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精霊ぶながやーの拳
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「精霊ぶながやーの拳」
灘 猿丸
その日、火夏は夕方から酒を呑み、夜には馴染の遊女明石を抱いていた。
二人の発する大量の汗と艶気で、狭い部屋は暑い空気で充満している。
「あっあー、鳥さま。もうっ、もうあかんわ」
明石がこの夜何度目かの気を遣った。
このボーとした男には似つかわしくないが、火夏は性技に長けていた。
遊女とはいえ誰彼なく気は遣らない。多くは擬態であり演技だ。しかし火夏が相手となると少し違っていた。どの遊女も自然と自ら腰を動かして、快楽を貪ろうとした。その間、火夏は一度も気を遣らない。ただジーっと女の狂う様を眺めていた。
それが面白いのか、何か女に対する復讐なのかは解らない。だがこの松島遊廓で、火夏が精を放ったという遊女の噂を聞いた事がなかった。それもあってか、火夏の相手をする遊女は、自分こそ精を吐き出させる勲章を手にしようと、皆必死になって責めてきた。
「ねえ鳥さま。あんたさん何が面白うてオンナ抱いてるの。ヒトがいくところばっかり見てて、まるで男娼やないの」
この日も自分だけいってしまった明石は、乱れた息を調えながら、筋肉で膨らんだ火夏の背中をつねって愚痴をいった。
「いかんもんは、仕方あるまい。気持ちは良いのだが、まだ頭の芯にまで来ぬのよ。どうすればよいか、俺も悩んでいる」
明石は「この人、あっちの病気やろか」と訝しんだ。
「そろそろ大門を閉める時間だな。ひと回りしてくるから、おまえはもう帰っていいぞ」
何事もなかったように床を抜け出し、部屋を出て行こうとした。明石は腹立ち紛れにその背に向って、自分の汗が滲んだ高枕を投げつけた。
だが火夏は振り向きもせず、後ろ手に高枕を見事に掴みとっていた。分厚い筋肉を纏った割には実にしなやかな動きだった。
「枕に罪はなかろう。憎いなら今度こそ俺をいかせてみろよ」
そういい高枕をそっと襖の横に置いた。明石は火夏に何か怖ろしいものを感じた。
「このお人、ほんまに人間なんやろうか」
体にじっとりとかいていた汗が、急速に冷めていくように思えた。
火夏は明石と睦んでいた廓を出ると、真っ直ぐに松島遊廓の大門に向かって歩いた。
明治以前は時間が来ると大太鼓が打ち鳴らされ、遊廓の大門は完全に閉じられた。それ以降は廓に篭って遊ぶのが慣わしである。
しかし明治五年、新政府は突如「芸娼妓解放令」という太政官布告を出した。遊女の人身売買の規制や、前借金を無効にする通達である。
遊女解放に対する支援もなかったため、実効はあまりなかった。自由意思の私娼として遊廓は維持された。ただ大門閉鎖の習慣はなくなった。その為に夜の警戒が必要になった。ひと気のない大門内側や各遊廓の安全確保、遊女の足抜け防止が必須だからである。
大門前には今夜の見廻り番である平吉と淳之介が待っていた。手には松島遊廓と描かれた提灯を提げている。
「鳥の兄貴、もう五月やいうのに今夜は冷える。早いとこ切り上げて一杯いきましょう」
若い淳之介は、見廻りよりも早く酒が呑みたいようだった。老人に近い平吉は、寡黙に提灯を火夏に渡してきた。
「いつも言っているが提灯はいらぬ。夜目を鍛えるため、見廻りには灯を持たぬのだ」
そう火夏がいうと、平吉は提灯をさげた。
「そうでおましたな。ただ、怪しきお人は灯りを避けます。これを持っとれば、無用の争いもありまへん。闇から人を狩るだけがお役目ではあらしまへんよって」
声は柔らかだったが、どこか目が笑っていなかった。平吉は明治以前、何処かの武士だったと聞いた。そのためか、こうした仕事の勘所を心得ているようだった。
「そんなんええから、もう行きましょ」
三人は遊廓内の見廻りに出発した。前に平吉と淳之介が提灯を持って並んでいる。それより少し離れて背後から火夏が歩いた。そうすることで、全体の風景がよく見えた。
提灯の明りはその周囲を煌々と見せるが、明りが届かぬ距離では逆に全くの闇を作る。それでは何かあったときに、闇に眼を塞がれてしまうのだ。明りから離れると全体が淡い薄闇になり、逆に気配が良く見えた。
拍子木を打ちながら、遊廓内をゆっくりと歩いて巡った。廓からはまだ光が漏れ、嬌声も聴こえている。小一時間ほどで遊廓の見廻りを終えた。
再び大門に戻った三人は、大門横にある番小屋に入った。平吉と淳之介は朝の一番鶏までここで見張りをすることになっていた。二人は松島遊郭の楼主が共同して作った見廻り組の人間である。見廻り組は安心して遊べる遊廓にするための自警団だった。
見廻り組には金を掛けないように各廓から人を出し、独りだけ専門の喧嘩師を雇っていた。汚れ役はこの喧嘩師の役目だった。喧嘩師は死んでも代わりを見つければよかった。
その喧嘩師が鳥辺野火夏である。
この火夏、めっぽう喧嘩が強かった。先ずタイマンなら負け知らずだし、相手が数人程度でも敵にはならない。段平やドスといった刃物があっても、一瞬でそれを叩き折った。刀を持った方が狐に抓まれた様子だった。
やがてヤクザ者も「くるい鳥」とアダ名し、ちょっかいを掛けてこなくなっていた。
結局、松島遊廓は安全な遊廓としての名が上がり、客足も途絶えなかった。先程の明石の花代や呑み喰い代など安いものとなっていた。
「兄貴、さあ一杯」
小屋に入るなり淳之介は酒徳利と茶碗を持ちだして、皆の前に置いた。さあさあといいながらも、まず自分の茶碗に酒を注いで喉を潤した。火夏も黙って酒を喉に流し込んだ。
だが平吉は少し茶碗を舐めただけだった。
「最近めっきり酒に弱うなって、急いで呑むと夜のお役目しくじりまっさかい」
そういっているが、平吉が見廻り仕事の最中は酒を呑まぬ事を二人は知っていた。
「俺は尻無川あたりまで少し走ってくる」
そう言い残して、火夏は見張りの番小屋を出て行った。火夏は番小屋での夜明しは役目ではない。見廻りに同行するだけだった。
大門から遊廓外に出た火夏はあたりを窺った。もうひと気がある時刻ではない。人がいないと確認すると、火夏は全力で走り出した。
疾走する火夏の姿は、直ぐに闇に溶けていった。その速さは人に可能なものではなかった。旋風が通り抜ける様な速さである。彼の長く纏められた髪が、風に靡き始めていた。
速度がさらに上がると、火夏は宙に飛んだ。
人の跳躍を遥かに超えた、猿か鴻の跳躍だった。そこここの屋並み、木々、あるいは建造物を足場にして、不規則に空を駆けているのである。
憑神術猿飛、それがこの技の名前だった。
火夏が幼い頃より土佐山中の隠れ郷で習い覚えた、唯一にして無二の霊術である。
火夏はもともと霊的特異な体質に生まれ落ちた。
憑霊体質、それが火夏の特異性だった。そこここに漂う死霊、動物霊、あるいは大地に宿る古い国津神に憑依されてしまうのである。それ故周囲に数多くの霊的な怪異現象を起こした。怪異を怖れて親にも捨てられ、挙句に人買いに売られたのだ。
だがそんな火夏の憑霊体質を求める者がいた。土佐物部の郷の陰陽師、白猿太夫である。白猿は火夏の様な霊的特異体質の子どもを探し、手元で育てながら術を教えた。それが憑神術である。体に幾体もの霊を宿らせ、霊の持つ超常の力を使役する。学ぶ以上に霊的体質が必要な術だった
火夏が育った土佐物部の郷は、古代から続く隠棲地である。いつの時代かもわからぬ昔より隠れ住み、時代時代に敗れた者たちが辿り着いた。火夏を教えた白猿も、その名を物部春宮太夫白猿と称した。春宮太夫は朝廷での皇太子教育係の官職名である。いつの時代かに政略に敗れた皇子と教育係が京都より落ちて来た記憶の残滓かもしれない。
大阪の闇の中を跳びながら、火夏は快感を感じていた。遊女明石との性交では得られなかった種類の快感である。結局、二十年修行した術中でしか快感を得られない事を、火夏はどこかで憎んでいた。
松島遊廓は大阪湾の埋立地にできた新来の遊廓で、周囲は川に囲まれている。北を安治川、東を木津川、南を尻無川、そして西に少し離れて大阪湾に接していた。だから街を歩けば仄かに水の匂いがした。西風が吹けば潮の香りさえする。
火夏は松島の南にある尻無川の土手にまで来ていた。この辺りにはもう人家は少なく、水運用の倉庫ぐらいしかなかった。そのため月のない夜などは深い闇が支配していた。
土佐の山中で育った火夏に大阪は明るすぎた。街中には何かしらの明りがある。特に維新以来ガス燈などといった文明の光も出現した。山中で夜目を鍛えて育った火夏には邪魔だった。その為にときに闇を求めて川沿いに来るのだった。
それでも少し北にある弁天埠頭などの灯は遠望できる。大阪の地に真の暗闇を求める事は無理なのかも知れなかった。
土手岸に寝転んで夜空を見上げていると、遠くで争う声が聞こえた。川風に乗った僅かな音だ。だが憑神術で五感の能力も異常に向上した火夏は、針の落ちる音さえも聞き逃さなかった。
身体を起こし、眼と耳の能力を全開にした。梟や夜鷹の動物霊を体内に飼っているので、動物の感知能力が使えた。ただ街中で夜鷹の視力、梟の聴力を全開にすると、光で眼が眩み、騒音で耳を塞がれてしまうことになったが。
遠く河口に近い方に、数人の人間がいるのがわかった。争っているらしかった。
一人対数人の争いである。場所柄、ひと気のない所で喧嘩や強盗などあっても不思議ではない。だが様子を伺うと、優勢なのは一人の方だった。
これに火夏は興味をそそられた。
「どんな奴だ」と思った。
土手沿いに風も切らず、音もたてず、闇に同化した火夏の疾走が始まった。憑神術を使った闇走りである。この技で土佐山中の獣にさえ、その存在を感じ取らせなかった。
河口近くまで来ると、茅が茂る場所に出た。元々大坂湾は茅渟(ちぬ)の海と呼ばれた低湿地帯である。膝ぐらいまである茅の原で、一人の若い男を六人の男が囲んでいた。
火夏は少し離れた茅の中に身を沈めた。
「そやさかいそのお宝だしなって。あんさんが闇でえらいお宝を売ろうとしてんのは、わかってんのやで。自分が持ち込んだ故買屋はわいらの仲間やさかいな」
「そんなものは知りませんね、何かの間違いでしょう。しかし、それだけの理由でいきなり襲って来たのですか」
にらみ合う男たちの側に、二人ほどが転がっていた。腹を抑えて苦しがっている。先ほど火夏が感じ取った争いの跡だ。この若い男に、一瞬で叩き伏せられたはずだった。
火夏は茅の陰から覗き見て、「どんな技を使ったのだ」と少し期待した。争いの理由などどうでもよかった。ただこの若者がどうやって人ふたりを壊したのかが知りたかった。
「お宝の話は人間違いでしょう。私はただの船乗りですから、そんな物は持っていません」
若い男が薄く笑うと、男たちはいきり勃った。
「あんさん、琉球から来はったんやろ。ネタはばれてんねん。琉球のお宝仰山持ってる筈や。それを買うてくれはるお大尽探してんってな」
やれやれという風に、若い男は自分を囲む男たちを見回した。
「もしそうでも、どうしてあなた方にそれを渡さなきゃならんのですか。くぬ阿呆だら」
最後の言葉に男たちが反応した。右側と左側の男が同時に殴りかかった。
前の男は睨んだまま動かず、若者の背後の男が懐から長ドスを出そうとしていた。時間差をつけた連続攻撃で、背後の男が本命の攻撃だろう。
だが男たちの目論見は外されてしまった。左右からの男は、若者の左手の裏拳と右手の貫手で、同時に止められていた。左右の男は苦悶しながらしゃがみ込んでしまった。
そして見ていたように背後の男が出しかけていた長ドスを、背面への旋風脚で跳ね上げていた。
すべてはものの二、三秒の間の出来事だった。正面から目で威嚇していた男は、その間若者の視線が自分から一度も外れていない事に気がついていない。視線を動かさずに三人の攻撃を同時に退けていたのだった。
「ほう」と、火夏は感嘆の息を漏らした。
「並みの人間にこんなことができる奴がいるのか」と思った。
憑霊の力を使役して闘う火夏には、普通にここまで強いことが意外だった。
それに見たことがない武術である。日本の柔剣術とも違うし、戦場組手とも違った。むしろ火夏が使う陰陽拳に近い。
三人の男が一瞬で倒されたことに、正面の首領の男はたじろいだ。残りはもう自分と二人しかいない。すでに五人もの男が倒されているのだ。
慌てた首領の男は、残った二人に目配せをし、同時に懐から拳銃を取り出そうとした。三方から拳銃で狙われれば、避けようがないはずだった。
だが焦っているせいで、全員が素速く取り出せなかった。
そこに一瞬の時間差ができた。
若者はいつから持っていたのか、手にしていた礫を親指で弾く指弾で撃った。礫に襲われた首領の男の拳銃が、まず弾け飛んだ。間を置かずに残り二人の拳銃が大地に落ちた。
火夏には若者の右前方にいた一人目の拳銃を掌底で横殴るのは見えたが、二人目をどう始末したのかがわからなかった。あろうことか若者を一瞬見失ったのである。
「猿飛か」と思ったが少し違った。猿飛のように視界の外に瞬間飛び出て再接近したのではない。視界の中で見失ったのだ。
呆然とした三人は自分の手と、落ちている拳銃を交互に不思議そうに見ていた。三人にもう若者と争うすべがないのは明白だった。
「さてどうします。お仲間のようにそこに倒れるか、それとも退きますか。わたしは皆を連れて、さっさと消えて欲しいですがね」
上品な言葉を使っていた若者が、今だけは狼のような獰猛な表情をつくった。その獣気に気圧された三人は、慌てて倒れた仲間を急きたてながら、その場を逃れようとした。
首領の男は拳銃を拾って逃げようとした。だが若者は拳銃を拾う事を許さなかった。後顧の憂いを考えたのかも知れない。複数の拳銃で再び狙われる危険を封じたのだった。
首領の男は逃げながらも捨て台詞を吐いた。
「くそっ、覚えとき。自分のことは調べが付いてん。これで終わった思わんときや」
若者は落ちている拳銃を、足で茅の中に蹴り込んだ。そして三丁の拳銃が視界からなくなると、少し離れた火夏が隠れる茅原に向って、やれやれというように言葉を掛けた。
「それで、あなたもわたしとやるつもりなんですか。ずっと闘いを見てたんでしょ」
火夏はその声に驚いた。そして少し間を置いて、ゆっくりと茅の中で立ち上がった。
「闇走りを見破っていたのか」という驚きと、見破られた屈辱で表情が強張っていた。
ただ反して、心と体の奥底では今にも射精しそうな久々の快感を感じ始めていた。
闇の中で火夏と若者は対峙した。月はなく、遥か遠くに弁天埠頭の明かりがゆらめくだけである。だがそんな事は気にせず、二人とも逆に闇を味方にしようとしていた。
「不思議な人だ。突如気配が現れたと思ったら、すぐに消えてしまった。そして又現れる。あなたはぶながやーですか」
火夏はそれに答えずに、若者を観察した。髪は断髪にしているが、どこか違和感があった。昨日今日髪を切ったばかりのような、不似合いさである。しかも着ている着物が藍染めの合服である。小倉袴を併せているが、どこかチグハグだった。
先の男がいった「琉球」という言葉が脳裏をよぎった。火夏は琉球を知らなかった。
「言っとくが、俺はさっきのヤクザ者の仲間じゃねえ。ただおまえの使った技に興味があるんだよ。何て名の技なんだい。……特に最後の拳銃野郎をつぶした技を知りてえなぁ」
意外な火夏の言葉に若者が戸惑った。敵ではないのかという思いと、最後に使った秘術を見切っている怪しさにである。
若者は少し沈黙した。どう出るべきかを思案していた。だが結論の前に火夏が動いた。
猿飛で若者の視界から消えたのである。いや、正確には消えようとした。
猿飛は左右前後の不規則な動きで、相手の視界からその姿を消す。
火夏が左に跳んだ刹那、若者も反射的に動いていた。
若者の秘術「縮地」は、前への瞬発移動の技である。視界から消えられては使えない。火夏が猿飛で消えようとした瞬間に、縮地で前に出たのだった。
火夏は左側の最初の着地点に足を着き、反対側に跳ぼうとした。そのとき前面に若者が突如出現した。そして火夏の顎を右手掌底で貫こうとした。
火夏はその手技を見切った。迫り上がる掌底をかわすと、その手を左手で掴んでいた。
闇の中で引きつる若者の表情がわかった。その顔は意外に若く、見開いた目が美しかった。表情を確かめると火夏はわずかに微笑んだ。
「そう、こいつだよ。だがわからんな。どうやって俺の前に出現したんだい。そのからくりが知りてえんだよ」
火夏の言葉が終わる前に、若者の左手刀が掴んだ手の肘を突いた。
嫌らしい技である。肘の点穴を突かれれば、しばらく痺れて手が使い物にならない。この後の攻防を考えた外し方だった。
火夏の掴む手が弛むと、若者はそのまま背後に跳んでいた。ふたりの間に三間ほどの距離ができた。それが新たな均衡の距離となった。
「誘われましたか。ですが……師匠以外に縮地を外されたのは初めてですよ」
今度は若者が薄く自嘲気味に微笑んだ。火夏は痺れる左手を振りながら、戦闘態勢を解いていた。もう争う気がない表明だった。
「今のは縮地って技かい。だが落ち込むこたぁねえぜ、縮地は見えなかったからな。だがその後の掌底がぬるいんだよ。手技を鍛えた方がいい。見えねえ縮地が死んじまってるぜ」
今の一瞬の攻防で、火夏は若者の欠点を指摘した。そして猿飛の盲点も自覚した。
猿飛は最初の折り返し点で速度が一番落ちている。そこを突かれれば、見えないはずの猿飛が止まってしまう事を思い知った。この点を攻めて猿飛を止めた人間はいなかった。師の白猿も、天才といわれた弟弟子の犬丸も。まだ猿飛に鍛える余地があると思った。
ここで火夏はとんでもない提案をした。
「なあ、その縮地って技を俺に教えて貰えねえか。代りにお前の手技を速くしてやる。それでお互いにいいとこ取りよ」
実に不躾な言い方だった。お互いにどこの誰ともしれない相手である。だが火夏にはそんなことはどうでも良かった。未知の凄い技を持つだけで、価値ある人間だった。
呆気に取られた若者は、つい笑ってしまった。火夏の無邪気さに呆れてしまったのだ。火夏は若者の笑いを承諾と取った。火夏もつられて笑い、久し振りに笑ったと思った。
若者の名は龍真魚(りゅう・まお)といった。琉球士族の次男坊ということだった。なぜ大阪に居るのかはいわなかったが、尻無川南岸にある三軒家の琉球商館にいると告げた。火夏は二、三日の内に必ず行くと約束して、その夜は別れた。
真魚の言葉は嘘かも知れなかったが、火夏は疑いもしなかった。
それから二日後、昼の見廻りを終えた火夏は三軒家に向かった。尻無川を渡るのは初めてだったが、三軒家はすぐにわかった。
というよりも何もなかったのだ。松島遊廓と同じ埋立地だが、人家がほとんどなかった。あるのは急造りの琉球人の住居小屋と、少し大き目の商館らしき建物だけだった。
本来この地には琉球から来た貿易仕事をする人々が暮していた。しかしここ数ヶ月様相が一変している。難民ともいえる多くの琉球人が、この地に押し寄せているのだ。
普段は他郷の人間が入り込まないのか、多くの琉球人が火夏の姿を目で追っていた。だが誰ひとりとして近寄ってはこなかった。皆怖ろしげに、あるいは敵意を含んで見ていた。
それには理由があった。琉球人にとって倭人(日本人)は、先ごろ故国を消滅させた敵なのだ。
明治五年、それまでの鹿児島県付庸国としての琉球王国は、突如政府より琉球藩へと政治的形式の変更を申し渡された。琉球王尚泰を琉球藩の藩王とし、日本の華族に列せられたのだ。同時に三万円の下贈金がくだされ、また旧薩摩藩への莫大な負債も明治政府が肩代わりすることとなった。
琉球藩となっても、内政的にはあまり変化はなかった。従前通り尚王家を王府とし、琉球士族が政治を司っていたからだ。だが外交的には制約されることになる。特に清への朝貢が禁止された。
そしてついに琉球藩は廃止された。尚王家も半ば強引に東京に連れ去られることになる。それは軍隊を背景にした拉致に等しかった。王を失い日本内国化が進んだ結果、明治一二年三月に琉球藩は廃止された。先ず鹿児島県の一部となり、直ぐに沖縄県とされる。
この一連の処置は「琉球処分」と呼ばれた。
琉球人の視線には無頓着に、火夏は商館に入って行った。そして龍真魚の名を告げた。
商館の中は清国や異国の文物に満ちていた。火夏が通された部屋には黒檀の丸テーブルが置かれ、青磁の陶器、龍虎の石像もある。火夏が初めて見る異国の風情に満ちていた。
「まったく、まさか来るとは思ってませんでしたよ。倭人は我等を怖れるか、見下すかのどちらかですからね」
真魚が丸テーブルの反対側に座って、火夏のために蓋碗に湯を入れていた。
蓋碗は蓋のついた茶杯で、中に茶葉と湯を入れる。そして茶が抽出されたら、蓋をずらしてそこから茶を飲むのである。品茗杯ともいい清国式の茶の飲み方だった。
出された蓋碗に戸惑いながら、真魚の手付きを真似て、蓋をずらし茶を啜った。
不思議な甘い風味の茶である。それは白毫銀針茶といい清国福建で産する白茶だった。
「本当に縮地を教えろというのですか。誰とも知れぬ人に教えるなどまずないのですが」
真魚は困ったような顔をした。昼間見る顔は、あどけなさの残る青年の顔だった。
しかも女かと見紛う端正な風貌と身体の細さである。火夏はこの身体のどこにあのような強さが潜んでいるのかが不思議だった。
「ならここで知り合おう。それでよいではないか。俺は名を鳥辺野火夏という。または幼名で鳥丸と呼ばれている。生まれは京だが、育ちは土佐の物部だ。俺の技もその地で習い覚えた。師の名は物部春宮太夫白猿という。知らぬかもしれんが陰陽術の術師だ。俺の技も陰陽術で使われるものらしい。今は松島遊廓で見廻り組をしている」
火夏は茶を美味そうに啜りながら来歴を語った。それ以外に何が知りたいと問うた。
「いや、結構ですよ。それより何故縮地を学びたいのですか。先夜のことを考えれば、あなたはもう十分強い。今さら縮地を学ばなくても良いではないですか。それに……」
真魚は言い淀んだが、技というものは体系でできている。一つ一つの手技、足技も他の技との連携で成り立つのだ。そこに如何に強くとも、他の体系の技を入れると必ず齟齬が起こる。体内に異物が混入するようなものである。
「理由は簡単よ、今より強くなりてぇからさ。どうしても勝ちてぇ相手がいるんでな」
火夏はあっけらかんといった。
「勝ちたい相手? 今の鳥辺野さんより強い相手ですか……それは復讐が目的ですか」
真魚は少し眉を顰めた。復讐が目的なら教えることはないと、決めているらしかった。
「名は火夏でいい。それに目的は復讐じゃあない。相手は俺の弟弟子、犬丸という奴だからな。犬丸には恨みはあるかも知れんが、俺にはない」
そして三年前、犬丸と闘い敗れた自分を思い返した。
「弟弟子……そうですか。その犬丸さんは火夏さんより強いのですね」
火夏はちょっと嫌な顔をしながら頷いた。
「犬丸も同じ師より陰陽の技を学んだ。ハッキリいって犬丸は天才だ。陰陽の技を使う限り、あいつには勝てねぇ。だから奴が知らぬ縮地を学びたいんだよ」
「兄弟弟子が自分よりも強いのは嫌ですね。その気持ちはわかります。わたしにも兄弟子がいましたが、結局は勝てませんでしたから」
真魚はちょっと遠くを見る眼をした。
「なら、俺の猿飛を教えてやろう。それできっと兄弟子にも勝てるぜ」
火夏が嬉しそうにいうと、真魚は首を振った。
「いえ、無理です。兄弟子には勝てないでしょう。火夏さんの秘術を教えて貰ってもね」
火夏は不思議そうな顔をしたが、真魚はその理由を語らなかった。
だがどこか火夏に共感するものを感じたのか、一緒に修錬をする事だけは承知した。縮地を教えると言葉にはしなかったが、共に修錬して盗めるなら盗めという様子だった。
真魚の技は琉球に古くから伝わるとティー(手)とかトーディー(唐手)と呼ばれる、中国拳法や薩摩示現流を吸収した琉球独自の拳法らしい。それは琉球士族の子弟には必修の武術らしいが、道場で習うものではない。
各家で師を招き、兄弟や従兄弟とだけで秘密に学ぶのだ。だから他人と修錬することはまずないのだと真魚は別れ際に語った。
その翌日から二人の修錬が始まった。早朝一番鶏が鳴くのと同時に、尻無川南岸の河原で技を鍛えあった。それはちょっと不思議な光景だった。
まず互いに自分の流儀で準備運動をする。そして真魚は型の演武を始める。火夏はそれをじっと見ていた。
次に火夏が身体をほぐした。火夏の陰陽拳に演武はない。ただ幻の敵と実戦を戦う。それはそのつど千変万化する技の連続だった。真魚もそれを黙って見ていた。
それが終ると、そこからが本番だった。互いに致命傷こそ避けたが、本気の自由組手(単に実戦に見えるが)を行った。幾度も互いを打ちのめし、その中から相手の技を研究し、自分の技に足りない部分を自覚した。
ときに同じ技を連続して、相手に覚えさせることもした。それが唯一の教授だった。それで学ばないのは相手が悪いと互いに思った。勿論、縮地や猿飛も使った。火夏も真魚も故郷や師との修錬以外で、ここまで秘術を曝け出すのは初めてのことだった。
尻無川に水運の船が行き来し始めるころ、二人は修錬を終えた。そして明日を約することもせずにその場で別れた。
それが来る日も来る日も続いていた。二人にとって、それが次第に日常になっていった。眠る前には明日はどのような手で相手を追い込むか考えるのが、楽しみで眠れなくなっていた。
二人の修錬が始まって、三ヶ月ほどが経った。季節はもう夏の盛りになっていた。
ここ二日ほど真魚は修錬に現われなかった。最初は病気かとも思ったが、三日目になると火夏は不安を抱いて、三軒家の琉球商館を訪れてみた。
だが訪れた商館の様子がおかしかった。あちこちの壁やドア、窓が壊されていた。どうやら何者かに襲撃を受けたようだった。火夏は壁のいくつかに、銃弾がめり込んでいることに気付いた。
「真魚殿はここにおりませぬ。少し用事で出ておりまする。戻りがいつかは判りませぬ」
応対に出てきた国頭老人はそう告げた。
どうやら彼がこの商館の主人らしかった。落ち着いた貫禄のある人物である。ただ髪型は頭の上に小さく纏め結われていた。琉球では欹髻(かたかしら)という伝統的な髪型らしい。そこには美しい珊瑚の簪が刺されていたが、それはこの人物の位を表すという。
「ここを襲ったのは誰だい、ヤクザ者か? だとしたら俺にも少し心当たりがある。真魚はそいつらを追っていったんじゃねえのか」
国頭老人はしばらく黙って火夏を観察していた。そしておもむろに問い質した。
「貴方様は真魚殿の何になりますのじゃ。これは倭人に関わっていただく話ではありませぬ。どうぞお引き取りを願いたい」
それは頑なな拒絶だった。国頭老人は真魚と火夏の交流を心良くは思っていないようだった。だが火夏はそんなことに頓着はなかった。
「倭人とか琉球人とか関係ねえ。真魚の奴に今消えられちゃあ困るんだよ。俺たちは……」
その後の言葉が見つからなかった。俺たちは何なんだろうと思った。同門の修行者ではない。あるいは敵味方といった関係でもない。ただ気が合って共に修錬しているだけの間柄である。それを何と呼ぶのかが判らなかった。
国頭老人に頭を下げて商館を後にした。
火夏は根城の松島遊廓に急いだ。そこを仕切る地廻りを問い質して、琉球商館を襲ったヤクザ者を見つけるつもりだった。
商館の荒らされ方からすると二、三人の仕業ではない。十人を超えていると思われた。だとすると一つの組だけの仕業ではないだろう。周囲のヤクザ者や組に手助けを頼んでいる可能性が高い。ならば琉球商館に最も近い、松島遊廓の地廻りが知らないはずがなかった。
今は人目があるので猿飛は使えなかった。だが人が怪しまぬギリギリの速度で街を走った。それでも多くの通行人が、不思議なものを見るように火夏の後姿を目で追っていた。
火夏は松島遊廓の梅本門に隣接する地廻り木津組の居宅に飛び込んだ。木津組は表向きは川人足などの口入れ屋である。居宅の中には多くの荒くれ者がたむろしていた。
「三左衛門親分はいるか、用がある」
土間に入るなり大声で叫んだ。
周囲の者は一瞬何事かと身構えたが、相手が喧嘩師「くるい鳥」と知ると、皆その場で止まった。ピリッとした緊張感が場を支配した。
「こりゃこりゃ、遊廓の喧嘩師かいな。ここにおいでとは珍しい。商売敵に何の御用や」
帳場の奥の座敷から木津組の主人、木津屋三左衛門が煙管を燻らせながら表に出てきた。火夏の前の上がり框に座ると、煙管をポンと叩いて、中の火種を土間に捨てた。
「いきなりですまんが、教えて欲しい。ここ最近で尻無川南岸にある琉球商館を襲おうとしたヤクザ者はいないか。親分がやったとは思っちゃいないが、どこかから助っ人を頼まれてはないか。それが知りたいんだよ」
三左衛門は火夏の問いに表情は動かさなかった。だがこの件に興味があるようだった。
火の消えた煙管を番頭に渡すと、「こっちへお入りなさい」と奥の座敷に誘った。
火夏はドタドタと奥座敷に上っていった。三左衛門は「せわしいやっちゃなあ」という顔をしたが、そのまま座敷の座布団に座った。勿論火夏に座布団は出さない。
火夏は三左衛門の前に片胡座をかいて座った。それはいつでも立ち上れる座り方だった。ヤクザ者の家で尻をどっしり着けるほど火夏も甘くはない。
「それでどないなことでっしゃろ。琉球商館襲撃に、あんさんどう関係しておますのや。こっちも渡世の仁義に関わることや。事情が分からんままでは、お話しもできまへんなあ」
火夏は半分想像を加えながら、あらましを説明した。琉球商館の士族青年と知り合いになったこと。商館が二、三日前に何者かに襲撃されたこと。そこに銃弾の痕があり、多人数で押し寄せたらしいこと。士族青年が姿を消したので探していることなどである。
それには襲撃者を追うのが一番早いので、木津組に助っ人を頼みに来たヤクザ者がいないかを確かめに来たと。
「そんなん、ほっといたらよろしい。あんさんが首突っ込むことやおへん。多分琉球者との商売の諍いや」
三左衛門が事もなげにいうと、火夏はそれを否定した。
「いや、商売上の諍いなら俺も関わらぬが、そうではないようだ。少し前にヤクザ者の集団が、尻無川河口でその消えた青年から何か強盗をしようとした。その時は返り討ちにあったが、今回はその仕返しか、強盗のやり直しよ。知り合いとして放っては置けん」
三左衛門は少し考えて火夏に尋ねた。
「あんさん、その下手人がわかったらどないするつもりや。だいたい知り合いやゆうけど、その琉球者とどないな関係なんや。危険犯すほどの相手でっか」
国頭老人に問われたのと同じ疑問を投げ掛けられた。おまえは真魚の何なのかと。
火夏はそれまで考えてもいなかった答えが、口から飛び出していた。
「あいつは俺のダチだからよ。何としても助っ人しなきゃ気が済まねんだよ。……襲ったヤクザ者どもは全員俺が叩き潰す」
この答えに三左衛門よりも、答えた火夏が内心驚いていた。真魚は友だったのかと。
だが口にしてしまえば、その通りだと思った。友だから気になるし、助けたいのだ。
こんな感情は初めてだった。
これまで火夏の人生に、友と呼べる人間はいなかった。如何に親密でも犬丸は違った。犬丸は弟であり、競争相手である。あるいは物部の郷の術師たちも友ではなかった。多かれ少なかれ上下関係もあるし、心の共感はあまりなかった。
だが真魚はその誰とも違った。対等な関係であり、その上で認め合っている。技の修錬を通じてだが、多くの共感もあった。
そして何より真魚が好きだった。奴と一緒にいると実に気持ちが良く、晴れ晴れとした。世間ではこうした相手を友と呼ぶのではないのかと、火夏は初めて思った。
「ほう友といわはるか、こいつは驚いた。いやいや結構。そらわいらの義侠に通じる気持ですな。それならまぁ納得もいく。義侠ゆえのことどしたらわいの顔も立ついうもんや。やったらお話しさせて貰いましょうか、琉球商館を襲撃した下手人について」
三左衛門は急に火夏に対する態度を改め、彼の知るあらましを語り始めた。それは火夏の友情に感じたためではなく、別の暗い目的があっての事だったが。
「十日ほど前、弁天埠頭を根城にしよる新興の賽王組が回状を回して来よった。琉球者と一戦交えるよって、人を貸せとな。わてらも琉球者のことはようしらんが、それでも長いこと近場で共存しとる相手や。理由も分からず一戦いわれても、こっちもそうはいかん。古手の組は皆断ったらしいが、はぐれ者なんぞはだいぶ応じたと聞いとる」
ここで火夏は三左衛門に尋ねた。
「その賽王組は銃を使うのか」
琉球商館に残っていた銃弾の痕が気になっていた。この時代に如何にヤクザ者でも、そうそう銃器を手にするものではない。
「アイツらは、任侠者の風上に置けん奴らや。喧嘩でも気軽に鉄砲を使うよってな。周りの組からは爪弾きも同然や。まあ、元は三年前の西南ノ役での残兵やゆうことやから、任侠よりも戦争のつもりなんでっしゃろ」
ここだけは三左衛門も苦々しく語った。ヤクザ者でも掟破りの組らしかった。だがそれだと火夏が目撃したヤクザ者の筋と近かった。
「そいつらは弁天埠頭の何処にいる。普段はどのくらいの人数で固めているんだ」
「弁天埠頭手前にある、波除町の積み出し倉庫や。安治川沿いの。まああの辺もあんまりちゃんとした建物が少ないんで、すぐわかるやろ。オモロいことに、近くの賽王寺はんに寺銭はろて、賽王寺分院って看板掛けとるそうや。それで皆、賽王組やって呼んでるんや」
ここで若衆が茶を運んで来た。喋り過ぎたのか、三左衛門は一気に茶で喉を潤した。
だが、火夏はどう賽王組を攻めるかの思案に没頭して自分の茶に気がつかなかった。
三左衛門が「茶飲みいな、勿体ない」とせき立てて、やっとその存在に気がついた。
「それで、人数はどのくらいいるんだ」
そう尋ねながら茶に手を伸ばした。茶渋の色を見て、ふっと真魚が出してくれた白毫銀針茶のことを思い出した。またあの茶を飲みたいと思った。
「まあ、普段はそんなに居てへんやろが、襲撃の時は二十人を下らんかったと聞いた。昼間もいいてるかも知れんよって、夜の方が人数少ないんちゃうか。遣り合うなら夜やろ」
三左衛門が目に怪しい光を浮かべながら嗾けた。火夏はある決心をして立ち上がった。
「親分、話はありがたく受け取った。礼は後日するので今日はこれで失礼する」
結局手にした茶には口を付けず、火夏は座敷を出た。
火夏の予測では、真魚は襲撃してきた賽王組を追って弁天埠頭に行ったに違いない。
そこでやり合ったか、奪われた物を奪還するためにまだ潜んでいるのかは判らない。どちらにしても商館に帰還していないのは、弁天埠頭で動けぬ状況にあると思った。
火夏は松島遊廓の自分の寝グラに急いだ。そこに置く師の形見、暗器クナイを取り出す為である。今宵は久々に戦いの予感がしていた。
火夏が木津組を飛び出して行った後、三左衛門は若頭を呼んだ。急ぎ懇意の組に回状を廻す事と、喧嘩支度を指示した。
「今夜、くるい鳥が賽王組に殴りこみをかけよる。どっちが勝ってもええんやが、両方ともタダでは済まんやろ。特に賽王の奴らはな。くるい鳥がホンマに狂いよったらどないなるか、楽しみなこっちゃ。その手負いの賽王組に喧嘩仕掛けて叩き潰すんや。この三年、目の上のタンコブやった奴ら、この大阪から叩き出したるわ。その旨、他の親分に連絡せえ。くるい鳥が自分から鉄砲ダマになってくれるゆうてな」
三左衛門は内心ほくそ笑んだ。上手くすればこれで賽王組も遊廓の見廻り組も、両方とも始末できると。そして賽王組に人が集まる夜に火夏が仕掛ければ、賽王組の全滅も不可能ではないと思った。絶好の機会が飛び込んで来たと、笑いがこみ上げて仕方なかった。
火夏は夕方から弁天埠頭に来ていた。姿はあまり目立たぬようにと考えたが、結局は昔使っていった薄墨色の併せに、同色の軍袴にした。彼の戦闘服と言ってよい恰好だった。
まだ陽があるうちに賽王組の倉庫を偵察したが、ひと気はなかった。ここに真魚がいるのかどうかは怪しいが、倉庫が見渡せる屋根の上に伏して、人の出入りを観察し続けた。
もう夕陽が大阪湾に落ちようとしていた。
夏も終わりかけだが陽はまだ長く、七時を回ってやっと辺りを薄闇が占めていた。
この時刻になると今日のシノギを終えたヤクザ者が、次第に倉庫に集まり始めていた。
火夏は「夜の方が人は少ない」という三左衛門の嘘を初めから気付いていた。だが、火夏にとっても人が集まった方が都合よかった。一挙に敵を葬れるからだ。
倉庫に入っていく人影の中に知った顔を見つけた。遠く夜の帳も降りていたが、夜鷹の視野にはっきり男の顔が映った。三ヶ月前の夜、尻無川で真魚を襲った男の一人である。
「やはりここで当たりだな」とニヤリとした。
だが、真魚がどこにいるのかが問題だった。
あの真魚が数を頼むとはいえ、ヤクザ者などに負けるとは思えない。まだこの周辺に潜んでいるのかもしれなかった。
それから小一時間ほどして、ふたたびあの男が外に出てきた。倉庫の裏手に回り、小用を足そうとしているらしかった。倉庫の裏はもう安治川に面した土手になっていた。
火夏は闇に同化したまま屋根上を離れた。それは人には感知不能な移動だった。
男が土手上で、気持ち良さそうに小便を放出していた。火夏は背後から男に近付くと、男の腰を横抱えにして河原に飛び降りた。男は「えっ」と、何が起こったのか理解できなかった。宙を飛ぶときまだ小便を放出したままで、水滴が見事な円弧を描いていた。
安治川の河原に背中を叩きつけると同時に口を塞いだ。男は苦痛の声も出せなかった。
火夏の持つクナイが喉に当っていた。
「騒ぐなよ、声を出したら喉を掻っ切る」
火夏が押し殺した静かな声で囁いた。
男は事態を理解できなかったが、それでも身の危険は判った。眼を一杯に見開いたまま頷く様に首を動かした。動かした首がクナイの刃に触れて、薄く皮膚が切れた。一筋の赤い線からじわりと血が滲み始めた。
「ほら動くなって、首を切っちまうぜ」
男は硬直したように全身が固まった。
「それでいい、質問には瞬きで答えろ。はいなら一回、いいえなら二回だ」
男は硬直したまま、瞬きを一回した。
「おまえらは三日前に琉球商館を襲ったな」
瞬きを二回した。火夏は獰猛な肉食獣の表情になり、クナイを少し横に引いた。男の首の皮がパックリと割れ、血が大量に溢れた。
「もう一度聞く、三度目はないぜ」
細かく震える男は慌てて瞬きを一回した。
「商館の男が追って来たはずだ、何処にいる。倉庫の中か」
瞬きを一回した。だがそのとき、男は河原に転がいた石を握って、火夏のコメカミを襲った。火夏には実にゆっくりとした動作に見えたが、敢えて石をコメカミで受けた。
石が頭を打った。
火夏のコメカミからつーっと血が流れ落ちた。火夏は嬉しそうな表情になると、口を抑えていた手を上げると拳に変えた。そのまま顔の真ん中に恐ろしい力で振りおろした。
グシャという音がして、男の顔が壊れた。もう原型がどうだったのか解らない。死んだのか気絶したのか、数度痙攣して男は動かなくなった。
火夏は土手に上がると、倉庫の二階にある明かり取り窓に跳んだ。蜘蛛のように壁にへばり付き、窓から中を伺った。全ては憑神術による異能力である。
倉庫の中では二十人ばかりの男が車座になり、何事か相談していた。真ん中に大きな木箱が置かれ、上に赤い物があった。一人の男が木箱に近づき、その赤い物を手にした。
「さて、この珊瑚をどないすんかだ。手取り早う売っちまいたいが、こんだけ仰山あると買い手もややこしい。時間を掛けたいが、こいつみたいな追手が来てもめんどいしな」
手に持った珊瑚を倉庫隅に作られた臨時の檻に投げつけた。火夏が覗く窓からは見えない位置だったが、その檻から声がした。それは龍真魚の懐かしい声だった。
「大事に扱ってくださいよ。カケラでもあなたがひと月は食べられる価値ですからね」
檻の中からにしては不敵な声だった。真魚は賽王組の虜になっていた。されたのか、自らなったかは別にして。
「わたしも正直、売り先には悩んでいました。何か良いお知恵があったら教えていただきたい。お互い、表立って売り買いできない境遇は同じですからねぇ」
真魚の奴、賽王組をおちょくってやがると火夏は直感した。多分奪われたお宝、木箱に入った珊瑚の在り処を見つけるために、自ら虜になったのだろう。ならば脱出の方法も既に考えているはずだと思った。
火夏は自分が来ていることを知らせようと考えた。真魚は気を感じ取る。初めて会ったときも、闇走りで隠れた火夏の気を感知していた。今回はその逆をすることにした。ここで闘気を発して、真魚に感じ取らせるのである。
火夏は壁に張り付いたまま、闘気を放った。真魚よりも早く水鳥がそれを感じ取った。安治川から多くの水鳥が一斉に闇夜へ飛び立った。
水鳥が飛び立った後、ちょっと沈黙していた真魚が、驚いたように叫んだ。
「あれ、こんなとこに夏鳥がいるなんて、どうしてですか。ちょっと季節外れですよ」
賽王組の男たちは真魚が何をいい出だしたのか理解できなかった。だが真魚は続けた。
「まあ来てくれたなら協力お願いしますね。明かりが消えたら合図ですよ」
真魚は後ろ手に縛られた縄から、手首の関節をずらせて手を抜いていった。そして隠し持った小さな真鍮の玉を指弾で撃った。目標は倉庫の四隅に吊されていたランプである。
「ガチャ」「ガチャ」「ガチャ「ガチャ」
四つの破壊音とともに倉庫が闇に包まれた。
同時に二階の明かり取り窓を破って、火夏が倉庫内に飛び込んだ。
火夏は暗闇の中、先ずは木箱に一番近い男を回し蹴りで跳ねとばした。続いて猿飛で木箱の三方にいた男を同時に叩き伏せる。ほんの二、三秒で、四人の男が地に伏していた。
その間に真魚は檻を蹴破った。そして檻近くに陣取っていた男二人を昏倒させていた。首筋の経絡を手刀で軽く叩いたのである。それで意識が飛んでいた。
暗闇の中で騒然とする男たちを縫って、火夏が陣取る木箱の側に走った。
賽王組の男たちは木箱から距離をとり、それ以上二人に近寄ろうとしなかった。やがて隣の部屋から持ってきたランプと松明をかざした。倉庫の中に再び明かりが蘇った。
倉庫の中に二人を囲む十数人の男と、倒れた六人が照らされた。さらに別の部屋から六人の軍服姿の兵士が、スペンサー銃を持って倉庫に走り込んできた。この男たちはヤクザ者と違い、統率の取れた機敏な動きだった。
「なるほど、西南の役の残兵か」
火夏は三左衛門の言葉を思い出した。真魚はえっといいながら、兵士たちを凝視した。
武装は兵士六人がスペンサー銃、他に隣の部屋から駆け込んで来たヤクザ者四人が、回転式拳銃を構えていた。
「どうしますか、予想以上に銃が多いですね。わたしは一度に四人が精一杯かなぁ」
真魚はポケットにある真鍮の球を数えた。二丁の銃は指弾で潰せるが、その後どうするか。縮地を使ってもあと二人が限度だと思った。
しかし真魚は気楽に、後は火夏が何とかしてくれるだろうと考えた。不思議と火夏の強さに絶大な信頼感があった。
火夏は猿飛で銃兵四人は倒せるとふんだ。それでも二人の銃兵は残る。二丁の銃弾なら憑神術の再生力で自分は平気だろうが、真魚に当たれば致命傷になりかねなかった。
火夏は憑神術の副次効果で、多少の傷ならすぐに再生できた。体内に宿る憑霊たちが宿主の肉体を守る為に、傷を負えば猛烈な再生力を発揮するのである。火夏に深い手傷を負わせた者はまだ弟弟子犬丸だけだったが、数発程の弾丸なら支障はないはずだった。
スペンサー銃を構えた銃兵六人はひと塊になっている。一撃では無理だが、二、三撃でなら潰せるだろう。その間の銃口を自分が引き受ければ、真魚に危険を及ばせないで済むと考えた。だがそうなると、相手を殺さないよう手加減はできそうになかった。
「おい拳銃は任せる。銃兵は俺がやるが、なるべく射線に入るなよ」
ボソッと、真魚だけに聞こえる声で呟やいた。真魚も頷き、標的との距離を計った。遠い二人は指弾で攻撃し、近い二人を縮地で瞬殺する。
銃兵は銃を構えながらも発砲を躊躇していた。命令する上官がいなかったのだ。火夏が最初に倒した木箱横の男が、銃兵たちの上官だった。
その躊躇が命取りになった。
火夏が倉庫中に轟く凄まじい闘気を発した。純粋な戦闘意思の咆哮である。獣の闘気の波長は気など感じられなくても、その場の人間の心を縮み上がらせた。
倉庫中の男が一瞬怯んだとき、真魚は冷静に指弾を二発撃った。真鍮の球が二丁の拳銃を彈き落とす前に、縮地で左の男の前に出現した。拳銃を手刀で叩き落すと、そのまま右後方の男に向かって猿飛を跳んだ。
火夏は横目でそれを見た時、「猿飛を盗みやがった」と驚いた。
縮地は速いが、前方三十度ぐらいの範囲にしか使えない。だが真魚は後方へ、縮地に負けぬ速さで跳んでいた。それは紛れもなく猿飛の跳躍だった。
真魚が仕事を終えようとしたとき、おもむろに火夏が宙を飛んだ。それは実にゆっくりとした動きで、銃兵に照準を自分に合わせさせるよう隙をつくっていた。
六人の銃兵が誘われるように、火夏の姿に全銃口を向けた。
「それでいい」と火夏は思った。
引き金が引かれようとした一瞬、宙空の火夏が突如加速した。宙空に足場になるような物は何もなかった。だが次の瞬間、加速した火夏は銃口の前に体を晒すように出現した。
体を一回転させる真魚の旋風脚で、四丁の銃口を一撃で薙ぎ払った。だが、左右両側の遠いスペンサー銃には旋風脚が届いていなかった。
両側の銃兵が内側に銃口を振り向けざま、二発ずつ速射した。これは訓練された兵の銃さばきだった。スペンサー銃は当時としては珍しい七連発銃で、連続射撃が可能だった。
火夏は両側から四発の発砲を受け、その内二発が脇腹と背に命中した。
だが銃弾は火夏を止めなかった。
着地と同時に、縮地で左にいる銃兵を急襲した。火夏の手刀が銃兵の持つスペンサー銃を両断した。人の手刀が鋼鉄の長銃を斬ったのだ。
誰もが、あっと思った。
ひとり右側に残った銃兵は、残弾を見事な手捌きで火夏に向かって撃った。
火夏の背中三箇所に新たな着弾痕が出現した。先の銃弾と合わせて五発が打ち込まれたことになる。火夏の身体が血に染まろうとしていた。
右側の銃兵は銃弾を撃ち尽くすと、吊るした予備の弾薬盒から素早く次弾を装填しようとした。弾薬盒には新たな七発の銃弾が装填できるチューブが入っていた。
よく訓練された手際良い再装填だった。火夏はゆっくり近づくと、スペンサー銃を蹴り上げた。そして高々と蹴り上げた足をそのまま銃兵の頭に落していった。
踵落としと呼ばれる技だった。
倉庫の中は呆気に取られたように、静まり返った。たった二人の素手の男に、銃十丁が勝てなかったのである。
「まだやるか、ここからは本当にぶち殺す」
そう叫びながら、起き上がりかけていた最初に旋風脚で薙倒した四人の銃兵を、見事な型の一撃ずつで葬っていった。その攻撃は毎朝真魚が行う演武に似ていた。
「この男化け物だ、とても勝てない」
そこにいる全員がそう恐怖した。そして誰かが恐慌を起こした。
「うわーっ」という叫び声とともに、倉庫から外に飛び出して行った。
恐怖は瞬時に伝染した。残りの男たちも恐慌に駆られ、我先に逃げ出し始めた。賽王組の精神的支柱である大量の銃器が敗北した今、恐怖を押し留めるものは何もなかった。
二人に打ち倒された男以外、全員が倉庫から外に逃げ出していった。
血に染まった火夏を不思議そうに見ながら、真魚が近づいて来た。
「まさかとは思いますが、それだけ撃たれて大丈夫なんですか」
火夏はまだ意識がある賽王組の男たちをひとりずつ蹴飛ばして、昏倒させていった。
「まあ大した事はない。直ぐに弾丸も押し出されるだろう」
そういうと、最初に撃たれた脇腹を見せた。血は既に止まり、銃創に薔薇色の肉が盛り上がり始めていた。
「火夏さんは秘密持ちだとは思ってましたが、本当はやっぱりぶながやーなんでしょう?」
呆れたような真魚の呟きに、火夏が尋ねた。
「前にもそんなことをいっていたが、ぶながやーってのは何なんだ」
「ぶながやーは琉球にいる神であり精霊ですよ。神出鬼没で、幸運をもたらしてくれる善き精霊です。まるで今日の火夏さん、そのまんまじゃないですか」
火夏はふと、自分に憑神する鬼神の事を思った。三年前に土佐室戸岬の御厨人窟で喰った最後の憑霊である。空海が封じた明星神の護鬼と聞いたが、本当は琉球の精霊かもしれないなと思った。いや、むしろそうであれば良いと思った。
真魚は倉庫に残された木箱の中味を確認すると、安堵したように蓋を閉じた。
そして今度は火夏に抗議を始めた。
「ですが、随分とわたしの技を盗んでくれましたね。縮地に旋風脚、それに演武まで。このお代は高く付きますよ」
いいながら真魚は笑っていた。
「おまえとて猿飛を盗んだではないか。それでアイコだ。しかし良く三ヶ月ほどで学べたものだ。俺でも最初は三年以上かかったのだぞ」
「それは縮地も同じですよ。私は修得するまで五年はかかりましたから。それより宙空で突如加速したのは縮地ですか? あんな事は縮地には無理ですが……」
火夏は血みどろの姿で初めて笑った。
「それは秘密だ。今度おまえとやるときの取って置きだからな」
火夏は真魚を促して残された銃器を集めた。
「それでどうする、その珊瑚を持ち帰るのか」
真魚は少し思い悩んだ。持ち帰れば再び襲われる危険も生まれる。
「こんな事、火夏さんに頼むべきではないのですが、何処かに隠し場所はありませんか。また商館が襲われて、怪我人が出たら困ります。珊瑚の売り先が決まるまで隠したいのです。ただ訳は……」
理由はいえなかった。真魚のためにヤクザ者の銃弾を五発も受けた火夏だが、それと珊瑚の秘密は別だった。
「訳など別に構わんさ。こいつを隠して、売り飛ばせばいいんだろう。俺に心当たりがある、任せてくれるならな。だが一つ礼が欲しい」
真魚は「礼?」と訝しげに繰り返した。まだ三ヶ月ほどの付き合いだが、何かを欲しがる男には思えなかった。
「わたしにできる事でしたら……、ただ金はありませんよ」
金品でないことは予想できたが、一応の念は押してみた。
「金など必要なら、ある奴からむしれば良い。俺は商館で飲んだ、あの茶が飲みたいんだ。銀の針のような葉が入ったやつだよ」
火夏はそういい、集めた銃器を木箱の上に積んだ。隅に転がっていた帆布で覆った。
「ああ、白毫銀針茶のことですか」と、真魚は拍子抜けしたように頷いた。
二人は荷車に木箱と銃器を載せると、外を警戒しながら倉庫を出た。逃げた賽王組が戻ってきたらまた面倒になる。二人は荷車と一緒に闇の中に消えて行った。
後で知ることになるが、その頃逃げだした賽王組の男たちは、待ち伏せしていた木津組などに狩られている最中だった。倉庫から逃げた男たちを待ち構え、辻々で打ち取っていった。賽王組は敵が誰かも分からぬまま、ひとりまたひとりと数を減らし、全滅に近くなっていた。その後に木津組は倉庫にも踏み込み、倒れた男たちを始末したのだった。
結果として木津屋三左衛門の思惑は的中した。新興の賽王組を壊滅することができたのである。だがそれは火夏にとっても好都合だった。自分が暴れた後始末をしてくれたようなものだからだ。
その夜、見廻り時間が過ぎた頃を見計って、二人は荷車を松島遊廓の大門の中に入れた。覗いた番小屋には平吉がひとりでいた。
「平吉爺、すまぬが客の預かり物を頼みたい。外の荷を廓の倉庫に置きたいのだ」
火夏の姿を見た平吉は、一瞬眉をひそめた。銃弾で破れた着物に、黒く血で染まった格好だったからである。だが一切動揺は外に見せなかった。
「お客さまとはそちらの旦さんで」
平吉は丁寧に真魚に向かい辞儀をした。
「それでお泊りはどちらの廓でっしゃろ。急ぎ店の者を呼びまっさかいに」
まだ何処とも決めてないと火夏がいうと、「ほんなら松月楼にしまひょ。大楼の方がいろいろと融通も効きまっさかいな」と、含んだいい方をした。
遊廓に「訳あり」が来るのはままある事である。平吉はその辺りをよく心得ていた。
夜遅く、真魚は松月楼に登楼した。実は真魚は遊廓が初めてだった。時間が遅いので遊女は呼ばなかったが、飯と風呂をつかった。そして三日振りに布団の上で眠った。
火夏は賽王組で奪った銃を処分するよう平吉に渡した。平吉は何かいいたそうにした。
「壊して捨ていうんでっか、それとも何処かに引き取ってもらえと」
「どっちでもいい。引き取り手があれば金に変えろ。平吉爺への駄賃だ」
「へえ、ありがとさんです。後……鳥どの、その着物は替えなはれ。出入り帰りやいうて、宣伝しとるようなもんや」
火夏は改めて自分の姿を見て、はじめて頭を掻いた。素直にそうすると頷いた。そして平吉にひとつ質問をした。
「近々、松島にお大尽がくる予定はないか。できれば肝の太い奴がいい」
また変なことをいうと思ったが、根が生真面目な平吉はしばらく考えて答えた。
「明後日あたりに、鴻池の大旦那はんと五代様がおってはると聴いとります。何でも松島座の歌舞伎見物帰りのお立ち寄りやらと」
世情に疎い火夏は二人を知らなかった。
「そいつらは金持ちか」
平吉は思わず苦笑した。そんな質問を大阪でする人間が居るとは信じられなかった。
「鴻池の旦那はんはまあ大阪一、いや日本一のお大尽さまで。五代様は元薩摩のお武家どすが、今は大阪商人の総元締をされてん方やら。金子も仰山こと持ってはる思います」
「よし、その辺りで手を打とう。二人が来たら座敷に挨拶に出たい。何とかならないか」
またとんでもない事をいいだすと、平吉は呆れた。会いたいからといって、すぐに会えるような人物ではない。
だがどんな事でも真摯に取り合うのが、平吉が信頼される理由である。平吉は一晩考えてある策を提案した。それは松島座に掛かる歌舞伎「昔桃太郎」を利用した座興だった。
大阪一の豪商、鴻池家の主人はその名を代々「鴻池善右衛門」と名乗った。今の主人は十代目だ。元々両替商の鴻池家は大阪に第十三銀行を作り善右衛門はその頭取になっている。
また五代友厚は薩摩藩生まれの武士だったが、早くから外交貿易に目覚める。明治維新後は外国事務掛や大阪府判事となった。明治二年に退官し、以後大坂経済の復興と、制度づくりに奔走している。大阪経済界の大立者といってよかった。
二人が松島遊廓一の大楼、松月楼に上がったのは暗くなってからだった。だが賓の登楼に廓は沸いていた。普段より多くの提灯や行燈を並べ、華やかな演出をした。二人が大座敷に入ると、脇を花魁や禿が占めた。そして芸人の座興と酒盛りが始まった。
五代友厚は薩摩人らしく酒が強い。鴻池善右衛門は豪商よりも公家に近い風貌で酒も量は飲まなかった。ただ二人とも芸事が好きで、今日観た歌舞伎の話に花を咲かせていた。
「鴈治郎はよろしおすたなぁ。見事な芸やった。やっぱり翫雀の跡は鴈治郎はんやな」
「そうでしたな。私は面白い演目が好きですが、昔桃太郎は本も良い。あれなら存分に鴈治郎の芸が楽しめた」
二人は今日の歌舞伎見物に満足しているようだった。しばらく座が盛り上がっているところに松月楼の楼主が挨拶に現われた。
「本日はご登楼おおきにでございます。松島座の歌舞伎見物もご満足のようで、よろしおました。今宵の酒宴も精一杯と勤めさせていただきます」
杯のやりとりをしているとき、ふっと思い出したように楼主が語り始めた。
「鴈治郎の昔桃太郎もよろしおますけど、そういえば松月楼に今桃太郎はんが登楼しておられます。鬼ヶ島から戻られたばかりやいうことで、仰山ことお宝も持ってはりますわ」
何げなくを装って投げた言葉だが、善右衛門がそれを気に留めた。
「アホなこというな、御伽話やないか。ほんまに桃太郎がいてるなんて誰が信じる」
「いえいえ、ほんまの話です。鬼の金棒やらお宝も見せて頂きました。何でしたら旦那様方にもお見せいたしまひょうか」
ポカンとする善右衛門を尻目に、楼主は襖向こうに控える若衆に「あれ、持っておいで」と声を掛けた。
事の成り行きを面白そうに見ていた五代だったが、若衆が持ち込んだ鬼の金棒とお宝なるものを見て、一瞬ぎょっとした。それは七連発式のスペンサー銃五丁と拳銃四丁、さらには木箱一杯に盛られた見事な珊瑚の山だった。
主賓二人の前に積まれた珊瑚と、その背後に置かれた銃器の山。善右衛門は唖然としてそれらを交互に見ていた。五代はその品々を冷静に観察し値踏みし始めていた。
五代は幕末、薩摩藩の武器買い付け役をしていたので銃器に詳しかった。ましてや日本には珍しいスペンサー銃である。それがどういう意味を持つのか推察していた。
「きょうびの鬼も文明開化の影響か、金棒やのうてこないな不粋なもん使いはるとか。そやけどこの珊瑚は見事でっしゃろ。ナンボのもんやら、わてらみたいな者には想像もつきまへん。ぜひ旦那様方に値付けして頂きたいゆう、桃太郎はんからのお願いでおます」
そういうと、楼主は二人に向かって深々と平伏をした。それに続くように座敷にいる花魁、禿、芸人たち全員が一斉に平伏をした。
「おかしな具合やな、こっちが知らん間に舞台へ上げられたみたいや。まぁよろし、今日は鴈治郎はんの芸に免じて、この座興に乗りましょ。宜しいか五代はん」
隣の五代は黙って頷いた。
「そやけど、わては珊瑚の価値などようわからん。その桃太郎はんにお宝の謂れでも聞かせて貰いまひょうか」
楼主は、やっと肩の荷を降ろしたように表情を和らげた。そして廊下へ声をかけた。
「桃太郎はん、御家来の鳥丸はん。お許しが出ましたよって、こちらにおいでなさい」
大座敷の入口から真魚と火夏が入って来た。
主賓二人と、珊瑚と銃を挟んで端座した。
「ほお、なかなかええ男やないか。それに気品がある。そっちが家来の鳥丸か。これはまた凶々しいが強そうやな。桃太郎いうよりも義経と弁慶やな」
善右衛門は面白そうにふたりを評した。
「それで、どこでこのお宝を得たんや。鬼ヶ島から奪って来たか」
この問いに初めて真魚が答えた。
「これは鬼ヶ島の宝ではありません。元は我ら一族の御先祖が、未来の子孫に遺された宝物です。しかし魍魎跋扈するこの大阪の地で、悪鬼どもに奪われました。それを先日、この鳥丸殿のご助力で奪還した次第」
「お供に犬と猿はおらんのかいな」
善右衛門が茶々を入れた。これには火夏が嬉しそうに答えた。
「犬は我が弟犬丸、猿は我が師白猿と申します。訳あってここにはおりませぬ。此度はこの鳥丸と桃太郎殿のみにて鬼退治いたしました」
二人の言葉に頷いていた五代が、ここで初めて真魚に質問した。
「桃太郎殿、お名前を聞いてもよろしいか。本当のお名を」
この言葉に、真魚に緊張が走った。
「桃太郎のままではいけませぬか。わたしはこの珊瑚を売却したいだけなのです」
「だから余計に聞きたいのだ。この珊瑚、琉球産とお見受けする。だがこれだけ大量で上質の珊瑚ともなると生半可な商人では売り買いできますまい。まるで王家所有の宝物のようだ」
五代は言葉を続けた。
「それにそこの銃はスペンサー銃という、アメリカの騎乗銃だね。先の西南の役で近衛砲兵大隊が正式採用していたと聞く銃だ。そこいらで手に入る銃ではない。とすると鬼は西南ノ役の残兵ですかな。最近は大阪でも兵士崩れが徒党を組んでいると聞きましたからな」
五代はこの二つの品から、これだけの事を推察していた。並の眼力ではなかった。
真魚は少し迷ったが名を名乗った。名を聞いた五代はしばらく記憶を溯っていた。
「龍真魚殿ですか……確か龍家は琉球王家に連なる宮家、国頭家の末流だったと覚えています。その龍家の御子息が護る宝は、国頭御殿の秘宝と思って間違いありませんかな。それならばこの上質の珊瑚にも納得がいく」
真魚以外、その場にいる誰一人五代の言葉の意味が理解できなかった。
「五代はん、どういうこっちゃ。それにえらい琉球に詳しおすな」
善右衛門が全員の疑問を代弁して尋ねた。
「いえ昔の事ですが、我が父は薩摩藩の琉球交易係をしておりました。それで幼い頃より、琉球の文物、事情に親しんでいたのです。それに私自身薩摩藩では交易係でしたから、琉球産の珊瑚や文物も扱いました。そこのスペンサー銃も長崎グラバー商会から買い付け交渉をしたことがありますよ。それに国頭宮家の長、一五世国頭王子正秀様とお目にかかった事もあります。そのときの護衛役が確か龍家の方だったと覚えています」
滔々とした言葉に真魚は言葉を失った。五代には誤魔化しが通じないと思った。
「なるほど、事情は大体察しが着いた。それで幾らでこれを売りたいのだね。いや、宮家が清国へ渡るのに幾ら必要なのかと訊くべきかな」
五代は真魚の抱える役目をおおよそ見抜いていた。国頭御殿の秘宝を売るのである、目的は国頭宮家の清国亡命しかなかった。
このあたりの事情を説明するように、五代は現在琉球が置かれている状況を皆に語った。
琉球は元々一四二九年に尚氏が琉球王国として纏めた独立王国だった。しかし小国である。否応なしに周辺の大国、清や日本などへの従属から逃れられなかった。
一六〇九年に薩摩藩の琉球侵攻があり、江戸時代は薩摩藩の付庸国となっていた。だが同時に清に対して朝貢をする冊封国でもある。両属を承認させる絶妙の外交をしていた。
日本が明治維新を成し遂げると、日本への単一帰属を求められた。そして今年初頭、琉球を日本内国化するため琉球藩廃止という「琉球処分」が行われた。
五代はここで私見を述べた。
「この処分に反抗する琉球人も多いだろう。特に王族や琉球士族には不満があるようだ。宮古島では在地士族による武装抵抗事件が起こり、死傷者も出たと聞く。そうした人びとが制約のない清国への亡命を求めて、琉球を後にしているらしい。大阪の琉球租界にも多くの琉球人が流れ込んでいるとも聞いた。彼らの目的は神戸から上海に出ている定期航路で、清国へ逃れることなのだろう。無論、明治政府が政治亡命を認めることはない。もし亡命計画が発覚すれば、東京か沖縄に送られ収監されることになろう」
真魚は五代の私見に驚いた。市井の倭人にこれほど琉球の事情に通じている者がいることが信じられなかった。だがここで怯むわけにはいかなかった。
「珊瑚は三十貫(約100kg)程あります。それを三万円でお買い取り願いたい」
善右衛門や楼主、花魁、禿に至るまで、その金額に全員が息を飲んだ。三万円は明治五年に琉球王国を藩にする為に、日本政府が尚王家に下賜した金額と同額だった。今の金額で考えると十億円を超えるだろう。
しばらく考えこんでいた五代は、真魚ではなくこの場の全員にいった。
「これから話すことは、決して口外されぬ事をお願いする。もし口外すれば大阪には居られぬとお思いくだされ。この五代だけでなく、そこに控える鳥丸殿、当地で名高い喧嘩師くるい鳥殿の誅殺も降るでしょう。鳥丸殿、口封じの仕事引き受けて頂けるな。桃太郎殿の安全の為ですから」
五代は火夏の正体を見抜いていた。
座敷にいる全員が頷いた。
「ではお答えする、龍殿。国頭宮家の宝物珊瑚を三万円で買い取りいたそう。だが全てを現金ではない。半分の一万五千円を現金、もう半分は上海へ行ける船一隻ではいかがか」
真魚の役目は珊瑚の売却もあるが、同時に上海への船便の手配もあった。考えようでは、こちらの役目の方が現状では困難だった。五代はそれを見抜いていた。
「本当ですか。上海行きの船一隻というのは」
真魚はゆっくり確認するようにいった。
「百人は乗れるだろう。私は堂島の製藍所、朝陽館で藍を作り、清国やアメリカと輸出入もしている。その貿易船を一隻用意しよう。ちょうど二週間後に神戸港より上海に行く予定の船がある。それでもよろしいかな」
真魚はじっと五代の顔を見ていた。もし偽りの影があればここで殺すつもりでいた。ここまで国頭宮家の事情を知られてしまったからには、必要な覚悟だった。
「なぜそこまでしてくださるのです。国頭宮家とはご縁があるかも知れないが、国に背くほどではありますまい」
真魚は五代の真意を探るように問うた。
五代ははにかんだような笑顔を作った。
「いや、背くほどなのだよ。それは何故私が維新後、官を辞したかにも関係するが。私は昔西洋を学んだが、そこに近づくにはこの国は後百年かかると思った。それなのに新政府は権力争い、利権漁りばかり。それで官界ではなく、まず民を豊かにする経済を選んだのだ。だから私の現在の行動は、百年後のこの国の民に共感されれば良いと思っておる。今の政府におもねる気持はサラサラない。それに……」
ここまでいって、五代は自分の席を立った。そして真魚の前に来て座りこんだ。
「それに、私は龍殿に謝りたい。今回の政府の琉球処分のこと、いやそれ以前の薩摩藩による琉球支配も。私は琉球を良く知るだけに、それがいかに苛酷であったかもわかっている。琉球の人々に亡命を考えさせる程、今回の琉球処分が不当かということもね。これは一国を消滅させるのと同じだ。かつて西欧列強が日本に対し行った不法を、今回は日本が琉球に行ったのだ」
五代は目に薄っすらと涙を浮かべていた。
「私は西欧の『自主独立』の精神が大切だと考えている。大阪が好きなのは、この地の人々は皆、自主独立が身に付いているからだ。琉球もぜひそうあるべきだと思っている。だから彼の地で琉球が今後何をなすべきか、宮家の方々にお考え頂きたい。その為に清国行きの手助けもするのだよ」
そう語り、真魚に深々と頭を下げた。五代の思わぬ告白に皆が唖然とし、同時に心を打たれていた。浪速人は生来判官贔屓である。ときの権勢に靡かぬ者を称賛する。
「よろしおます、現金一万五千円はウチで持ちまひょ。舞台のええとこ独り占めされてもかなわんしなぁ。五代はん、珊瑚はどこぞで高こう売っておくんなはれ」
どこか鷹揚で、半分寝ぼけたような善右衛門の声が場を和ませた。長者の徳といえた。
「それにや、これでこの善右衛門も五代はん、桃太郎はんのお仲間や。もしこの事口外すれば、鴻池も敵にすると思いなはれ」
それは静かな恫喝だった。二百年間大阪を牛耳ってきた豪商の言葉である。この地で鴻池に睨まれるとは、社会的死刑宣告と同じだった。
「龍殿、明日の夜にでも靭町の拙宅においでいただきたい。詳しいお話をしよう。それと私も今思い付いたのだが、貴殿は藍染の着物をきているな。確か国頭は藍の産地でもあったと思うが、藍染には詳しいかな」
真魚は頷いた。藍作りは琉球でも盛んな産業のひとつだった。
「良いぞ。では龍殿、上海に渡ったあと朝陽館の使者として天竺まで行ってくださらんか。天竺の鬼ヶ島の偵察にな。これも桃太郎のお役目、未来の琉球の自主独立の為じゃ」
五代の突拍子もない言葉に、座敷中が戸惑った。だが五代一人が自分の会心の思い付きに得心したように、大声を上げて笑い出していた。
真魚はその翌夜、琉球商館主の国頭老人をともなって五代の邸宅を訪たらしい。
だがそこで取り決められた事を火夏には告げなかった。火夏もまた聞かなかった。
ただ、その二日後に国頭老人からの招待状を受け取った。一服の茶を献じたいとだけあった。真魚が火夏への礼として、白毫銀針茶の事を憶えていたからだった。
訪れた琉球商館には三人の人物が待っていた。龍真魚、国頭老人、そして若い娘である。席ではこの若い娘が一番上座に坐して、火夏に対して真魚への助力の礼を述べた。
この娘こそ国頭宮家の姫君、嶺寧姫だった。真魚は本来この姫君の護衛役だったのである。琉球より大阪へ、そしてこれから上海への道程を守護する役目だった。
だが火夏にはそんなことはどうでも良かった。琉球人たちと飲む茶が実に美味かったのだ。琉球の事、火夏の育った土佐の事などを嶺寧姫と語っていると、互いに知らぬ事ばかりで楽しかった。それに幼い感じがする姫君が、意外に賢く聡明な事に驚いた。
会話の合間に真魚の見せるハニカミも、火夏は見逃さなかった。
「こいつ、姫君に惚れてるな」
直感だったが、外れてはいまいと思った。そういえば松月楼にいた三日間、真魚は一度も遊女を呼ばなかったらしい。平吉爺が「琉球の若衆は固い」と、感心していたという。
「固いのではない、他の女が目に入らぬのだ」と火夏はふたりを見ながら思った。
真魚が桁外れに強い秘密も想像した。いかに武術が優れていようとも、実戦はまた別である。恐怖心があれば技も思うように操れない。銃口に晒されれば、普通は一瞬でも萎縮するものである。
だが真魚はまったく恐怖を忘れたように戦い続けていた。それは恐怖心がないのではなく、姫君に既に命を捧げているからだと思った。だから自分の生き死にには執着がない。姫君の護衛をしている限り、真魚は無敵かもしれない。
だがその無敵ももうすぐ終わるらしかった。
「五代さんから、インドへの視察を依頼されました。何でもインド産の藍『インディゴ』は安価で質が良いらしい。それを研究して日本へ、いや琉球に持ち帰れとの命です。この商館も上海に移り、他の貿易品が軌道に乗るまで朝陽館の藍を商うことになりましたから断れません。インドは英国の植民地ですが、各地方は地元の藩王(マハラジャ)が支配して危険な所も多いとのことです。ですから私の様な戦える桃太郎を探していたのだと」
真魚が上海で護衛の任を離れることに、嶺寧姫は不安そうだった。ここまで命懸けで護ってくれた男である。嶺寧姫もどこか密かに真魚を思っているのかも知れなかった。
「火夏さんの傷はもう治りましたか。大丈夫なら明朝からでも修錬を再開したいのです。時間はあと少ししかありませんが、我らの新しい拳法を完成させましょう」
「新しい拳法?」
火夏は真魚の言葉を怪訝に感じた。
「だってそうじゃありませんか。弁天埠頭倉庫の戦いで私は猿飛もどきを使ったし、火夏さんは旋風脚や不思議な縮地を使っていました。これはもうティーではないし、火夏さんの陰陽拳でもありません。我らだけの拳法です」
言われてみればその通りだが、新しい拳法というのは火夏の想像力にはなかった。
「それできっと弟弟子の犬丸さんにも勝てますよ。元々それが修錬の目的なんですから」
「そうだな、おまえも兄弟子に勝てるかもしれんしな」
火夏の言葉に、国頭老人と嶺寧姫がハッとして真魚を見た。それは触れてはならない話という様子である。二人に対して大丈夫ですよと真魚は会釈した。
「火夏さんにはいってませんでしたが、わたしの兄弟子であり、実兄でもある頌栄は今年の初めに死にました。兄は琉球王尚泰の護衛役だったのですが、王が東京に連れ去られるのを阻止しようとして、倭人の軍隊に撃たれたのです。五人までは縮地で倒したと聞きましたが、その後銃で。火夏さんのように不死身なら良かったんですけどね」
火夏はもうひとつ、真魚が銃に怯まない理由を垣間見た気がした。銃は兄の仇だったのだ。それで銃にも勝てる拳法を望んでいるのかもしれないと思った。
「でも勘違いしないでくださいね。わたしの求めるのは復讐の拳ではありませんから。寧ろ兄の果たせなかった夢を叶える拳を探しているのです。琉球の蒼き海をも超えるような希望の拳をね。火夏さんと修錬していて、それがよく分かりました。火夏さんの拳が天衣無縫なのは、純粋に夢を追いかけているからです。犬丸さんと戦うという純粋な夢を」
「ざんむけん」
火夏が一言いった。
「残夢拳」
真魚はその言葉を繰り返しながら、テーブル上に指でその文字をしたためた。
「いい響きですね。人間はどんな運命になっても、最後の最後まで心の底には夢が残っています。兄もそうだったと思います。その夢を護り、勝ち取る拳を我らで作りましょう」
火夏は真魚を改めて良い男だと思った。
火夏は最初「斬夢拳」のつもりでいったのだ。人の儚い夢を斬る拳。だが真魚の良き心はそれさえも呑み込んで、「残夢拳」と書き換えた。
ふっと弁天埠頭倉庫で真魚が語った「善き精霊ぶながやー」とは、真魚自身の事ではないのかと思った。きっと真魚の操る残夢拳こそ、精霊ぶながやーの善き拳になるのだろう。そして同時に、とても自分は善き精霊にはなれないと思った。
翌朝から尻無川の河原で、残夢拳の修錬が始まった。今度はそれぞれの修錬はない。互いに自分の考えた技の連続を見せ合った。そして欠点を指摘した。粗削りの技が、徐々に洗練度を増していった。
火夏にとっても、真魚にとっても、宝石のように貴重で美しい時間だった。永遠にこの時間が続けばよいと、二人とも心の奥底では思っていた。だがそれを口にはしなかった。
やがて二週間が過ぎ、明日は上海へ旅立つという朝が来た。この朝が最後の修錬である。すでに晩夏の川風が気持ち良く感じられていた。二人はこれまでの技の確認をした。そして最初で最後の真剣な手合わせをしようとしていた。
次はもう無い。
その想いを二人は共有していた。想いは拳に込めるしか残された会話方法はなかった。
三間程の距離を取って、二人は対峙した。普段なら火夏はすぐに動いて「動対動」の関係に持ち込む。それは火夏の拳の基本が、動き変化しながらの連続技だからである。
だが今はその機を逸していた。真魚の得意な「静対静」の局面になっていた。真魚の拳の特性は「静から動」への一瞬の変化にあった。静止状態から極限の速さに転ずる技、それが縮地である。対峙する人間はその速度変化に付いていけず姿を見失うのだ。
「まあよい、おれも縮地は使える。それも取って置きをな」
火夏はえもいわれぬ快感を感じていた。真魚の得意な状態から打ち勝つ。その想像に興奮した。だが思いは真魚も同じだった。動対動の戦いで火夏を上回る。その戦いを想定して、取って置きの技を用意していた。
二人は残夢拳を共に構築しようとしながらも、究極の一撃を隠し持っていた。それは武術家の本能とも宿痾ともいえた。
真魚は「静からの動」への瞬間が命なので先には仕掛けない。相手を先に動かせ、「後の先」を取るのが最も効果的だからだ。
だが今回は違った。軽くステップを踏むと、いきなり左へ跳んだ。
「猿飛」と思った瞬間、火夏は縮地で前に出た。そして最初の折り返しの前に、真魚を捕らえようとした。四ヶ月前、二人が初めて出会ったときの攻防が逆転されていた。
「真魚の前面を制した」と、火夏が思った瞬間に真魚はそこに居なかった。
瞬時に危険を感じた火夏は、今度は後方に猿飛で跳んだ。そして着地と同時に、右か左に更に跳ぶつもりだった。ここで止まったら真魚の術中にはまると直感していた。
後方に着地した瞬間、すぐ下の大地から掌底が迫り上がって来た。突如大地から生えて来たような避け難い感覚だった。
しかも速い。四ヶ月前に真魚が放った緩い掌底とは段違いの速さをもっていた。
躱せないと思った瞬間に、火夏は縮地で天に跳んだ。迫り上がる掌底よりも速く身体を浮かせると、正拳を掌底にぶつけた。その掌底を跳躍点に、腕の力だけで左に大きく跳んだ。
横目で元の場所を見ると、真魚が次の旋風脚のために身体を半回転していた。もし逃げずに掌底を防御していたら、直後に旋風脚を喰らっていただろう。掌底は火夏をそこに留めるための囮だった。
左側に着地した火夏は、さらに後方に距離を取った。真魚も旋風脚が不発に終わったので、それ以上詰めて来なかった。今度は五間ほどの距離で膠着していた。
「どうやって俺の縮地を外した」
その疑問が火夏の心を占めた。
最初に真魚が左へ跳んだとき、捕えられたはずだった。だが真魚はそこに居なかった。俺の縮地よりも真魚の猿飛の方が速いのかと、苦い思いを感じていた。
真魚も完璧な攻撃をしたと思っていた。だが火夏を捕らえきれなかった。予想外だったのは、上への縮地と掌底を跳躍点にされた事だった。
「この人は本当に鳥のように立体に動く」
改めて憑神術の恐ろしさを感じていた。もはや人の動きを超えていると思った。
そのまましばらく互いを探り合っていると、二人は同時に異変に気がついた。
火夏は「カチリッ」という機械音を、梟の聴力で聞いた。真魚は自分たちに向けられた針のように鋭い殺気を感じ取ったのである。
二人は同時に動いていた。
火夏は憑霊する鬼神を両足に発動して宙空に昇った。河原の草叢が切れる場所に、長銃を立射姿勢で構える人影を見た。音は銃の撃鉄音だった。
憑神術韋駄天で火夏は空を走った。それは異様な能力で、鬼神の力が足の下に力場を発生させていた。その力場を蹴って空を駆けるのである。まさに鬼神の仕業だった。賽王組倉庫の宙空で、突如縮地の加速を使えた秘密である。
だが火夏は空から、真魚の驚くべき疾走を見た。地を走る真魚が銃の男に近付くほどに動きがジグザグになっていった。距離が数間を切ると左右に縮地を跳びはじめたのだ。
それは空から見る火夏にも、断続的に真魚が出現しては消える不思議な光景だった。
猿飛のように左右に縮地を跳ぶ事も異常だが、加えて縮地を連続している。縮地は静から動への瞬発移動なので基本一回限りである。体内に新たな瞬発力を生むまで次はない。
火夏も縮地連続は無理で、猿飛を挟んで使った。だが真魚は不可能を可能にしていた。
立射姿勢の男は、見えない動きの真魚に照準が付けられなかった。そして気がついたときには、真魚の涼しく端正な顔が目の前にあった。
真魚は右手で銃身を掴むと、左手裏拳で男の顔を砕いた。銃を手離した男はそのまま崩れ落ちていった。だが真魚も掴んだ長銃を杖にして、そこにしゃがみ込んでしまった。
空から降りた火夏は駆け寄っていった。真魚の様子がおかしかった。
「大丈夫か、撃たれたのではないな」
真魚は半笑いの表情で座りこんでいた。
火夏の手を借りてやっと立ち上ることができた。だがちゃんとは立てないようだった。
「撃たれてませんよ。でも縮地で脚を壊したようです。筋肉が切れたのかもしれません」
人の限界を超えた縮地の連続、それが肉体に与える負荷は想像を絶しているだろう。憑霊の再生力を持つ火夏なら耐えらるかもしれないが、人の身の真魚には過酷過ぎた。
「この男、倉庫にいた首領ですね。賽王組はヤクザ同士の抗争で壊滅したと聞きましたが、生きていたんですね。それで最後が私への復讐だなんてつまらない生き方です」
真魚は苦々しげにいった。彼が杖にしている銃は賽王組が誇った七連発のスペンサー銃ではなく単発のスナイドル銃だった。賽王組の力の源泉である銃器も尽きたようだった。
「すみません。折角の取って置きを、こんな奴に使ってしまいました。本当はこの連続縮地で、火夏さんを追いこむつもりだったんですが。ちょっと脚も使えそうにありません。手合せはまた次にお願いしますよ」
「そうだな、また次で良い。それまでに俺は連続縮地の防ぎ方を考えよう」
本当に次があるのか二人に確信はない。だがいつでもいいからあると信じたかった。
火夏の肩に縋りながら、真魚は自分の姿が滑稽に思えて仕方なくて笑い出してしまった。兄頌栄が死んでから、初めて心からの笑いだった。
真魚は笑いが収まると、火夏に告げるべきあることを思い出した。
「そういえば先日火夏さんが帰られた後、姫様から火夏さんとの関係を尋ねられました。上手い言葉が見つからなかったので『友達です』と答えてしまいました。いいですか?」
真魚は少し恥ずかしそうに、真っ直ぐ前を見たままいった。火夏も真魚の顔を見ずに、「構わんさ」とだけ呟いた。その表情は今までにない嬉しさを湛えているように見えた。
この日の午後、真魚と嶺寧姫を含めた琉球人たちが、神戸港に向かって旅立った。明日は上海への海路にあるだろう。再びこの地を踏むことはもうないのかもしれなかった。
旅立つ彼らには、やっと馴染んできた尻無川の川風が、少しだけ冷たく感じられた。それは燃えあがった短い夏が、もう終わろうとしていることを告げているようだった。
(終劇)
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灘 猿丸
その日、火夏は夕方から酒を呑み、夜には馴染の遊女明石を抱いていた。
二人の発する大量の汗と艶気で、狭い部屋は暑い空気で充満している。
「あっあー、鳥さま。もうっ、もうあかんわ」
明石がこの夜何度目かの気を遣った。
このボーとした男には似つかわしくないが、火夏は性技に長けていた。
遊女とはいえ誰彼なく気は遣らない。多くは擬態であり演技だ。しかし火夏が相手となると少し違っていた。どの遊女も自然と自ら腰を動かして、快楽を貪ろうとした。その間、火夏は一度も気を遣らない。ただジーっと女の狂う様を眺めていた。
それが面白いのか、何か女に対する復讐なのかは解らない。だがこの松島遊廓で、火夏が精を放ったという遊女の噂を聞いた事がなかった。それもあってか、火夏の相手をする遊女は、自分こそ精を吐き出させる勲章を手にしようと、皆必死になって責めてきた。
「ねえ鳥さま。あんたさん何が面白うてオンナ抱いてるの。ヒトがいくところばっかり見てて、まるで男娼やないの」
この日も自分だけいってしまった明石は、乱れた息を調えながら、筋肉で膨らんだ火夏の背中をつねって愚痴をいった。
「いかんもんは、仕方あるまい。気持ちは良いのだが、まだ頭の芯にまで来ぬのよ。どうすればよいか、俺も悩んでいる」
明石は「この人、あっちの病気やろか」と訝しんだ。
「そろそろ大門を閉める時間だな。ひと回りしてくるから、おまえはもう帰っていいぞ」
何事もなかったように床を抜け出し、部屋を出て行こうとした。明石は腹立ち紛れにその背に向って、自分の汗が滲んだ高枕を投げつけた。
だが火夏は振り向きもせず、後ろ手に高枕を見事に掴みとっていた。分厚い筋肉を纏った割には実にしなやかな動きだった。
「枕に罪はなかろう。憎いなら今度こそ俺をいかせてみろよ」
そういい高枕をそっと襖の横に置いた。明石は火夏に何か怖ろしいものを感じた。
「このお人、ほんまに人間なんやろうか」
体にじっとりとかいていた汗が、急速に冷めていくように思えた。
火夏は明石と睦んでいた廓を出ると、真っ直ぐに松島遊廓の大門に向かって歩いた。
明治以前は時間が来ると大太鼓が打ち鳴らされ、遊廓の大門は完全に閉じられた。それ以降は廓に篭って遊ぶのが慣わしである。
しかし明治五年、新政府は突如「芸娼妓解放令」という太政官布告を出した。遊女の人身売買の規制や、前借金を無効にする通達である。
遊女解放に対する支援もなかったため、実効はあまりなかった。自由意思の私娼として遊廓は維持された。ただ大門閉鎖の習慣はなくなった。その為に夜の警戒が必要になった。ひと気のない大門内側や各遊廓の安全確保、遊女の足抜け防止が必須だからである。
大門前には今夜の見廻り番である平吉と淳之介が待っていた。手には松島遊廓と描かれた提灯を提げている。
「鳥の兄貴、もう五月やいうのに今夜は冷える。早いとこ切り上げて一杯いきましょう」
若い淳之介は、見廻りよりも早く酒が呑みたいようだった。老人に近い平吉は、寡黙に提灯を火夏に渡してきた。
「いつも言っているが提灯はいらぬ。夜目を鍛えるため、見廻りには灯を持たぬのだ」
そう火夏がいうと、平吉は提灯をさげた。
「そうでおましたな。ただ、怪しきお人は灯りを避けます。これを持っとれば、無用の争いもありまへん。闇から人を狩るだけがお役目ではあらしまへんよって」
声は柔らかだったが、どこか目が笑っていなかった。平吉は明治以前、何処かの武士だったと聞いた。そのためか、こうした仕事の勘所を心得ているようだった。
「そんなんええから、もう行きましょ」
三人は遊廓内の見廻りに出発した。前に平吉と淳之介が提灯を持って並んでいる。それより少し離れて背後から火夏が歩いた。そうすることで、全体の風景がよく見えた。
提灯の明りはその周囲を煌々と見せるが、明りが届かぬ距離では逆に全くの闇を作る。それでは何かあったときに、闇に眼を塞がれてしまうのだ。明りから離れると全体が淡い薄闇になり、逆に気配が良く見えた。
拍子木を打ちながら、遊廓内をゆっくりと歩いて巡った。廓からはまだ光が漏れ、嬌声も聴こえている。小一時間ほどで遊廓の見廻りを終えた。
再び大門に戻った三人は、大門横にある番小屋に入った。平吉と淳之介は朝の一番鶏までここで見張りをすることになっていた。二人は松島遊郭の楼主が共同して作った見廻り組の人間である。見廻り組は安心して遊べる遊廓にするための自警団だった。
見廻り組には金を掛けないように各廓から人を出し、独りだけ専門の喧嘩師を雇っていた。汚れ役はこの喧嘩師の役目だった。喧嘩師は死んでも代わりを見つければよかった。
その喧嘩師が鳥辺野火夏である。
この火夏、めっぽう喧嘩が強かった。先ずタイマンなら負け知らずだし、相手が数人程度でも敵にはならない。段平やドスといった刃物があっても、一瞬でそれを叩き折った。刀を持った方が狐に抓まれた様子だった。
やがてヤクザ者も「くるい鳥」とアダ名し、ちょっかいを掛けてこなくなっていた。
結局、松島遊廓は安全な遊廓としての名が上がり、客足も途絶えなかった。先程の明石の花代や呑み喰い代など安いものとなっていた。
「兄貴、さあ一杯」
小屋に入るなり淳之介は酒徳利と茶碗を持ちだして、皆の前に置いた。さあさあといいながらも、まず自分の茶碗に酒を注いで喉を潤した。火夏も黙って酒を喉に流し込んだ。
だが平吉は少し茶碗を舐めただけだった。
「最近めっきり酒に弱うなって、急いで呑むと夜のお役目しくじりまっさかい」
そういっているが、平吉が見廻り仕事の最中は酒を呑まぬ事を二人は知っていた。
「俺は尻無川あたりまで少し走ってくる」
そう言い残して、火夏は見張りの番小屋を出て行った。火夏は番小屋での夜明しは役目ではない。見廻りに同行するだけだった。
大門から遊廓外に出た火夏はあたりを窺った。もうひと気がある時刻ではない。人がいないと確認すると、火夏は全力で走り出した。
疾走する火夏の姿は、直ぐに闇に溶けていった。その速さは人に可能なものではなかった。旋風が通り抜ける様な速さである。彼の長く纏められた髪が、風に靡き始めていた。
速度がさらに上がると、火夏は宙に飛んだ。
人の跳躍を遥かに超えた、猿か鴻の跳躍だった。そこここの屋並み、木々、あるいは建造物を足場にして、不規則に空を駆けているのである。
憑神術猿飛、それがこの技の名前だった。
火夏が幼い頃より土佐山中の隠れ郷で習い覚えた、唯一にして無二の霊術である。
火夏はもともと霊的特異な体質に生まれ落ちた。
憑霊体質、それが火夏の特異性だった。そこここに漂う死霊、動物霊、あるいは大地に宿る古い国津神に憑依されてしまうのである。それ故周囲に数多くの霊的な怪異現象を起こした。怪異を怖れて親にも捨てられ、挙句に人買いに売られたのだ。
だがそんな火夏の憑霊体質を求める者がいた。土佐物部の郷の陰陽師、白猿太夫である。白猿は火夏の様な霊的特異体質の子どもを探し、手元で育てながら術を教えた。それが憑神術である。体に幾体もの霊を宿らせ、霊の持つ超常の力を使役する。学ぶ以上に霊的体質が必要な術だった
火夏が育った土佐物部の郷は、古代から続く隠棲地である。いつの時代かもわからぬ昔より隠れ住み、時代時代に敗れた者たちが辿り着いた。火夏を教えた白猿も、その名を物部春宮太夫白猿と称した。春宮太夫は朝廷での皇太子教育係の官職名である。いつの時代かに政略に敗れた皇子と教育係が京都より落ちて来た記憶の残滓かもしれない。
大阪の闇の中を跳びながら、火夏は快感を感じていた。遊女明石との性交では得られなかった種類の快感である。結局、二十年修行した術中でしか快感を得られない事を、火夏はどこかで憎んでいた。
松島遊廓は大阪湾の埋立地にできた新来の遊廓で、周囲は川に囲まれている。北を安治川、東を木津川、南を尻無川、そして西に少し離れて大阪湾に接していた。だから街を歩けば仄かに水の匂いがした。西風が吹けば潮の香りさえする。
火夏は松島の南にある尻無川の土手にまで来ていた。この辺りにはもう人家は少なく、水運用の倉庫ぐらいしかなかった。そのため月のない夜などは深い闇が支配していた。
土佐の山中で育った火夏に大阪は明るすぎた。街中には何かしらの明りがある。特に維新以来ガス燈などといった文明の光も出現した。山中で夜目を鍛えて育った火夏には邪魔だった。その為にときに闇を求めて川沿いに来るのだった。
それでも少し北にある弁天埠頭などの灯は遠望できる。大阪の地に真の暗闇を求める事は無理なのかも知れなかった。
土手岸に寝転んで夜空を見上げていると、遠くで争う声が聞こえた。川風に乗った僅かな音だ。だが憑神術で五感の能力も異常に向上した火夏は、針の落ちる音さえも聞き逃さなかった。
身体を起こし、眼と耳の能力を全開にした。梟や夜鷹の動物霊を体内に飼っているので、動物の感知能力が使えた。ただ街中で夜鷹の視力、梟の聴力を全開にすると、光で眼が眩み、騒音で耳を塞がれてしまうことになったが。
遠く河口に近い方に、数人の人間がいるのがわかった。争っているらしかった。
一人対数人の争いである。場所柄、ひと気のない所で喧嘩や強盗などあっても不思議ではない。だが様子を伺うと、優勢なのは一人の方だった。
これに火夏は興味をそそられた。
「どんな奴だ」と思った。
土手沿いに風も切らず、音もたてず、闇に同化した火夏の疾走が始まった。憑神術を使った闇走りである。この技で土佐山中の獣にさえ、その存在を感じ取らせなかった。
河口近くまで来ると、茅が茂る場所に出た。元々大坂湾は茅渟(ちぬ)の海と呼ばれた低湿地帯である。膝ぐらいまである茅の原で、一人の若い男を六人の男が囲んでいた。
火夏は少し離れた茅の中に身を沈めた。
「そやさかいそのお宝だしなって。あんさんが闇でえらいお宝を売ろうとしてんのは、わかってんのやで。自分が持ち込んだ故買屋はわいらの仲間やさかいな」
「そんなものは知りませんね、何かの間違いでしょう。しかし、それだけの理由でいきなり襲って来たのですか」
にらみ合う男たちの側に、二人ほどが転がっていた。腹を抑えて苦しがっている。先ほど火夏が感じ取った争いの跡だ。この若い男に、一瞬で叩き伏せられたはずだった。
火夏は茅の陰から覗き見て、「どんな技を使ったのだ」と少し期待した。争いの理由などどうでもよかった。ただこの若者がどうやって人ふたりを壊したのかが知りたかった。
「お宝の話は人間違いでしょう。私はただの船乗りですから、そんな物は持っていません」
若い男が薄く笑うと、男たちはいきり勃った。
「あんさん、琉球から来はったんやろ。ネタはばれてんねん。琉球のお宝仰山持ってる筈や。それを買うてくれはるお大尽探してんってな」
やれやれという風に、若い男は自分を囲む男たちを見回した。
「もしそうでも、どうしてあなた方にそれを渡さなきゃならんのですか。くぬ阿呆だら」
最後の言葉に男たちが反応した。右側と左側の男が同時に殴りかかった。
前の男は睨んだまま動かず、若者の背後の男が懐から長ドスを出そうとしていた。時間差をつけた連続攻撃で、背後の男が本命の攻撃だろう。
だが男たちの目論見は外されてしまった。左右からの男は、若者の左手の裏拳と右手の貫手で、同時に止められていた。左右の男は苦悶しながらしゃがみ込んでしまった。
そして見ていたように背後の男が出しかけていた長ドスを、背面への旋風脚で跳ね上げていた。
すべてはものの二、三秒の間の出来事だった。正面から目で威嚇していた男は、その間若者の視線が自分から一度も外れていない事に気がついていない。視線を動かさずに三人の攻撃を同時に退けていたのだった。
「ほう」と、火夏は感嘆の息を漏らした。
「並みの人間にこんなことができる奴がいるのか」と思った。
憑霊の力を使役して闘う火夏には、普通にここまで強いことが意外だった。
それに見たことがない武術である。日本の柔剣術とも違うし、戦場組手とも違った。むしろ火夏が使う陰陽拳に近い。
三人の男が一瞬で倒されたことに、正面の首領の男はたじろいだ。残りはもう自分と二人しかいない。すでに五人もの男が倒されているのだ。
慌てた首領の男は、残った二人に目配せをし、同時に懐から拳銃を取り出そうとした。三方から拳銃で狙われれば、避けようがないはずだった。
だが焦っているせいで、全員が素速く取り出せなかった。
そこに一瞬の時間差ができた。
若者はいつから持っていたのか、手にしていた礫を親指で弾く指弾で撃った。礫に襲われた首領の男の拳銃が、まず弾け飛んだ。間を置かずに残り二人の拳銃が大地に落ちた。
火夏には若者の右前方にいた一人目の拳銃を掌底で横殴るのは見えたが、二人目をどう始末したのかがわからなかった。あろうことか若者を一瞬見失ったのである。
「猿飛か」と思ったが少し違った。猿飛のように視界の外に瞬間飛び出て再接近したのではない。視界の中で見失ったのだ。
呆然とした三人は自分の手と、落ちている拳銃を交互に不思議そうに見ていた。三人にもう若者と争うすべがないのは明白だった。
「さてどうします。お仲間のようにそこに倒れるか、それとも退きますか。わたしは皆を連れて、さっさと消えて欲しいですがね」
上品な言葉を使っていた若者が、今だけは狼のような獰猛な表情をつくった。その獣気に気圧された三人は、慌てて倒れた仲間を急きたてながら、その場を逃れようとした。
首領の男は拳銃を拾って逃げようとした。だが若者は拳銃を拾う事を許さなかった。後顧の憂いを考えたのかも知れない。複数の拳銃で再び狙われる危険を封じたのだった。
首領の男は逃げながらも捨て台詞を吐いた。
「くそっ、覚えとき。自分のことは調べが付いてん。これで終わった思わんときや」
若者は落ちている拳銃を、足で茅の中に蹴り込んだ。そして三丁の拳銃が視界からなくなると、少し離れた火夏が隠れる茅原に向って、やれやれというように言葉を掛けた。
「それで、あなたもわたしとやるつもりなんですか。ずっと闘いを見てたんでしょ」
火夏はその声に驚いた。そして少し間を置いて、ゆっくりと茅の中で立ち上がった。
「闇走りを見破っていたのか」という驚きと、見破られた屈辱で表情が強張っていた。
ただ反して、心と体の奥底では今にも射精しそうな久々の快感を感じ始めていた。
闇の中で火夏と若者は対峙した。月はなく、遥か遠くに弁天埠頭の明かりがゆらめくだけである。だがそんな事は気にせず、二人とも逆に闇を味方にしようとしていた。
「不思議な人だ。突如気配が現れたと思ったら、すぐに消えてしまった。そして又現れる。あなたはぶながやーですか」
火夏はそれに答えずに、若者を観察した。髪は断髪にしているが、どこか違和感があった。昨日今日髪を切ったばかりのような、不似合いさである。しかも着ている着物が藍染めの合服である。小倉袴を併せているが、どこかチグハグだった。
先の男がいった「琉球」という言葉が脳裏をよぎった。火夏は琉球を知らなかった。
「言っとくが、俺はさっきのヤクザ者の仲間じゃねえ。ただおまえの使った技に興味があるんだよ。何て名の技なんだい。……特に最後の拳銃野郎をつぶした技を知りてえなぁ」
意外な火夏の言葉に若者が戸惑った。敵ではないのかという思いと、最後に使った秘術を見切っている怪しさにである。
若者は少し沈黙した。どう出るべきかを思案していた。だが結論の前に火夏が動いた。
猿飛で若者の視界から消えたのである。いや、正確には消えようとした。
猿飛は左右前後の不規則な動きで、相手の視界からその姿を消す。
火夏が左に跳んだ刹那、若者も反射的に動いていた。
若者の秘術「縮地」は、前への瞬発移動の技である。視界から消えられては使えない。火夏が猿飛で消えようとした瞬間に、縮地で前に出たのだった。
火夏は左側の最初の着地点に足を着き、反対側に跳ぼうとした。そのとき前面に若者が突如出現した。そして火夏の顎を右手掌底で貫こうとした。
火夏はその手技を見切った。迫り上がる掌底をかわすと、その手を左手で掴んでいた。
闇の中で引きつる若者の表情がわかった。その顔は意外に若く、見開いた目が美しかった。表情を確かめると火夏はわずかに微笑んだ。
「そう、こいつだよ。だがわからんな。どうやって俺の前に出現したんだい。そのからくりが知りてえんだよ」
火夏の言葉が終わる前に、若者の左手刀が掴んだ手の肘を突いた。
嫌らしい技である。肘の点穴を突かれれば、しばらく痺れて手が使い物にならない。この後の攻防を考えた外し方だった。
火夏の掴む手が弛むと、若者はそのまま背後に跳んでいた。ふたりの間に三間ほどの距離ができた。それが新たな均衡の距離となった。
「誘われましたか。ですが……師匠以外に縮地を外されたのは初めてですよ」
今度は若者が薄く自嘲気味に微笑んだ。火夏は痺れる左手を振りながら、戦闘態勢を解いていた。もう争う気がない表明だった。
「今のは縮地って技かい。だが落ち込むこたぁねえぜ、縮地は見えなかったからな。だがその後の掌底がぬるいんだよ。手技を鍛えた方がいい。見えねえ縮地が死んじまってるぜ」
今の一瞬の攻防で、火夏は若者の欠点を指摘した。そして猿飛の盲点も自覚した。
猿飛は最初の折り返し点で速度が一番落ちている。そこを突かれれば、見えないはずの猿飛が止まってしまう事を思い知った。この点を攻めて猿飛を止めた人間はいなかった。師の白猿も、天才といわれた弟弟子の犬丸も。まだ猿飛に鍛える余地があると思った。
ここで火夏はとんでもない提案をした。
「なあ、その縮地って技を俺に教えて貰えねえか。代りにお前の手技を速くしてやる。それでお互いにいいとこ取りよ」
実に不躾な言い方だった。お互いにどこの誰ともしれない相手である。だが火夏にはそんなことはどうでも良かった。未知の凄い技を持つだけで、価値ある人間だった。
呆気に取られた若者は、つい笑ってしまった。火夏の無邪気さに呆れてしまったのだ。火夏は若者の笑いを承諾と取った。火夏もつられて笑い、久し振りに笑ったと思った。
若者の名は龍真魚(りゅう・まお)といった。琉球士族の次男坊ということだった。なぜ大阪に居るのかはいわなかったが、尻無川南岸にある三軒家の琉球商館にいると告げた。火夏は二、三日の内に必ず行くと約束して、その夜は別れた。
真魚の言葉は嘘かも知れなかったが、火夏は疑いもしなかった。
それから二日後、昼の見廻りを終えた火夏は三軒家に向かった。尻無川を渡るのは初めてだったが、三軒家はすぐにわかった。
というよりも何もなかったのだ。松島遊廓と同じ埋立地だが、人家がほとんどなかった。あるのは急造りの琉球人の住居小屋と、少し大き目の商館らしき建物だけだった。
本来この地には琉球から来た貿易仕事をする人々が暮していた。しかしここ数ヶ月様相が一変している。難民ともいえる多くの琉球人が、この地に押し寄せているのだ。
普段は他郷の人間が入り込まないのか、多くの琉球人が火夏の姿を目で追っていた。だが誰ひとりとして近寄ってはこなかった。皆怖ろしげに、あるいは敵意を含んで見ていた。
それには理由があった。琉球人にとって倭人(日本人)は、先ごろ故国を消滅させた敵なのだ。
明治五年、それまでの鹿児島県付庸国としての琉球王国は、突如政府より琉球藩へと政治的形式の変更を申し渡された。琉球王尚泰を琉球藩の藩王とし、日本の華族に列せられたのだ。同時に三万円の下贈金がくだされ、また旧薩摩藩への莫大な負債も明治政府が肩代わりすることとなった。
琉球藩となっても、内政的にはあまり変化はなかった。従前通り尚王家を王府とし、琉球士族が政治を司っていたからだ。だが外交的には制約されることになる。特に清への朝貢が禁止された。
そしてついに琉球藩は廃止された。尚王家も半ば強引に東京に連れ去られることになる。それは軍隊を背景にした拉致に等しかった。王を失い日本内国化が進んだ結果、明治一二年三月に琉球藩は廃止された。先ず鹿児島県の一部となり、直ぐに沖縄県とされる。
この一連の処置は「琉球処分」と呼ばれた。
琉球人の視線には無頓着に、火夏は商館に入って行った。そして龍真魚の名を告げた。
商館の中は清国や異国の文物に満ちていた。火夏が通された部屋には黒檀の丸テーブルが置かれ、青磁の陶器、龍虎の石像もある。火夏が初めて見る異国の風情に満ちていた。
「まったく、まさか来るとは思ってませんでしたよ。倭人は我等を怖れるか、見下すかのどちらかですからね」
真魚が丸テーブルの反対側に座って、火夏のために蓋碗に湯を入れていた。
蓋碗は蓋のついた茶杯で、中に茶葉と湯を入れる。そして茶が抽出されたら、蓋をずらしてそこから茶を飲むのである。品茗杯ともいい清国式の茶の飲み方だった。
出された蓋碗に戸惑いながら、真魚の手付きを真似て、蓋をずらし茶を啜った。
不思議な甘い風味の茶である。それは白毫銀針茶といい清国福建で産する白茶だった。
「本当に縮地を教えろというのですか。誰とも知れぬ人に教えるなどまずないのですが」
真魚は困ったような顔をした。昼間見る顔は、あどけなさの残る青年の顔だった。
しかも女かと見紛う端正な風貌と身体の細さである。火夏はこの身体のどこにあのような強さが潜んでいるのかが不思議だった。
「ならここで知り合おう。それでよいではないか。俺は名を鳥辺野火夏という。または幼名で鳥丸と呼ばれている。生まれは京だが、育ちは土佐の物部だ。俺の技もその地で習い覚えた。師の名は物部春宮太夫白猿という。知らぬかもしれんが陰陽術の術師だ。俺の技も陰陽術で使われるものらしい。今は松島遊廓で見廻り組をしている」
火夏は茶を美味そうに啜りながら来歴を語った。それ以外に何が知りたいと問うた。
「いや、結構ですよ。それより何故縮地を学びたいのですか。先夜のことを考えれば、あなたはもう十分強い。今さら縮地を学ばなくても良いではないですか。それに……」
真魚は言い淀んだが、技というものは体系でできている。一つ一つの手技、足技も他の技との連携で成り立つのだ。そこに如何に強くとも、他の体系の技を入れると必ず齟齬が起こる。体内に異物が混入するようなものである。
「理由は簡単よ、今より強くなりてぇからさ。どうしても勝ちてぇ相手がいるんでな」
火夏はあっけらかんといった。
「勝ちたい相手? 今の鳥辺野さんより強い相手ですか……それは復讐が目的ですか」
真魚は少し眉を顰めた。復讐が目的なら教えることはないと、決めているらしかった。
「名は火夏でいい。それに目的は復讐じゃあない。相手は俺の弟弟子、犬丸という奴だからな。犬丸には恨みはあるかも知れんが、俺にはない」
そして三年前、犬丸と闘い敗れた自分を思い返した。
「弟弟子……そうですか。その犬丸さんは火夏さんより強いのですね」
火夏はちょっと嫌な顔をしながら頷いた。
「犬丸も同じ師より陰陽の技を学んだ。ハッキリいって犬丸は天才だ。陰陽の技を使う限り、あいつには勝てねぇ。だから奴が知らぬ縮地を学びたいんだよ」
「兄弟弟子が自分よりも強いのは嫌ですね。その気持ちはわかります。わたしにも兄弟子がいましたが、結局は勝てませんでしたから」
真魚はちょっと遠くを見る眼をした。
「なら、俺の猿飛を教えてやろう。それできっと兄弟子にも勝てるぜ」
火夏が嬉しそうにいうと、真魚は首を振った。
「いえ、無理です。兄弟子には勝てないでしょう。火夏さんの秘術を教えて貰ってもね」
火夏は不思議そうな顔をしたが、真魚はその理由を語らなかった。
だがどこか火夏に共感するものを感じたのか、一緒に修錬をする事だけは承知した。縮地を教えると言葉にはしなかったが、共に修錬して盗めるなら盗めという様子だった。
真魚の技は琉球に古くから伝わるとティー(手)とかトーディー(唐手)と呼ばれる、中国拳法や薩摩示現流を吸収した琉球独自の拳法らしい。それは琉球士族の子弟には必修の武術らしいが、道場で習うものではない。
各家で師を招き、兄弟や従兄弟とだけで秘密に学ぶのだ。だから他人と修錬することはまずないのだと真魚は別れ際に語った。
その翌日から二人の修錬が始まった。早朝一番鶏が鳴くのと同時に、尻無川南岸の河原で技を鍛えあった。それはちょっと不思議な光景だった。
まず互いに自分の流儀で準備運動をする。そして真魚は型の演武を始める。火夏はそれをじっと見ていた。
次に火夏が身体をほぐした。火夏の陰陽拳に演武はない。ただ幻の敵と実戦を戦う。それはそのつど千変万化する技の連続だった。真魚もそれを黙って見ていた。
それが終ると、そこからが本番だった。互いに致命傷こそ避けたが、本気の自由組手(単に実戦に見えるが)を行った。幾度も互いを打ちのめし、その中から相手の技を研究し、自分の技に足りない部分を自覚した。
ときに同じ技を連続して、相手に覚えさせることもした。それが唯一の教授だった。それで学ばないのは相手が悪いと互いに思った。勿論、縮地や猿飛も使った。火夏も真魚も故郷や師との修錬以外で、ここまで秘術を曝け出すのは初めてのことだった。
尻無川に水運の船が行き来し始めるころ、二人は修錬を終えた。そして明日を約することもせずにその場で別れた。
それが来る日も来る日も続いていた。二人にとって、それが次第に日常になっていった。眠る前には明日はどのような手で相手を追い込むか考えるのが、楽しみで眠れなくなっていた。
二人の修錬が始まって、三ヶ月ほどが経った。季節はもう夏の盛りになっていた。
ここ二日ほど真魚は修錬に現われなかった。最初は病気かとも思ったが、三日目になると火夏は不安を抱いて、三軒家の琉球商館を訪れてみた。
だが訪れた商館の様子がおかしかった。あちこちの壁やドア、窓が壊されていた。どうやら何者かに襲撃を受けたようだった。火夏は壁のいくつかに、銃弾がめり込んでいることに気付いた。
「真魚殿はここにおりませぬ。少し用事で出ておりまする。戻りがいつかは判りませぬ」
応対に出てきた国頭老人はそう告げた。
どうやら彼がこの商館の主人らしかった。落ち着いた貫禄のある人物である。ただ髪型は頭の上に小さく纏め結われていた。琉球では欹髻(かたかしら)という伝統的な髪型らしい。そこには美しい珊瑚の簪が刺されていたが、それはこの人物の位を表すという。
「ここを襲ったのは誰だい、ヤクザ者か? だとしたら俺にも少し心当たりがある。真魚はそいつらを追っていったんじゃねえのか」
国頭老人はしばらく黙って火夏を観察していた。そしておもむろに問い質した。
「貴方様は真魚殿の何になりますのじゃ。これは倭人に関わっていただく話ではありませぬ。どうぞお引き取りを願いたい」
それは頑なな拒絶だった。国頭老人は真魚と火夏の交流を心良くは思っていないようだった。だが火夏はそんなことに頓着はなかった。
「倭人とか琉球人とか関係ねえ。真魚の奴に今消えられちゃあ困るんだよ。俺たちは……」
その後の言葉が見つからなかった。俺たちは何なんだろうと思った。同門の修行者ではない。あるいは敵味方といった関係でもない。ただ気が合って共に修錬しているだけの間柄である。それを何と呼ぶのかが判らなかった。
国頭老人に頭を下げて商館を後にした。
火夏は根城の松島遊廓に急いだ。そこを仕切る地廻りを問い質して、琉球商館を襲ったヤクザ者を見つけるつもりだった。
商館の荒らされ方からすると二、三人の仕業ではない。十人を超えていると思われた。だとすると一つの組だけの仕業ではないだろう。周囲のヤクザ者や組に手助けを頼んでいる可能性が高い。ならば琉球商館に最も近い、松島遊廓の地廻りが知らないはずがなかった。
今は人目があるので猿飛は使えなかった。だが人が怪しまぬギリギリの速度で街を走った。それでも多くの通行人が、不思議なものを見るように火夏の後姿を目で追っていた。
火夏は松島遊廓の梅本門に隣接する地廻り木津組の居宅に飛び込んだ。木津組は表向きは川人足などの口入れ屋である。居宅の中には多くの荒くれ者がたむろしていた。
「三左衛門親分はいるか、用がある」
土間に入るなり大声で叫んだ。
周囲の者は一瞬何事かと身構えたが、相手が喧嘩師「くるい鳥」と知ると、皆その場で止まった。ピリッとした緊張感が場を支配した。
「こりゃこりゃ、遊廓の喧嘩師かいな。ここにおいでとは珍しい。商売敵に何の御用や」
帳場の奥の座敷から木津組の主人、木津屋三左衛門が煙管を燻らせながら表に出てきた。火夏の前の上がり框に座ると、煙管をポンと叩いて、中の火種を土間に捨てた。
「いきなりですまんが、教えて欲しい。ここ最近で尻無川南岸にある琉球商館を襲おうとしたヤクザ者はいないか。親分がやったとは思っちゃいないが、どこかから助っ人を頼まれてはないか。それが知りたいんだよ」
三左衛門は火夏の問いに表情は動かさなかった。だがこの件に興味があるようだった。
火の消えた煙管を番頭に渡すと、「こっちへお入りなさい」と奥の座敷に誘った。
火夏はドタドタと奥座敷に上っていった。三左衛門は「せわしいやっちゃなあ」という顔をしたが、そのまま座敷の座布団に座った。勿論火夏に座布団は出さない。
火夏は三左衛門の前に片胡座をかいて座った。それはいつでも立ち上れる座り方だった。ヤクザ者の家で尻をどっしり着けるほど火夏も甘くはない。
「それでどないなことでっしゃろ。琉球商館襲撃に、あんさんどう関係しておますのや。こっちも渡世の仁義に関わることや。事情が分からんままでは、お話しもできまへんなあ」
火夏は半分想像を加えながら、あらましを説明した。琉球商館の士族青年と知り合いになったこと。商館が二、三日前に何者かに襲撃されたこと。そこに銃弾の痕があり、多人数で押し寄せたらしいこと。士族青年が姿を消したので探していることなどである。
それには襲撃者を追うのが一番早いので、木津組に助っ人を頼みに来たヤクザ者がいないかを確かめに来たと。
「そんなん、ほっといたらよろしい。あんさんが首突っ込むことやおへん。多分琉球者との商売の諍いや」
三左衛門が事もなげにいうと、火夏はそれを否定した。
「いや、商売上の諍いなら俺も関わらぬが、そうではないようだ。少し前にヤクザ者の集団が、尻無川河口でその消えた青年から何か強盗をしようとした。その時は返り討ちにあったが、今回はその仕返しか、強盗のやり直しよ。知り合いとして放っては置けん」
三左衛門は少し考えて火夏に尋ねた。
「あんさん、その下手人がわかったらどないするつもりや。だいたい知り合いやゆうけど、その琉球者とどないな関係なんや。危険犯すほどの相手でっか」
国頭老人に問われたのと同じ疑問を投げ掛けられた。おまえは真魚の何なのかと。
火夏はそれまで考えてもいなかった答えが、口から飛び出していた。
「あいつは俺のダチだからよ。何としても助っ人しなきゃ気が済まねんだよ。……襲ったヤクザ者どもは全員俺が叩き潰す」
この答えに三左衛門よりも、答えた火夏が内心驚いていた。真魚は友だったのかと。
だが口にしてしまえば、その通りだと思った。友だから気になるし、助けたいのだ。
こんな感情は初めてだった。
これまで火夏の人生に、友と呼べる人間はいなかった。如何に親密でも犬丸は違った。犬丸は弟であり、競争相手である。あるいは物部の郷の術師たちも友ではなかった。多かれ少なかれ上下関係もあるし、心の共感はあまりなかった。
だが真魚はその誰とも違った。対等な関係であり、その上で認め合っている。技の修錬を通じてだが、多くの共感もあった。
そして何より真魚が好きだった。奴と一緒にいると実に気持ちが良く、晴れ晴れとした。世間ではこうした相手を友と呼ぶのではないのかと、火夏は初めて思った。
「ほう友といわはるか、こいつは驚いた。いやいや結構。そらわいらの義侠に通じる気持ですな。それならまぁ納得もいく。義侠ゆえのことどしたらわいの顔も立ついうもんや。やったらお話しさせて貰いましょうか、琉球商館を襲撃した下手人について」
三左衛門は急に火夏に対する態度を改め、彼の知るあらましを語り始めた。それは火夏の友情に感じたためではなく、別の暗い目的があっての事だったが。
「十日ほど前、弁天埠頭を根城にしよる新興の賽王組が回状を回して来よった。琉球者と一戦交えるよって、人を貸せとな。わてらも琉球者のことはようしらんが、それでも長いこと近場で共存しとる相手や。理由も分からず一戦いわれても、こっちもそうはいかん。古手の組は皆断ったらしいが、はぐれ者なんぞはだいぶ応じたと聞いとる」
ここで火夏は三左衛門に尋ねた。
「その賽王組は銃を使うのか」
琉球商館に残っていた銃弾の痕が気になっていた。この時代に如何にヤクザ者でも、そうそう銃器を手にするものではない。
「アイツらは、任侠者の風上に置けん奴らや。喧嘩でも気軽に鉄砲を使うよってな。周りの組からは爪弾きも同然や。まあ、元は三年前の西南ノ役での残兵やゆうことやから、任侠よりも戦争のつもりなんでっしゃろ」
ここだけは三左衛門も苦々しく語った。ヤクザ者でも掟破りの組らしかった。だがそれだと火夏が目撃したヤクザ者の筋と近かった。
「そいつらは弁天埠頭の何処にいる。普段はどのくらいの人数で固めているんだ」
「弁天埠頭手前にある、波除町の積み出し倉庫や。安治川沿いの。まああの辺もあんまりちゃんとした建物が少ないんで、すぐわかるやろ。オモロいことに、近くの賽王寺はんに寺銭はろて、賽王寺分院って看板掛けとるそうや。それで皆、賽王組やって呼んでるんや」
ここで若衆が茶を運んで来た。喋り過ぎたのか、三左衛門は一気に茶で喉を潤した。
だが、火夏はどう賽王組を攻めるかの思案に没頭して自分の茶に気がつかなかった。
三左衛門が「茶飲みいな、勿体ない」とせき立てて、やっとその存在に気がついた。
「それで、人数はどのくらいいるんだ」
そう尋ねながら茶に手を伸ばした。茶渋の色を見て、ふっと真魚が出してくれた白毫銀針茶のことを思い出した。またあの茶を飲みたいと思った。
「まあ、普段はそんなに居てへんやろが、襲撃の時は二十人を下らんかったと聞いた。昼間もいいてるかも知れんよって、夜の方が人数少ないんちゃうか。遣り合うなら夜やろ」
三左衛門が目に怪しい光を浮かべながら嗾けた。火夏はある決心をして立ち上がった。
「親分、話はありがたく受け取った。礼は後日するので今日はこれで失礼する」
結局手にした茶には口を付けず、火夏は座敷を出た。
火夏の予測では、真魚は襲撃してきた賽王組を追って弁天埠頭に行ったに違いない。
そこでやり合ったか、奪われた物を奪還するためにまだ潜んでいるのかは判らない。どちらにしても商館に帰還していないのは、弁天埠頭で動けぬ状況にあると思った。
火夏は松島遊廓の自分の寝グラに急いだ。そこに置く師の形見、暗器クナイを取り出す為である。今宵は久々に戦いの予感がしていた。
火夏が木津組を飛び出して行った後、三左衛門は若頭を呼んだ。急ぎ懇意の組に回状を廻す事と、喧嘩支度を指示した。
「今夜、くるい鳥が賽王組に殴りこみをかけよる。どっちが勝ってもええんやが、両方ともタダでは済まんやろ。特に賽王の奴らはな。くるい鳥がホンマに狂いよったらどないなるか、楽しみなこっちゃ。その手負いの賽王組に喧嘩仕掛けて叩き潰すんや。この三年、目の上のタンコブやった奴ら、この大阪から叩き出したるわ。その旨、他の親分に連絡せえ。くるい鳥が自分から鉄砲ダマになってくれるゆうてな」
三左衛門は内心ほくそ笑んだ。上手くすればこれで賽王組も遊廓の見廻り組も、両方とも始末できると。そして賽王組に人が集まる夜に火夏が仕掛ければ、賽王組の全滅も不可能ではないと思った。絶好の機会が飛び込んで来たと、笑いがこみ上げて仕方なかった。
火夏は夕方から弁天埠頭に来ていた。姿はあまり目立たぬようにと考えたが、結局は昔使っていった薄墨色の併せに、同色の軍袴にした。彼の戦闘服と言ってよい恰好だった。
まだ陽があるうちに賽王組の倉庫を偵察したが、ひと気はなかった。ここに真魚がいるのかどうかは怪しいが、倉庫が見渡せる屋根の上に伏して、人の出入りを観察し続けた。
もう夕陽が大阪湾に落ちようとしていた。
夏も終わりかけだが陽はまだ長く、七時を回ってやっと辺りを薄闇が占めていた。
この時刻になると今日のシノギを終えたヤクザ者が、次第に倉庫に集まり始めていた。
火夏は「夜の方が人は少ない」という三左衛門の嘘を初めから気付いていた。だが、火夏にとっても人が集まった方が都合よかった。一挙に敵を葬れるからだ。
倉庫に入っていく人影の中に知った顔を見つけた。遠く夜の帳も降りていたが、夜鷹の視野にはっきり男の顔が映った。三ヶ月前の夜、尻無川で真魚を襲った男の一人である。
「やはりここで当たりだな」とニヤリとした。
だが、真魚がどこにいるのかが問題だった。
あの真魚が数を頼むとはいえ、ヤクザ者などに負けるとは思えない。まだこの周辺に潜んでいるのかもしれなかった。
それから小一時間ほどして、ふたたびあの男が外に出てきた。倉庫の裏手に回り、小用を足そうとしているらしかった。倉庫の裏はもう安治川に面した土手になっていた。
火夏は闇に同化したまま屋根上を離れた。それは人には感知不能な移動だった。
男が土手上で、気持ち良さそうに小便を放出していた。火夏は背後から男に近付くと、男の腰を横抱えにして河原に飛び降りた。男は「えっ」と、何が起こったのか理解できなかった。宙を飛ぶときまだ小便を放出したままで、水滴が見事な円弧を描いていた。
安治川の河原に背中を叩きつけると同時に口を塞いだ。男は苦痛の声も出せなかった。
火夏の持つクナイが喉に当っていた。
「騒ぐなよ、声を出したら喉を掻っ切る」
火夏が押し殺した静かな声で囁いた。
男は事態を理解できなかったが、それでも身の危険は判った。眼を一杯に見開いたまま頷く様に首を動かした。動かした首がクナイの刃に触れて、薄く皮膚が切れた。一筋の赤い線からじわりと血が滲み始めた。
「ほら動くなって、首を切っちまうぜ」
男は硬直したように全身が固まった。
「それでいい、質問には瞬きで答えろ。はいなら一回、いいえなら二回だ」
男は硬直したまま、瞬きを一回した。
「おまえらは三日前に琉球商館を襲ったな」
瞬きを二回した。火夏は獰猛な肉食獣の表情になり、クナイを少し横に引いた。男の首の皮がパックリと割れ、血が大量に溢れた。
「もう一度聞く、三度目はないぜ」
細かく震える男は慌てて瞬きを一回した。
「商館の男が追って来たはずだ、何処にいる。倉庫の中か」
瞬きを一回した。だがそのとき、男は河原に転がいた石を握って、火夏のコメカミを襲った。火夏には実にゆっくりとした動作に見えたが、敢えて石をコメカミで受けた。
石が頭を打った。
火夏のコメカミからつーっと血が流れ落ちた。火夏は嬉しそうな表情になると、口を抑えていた手を上げると拳に変えた。そのまま顔の真ん中に恐ろしい力で振りおろした。
グシャという音がして、男の顔が壊れた。もう原型がどうだったのか解らない。死んだのか気絶したのか、数度痙攣して男は動かなくなった。
火夏は土手に上がると、倉庫の二階にある明かり取り窓に跳んだ。蜘蛛のように壁にへばり付き、窓から中を伺った。全ては憑神術による異能力である。
倉庫の中では二十人ばかりの男が車座になり、何事か相談していた。真ん中に大きな木箱が置かれ、上に赤い物があった。一人の男が木箱に近づき、その赤い物を手にした。
「さて、この珊瑚をどないすんかだ。手取り早う売っちまいたいが、こんだけ仰山あると買い手もややこしい。時間を掛けたいが、こいつみたいな追手が来てもめんどいしな」
手に持った珊瑚を倉庫隅に作られた臨時の檻に投げつけた。火夏が覗く窓からは見えない位置だったが、その檻から声がした。それは龍真魚の懐かしい声だった。
「大事に扱ってくださいよ。カケラでもあなたがひと月は食べられる価値ですからね」
檻の中からにしては不敵な声だった。真魚は賽王組の虜になっていた。されたのか、自らなったかは別にして。
「わたしも正直、売り先には悩んでいました。何か良いお知恵があったら教えていただきたい。お互い、表立って売り買いできない境遇は同じですからねぇ」
真魚の奴、賽王組をおちょくってやがると火夏は直感した。多分奪われたお宝、木箱に入った珊瑚の在り処を見つけるために、自ら虜になったのだろう。ならば脱出の方法も既に考えているはずだと思った。
火夏は自分が来ていることを知らせようと考えた。真魚は気を感じ取る。初めて会ったときも、闇走りで隠れた火夏の気を感知していた。今回はその逆をすることにした。ここで闘気を発して、真魚に感じ取らせるのである。
火夏は壁に張り付いたまま、闘気を放った。真魚よりも早く水鳥がそれを感じ取った。安治川から多くの水鳥が一斉に闇夜へ飛び立った。
水鳥が飛び立った後、ちょっと沈黙していた真魚が、驚いたように叫んだ。
「あれ、こんなとこに夏鳥がいるなんて、どうしてですか。ちょっと季節外れですよ」
賽王組の男たちは真魚が何をいい出だしたのか理解できなかった。だが真魚は続けた。
「まあ来てくれたなら協力お願いしますね。明かりが消えたら合図ですよ」
真魚は後ろ手に縛られた縄から、手首の関節をずらせて手を抜いていった。そして隠し持った小さな真鍮の玉を指弾で撃った。目標は倉庫の四隅に吊されていたランプである。
「ガチャ」「ガチャ」「ガチャ「ガチャ」
四つの破壊音とともに倉庫が闇に包まれた。
同時に二階の明かり取り窓を破って、火夏が倉庫内に飛び込んだ。
火夏は暗闇の中、先ずは木箱に一番近い男を回し蹴りで跳ねとばした。続いて猿飛で木箱の三方にいた男を同時に叩き伏せる。ほんの二、三秒で、四人の男が地に伏していた。
その間に真魚は檻を蹴破った。そして檻近くに陣取っていた男二人を昏倒させていた。首筋の経絡を手刀で軽く叩いたのである。それで意識が飛んでいた。
暗闇の中で騒然とする男たちを縫って、火夏が陣取る木箱の側に走った。
賽王組の男たちは木箱から距離をとり、それ以上二人に近寄ろうとしなかった。やがて隣の部屋から持ってきたランプと松明をかざした。倉庫の中に再び明かりが蘇った。
倉庫の中に二人を囲む十数人の男と、倒れた六人が照らされた。さらに別の部屋から六人の軍服姿の兵士が、スペンサー銃を持って倉庫に走り込んできた。この男たちはヤクザ者と違い、統率の取れた機敏な動きだった。
「なるほど、西南の役の残兵か」
火夏は三左衛門の言葉を思い出した。真魚はえっといいながら、兵士たちを凝視した。
武装は兵士六人がスペンサー銃、他に隣の部屋から駆け込んで来たヤクザ者四人が、回転式拳銃を構えていた。
「どうしますか、予想以上に銃が多いですね。わたしは一度に四人が精一杯かなぁ」
真魚はポケットにある真鍮の球を数えた。二丁の銃は指弾で潰せるが、その後どうするか。縮地を使ってもあと二人が限度だと思った。
しかし真魚は気楽に、後は火夏が何とかしてくれるだろうと考えた。不思議と火夏の強さに絶大な信頼感があった。
火夏は猿飛で銃兵四人は倒せるとふんだ。それでも二人の銃兵は残る。二丁の銃弾なら憑神術の再生力で自分は平気だろうが、真魚に当たれば致命傷になりかねなかった。
火夏は憑神術の副次効果で、多少の傷ならすぐに再生できた。体内に宿る憑霊たちが宿主の肉体を守る為に、傷を負えば猛烈な再生力を発揮するのである。火夏に深い手傷を負わせた者はまだ弟弟子犬丸だけだったが、数発程の弾丸なら支障はないはずだった。
スペンサー銃を構えた銃兵六人はひと塊になっている。一撃では無理だが、二、三撃でなら潰せるだろう。その間の銃口を自分が引き受ければ、真魚に危険を及ばせないで済むと考えた。だがそうなると、相手を殺さないよう手加減はできそうになかった。
「おい拳銃は任せる。銃兵は俺がやるが、なるべく射線に入るなよ」
ボソッと、真魚だけに聞こえる声で呟やいた。真魚も頷き、標的との距離を計った。遠い二人は指弾で攻撃し、近い二人を縮地で瞬殺する。
銃兵は銃を構えながらも発砲を躊躇していた。命令する上官がいなかったのだ。火夏が最初に倒した木箱横の男が、銃兵たちの上官だった。
その躊躇が命取りになった。
火夏が倉庫中に轟く凄まじい闘気を発した。純粋な戦闘意思の咆哮である。獣の闘気の波長は気など感じられなくても、その場の人間の心を縮み上がらせた。
倉庫中の男が一瞬怯んだとき、真魚は冷静に指弾を二発撃った。真鍮の球が二丁の拳銃を彈き落とす前に、縮地で左の男の前に出現した。拳銃を手刀で叩き落すと、そのまま右後方の男に向かって猿飛を跳んだ。
火夏は横目でそれを見た時、「猿飛を盗みやがった」と驚いた。
縮地は速いが、前方三十度ぐらいの範囲にしか使えない。だが真魚は後方へ、縮地に負けぬ速さで跳んでいた。それは紛れもなく猿飛の跳躍だった。
真魚が仕事を終えようとしたとき、おもむろに火夏が宙を飛んだ。それは実にゆっくりとした動きで、銃兵に照準を自分に合わせさせるよう隙をつくっていた。
六人の銃兵が誘われるように、火夏の姿に全銃口を向けた。
「それでいい」と火夏は思った。
引き金が引かれようとした一瞬、宙空の火夏が突如加速した。宙空に足場になるような物は何もなかった。だが次の瞬間、加速した火夏は銃口の前に体を晒すように出現した。
体を一回転させる真魚の旋風脚で、四丁の銃口を一撃で薙ぎ払った。だが、左右両側の遠いスペンサー銃には旋風脚が届いていなかった。
両側の銃兵が内側に銃口を振り向けざま、二発ずつ速射した。これは訓練された兵の銃さばきだった。スペンサー銃は当時としては珍しい七連発銃で、連続射撃が可能だった。
火夏は両側から四発の発砲を受け、その内二発が脇腹と背に命中した。
だが銃弾は火夏を止めなかった。
着地と同時に、縮地で左にいる銃兵を急襲した。火夏の手刀が銃兵の持つスペンサー銃を両断した。人の手刀が鋼鉄の長銃を斬ったのだ。
誰もが、あっと思った。
ひとり右側に残った銃兵は、残弾を見事な手捌きで火夏に向かって撃った。
火夏の背中三箇所に新たな着弾痕が出現した。先の銃弾と合わせて五発が打ち込まれたことになる。火夏の身体が血に染まろうとしていた。
右側の銃兵は銃弾を撃ち尽くすと、吊るした予備の弾薬盒から素早く次弾を装填しようとした。弾薬盒には新たな七発の銃弾が装填できるチューブが入っていた。
よく訓練された手際良い再装填だった。火夏はゆっくり近づくと、スペンサー銃を蹴り上げた。そして高々と蹴り上げた足をそのまま銃兵の頭に落していった。
踵落としと呼ばれる技だった。
倉庫の中は呆気に取られたように、静まり返った。たった二人の素手の男に、銃十丁が勝てなかったのである。
「まだやるか、ここからは本当にぶち殺す」
そう叫びながら、起き上がりかけていた最初に旋風脚で薙倒した四人の銃兵を、見事な型の一撃ずつで葬っていった。その攻撃は毎朝真魚が行う演武に似ていた。
「この男化け物だ、とても勝てない」
そこにいる全員がそう恐怖した。そして誰かが恐慌を起こした。
「うわーっ」という叫び声とともに、倉庫から外に飛び出して行った。
恐怖は瞬時に伝染した。残りの男たちも恐慌に駆られ、我先に逃げ出し始めた。賽王組の精神的支柱である大量の銃器が敗北した今、恐怖を押し留めるものは何もなかった。
二人に打ち倒された男以外、全員が倉庫から外に逃げ出していった。
血に染まった火夏を不思議そうに見ながら、真魚が近づいて来た。
「まさかとは思いますが、それだけ撃たれて大丈夫なんですか」
火夏はまだ意識がある賽王組の男たちをひとりずつ蹴飛ばして、昏倒させていった。
「まあ大した事はない。直ぐに弾丸も押し出されるだろう」
そういうと、最初に撃たれた脇腹を見せた。血は既に止まり、銃創に薔薇色の肉が盛り上がり始めていた。
「火夏さんは秘密持ちだとは思ってましたが、本当はやっぱりぶながやーなんでしょう?」
呆れたような真魚の呟きに、火夏が尋ねた。
「前にもそんなことをいっていたが、ぶながやーってのは何なんだ」
「ぶながやーは琉球にいる神であり精霊ですよ。神出鬼没で、幸運をもたらしてくれる善き精霊です。まるで今日の火夏さん、そのまんまじゃないですか」
火夏はふと、自分に憑神する鬼神の事を思った。三年前に土佐室戸岬の御厨人窟で喰った最後の憑霊である。空海が封じた明星神の護鬼と聞いたが、本当は琉球の精霊かもしれないなと思った。いや、むしろそうであれば良いと思った。
真魚は倉庫に残された木箱の中味を確認すると、安堵したように蓋を閉じた。
そして今度は火夏に抗議を始めた。
「ですが、随分とわたしの技を盗んでくれましたね。縮地に旋風脚、それに演武まで。このお代は高く付きますよ」
いいながら真魚は笑っていた。
「おまえとて猿飛を盗んだではないか。それでアイコだ。しかし良く三ヶ月ほどで学べたものだ。俺でも最初は三年以上かかったのだぞ」
「それは縮地も同じですよ。私は修得するまで五年はかかりましたから。それより宙空で突如加速したのは縮地ですか? あんな事は縮地には無理ですが……」
火夏は血みどろの姿で初めて笑った。
「それは秘密だ。今度おまえとやるときの取って置きだからな」
火夏は真魚を促して残された銃器を集めた。
「それでどうする、その珊瑚を持ち帰るのか」
真魚は少し思い悩んだ。持ち帰れば再び襲われる危険も生まれる。
「こんな事、火夏さんに頼むべきではないのですが、何処かに隠し場所はありませんか。また商館が襲われて、怪我人が出たら困ります。珊瑚の売り先が決まるまで隠したいのです。ただ訳は……」
理由はいえなかった。真魚のためにヤクザ者の銃弾を五発も受けた火夏だが、それと珊瑚の秘密は別だった。
「訳など別に構わんさ。こいつを隠して、売り飛ばせばいいんだろう。俺に心当たりがある、任せてくれるならな。だが一つ礼が欲しい」
真魚は「礼?」と訝しげに繰り返した。まだ三ヶ月ほどの付き合いだが、何かを欲しがる男には思えなかった。
「わたしにできる事でしたら……、ただ金はありませんよ」
金品でないことは予想できたが、一応の念は押してみた。
「金など必要なら、ある奴からむしれば良い。俺は商館で飲んだ、あの茶が飲みたいんだ。銀の針のような葉が入ったやつだよ」
火夏はそういい、集めた銃器を木箱の上に積んだ。隅に転がっていた帆布で覆った。
「ああ、白毫銀針茶のことですか」と、真魚は拍子抜けしたように頷いた。
二人は荷車に木箱と銃器を載せると、外を警戒しながら倉庫を出た。逃げた賽王組が戻ってきたらまた面倒になる。二人は荷車と一緒に闇の中に消えて行った。
後で知ることになるが、その頃逃げだした賽王組の男たちは、待ち伏せしていた木津組などに狩られている最中だった。倉庫から逃げた男たちを待ち構え、辻々で打ち取っていった。賽王組は敵が誰かも分からぬまま、ひとりまたひとりと数を減らし、全滅に近くなっていた。その後に木津組は倉庫にも踏み込み、倒れた男たちを始末したのだった。
結果として木津屋三左衛門の思惑は的中した。新興の賽王組を壊滅することができたのである。だがそれは火夏にとっても好都合だった。自分が暴れた後始末をしてくれたようなものだからだ。
その夜、見廻り時間が過ぎた頃を見計って、二人は荷車を松島遊廓の大門の中に入れた。覗いた番小屋には平吉がひとりでいた。
「平吉爺、すまぬが客の預かり物を頼みたい。外の荷を廓の倉庫に置きたいのだ」
火夏の姿を見た平吉は、一瞬眉をひそめた。銃弾で破れた着物に、黒く血で染まった格好だったからである。だが一切動揺は外に見せなかった。
「お客さまとはそちらの旦さんで」
平吉は丁寧に真魚に向かい辞儀をした。
「それでお泊りはどちらの廓でっしゃろ。急ぎ店の者を呼びまっさかいに」
まだ何処とも決めてないと火夏がいうと、「ほんなら松月楼にしまひょ。大楼の方がいろいろと融通も効きまっさかいな」と、含んだいい方をした。
遊廓に「訳あり」が来るのはままある事である。平吉はその辺りをよく心得ていた。
夜遅く、真魚は松月楼に登楼した。実は真魚は遊廓が初めてだった。時間が遅いので遊女は呼ばなかったが、飯と風呂をつかった。そして三日振りに布団の上で眠った。
火夏は賽王組で奪った銃を処分するよう平吉に渡した。平吉は何かいいたそうにした。
「壊して捨ていうんでっか、それとも何処かに引き取ってもらえと」
「どっちでもいい。引き取り手があれば金に変えろ。平吉爺への駄賃だ」
「へえ、ありがとさんです。後……鳥どの、その着物は替えなはれ。出入り帰りやいうて、宣伝しとるようなもんや」
火夏は改めて自分の姿を見て、はじめて頭を掻いた。素直にそうすると頷いた。そして平吉にひとつ質問をした。
「近々、松島にお大尽がくる予定はないか。できれば肝の太い奴がいい」
また変なことをいうと思ったが、根が生真面目な平吉はしばらく考えて答えた。
「明後日あたりに、鴻池の大旦那はんと五代様がおってはると聴いとります。何でも松島座の歌舞伎見物帰りのお立ち寄りやらと」
世情に疎い火夏は二人を知らなかった。
「そいつらは金持ちか」
平吉は思わず苦笑した。そんな質問を大阪でする人間が居るとは信じられなかった。
「鴻池の旦那はんはまあ大阪一、いや日本一のお大尽さまで。五代様は元薩摩のお武家どすが、今は大阪商人の総元締をされてん方やら。金子も仰山こと持ってはる思います」
「よし、その辺りで手を打とう。二人が来たら座敷に挨拶に出たい。何とかならないか」
またとんでもない事をいいだすと、平吉は呆れた。会いたいからといって、すぐに会えるような人物ではない。
だがどんな事でも真摯に取り合うのが、平吉が信頼される理由である。平吉は一晩考えてある策を提案した。それは松島座に掛かる歌舞伎「昔桃太郎」を利用した座興だった。
大阪一の豪商、鴻池家の主人はその名を代々「鴻池善右衛門」と名乗った。今の主人は十代目だ。元々両替商の鴻池家は大阪に第十三銀行を作り善右衛門はその頭取になっている。
また五代友厚は薩摩藩生まれの武士だったが、早くから外交貿易に目覚める。明治維新後は外国事務掛や大阪府判事となった。明治二年に退官し、以後大坂経済の復興と、制度づくりに奔走している。大阪経済界の大立者といってよかった。
二人が松島遊廓一の大楼、松月楼に上がったのは暗くなってからだった。だが賓の登楼に廓は沸いていた。普段より多くの提灯や行燈を並べ、華やかな演出をした。二人が大座敷に入ると、脇を花魁や禿が占めた。そして芸人の座興と酒盛りが始まった。
五代友厚は薩摩人らしく酒が強い。鴻池善右衛門は豪商よりも公家に近い風貌で酒も量は飲まなかった。ただ二人とも芸事が好きで、今日観た歌舞伎の話に花を咲かせていた。
「鴈治郎はよろしおすたなぁ。見事な芸やった。やっぱり翫雀の跡は鴈治郎はんやな」
「そうでしたな。私は面白い演目が好きですが、昔桃太郎は本も良い。あれなら存分に鴈治郎の芸が楽しめた」
二人は今日の歌舞伎見物に満足しているようだった。しばらく座が盛り上がっているところに松月楼の楼主が挨拶に現われた。
「本日はご登楼おおきにでございます。松島座の歌舞伎見物もご満足のようで、よろしおました。今宵の酒宴も精一杯と勤めさせていただきます」
杯のやりとりをしているとき、ふっと思い出したように楼主が語り始めた。
「鴈治郎の昔桃太郎もよろしおますけど、そういえば松月楼に今桃太郎はんが登楼しておられます。鬼ヶ島から戻られたばかりやいうことで、仰山ことお宝も持ってはりますわ」
何げなくを装って投げた言葉だが、善右衛門がそれを気に留めた。
「アホなこというな、御伽話やないか。ほんまに桃太郎がいてるなんて誰が信じる」
「いえいえ、ほんまの話です。鬼の金棒やらお宝も見せて頂きました。何でしたら旦那様方にもお見せいたしまひょうか」
ポカンとする善右衛門を尻目に、楼主は襖向こうに控える若衆に「あれ、持っておいで」と声を掛けた。
事の成り行きを面白そうに見ていた五代だったが、若衆が持ち込んだ鬼の金棒とお宝なるものを見て、一瞬ぎょっとした。それは七連発式のスペンサー銃五丁と拳銃四丁、さらには木箱一杯に盛られた見事な珊瑚の山だった。
主賓二人の前に積まれた珊瑚と、その背後に置かれた銃器の山。善右衛門は唖然としてそれらを交互に見ていた。五代はその品々を冷静に観察し値踏みし始めていた。
五代は幕末、薩摩藩の武器買い付け役をしていたので銃器に詳しかった。ましてや日本には珍しいスペンサー銃である。それがどういう意味を持つのか推察していた。
「きょうびの鬼も文明開化の影響か、金棒やのうてこないな不粋なもん使いはるとか。そやけどこの珊瑚は見事でっしゃろ。ナンボのもんやら、わてらみたいな者には想像もつきまへん。ぜひ旦那様方に値付けして頂きたいゆう、桃太郎はんからのお願いでおます」
そういうと、楼主は二人に向かって深々と平伏をした。それに続くように座敷にいる花魁、禿、芸人たち全員が一斉に平伏をした。
「おかしな具合やな、こっちが知らん間に舞台へ上げられたみたいや。まぁよろし、今日は鴈治郎はんの芸に免じて、この座興に乗りましょ。宜しいか五代はん」
隣の五代は黙って頷いた。
「そやけど、わては珊瑚の価値などようわからん。その桃太郎はんにお宝の謂れでも聞かせて貰いまひょうか」
楼主は、やっと肩の荷を降ろしたように表情を和らげた。そして廊下へ声をかけた。
「桃太郎はん、御家来の鳥丸はん。お許しが出ましたよって、こちらにおいでなさい」
大座敷の入口から真魚と火夏が入って来た。
主賓二人と、珊瑚と銃を挟んで端座した。
「ほお、なかなかええ男やないか。それに気品がある。そっちが家来の鳥丸か。これはまた凶々しいが強そうやな。桃太郎いうよりも義経と弁慶やな」
善右衛門は面白そうにふたりを評した。
「それで、どこでこのお宝を得たんや。鬼ヶ島から奪って来たか」
この問いに初めて真魚が答えた。
「これは鬼ヶ島の宝ではありません。元は我ら一族の御先祖が、未来の子孫に遺された宝物です。しかし魍魎跋扈するこの大阪の地で、悪鬼どもに奪われました。それを先日、この鳥丸殿のご助力で奪還した次第」
「お供に犬と猿はおらんのかいな」
善右衛門が茶々を入れた。これには火夏が嬉しそうに答えた。
「犬は我が弟犬丸、猿は我が師白猿と申します。訳あってここにはおりませぬ。此度はこの鳥丸と桃太郎殿のみにて鬼退治いたしました」
二人の言葉に頷いていた五代が、ここで初めて真魚に質問した。
「桃太郎殿、お名前を聞いてもよろしいか。本当のお名を」
この言葉に、真魚に緊張が走った。
「桃太郎のままではいけませぬか。わたしはこの珊瑚を売却したいだけなのです」
「だから余計に聞きたいのだ。この珊瑚、琉球産とお見受けする。だがこれだけ大量で上質の珊瑚ともなると生半可な商人では売り買いできますまい。まるで王家所有の宝物のようだ」
五代は言葉を続けた。
「それにそこの銃はスペンサー銃という、アメリカの騎乗銃だね。先の西南の役で近衛砲兵大隊が正式採用していたと聞く銃だ。そこいらで手に入る銃ではない。とすると鬼は西南ノ役の残兵ですかな。最近は大阪でも兵士崩れが徒党を組んでいると聞きましたからな」
五代はこの二つの品から、これだけの事を推察していた。並の眼力ではなかった。
真魚は少し迷ったが名を名乗った。名を聞いた五代はしばらく記憶を溯っていた。
「龍真魚殿ですか……確か龍家は琉球王家に連なる宮家、国頭家の末流だったと覚えています。その龍家の御子息が護る宝は、国頭御殿の秘宝と思って間違いありませんかな。それならばこの上質の珊瑚にも納得がいく」
真魚以外、その場にいる誰一人五代の言葉の意味が理解できなかった。
「五代はん、どういうこっちゃ。それにえらい琉球に詳しおすな」
善右衛門が全員の疑問を代弁して尋ねた。
「いえ昔の事ですが、我が父は薩摩藩の琉球交易係をしておりました。それで幼い頃より、琉球の文物、事情に親しんでいたのです。それに私自身薩摩藩では交易係でしたから、琉球産の珊瑚や文物も扱いました。そこのスペンサー銃も長崎グラバー商会から買い付け交渉をしたことがありますよ。それに国頭宮家の長、一五世国頭王子正秀様とお目にかかった事もあります。そのときの護衛役が確か龍家の方だったと覚えています」
滔々とした言葉に真魚は言葉を失った。五代には誤魔化しが通じないと思った。
「なるほど、事情は大体察しが着いた。それで幾らでこれを売りたいのだね。いや、宮家が清国へ渡るのに幾ら必要なのかと訊くべきかな」
五代は真魚の抱える役目をおおよそ見抜いていた。国頭御殿の秘宝を売るのである、目的は国頭宮家の清国亡命しかなかった。
このあたりの事情を説明するように、五代は現在琉球が置かれている状況を皆に語った。
琉球は元々一四二九年に尚氏が琉球王国として纏めた独立王国だった。しかし小国である。否応なしに周辺の大国、清や日本などへの従属から逃れられなかった。
一六〇九年に薩摩藩の琉球侵攻があり、江戸時代は薩摩藩の付庸国となっていた。だが同時に清に対して朝貢をする冊封国でもある。両属を承認させる絶妙の外交をしていた。
日本が明治維新を成し遂げると、日本への単一帰属を求められた。そして今年初頭、琉球を日本内国化するため琉球藩廃止という「琉球処分」が行われた。
五代はここで私見を述べた。
「この処分に反抗する琉球人も多いだろう。特に王族や琉球士族には不満があるようだ。宮古島では在地士族による武装抵抗事件が起こり、死傷者も出たと聞く。そうした人びとが制約のない清国への亡命を求めて、琉球を後にしているらしい。大阪の琉球租界にも多くの琉球人が流れ込んでいるとも聞いた。彼らの目的は神戸から上海に出ている定期航路で、清国へ逃れることなのだろう。無論、明治政府が政治亡命を認めることはない。もし亡命計画が発覚すれば、東京か沖縄に送られ収監されることになろう」
真魚は五代の私見に驚いた。市井の倭人にこれほど琉球の事情に通じている者がいることが信じられなかった。だがここで怯むわけにはいかなかった。
「珊瑚は三十貫(約100kg)程あります。それを三万円でお買い取り願いたい」
善右衛門や楼主、花魁、禿に至るまで、その金額に全員が息を飲んだ。三万円は明治五年に琉球王国を藩にする為に、日本政府が尚王家に下賜した金額と同額だった。今の金額で考えると十億円を超えるだろう。
しばらく考えこんでいた五代は、真魚ではなくこの場の全員にいった。
「これから話すことは、決して口外されぬ事をお願いする。もし口外すれば大阪には居られぬとお思いくだされ。この五代だけでなく、そこに控える鳥丸殿、当地で名高い喧嘩師くるい鳥殿の誅殺も降るでしょう。鳥丸殿、口封じの仕事引き受けて頂けるな。桃太郎殿の安全の為ですから」
五代は火夏の正体を見抜いていた。
座敷にいる全員が頷いた。
「ではお答えする、龍殿。国頭宮家の宝物珊瑚を三万円で買い取りいたそう。だが全てを現金ではない。半分の一万五千円を現金、もう半分は上海へ行ける船一隻ではいかがか」
真魚の役目は珊瑚の売却もあるが、同時に上海への船便の手配もあった。考えようでは、こちらの役目の方が現状では困難だった。五代はそれを見抜いていた。
「本当ですか。上海行きの船一隻というのは」
真魚はゆっくり確認するようにいった。
「百人は乗れるだろう。私は堂島の製藍所、朝陽館で藍を作り、清国やアメリカと輸出入もしている。その貿易船を一隻用意しよう。ちょうど二週間後に神戸港より上海に行く予定の船がある。それでもよろしいかな」
真魚はじっと五代の顔を見ていた。もし偽りの影があればここで殺すつもりでいた。ここまで国頭宮家の事情を知られてしまったからには、必要な覚悟だった。
「なぜそこまでしてくださるのです。国頭宮家とはご縁があるかも知れないが、国に背くほどではありますまい」
真魚は五代の真意を探るように問うた。
五代ははにかんだような笑顔を作った。
「いや、背くほどなのだよ。それは何故私が維新後、官を辞したかにも関係するが。私は昔西洋を学んだが、そこに近づくにはこの国は後百年かかると思った。それなのに新政府は権力争い、利権漁りばかり。それで官界ではなく、まず民を豊かにする経済を選んだのだ。だから私の現在の行動は、百年後のこの国の民に共感されれば良いと思っておる。今の政府におもねる気持はサラサラない。それに……」
ここまでいって、五代は自分の席を立った。そして真魚の前に来て座りこんだ。
「それに、私は龍殿に謝りたい。今回の政府の琉球処分のこと、いやそれ以前の薩摩藩による琉球支配も。私は琉球を良く知るだけに、それがいかに苛酷であったかもわかっている。琉球の人々に亡命を考えさせる程、今回の琉球処分が不当かということもね。これは一国を消滅させるのと同じだ。かつて西欧列強が日本に対し行った不法を、今回は日本が琉球に行ったのだ」
五代は目に薄っすらと涙を浮かべていた。
「私は西欧の『自主独立』の精神が大切だと考えている。大阪が好きなのは、この地の人々は皆、自主独立が身に付いているからだ。琉球もぜひそうあるべきだと思っている。だから彼の地で琉球が今後何をなすべきか、宮家の方々にお考え頂きたい。その為に清国行きの手助けもするのだよ」
そう語り、真魚に深々と頭を下げた。五代の思わぬ告白に皆が唖然とし、同時に心を打たれていた。浪速人は生来判官贔屓である。ときの権勢に靡かぬ者を称賛する。
「よろしおます、現金一万五千円はウチで持ちまひょ。舞台のええとこ独り占めされてもかなわんしなぁ。五代はん、珊瑚はどこぞで高こう売っておくんなはれ」
どこか鷹揚で、半分寝ぼけたような善右衛門の声が場を和ませた。長者の徳といえた。
「それにや、これでこの善右衛門も五代はん、桃太郎はんのお仲間や。もしこの事口外すれば、鴻池も敵にすると思いなはれ」
それは静かな恫喝だった。二百年間大阪を牛耳ってきた豪商の言葉である。この地で鴻池に睨まれるとは、社会的死刑宣告と同じだった。
「龍殿、明日の夜にでも靭町の拙宅においでいただきたい。詳しいお話をしよう。それと私も今思い付いたのだが、貴殿は藍染の着物をきているな。確か国頭は藍の産地でもあったと思うが、藍染には詳しいかな」
真魚は頷いた。藍作りは琉球でも盛んな産業のひとつだった。
「良いぞ。では龍殿、上海に渡ったあと朝陽館の使者として天竺まで行ってくださらんか。天竺の鬼ヶ島の偵察にな。これも桃太郎のお役目、未来の琉球の自主独立の為じゃ」
五代の突拍子もない言葉に、座敷中が戸惑った。だが五代一人が自分の会心の思い付きに得心したように、大声を上げて笑い出していた。
真魚はその翌夜、琉球商館主の国頭老人をともなって五代の邸宅を訪たらしい。
だがそこで取り決められた事を火夏には告げなかった。火夏もまた聞かなかった。
ただ、その二日後に国頭老人からの招待状を受け取った。一服の茶を献じたいとだけあった。真魚が火夏への礼として、白毫銀針茶の事を憶えていたからだった。
訪れた琉球商館には三人の人物が待っていた。龍真魚、国頭老人、そして若い娘である。席ではこの若い娘が一番上座に坐して、火夏に対して真魚への助力の礼を述べた。
この娘こそ国頭宮家の姫君、嶺寧姫だった。真魚は本来この姫君の護衛役だったのである。琉球より大阪へ、そしてこれから上海への道程を守護する役目だった。
だが火夏にはそんなことはどうでも良かった。琉球人たちと飲む茶が実に美味かったのだ。琉球の事、火夏の育った土佐の事などを嶺寧姫と語っていると、互いに知らぬ事ばかりで楽しかった。それに幼い感じがする姫君が、意外に賢く聡明な事に驚いた。
会話の合間に真魚の見せるハニカミも、火夏は見逃さなかった。
「こいつ、姫君に惚れてるな」
直感だったが、外れてはいまいと思った。そういえば松月楼にいた三日間、真魚は一度も遊女を呼ばなかったらしい。平吉爺が「琉球の若衆は固い」と、感心していたという。
「固いのではない、他の女が目に入らぬのだ」と火夏はふたりを見ながら思った。
真魚が桁外れに強い秘密も想像した。いかに武術が優れていようとも、実戦はまた別である。恐怖心があれば技も思うように操れない。銃口に晒されれば、普通は一瞬でも萎縮するものである。
だが真魚はまったく恐怖を忘れたように戦い続けていた。それは恐怖心がないのではなく、姫君に既に命を捧げているからだと思った。だから自分の生き死にには執着がない。姫君の護衛をしている限り、真魚は無敵かもしれない。
だがその無敵ももうすぐ終わるらしかった。
「五代さんから、インドへの視察を依頼されました。何でもインド産の藍『インディゴ』は安価で質が良いらしい。それを研究して日本へ、いや琉球に持ち帰れとの命です。この商館も上海に移り、他の貿易品が軌道に乗るまで朝陽館の藍を商うことになりましたから断れません。インドは英国の植民地ですが、各地方は地元の藩王(マハラジャ)が支配して危険な所も多いとのことです。ですから私の様な戦える桃太郎を探していたのだと」
真魚が上海で護衛の任を離れることに、嶺寧姫は不安そうだった。ここまで命懸けで護ってくれた男である。嶺寧姫もどこか密かに真魚を思っているのかも知れなかった。
「火夏さんの傷はもう治りましたか。大丈夫なら明朝からでも修錬を再開したいのです。時間はあと少ししかありませんが、我らの新しい拳法を完成させましょう」
「新しい拳法?」
火夏は真魚の言葉を怪訝に感じた。
「だってそうじゃありませんか。弁天埠頭倉庫の戦いで私は猿飛もどきを使ったし、火夏さんは旋風脚や不思議な縮地を使っていました。これはもうティーではないし、火夏さんの陰陽拳でもありません。我らだけの拳法です」
言われてみればその通りだが、新しい拳法というのは火夏の想像力にはなかった。
「それできっと弟弟子の犬丸さんにも勝てますよ。元々それが修錬の目的なんですから」
「そうだな、おまえも兄弟子に勝てるかもしれんしな」
火夏の言葉に、国頭老人と嶺寧姫がハッとして真魚を見た。それは触れてはならない話という様子である。二人に対して大丈夫ですよと真魚は会釈した。
「火夏さんにはいってませんでしたが、わたしの兄弟子であり、実兄でもある頌栄は今年の初めに死にました。兄は琉球王尚泰の護衛役だったのですが、王が東京に連れ去られるのを阻止しようとして、倭人の軍隊に撃たれたのです。五人までは縮地で倒したと聞きましたが、その後銃で。火夏さんのように不死身なら良かったんですけどね」
火夏はもうひとつ、真魚が銃に怯まない理由を垣間見た気がした。銃は兄の仇だったのだ。それで銃にも勝てる拳法を望んでいるのかもしれないと思った。
「でも勘違いしないでくださいね。わたしの求めるのは復讐の拳ではありませんから。寧ろ兄の果たせなかった夢を叶える拳を探しているのです。琉球の蒼き海をも超えるような希望の拳をね。火夏さんと修錬していて、それがよく分かりました。火夏さんの拳が天衣無縫なのは、純粋に夢を追いかけているからです。犬丸さんと戦うという純粋な夢を」
「ざんむけん」
火夏が一言いった。
「残夢拳」
真魚はその言葉を繰り返しながら、テーブル上に指でその文字をしたためた。
「いい響きですね。人間はどんな運命になっても、最後の最後まで心の底には夢が残っています。兄もそうだったと思います。その夢を護り、勝ち取る拳を我らで作りましょう」
火夏は真魚を改めて良い男だと思った。
火夏は最初「斬夢拳」のつもりでいったのだ。人の儚い夢を斬る拳。だが真魚の良き心はそれさえも呑み込んで、「残夢拳」と書き換えた。
ふっと弁天埠頭倉庫で真魚が語った「善き精霊ぶながやー」とは、真魚自身の事ではないのかと思った。きっと真魚の操る残夢拳こそ、精霊ぶながやーの善き拳になるのだろう。そして同時に、とても自分は善き精霊にはなれないと思った。
翌朝から尻無川の河原で、残夢拳の修錬が始まった。今度はそれぞれの修錬はない。互いに自分の考えた技の連続を見せ合った。そして欠点を指摘した。粗削りの技が、徐々に洗練度を増していった。
火夏にとっても、真魚にとっても、宝石のように貴重で美しい時間だった。永遠にこの時間が続けばよいと、二人とも心の奥底では思っていた。だがそれを口にはしなかった。
やがて二週間が過ぎ、明日は上海へ旅立つという朝が来た。この朝が最後の修錬である。すでに晩夏の川風が気持ち良く感じられていた。二人はこれまでの技の確認をした。そして最初で最後の真剣な手合わせをしようとしていた。
次はもう無い。
その想いを二人は共有していた。想いは拳に込めるしか残された会話方法はなかった。
三間程の距離を取って、二人は対峙した。普段なら火夏はすぐに動いて「動対動」の関係に持ち込む。それは火夏の拳の基本が、動き変化しながらの連続技だからである。
だが今はその機を逸していた。真魚の得意な「静対静」の局面になっていた。真魚の拳の特性は「静から動」への一瞬の変化にあった。静止状態から極限の速さに転ずる技、それが縮地である。対峙する人間はその速度変化に付いていけず姿を見失うのだ。
「まあよい、おれも縮地は使える。それも取って置きをな」
火夏はえもいわれぬ快感を感じていた。真魚の得意な状態から打ち勝つ。その想像に興奮した。だが思いは真魚も同じだった。動対動の戦いで火夏を上回る。その戦いを想定して、取って置きの技を用意していた。
二人は残夢拳を共に構築しようとしながらも、究極の一撃を隠し持っていた。それは武術家の本能とも宿痾ともいえた。
真魚は「静からの動」への瞬間が命なので先には仕掛けない。相手を先に動かせ、「後の先」を取るのが最も効果的だからだ。
だが今回は違った。軽くステップを踏むと、いきなり左へ跳んだ。
「猿飛」と思った瞬間、火夏は縮地で前に出た。そして最初の折り返しの前に、真魚を捕らえようとした。四ヶ月前、二人が初めて出会ったときの攻防が逆転されていた。
「真魚の前面を制した」と、火夏が思った瞬間に真魚はそこに居なかった。
瞬時に危険を感じた火夏は、今度は後方に猿飛で跳んだ。そして着地と同時に、右か左に更に跳ぶつもりだった。ここで止まったら真魚の術中にはまると直感していた。
後方に着地した瞬間、すぐ下の大地から掌底が迫り上がって来た。突如大地から生えて来たような避け難い感覚だった。
しかも速い。四ヶ月前に真魚が放った緩い掌底とは段違いの速さをもっていた。
躱せないと思った瞬間に、火夏は縮地で天に跳んだ。迫り上がる掌底よりも速く身体を浮かせると、正拳を掌底にぶつけた。その掌底を跳躍点に、腕の力だけで左に大きく跳んだ。
横目で元の場所を見ると、真魚が次の旋風脚のために身体を半回転していた。もし逃げずに掌底を防御していたら、直後に旋風脚を喰らっていただろう。掌底は火夏をそこに留めるための囮だった。
左側に着地した火夏は、さらに後方に距離を取った。真魚も旋風脚が不発に終わったので、それ以上詰めて来なかった。今度は五間ほどの距離で膠着していた。
「どうやって俺の縮地を外した」
その疑問が火夏の心を占めた。
最初に真魚が左へ跳んだとき、捕えられたはずだった。だが真魚はそこに居なかった。俺の縮地よりも真魚の猿飛の方が速いのかと、苦い思いを感じていた。
真魚も完璧な攻撃をしたと思っていた。だが火夏を捕らえきれなかった。予想外だったのは、上への縮地と掌底を跳躍点にされた事だった。
「この人は本当に鳥のように立体に動く」
改めて憑神術の恐ろしさを感じていた。もはや人の動きを超えていると思った。
そのまましばらく互いを探り合っていると、二人は同時に異変に気がついた。
火夏は「カチリッ」という機械音を、梟の聴力で聞いた。真魚は自分たちに向けられた針のように鋭い殺気を感じ取ったのである。
二人は同時に動いていた。
火夏は憑霊する鬼神を両足に発動して宙空に昇った。河原の草叢が切れる場所に、長銃を立射姿勢で構える人影を見た。音は銃の撃鉄音だった。
憑神術韋駄天で火夏は空を走った。それは異様な能力で、鬼神の力が足の下に力場を発生させていた。その力場を蹴って空を駆けるのである。まさに鬼神の仕業だった。賽王組倉庫の宙空で、突如縮地の加速を使えた秘密である。
だが火夏は空から、真魚の驚くべき疾走を見た。地を走る真魚が銃の男に近付くほどに動きがジグザグになっていった。距離が数間を切ると左右に縮地を跳びはじめたのだ。
それは空から見る火夏にも、断続的に真魚が出現しては消える不思議な光景だった。
猿飛のように左右に縮地を跳ぶ事も異常だが、加えて縮地を連続している。縮地は静から動への瞬発移動なので基本一回限りである。体内に新たな瞬発力を生むまで次はない。
火夏も縮地連続は無理で、猿飛を挟んで使った。だが真魚は不可能を可能にしていた。
立射姿勢の男は、見えない動きの真魚に照準が付けられなかった。そして気がついたときには、真魚の涼しく端正な顔が目の前にあった。
真魚は右手で銃身を掴むと、左手裏拳で男の顔を砕いた。銃を手離した男はそのまま崩れ落ちていった。だが真魚も掴んだ長銃を杖にして、そこにしゃがみ込んでしまった。
空から降りた火夏は駆け寄っていった。真魚の様子がおかしかった。
「大丈夫か、撃たれたのではないな」
真魚は半笑いの表情で座りこんでいた。
火夏の手を借りてやっと立ち上ることができた。だがちゃんとは立てないようだった。
「撃たれてませんよ。でも縮地で脚を壊したようです。筋肉が切れたのかもしれません」
人の限界を超えた縮地の連続、それが肉体に与える負荷は想像を絶しているだろう。憑霊の再生力を持つ火夏なら耐えらるかもしれないが、人の身の真魚には過酷過ぎた。
「この男、倉庫にいた首領ですね。賽王組はヤクザ同士の抗争で壊滅したと聞きましたが、生きていたんですね。それで最後が私への復讐だなんてつまらない生き方です」
真魚は苦々しげにいった。彼が杖にしている銃は賽王組が誇った七連発のスペンサー銃ではなく単発のスナイドル銃だった。賽王組の力の源泉である銃器も尽きたようだった。
「すみません。折角の取って置きを、こんな奴に使ってしまいました。本当はこの連続縮地で、火夏さんを追いこむつもりだったんですが。ちょっと脚も使えそうにありません。手合せはまた次にお願いしますよ」
「そうだな、また次で良い。それまでに俺は連続縮地の防ぎ方を考えよう」
本当に次があるのか二人に確信はない。だがいつでもいいからあると信じたかった。
火夏の肩に縋りながら、真魚は自分の姿が滑稽に思えて仕方なくて笑い出してしまった。兄頌栄が死んでから、初めて心からの笑いだった。
真魚は笑いが収まると、火夏に告げるべきあることを思い出した。
「そういえば先日火夏さんが帰られた後、姫様から火夏さんとの関係を尋ねられました。上手い言葉が見つからなかったので『友達です』と答えてしまいました。いいですか?」
真魚は少し恥ずかしそうに、真っ直ぐ前を見たままいった。火夏も真魚の顔を見ずに、「構わんさ」とだけ呟いた。その表情は今までにない嬉しさを湛えているように見えた。
この日の午後、真魚と嶺寧姫を含めた琉球人たちが、神戸港に向かって旅立った。明日は上海への海路にあるだろう。再びこの地を踏むことはもうないのかもしれなかった。
旅立つ彼らには、やっと馴染んできた尻無川の川風が、少しだけ冷たく感じられた。それは燃えあがった短い夏が、もう終わろうとしていることを告げているようだった。
(終劇)
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