「そうだね。君のマリーは有能だから」
「ええ、自慢の家族ですわ」
クリストファー様は嬉しそうに、キスの雨を降らせます。
ああ、わたくし、本当にしあわせ者ですわ。
五歳でクリストファー様に出会ってから、前世の記憶を取り戻し、この世界が前世における乙女ゲームだと信じて悩み苦しみながらも、がんばって生きてきて本当によかったとしみじみ思っていると扉をたたいて、ラフィードさんがお湯の支度ができたことを伝えてくださいました。
クリストファー様は、わかったと返事をすると、わたくしの耳元で今日はいっしょに入ろうねと甘く囁くのでした。
それから、一週間は『ドラグーン』へ向かうための準備に追われました。マリーはそんな忙しい日々の中で、『ドラグーン』に関する詳細な情報を集めてまいりました。
「大変、治安が悪うございますわ」
わたくしとクリストファー様にお茶を出しながら、マリーは仕入れた情報を詳らかに語ります。
「警備隊は常駐していますが、日々、魔物退治に追われていますから、領内の治安を守るための人員が不足しています。その結果、領民のほとんどが盗賊として近隣の領地を荒らしています。土地は不毛と言われるほど、やせており、これといった産業を興すための手立てもありません。領主であるはずのブランカ伯爵は、長年にわたり、王都暮らしを続けており、領地に帰ることも、管理することも怠り続け、昨年お亡くなりになりました。ブランカ伯爵家の跡継ぎであるバンダム様は、遺産を放棄し、奥方のご実家であるサリルナ侯爵家の領地の一部を管理しています」
マリーはそこまで一気にしゃべると、ふっと深いため息を吐きました。そして、すぐにまた話し始めます。
「不毛の地ではありますけれど、魔物の出現は年に数回を数えるほどだったので、ブランカ伯爵が長年領地管理を怠っていても、警備隊がいれば十分だったそうですが、三年前から徐々に魔物の出現回数が増え、かつかつの暮らしをしていた領民たちは、逃げ出すか、近隣の領地を荒らす盗賊として生きるかを選ばざる得ない状況まで追い込まれてしまったそうです。警備隊からの報告と人員補充の依頼は、何度もあったようですが、国王の元に届いたのは、ほんの二か月前ということでしたわ」
それとといって、マリーは一枚の紙をテーブルに置きました。そこには、王家の紋章の上に二本の剣が交差している図案があります。
「これは、なんですの?」
どこかでみたような気もするのですけど、わたくしは思い出せませんでした。けれど、クリストファー様は、とても厳しいお顔で『グランジット』とつぶやかれます。マリーもどこか表情が硬いようなのですが…。
「質の悪いいたずらと流したい気分でございますが…どうお考えになられますか。旦那様」
「うん…マリーの言う通り、僕もそうであってほしいと思う。だが、魔物の出現が急激に増えている以上…見過ごすというわけには行かない。そう思うよ」
わたくしは、二人の会話がよく理解できませんでしたので、とりあえず、テーブルの紙をじーっと見つめます。穴が開くほど図案を見つめましたが、見たような、見なかったような…全く思い出せません。
「…お嬢様。そんなに見つめていても答えはでません。ああ、わたくし、幻をみたのでしょうか?学院を首席でご卒業されたお嬢様の幻を!」
マリーは大げさに嘆きます。ひどいですわ。幻ではございません。まあ、わたくし自身も未だに信じられない事実なのですが…。隣で吹き出すクリストファー様。
「…二人してひどいですわ。…わたくし、座学は苦手なのでがんばりましたのよ。その、首席というのは、確かに何かの手違いではと未だに思いますけど…」
「ごめん。ごめん。拗ねないで、ルーシェ」
クリストファー様は、わたくしを抱き寄せて、頭をなでながら『グランジット』について教えてくださいました。
『グランジット』。それは、ルシフィール王国建国百年目に起きた大規模な召喚術師たちの反乱でした。発端は酒に酔った貴族たちが、召喚術師たちが崇める『天使の子』と呼ばれていた少女を蹂躙し、殺害したという、とても忌まわしく悲しい事件だったそうです。召喚術についての文献は、この反乱によってすべて焼き捨てられ、現在、召喚術を受け継いだ者はいないと言われているそうですし、すでに事件発生から四百年は経っていますので、召喚術自体が失われた幻の術といっても過言ではないそうなのです。
ただし、絶対にとも言い切れず、特に魔物の出現に関わりそうな場合は、慎重にならなくてはいけないとクリストファー様は、おっしゃいました。
「怖い?行くのが嫌になった?僕はルーシェが嫌だと言うなら、陛下に土下座してでも『ドラグーン』行をやめるよ?」
「それは、駄目ですわ!」
わたくし、つい大声を出してしまいました。ごめんなさい。
「えっと…だって…新婚旅行だと思って…楽しみにしていますのに…」
ああ、恥ずかしい!わかってます!わかってますわよ!王命なんですから、お仕事なのだということくらい!!
やっぱりって顔で見ないでください!マリー!!
「…旦那様にお願いがございますわ。可能でございましたら、わたくしマリーを先に『ドラグーン』に派遣してくださいませんでしょうか。現地の状況は自分の目で確かめとうございますし、できるだけお嬢様が満足するような旅程で『ドラグーン』入りしていただきたいのですけど」
「マリーはそれでいいのか?僕としてはとてもありがたい提案だけど」
「まあ、お嬢様のお世話ができないことは心苦しくもありますが、状況が予断を許しませんので、最終的な安全確認はわたくし自身で行いたいのです。ついでに、領主の館の大掃除も必要でしょうから」
「わかった。お願いするよ。ただし、君一人で行かせるわけにはいかない。ラフィードを同伴させてくれ」
マリーの表情が一瞬で固まりましたわ。実は、歳が近いラフィードさんが、苦手なのです。それに彼の有能さはマリーに引けを取りません。
「わ、わかりましたわ。旦那様」
ああ、マリーが滅多に見せない引きつり笑いをしています…。わたくし、ラフィードさんは親切・丁寧・信用第一が服を着ているような方だという印象があるのですが、マリーは違うようなのです。それでも、ここまで露骨に表情に出てしまうほど、マリーが苦手意識を持つなんて珍しいこともあるものです。
そして、『ドラグーン』での新たな生活に向けてすべてが動き出したとき、その未来に待っているのがわたくしの早すぎる『死』だということなど、誰一人知る由もありませんでした。
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