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角を失った父親殺しの鬼は贄のため闘う

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 この世界には鬼がいる。人よりも強靭な体と信じられないほどの怪力を持つ生物だ。
 鬼は必ず鬼と人の女を両親としてこの世に産まれてくる。鬼には男子しかおらず、同じ両親であっても女の子は普通の人になる。また、鬼は産まれにくく、鬼を父親とする子どもの男女比は一対四程度である。そのため、鬼は非常に希な生き物であった。

 鬼は人を傷つけることをとても恐れる。それは、圧倒的多数の人と共存するために獲得した彼らの枷なのであろう。そんな強い枷であるが外れることがある。愛しい妻や恋人の命が理不尽に奪われた時、鬼は理性を失い全てを破壊し尽くす破壊神となってしまうのだ。
 人はそんな鬼の力を利用しながらも、彼らを恐れていた。


 山間部の小さな村に住む鬼のユウゴは、大柄な鬼の父親と小柄な人の母親と三人で暮らしていた。母親は体が弱くたった一人の子しか産めなかったが、その子は鬼の子であった。父親と同じように二本の角と真黄色の髪、金色の虹彩を持つユウゴは、村の子どもたちから微妙に距離を置かれながらも、山で狩りや採集をしたり、畑の世話を手伝ったりしながら元気に育っていた。 

 力が強く頑丈な父親は、大型の猪や熊などもやすやすと倒すことができる。重い金棒で岩を崩して開墾し、牛よりも力強く畑を耕し、巨大な桶一杯の水を軽々と運ぶことも可能だ。
 まだ幼いユウゴさえ人の成人より力が強く、その働きで得る糧は人より遥かに多い。そのため、ユウゴの家庭は村でもかなり裕福であった。

 父親も母親もたった一人の息子であるユウゴをとても大切にしていた。夫婦仲もユウゴが恥ずかしくなるほど良く、ユウゴは日々幸せを感じながら生きていた。
『もし、私が殺されてお父さんが暴れるようなことがあれば、お父さんを止めてね。お父さんはとても優しいから、正気に戻ると絶対に辛い思いをすると思うの。ユウゴ、お願いね』
 だから、そんなことを言う母親の言葉も冗談半分だとユウゴは思っていた。
 自分が成人してこの家を出て行くまで、いや、出て行った後もこの幸せはずっと続くものだとユウゴは信じていた。


 ユウゴが十三歳になった頃、村を飢饉が襲った。昨年の豊作で鼠や土竜もぐらが増えすぎていたことと、雨不足が重なってしまったのだ。
 ユウゴの家の畑には、鬼を恐れて鼠や土竜はやって来ない。父親は遠くまで水を汲みに行くことも出来る。ユウゴも優れた身体能力を活かして、山芋を掘り出したり、川魚を獲ったりして家を助けていたので飢えることはなかった。

 村人にも食料を分け与えていたユウゴ一家だったが、成長期のユウゴのために、ある程度の食料を蓄えていた。鬼は信じられない程の力持ちであるが、それに比例するように大量の食物を必要とする。ましてや成長期ともなると、その食事量は膨大であった。

 村人はそんな鬼一家を羨んだ。畑は枯れ、獣も魚も獲れない。飲み水さえ底をついていく。
 家を建てる時は力持ちの鬼に頼った。道や水路の整備にも鬼は活躍した。鬼が二人もいる村は他の村より豊かなはずだったのだ。
 その力を恐れながら、村人は感謝して鬼と共存して暮らしていた。しかし、飢えはそんな村人から礼節を奪っていく。


 その日、父親もユウゴも遠くまで食材を探しに出かけていた。家を守るのは病弱な母親のみ。
 そんな鬼の家を訪れた四人の村の男たちは、ユウゴのために備蓄している食料を分けるよう母親に迫る。
 彼らは弱そうな女ならば抵抗できないと考えた。
 鬼は人を傷つけることはできない。鬼の父子が帰って来て、村人に食料を持ち去られたと知られても、直接的な攻撃を加えられることはないはずだ。だからこそ、村人は食料を奪うことにしたのだ。
 鬼の親子は今後村に非協力的になるかもしれないが、村人は目先の飢えを凌ぐ方を優先した。

 家の中に押し入った男たちは、すぐに台所に積み上げられていた芋や麦、干した肉などを見つけた。
「これは貰っていくぞ。おまえの旦那なら、これくらいすぐに集められるだろう」
 そう言って食料に手をかけようとした男たちを、気丈にも母親が止めた。この食材がなくなればユウゴはきっとひもじい思いをする。
「止めてください! これはユウゴのものなのです。夫は村へも食材を分けているではありませんか! それなのに大切な息子の分まで奪おうと言うのですか! このような恥知らずな行いをせず、貴方たちは自分で食材を探せばいいではないですか」
 愛しい我が子のユウゴのために唯々諾々と食料を渡すことはできない。息子にひもじい思いをさせてまで村人を守る義理もない。そう思った母親は積み上げた食材の前で腕を広げて立ちはだかった。

 まさか弱そうな女に止められるとは思ってもいなかった男たちは激昂する。一人が母親の胸を押した。病弱であまり体を動かしていない母親は、それだけで転倒してしまう。
「誰にものを言っている! 鬼の嫁になったような女が偉そうに。あんな化け物に身を任せて子どもを産むような女の方が恥知らずと言うんだ!」
 鬼は少数しかおらず、その強大な力を恐れられていることもあり、人々から差別されていた。そんな鬼と結婚して子供まで産んだ女から『恥知らず』と非難されるのは、村の男たちにとって我慢できなかった。

 もう一人が母親の胸倉をつかんで上半身を持ち上げ、腹を力いっぱい殴った。
 鬼は非常に力持ちであるが、人にはことさら優しく接するので暴力など振うことはない。母親は初めて受ける暴力に身が竦み抗うこともできない。
 唇から血か滴り、白い首筋に流れて、男たちの嗜虐心が増していく。


「あんた! ユウゴ! 助けて!」
 それが母親の最後の言葉だった。
 男たちが我に返った時には、彼女は物言わぬむくろと変わっていた。

「悪いのはお前たちだ! 食料を独り占めするから」
 男の一人が鬼の一家を責めた。
「そうだ! 独り占めは悪者のすることだ」
「本当だ。俺たちは飢えに苦しんでいるというのに、こんなに貯め込みやがって」 
「ああ、俺たちは正義の行いをしたんだ。この食材をさっさと村へ持ち帰ろうぜ」
 他の三人もすぐさま同意した。どこが後ろめたい気持ちを持っていた男たちだが、自らの所業に大義名分を与えてしまったのだ。


 山で大型の鹿を狩っていた父は、風に乗って運ばれてきた愛しい妻の悲鳴を確かに聞いた。
 鬼は個体ごとに不思議な能力を持つ。父親の能力は地獄耳だった。
 慌てて家へ向かう彼は、風を切り裂くようにして馬よりも早く走っていく。
 

 家へ戻った父親が見たものは、もう決して動くことない最愛の妻。そして、積み上げていたユウゴのための食糧を運び出そうとしている四人の男たち。

「ツウ!」
 ユウゴの父親が母を抱きしめる。その体は既に冷たくなっており、目を開けることも、白い手を差し出すことも、『あんた』と艶の含んだ声で呼びかけることもない。

 鬼の全てが壊れた。妻のいない世界など存在していいはずがない。彼は理性を手放し、ただ破壊の衝動に身を任せてしまっていた。


 しばらくして、家へと戻ってきた十三歳のユウゴが見たものは、青白くなった母の死体と、血の海に沈む四人の肉塊となった男たち。
 ユウゴは母の瞼を閉じさせて、両手を合わせた。ユウゴの金色の目から涙が流れ落ちる。
 長い時間祈り続けていたユウゴは、決心したように歩き出す。玄関には父の金棒が放置されていた。鬼の怪力にも負けず岩をも砕く業物だ。
 金棒を初めて手にしたのにも拘らず、まるで昔から使い慣れているようにユウゴの手に馴染んだ。

 家の外へ出ると、村の方から血の匂いが漂ってきた。多くの悲鳴も聞こえてくる。そして、村で暴れる父の姿を捉えることができた。
 鬼は人より嗅覚も聴覚も、視力さえ優れている。ユウゴの嗅覚と聴覚は普通の鬼と同じくらいだが、特殊能力として卓越した視力を与えられていた。
 天には輪を持つ星や縞模様の星が存在することを彼だけが知っている。それほど目が良かった。

 ユウゴの家は村から少し外れた場所に建っている。ユウゴは金棒を握りしめめ、もし自分が殺されるようなことがあれば、父を止めてほしいという母の願いを叶えるために、ひたすら村まで走る。


 村は濃厚な血の臭いに包まれていた。血に濡れた父親はまさしく悪鬼という他ない表情を浮かべながら、休むことなく暴れ続けている。
 村を貫く道路には何体もの死体が横たわっていた。幼子を抱きしめた女が家の陰で震えている。白い犬が悲鳴を上げながら逃げ去っていった。

 金色に光る目の焦点が合っていない父の前にユウゴは躍り出る。見たこともない父親の姿に竦みそうになるが、歯を食いしばって父の行く手を阻んだ。もうこれ以上父親に罪を重ねてほしくはない。
「父さん、もう止めてくれ! 母さんが悲しむから」
 手を広げて父を止めようとするユウゴ。しかし、彼の言葉は父に届かない。

 あり得ないほどの力で振った父の腕を受けて、ユウゴの体は簡単に吹き飛んだ。
 金棒を地に突き立ててなんとか転倒を逃れたユウゴに父の拳が迫る。
 その拳を金棒で受け止めたユウゴは、そのまま金棒を全力で振った。金棒は父の胴を直撃したが、理性を手放した父は痛みさえ感じないように止まらない。


「母さんを殺した奴らはもう死んだ。これ以上母さんは望んでいない。お願いだ。止めてくれ」
 ユウゴの悲痛な叫びさえ、父は無視した。いや、もうユウゴを息子であるとすら認識できておらず、当然その言葉も理解できない。
 
 力を押し殺して生きてきた鬼が力の解放を喜んでいるように、父は咆哮を上げた。そして、握りしめた拳をユウゴに定める。

 もう父が正気を取り戻すことはないかもしれないと思い、ユウゴは殺してでも父を止めると覚悟を決め、金棒をきつく握り締める。
 働き盛りの三十五歳の父と、まだ成長期に差しかかったばかりの十三歳のユウゴでは、素手同士ならば勝負はすぐに決していただろう。しかし、ユウゴは大岩をも砕く金棒を持っている。勝算はあるとユウゴは考えた。

 ユウゴは父の顔を目がけて金棒を力一杯振り抜いた。しかし、父は片手で簡単に金棒を受け止めて、ユウゴの腹に重い膝蹴りを入れる。
 腹の痛さにユウゴは思わず両膝を地につけてしまう。
 ユウゴの黒と黄色の縞模様になった二本の角を、父の大きな手が握った。そして、角を折ろうと左右に広げ始める。
 あまりの痛みに金棒を手放したユウゴは、父の手を抑え込むように左右から力をかける。

 無言の力比べが続いた。

 しかし、元々父親のほうが力は強いことに加えて、膝をついている分ユウゴに不利だ。めりめりと頭蓋骨から角が剥がれようとする音がする。苦痛に耐えながら必死に止めようとするユウゴ。

 
 しばらくの膠着状態の後、歯を食いしばっているユウゴの力が尽きた。
 ポキッ! という思った以上の澄んだ音がして、ユウゴの二本の角は彼の頭から外れて父親の手に握られていた。

「うおぉぉ!」
 ユウゴの絶叫が辺りに響き渡る。彼の頭からは血が吹き出していた。
 虚無だった父の金色の目が初めて揺れた。 

 ユウゴは金棒を拾い、立ち上がって父の頭部目指して金棒を振り上げる。
 父はユウゴの角を握りしめたまま動かない。
 ユウゴの渾身の一撃は父の頭に直撃した。
「ツウ!」
 それが父の最後の言葉だった。



「ねぇ、大丈夫? 生きている?」
 山の中で倒れているユウゴの頬を叩いているのは、おろした真っ直ぐな黒髪が美しい白い着物を着た女だった。
 三年前の父殺しを夢に見ていたユウゴはゆっくりと目を開ける
 
「良かった。生きているのね。こんなところに倒れて何があったの?」
 ようやく頭が働き出したユウゴは女を見上げた。
「腹が減って死にそうなだけだ」
 死んでもいいとユウゴは思っていた。

 父を殺した後、父を担いで家に戻ったユウゴは、母と父の遺体を家の近くに埋めて、父の血がついた金棒を墓標代わりに地面に突き刺した。ユウゴの角は父に握られたまま一緒に埋葬した。
 
 角を失ってしまったが、鬼は丈夫なのでユウゴは死ななかった。
 その日からユウゴの放浪が始まる。百人ほどだった村の住民は半分以下になっていた。母を無残に殺し、父を狂わせたこの忌まわしい村からユウゴはできるだけ遠くに逃げ出したいと思ったのだ。

 真黄色だったユウゴの髪は徐々に色素が抜けていき、いつしか真っ白になっていた。金色の目は変わらないが、角のないユウゴは生まれつき色素の薄い人と変わらない姿になる。
 それからユウゴは鬼であることを隠して生きてきた。時には山や洞窟で生活をして、人恋しくなると村へ行き、狩った獣を分け与えたり、農作業を手伝ったりして、軒先や納屋を借りて雨露を凌ぐ。

 鬼は黄色い髪と二本の角を持つ。それが世間の共通認識だ。そんな目立つ鬼の特徴を失ってしまったユウゴは、鬼であると気づかれることはない。

 そのように放浪していたユウゴであるが、成長するにつれて父親殺しの罪の重さを自覚するようになった。
 丈夫な鬼は怪我もすぐに治るし、病気にもかからない。十分な食料さえ口にしていれば死ぬようなことはないが、餓死だけは避けようがない。
 ユウゴは生きることを半ば諦めて、食べ物を口にしたくないと思っていた。それでも、空腹に負けてしまい、魚を獲って食べたり、山の野生の果物を捥いで口に入れたりして、今まで生きていた。それも、もうすぐ終わりそうだ。もう立ち上がる気力もない。
 
「ちょっと待っていて。何か食べるものを持ってくるから」
 女の声は鈴のようにユウゴの耳に優しく響く。それがユウゴには恐ろしい。
 母を殺され正気を失ってしまった父のように、自分もまた女に狂ってしまうのではないかと彼は恐れていた。
「俺に構わないでくれ」
 ユウゴは邪険にそう言ったが、女は気にした様子もない。
「心配しなくても、麦飯くらいは用意できるから」
 彼女の小さな足音が遠ざかっていく音を、ユウゴはぼんやりと聞いていた。


 しばらくすると、女は拳大に握った麦飯を三つ竹の皮に包んで持ってきた。竹筒に入れた水も用意している。
「起き上がれる?」
 拒否しようとするも、その握り飯があまりにも魅力的でユウゴは素直に従うことにした。
 女は怖いとユウゴは思うが、三年も一人で放浪していて人恋しい気持ちもある。
 腹筋だけで上半身を起こしたユウゴは、更に空腹が増したような気がして、麦飯をひったくるように奪いかぶりつく。

 そんなユウゴの様子を微笑みながら女は見ていた。
「ゆっくり食べないと喉に詰まらせるわよ」
 ユウゴの柔らかい髪の毛に女はそっと白い手を置いた。
 すっかり治ったはずの角の取れた痕が、少し痛むような気がした。


「どう? 少しは元気が出た? これも飲んで」
 夢中で麦の握り飯を貪っているユウゴに、水の入った竹筒を渡しながら女が訊いた。
 山の湧き水なのか、少し冷えた水がユウゴの喉を潤していく。
 思い起こせば、このように調理されたものを食べるのは久しぶりだ。村を出た頃は、大物の猪を狩っては近隣の村へ持っていき、数日の宿と食事を与えられていた。
 その頃のユウゴは子ども過ぎて、親を失ってしまったことを実感できなくて、ただ生きることに必死だった。

「信じられないほど、美味かった」
 それはただの握り飯だ。ほんのり利かせた塩味しかしない。それでも極上のご馳走に感じた。
「良かった」
  そう言って笑う女は、長い黒髪を下ろしているが、ユウゴよりも少し年上のようだ。大きな黒い目と真っ白い肌が印象的な美女である。
 巫女のような白い装束は清楚だが、胸元から覗く大きな胸は艷やかな女の色香を放っていた。

「ねえ、何かあったの? 私は余計なことをした?」
 嬉しそうに麦飯に噛り付いていたユウゴは、食い終えた途端に再び憂い顔に戻った。女なそんなユウゴのことが心配になったようだ。
「いや、飯はとっても美味かった。だけど、俺には生きる資格はないから。でも、最後に美味いものを食えて嬉しかった」
 ここ一年ほど人里に近づくこともなく山を放浪していたので、ユウゴはまともな物を口にしていない。これから餓死に至るまで時間がかかり苦しい思いをするかもしれないが、ユウゴは調理した飯を食べることができたことは良かったと思う。そして、人と話すことができたことも。

「生きるのに資格がいるの? 罪もないのに生きることができない者もいるよ!」
 ユウゴを心配そうに見ていた女の様子が一変する。怒っているような、悲しんでいるような、とても複雑な表情だ。

「俺は父親殺しだから」
 その罪の重さは女にもわかっている。しかし、ユウゴには父親を殺さなければならない理由があったのだろうと女は感じていた。
「それで、死ぬつもりなの?」
 ユウゴは女の問いに答えず、ただ頷いた。

「それなら、しばらくあなたの時を私にくれない。麦飯の礼をしてもらってもいいでしょう? 私ももうすぐ死んでしまうから、それまで傍にいて欲しいの」
 驚いて女を見上げるユウゴ。女は身を起こして歩き始めていた。
 しばらく思案していたユウゴだが、立ち上がって女の後に続く。背の高いユウゴの歩幅は大きく、歩いているだけですぐ女に追いついた。

 
 女がユウゴを連れてきたのは小さな小屋だった。後ろには山が迫り、前には下へ向う長い階段がある。周りには家の一軒も見当たらなかった。

 小屋の中は八畳の畳間と四畳ほどの土間があるだけだった。家具もほとんどなく、畳間には小さな行李と畳んだ布団が置いてあった。
 土間は台所になっていて、かまどには一人暮らしにしては大きめの窯が置かれていた。

「私の名前はユキ。今年で二十歳になるの。あなたは?」
 畳間に座るようにユウゴを促し、自分も向かいに座った女はそう名乗った。
「俺の名はユウゴ。十六歳になった」
 ユウゴが父を殺してから、誰とも祝わない正月を三回迎えた。あの日のことは遠い記憶のようでもあり、昨日の出来事のようにも感じる。
「そうか。四歳も年下なのね」
 ユウゴが四歳も年下と知ってユキはかなり動揺していた。こんなにも年若い彼が、父親を殺し、自らも死のうと思い詰めているのだ。


「一人で暮らしているのか?」
 狭い家を見回してユウゴが訊く。複数で生活しているとはとても思えないほど物が少ない。
 未婚の女性は親元で暮らし、結婚後は夫の家に入るのが普通だ。夫に先立たれて未亡人になったとしても、これほど若い女ならばすぐに再婚する。こんな田舎は女性が一人暮らしできるほど豊かではない。
 それなのに一人暮らしをしているらしいユキを不思議に思ってユウゴが訊いた。

「ここは山の神様の世話をする女が住まう場所なの。私は毎日、あなたが倒れていた場所の向こうにある祠に食事を届けているのよ。五日に一回、麦や卵などがこの下の村から運ばれてくるけれど、その人たちと直接話しをすることもない。私は十五歳で世話役に選ばれてから、五年間たった一人でここに住んでいた。それももうすぐ終わるけれど」
「役目を終えたら村へ帰れるんじゃないのか?」
 そう訊くユウゴに、女は悲しそうな顔をしてみせた。
「私は山の神様に捧げられるのよ」
「山の神は人を喰らうのか?」
「いいえ。食べられるわけではない。慰みものになって殺されるだけ。五年に一回、女と交わることで山の神様は霊力を高めるのよ。五年前、前任者は全裸でここに放置されていたらしいの。全身痣だらけで、骨は何本も折れていたって」
 実際に死体を見てはいないユキだが、村の娘たちに詳しく聞かされていた。彼女たちは美しいユキのことが気に食わず、新しく山の神の世話役に選ばれたユキを怖がらせようという意図はあったが、嘘は言っていない。

 ユキの話を聞いて、ユウゴは顔をしかめた。山の神が何者か知らないが、女を殺す奴は神ではないと思う。
 鬼は生涯たった一人の女しか愛さない。ユウゴには五年に一度違う女を求めるという山の神の所業が信じられない。
 
「なぜ逃げない? こんなところにいても殺されるだけなのに」
 殺されるとわかっているのに、ユキはなぜこんなところにいるのかユウゴには理解できない。
「どこへ逃げろというの! 後ろは山の神様がいる神域。前は村へと続く階段。村へ行けば連れ戻されるわ。だって、山の神様のおかげで村は豊かなのよ。他の村よりずっとね。それを妬まれているけれど、山の神様が怖くて奪いに来る者もいない。村にとって五年に一人の犠牲で済むのならば、この豊かさを手放すはずはないもの。私を逃がすことなんて絶対にないの。それに、他の土地へ逃げても一人では生きていけない。どこへ行ったって結果は同じよ」
 ユキの声には苛立ちが含まれている。何度も逃げようと考えたが、怖くて実行できずにいたのだ。

「俺にここから連れ出して欲しいのか?」
 女一人くらいなら養っていくことは容易いだろう。もし、ユキが望むなら一緒に逃げてもいいとユウゴは思っていた。
「違うの。ただ一緒にいて欲しいだけ。死ぬ前に誰かと暮らしたかったから。親を早くに亡くしたの。だから、家族と暮らした楽しい思い出が欲しいの」
「仮の家族くらいなら、なってやれる」
 三年間一人で放浪していたユウゴは、やはりとても寂しい思いをしていた。天涯孤独だというユキの境遇を不憫だとも感じている。だから、ユキの願いを叶えてやりたかった。
「ありがとう、ユウゴ。四歳下だからユウゴは弟ね。私を姉さんと呼んでもいいのよ」
「いや、ユキと呼ぶからな」
 一人っ子のユウゴは、見知らぬ女をいきなり姉と呼ぶのは恥ずかしかった。

「明るいうちにお風呂に入りましょう。ユウゴはかなり汚れているから」 
 ユキにそんなことを言われて、ユウゴは思わず自らの腕の臭いを嗅いだ。随分前に山で見つけた天然の温泉に入って以来、体を洗っていない。着物だってずっと着続けている。
 そんなユウゴの様子がおかしかったのか、ユキは小さく笑った。そして、笑ったのはいつ以来だろうかと考えて真顔になる。今まで楽しいことなど一度もなかった。笑った記憶など何処にもない。

「風呂なんて入るの、久しぶりだ」
 ユキに笑われたので、ユウゴはそんな言い訳をした。
「湯は贅沢に使えるのよ。いつでも身を清めることでできるようにね。私は山の神様への捧げものだから」
 自嘲気味にそう言うと、ユキは立ち上がった。
 湯を沸かすための薪は村の男たちが定期的に運んでくる。山の湧水を直接風呂桶に入れる樋も完備しているので、水を運ぶ必要もない。

 湯船には既に水が満杯になっていた。ユキは樋を湯船から逸らし、窯に火を入れる。
「一人で風呂へ入れるかしら」
「当然だ! お、俺はもう十六歳だぞ」
 まだ家族で暮らしていた三年前まで、父親と一緒に風呂に入っていたユウゴだが、もちろん体は自分で洗っていた。
「そう。でも、かなり体を洗わないと、湯が汚れてしまうわね」
 脱衣場にユウゴを連れて来たユキは、ユウゴの着物を脱がそうとする。

「自分で脱げるから!」
 ユウゴは慌てて胸元を押さえた。
「そんなに遠慮しないで。仮でも家族になったのだから。背中を洗ってあげるわ」
 汚れていると言われて、ユウゴは恥ずかしくて素直に従うことにした。
 ユキは白い着物の上からたすきをかけ、袖が邪魔にならないようにする。そして、ユウゴの所々綻びた薄い着物を脱がした。
 逆らうこともできず、ユキに手を引かれるようにしてユウゴは風呂場に入る。


「すごい筋肉なのね。もしかして、力士なの?」
 ユキの村でも定期的に奉納相撲が行われ、力自慢の男たちが力士として尊敬されていた。
「いや、違う」
「そうなの?」
 村から出たことがないユキは、力士以外でこれほど筋肉質の男を見たことがない。


「湯はまだ少し温いけれど、まずは体を流しましょうね」
 ユキは手桶で何度も湯をかけ、糠袋で優しくユウゴの肌を擦っていく。頭にも湯をかけると、薄汚れていたユウゴの髪が真っ白になったので、ユキは大層驚いた。これほど真っ白の髪になるまで生きる者は少ない。長老と呼ばれる彼らも若い頃は黒い髪だったのだ。

「俺は鬼だから」
 ユキが驚いているのを感じ取り、ユウゴは正直に申し出た。別に隠してはいない。 
「鬼? でも、鬼の髪は黄色ではないの? それに角がない」
 ユウゴの肌は普通よりは赤いと感じるが、それでも角がないユウゴが鬼だとユキには思えなかった。

「父を殺した時折られた。それから髪の色が抜けたんだ」
 角を失ったので髪の色が白くなったのか、それとも父を殺したからなのかユウゴにもわからない。気がつけば真っ白の髪になっていた。
「角を?」
 ユキは思ったより柔らかいユウゴの髪をかき分けてみる。すると、二か所毛の生えていないところがあった。そこは骨のように硬い。

「鬼なんて、初めて会ったわ」
 ユキの村に鬼は住んでいない。近隣の村にも住んでいると聞いたことはなかった。
 鬼は化け物じみた生き物だとユキは思っていたので、体が大きくて筋肉質である以外は、人とさほど変わらないことに驚く。

「俺も父以外の鬼と会ったことはない」
 鬼は生涯たった一人の女性を妻とする性質であり、普通の人として産まれてくる女の子の方が出生数も多いので、生息数はかなり少ない。しかし、体はとても丈夫な上に傷の治りも人より早く長生きするため、絶滅は逃れている状態だ。

「ねえ? ユウゴはひとりで寂しかった?」
「父を殺した俺に、そんな資格はないから」
 ユウゴが知る限り唯一の鬼である父を殺したのはユウゴだ。たったひとりになってしまったから寂しいなどと口にできるはずはない。

「私はとても寂しかった。だって、私は山の神への捧げものだから」
 人として扱ってもらえないとユキはいつも感じていた。定期的に食材と薪は運んでもらえるので、確かに飢えることはなかったが、たった一人で過ごすのは寂しすぎた。やがて来る残酷な死に怯えながら、逃げ出すこともできずに、五年もここで暮らしている。
その辛い思いを、ユキは初めて口にできた。それだけで癒されるような気がする。

「寂しいから、俺を助けてくれたのか?」
「そうよ。行くところがないのならば、山の神が来るまで一緒にいてくれるかと思ったの」
 生きることに価値など見出すことができない。それでも、ユキは死ぬことは怖かった。誰でもいいから傍にいてほしい。倒れているユウゴを見つけた時、ユキはそう願った。

「わかった。それなら俺がここにいてやる」
 とうに命を諦めているユウゴだが、あまりにも丈夫なため死ぬことさえ叶わなかった。そんなユウゴでも役に立てるのなら、ユキの傍にいてやろうと思う。

「嬉しい。今夜は頑張ってご飯を作るからね」
 さっきの握り飯の美味さを思い出し、ユウゴは形相が崩れそうになる。しかし、すぐに表情を消した。
 これはユキのためで、自分が楽しんでは父親に申し訳ないとユウゴは思ったのだ。

 垢を落としさっぱりとしたユウゴは湯に入った。湯船は大柄なユウゴでもそれほど狭く感じない。
 やはり湯に入るのは気持ち良かった。楽しむことを戒めたいユウゴだが、それでも心が浮き立つのを止められない。

「これを着て。山の神様のために作ったものだけど、予備だから新品なのよ」 
 ユキが用意したのは白い着物と褌。三か月に一度、それらを山の神のために用意するのもユキの役目だった。村からは布を大量にもらえるので、万が一のために予備を作っておいたのだ。

 着物はユウゴにぴったりだった。山の神もかなりの大柄な体躯をしているらしい。
「ユウゴは思った以上に男前なのね。びっくりしたわ」
 薄汚れていて容姿などわからなかったユウゴだが、風呂に入って新しい着物を着ると、それなりに整っている。
「か、からかうなよ。俺は鬼だから」
 男前などと言われ慣れていないユウゴは照れたのか、元々赤っぽい肌を更に赤く染めた。その様子がおかしく、ユキは笑顔になる。

「鬼は人の女と結婚するのでしょう? ねえ、私は綺麗だと思う?」
 鬼は全て男で、人間の女と結婚することをユキは知っていた。しかし、たったひとりの女にしか欲情しないことを知らない。
「えっ? そ、それは、綺麗なんじゃないか」
「ありがとう」
 少しぶっきらぼうなユウゴの言葉が、なぜかユキは嬉しかった。人として扱ってもらえた気がしたから。 


 すっかり陽が落ちて部屋が暗くなってきたので、ユキは行灯に火を入れた。部屋の中がぼんやりと明るくなる。
「夕飯を作ったの」
 ユキが夕飯の乗った膳を座布団に座ったウゴの前に置いた。
「豪華だな。こんな飯は食ったことがない」
 ユウゴは思わず感嘆の声を上げた。
 所狭しと膳に並べられているのは、茶碗に山のように盛り付けられた白米と甘辛く煮た雉と川魚の塩焼き。野菜の炊き合わせとみそ汁がついている。
「山の神様に守られているこの村はとても豊かなの。山の神様を恐れて盗賊もやって来ないし、作物を動物に荒らされることもないから」
 そう答えるユキの表情は少し辛そうだ。山の神の恩恵を得るためには生娘を生贄にしなければならない。生贄のユキがその豊かさを素直に喜べるはずもなかった。

「山の神って、何だ?」
 ユキが山の神への生贄であると理解したユウゴだったが、そもそも山の神のことを何も知らない。
「さあ? 私も見たことがないから。でも、祠にお昼を置いておくとね、翌日にはなくなっているの。だから、本当にいることは間違いないと思う」
「何かの動物が食ったんじゃ?」
「動物ではないわ。お箸を使って食べているもの」 
 神は箸を使うのかと思ったが、ユウゴはそれ以上何も言わなかった。空腹に耐えきれず、ずっしりと重い茶碗に手を伸ばす。時折野鳥や野獣を狩って食べていたが、調理された食事は一年ぶりだ。白米を一口食べただけでユウゴはもう止めることができなくなっていた。
 
 そのあまりに見事な食べっぷりにユキは少し目を見開いたが、すぐに笑顔になった。

「いっぱい食べてね。お代わりもあるから」
 ユキの言葉にユウゴの目は嬉しそうに細められる。大きな体をしているユウゴは大人びて見えるが、そんな表情をすると一気に子どもっぽくなる。ユキも楽しくなり自分の茶碗を手に取った。

 結局、釜一杯に炊いた白米は一粒も残さずユウゴが食べ尽くした。もちろんおかずもみそ汁も残っていない。

 布団は一組しかなかったので、ユウゴは座布団を枕にして、畳に直接寝ることにする。それでも、今までの暮らしに比べると天国のようだ。

「ねえ。何があったか、聞いてもいい?」
 ユキは自分のことを話したことで少し心が軽くなった気がしたので、ユウゴにも話してほしいと思った。だからといって強要するつもりはない。

「三年前、俺の住んでいた村に鼠や土竜が大量発生して畑の作物が全滅してしまった。森の食糧も減って、大型の獣も遠くに行ってしまった。俺の家の畑は鬼を恐れて鼠や土竜は寄り付かないので無事だったし、父さんも俺も遠くまで狩りに行けるから、食料には困っていなかった。だから、村へも分けていたんだ。だけど、それだけでは足りなかったらしく、母さん一人の時に村の男が奪いに来て、それで、そいつらは母さんを殺した」
 ユウゴは母親を守れなかったことがとても悔しい。本来ならば弱い母親のために父親かユウゴ、どちらかが家に残るようにしていたが、村人の分まで狩りを行おうと、二人とも出払っていた。
 まさか、村人が母を襲うとは思わなかったのだ。

「父さんはそれで壊れてしまって、村を襲たんだ。何人も殺した。母さんは前からそんな状態になったら父さんを止めてくれって言っていた。だから、俺は父さんの金棒を持ち出して……」
 ユウゴはそれ以上、言葉を続けることができなった。
「ごめんね。もういいの」
 十三歳の少年にとって、どれほど辛い経験だったのだろうか。ユキには想像もつかない。ユウゴは悪くないと伝えたかったが、傷ついたユウゴに軽々しく言葉をかけることもできなかった。


 こうして、二人は家族としての生活を始めた。
 村人は定期的に荷物を運んでくるが、山の神を恐れているので、小屋の近くには決して近づかない。
 村人にはユウゴのことを知られることもなく、平穏な日々が続く。

「あの明るい星には輪があるんだ。それに、あっちの星は他よりも大きくて、縞模様がついている」
 雲一つない夜空には満天の星が輝いていた。縁側にユキと並んで座っているユウゴは、そんな星の一つを指さしている。
「それは本当なの?」
 ユキにはただの星にしか見えない。それでも、ユウゴがそんなことを教えてくれたので、特別に思えてくる。
「ああ。これは俺しか知らない秘密だ。父さんは耳が良くて、遠くの物音が聞こえた。俺は父さんよりずっと目が良かった」
「鬼はすごいのね」
 ユキは心からそう思えた。ユウゴのように力が強ければ、そして、特別な能力があれば、ここから逃げ出すことができたかもしれない。
 鬼は人よりずっと自由だとユキは思う。


「私の母さんはね、父さんと私を捨てて、巡業で村へやって来た芝居一座の役者と村を出て行ったらしいの。父さんはそれから酒浸りになり、怪我がもとで亡くなってしまった。私はまだ六歳だったので、よく覚えていないけどね。それから村長の家に引き取られ、八歳から下女として働いていた」
 夜空を見上げながら淡々と語るユキ。両親がいないことをもう辛いと感じることはない。しかし、もし二人が健在だったならば、山の神の捧げものに選ばれなかったかもしれないと思っていた。

 そんな家族の暖かさをほとんど知らないユキのために、ユウゴは幸せだった頃の話をするようになった。
「父さんは、本当に母さんのことが大好きで、見ている俺の方が恥ずかしいくらいだった。母さんは優しい人で、大食らいの俺のために、いつも大量の飯を作ってくれたんだ」
 それはあまりのも幸せすぎて、失ってしまった今は思い出すも辛い記憶だった。しかし、こうしてユキに話していると、あの時と同じようにユウゴは幸せな気分になる。

「羨ましいわね。私もそんな結婚がしてみたかった」
 最愛の夫に大切にされて、子どもを産む。そして暖かい家庭を育むのだ。それはものすごく幸せなことだと、経験のないユキにも想像できた。
「俺も」
 父親を殺したユウゴには許されないと思いながらも、父と母のような家庭に憧れてしまう。

 二人の間に沈黙が訪れる。そして、再び夜空を見上げていた。


 こうして、二人が暮らし始めて十日ほどが経った。
 前の山の神への捧げものとされた女性が殺されてから五年を迎えるのはもうすぐだ。
 
 昼飯を終えたユキは真剣な顔をした。
「ユウゴ。お願い。私を殺して。本当は自分で死のうと何度も思ったの。でも、怖くてできなかった。ごめんなさい。ユウゴにこんなことを頼んで。でも、山の神に嬲り殺されるのは嫌。一思いに殺してほしいの。そして、山の神様に見つからないように、さっさとここから逃げて。ユウゴなら逃げ切れるはずよ」
 これがユキの本当の願いだった。薄汚れたユウゴが倒れているのを見たユキは、彼を助け、その見返りとして殺してもらおうと思っていた。家族として暮らしたいと思ったのは本当だが、それが本来の目的ではい。

「そんなことできない! それくらいなら、俺と一緒に逃げよう」
 ユキは妻ではない。しかし、ユウゴにとって大切な家族になっていた。もしユキを失ってしまったら、父のように壊れてしまうだろうと、ユウゴはぼんやりと考えていた。そして、それは想像していたほど怖いことではなかった。大切な家族を死に追いやった奴らに報復するのは、ごく自然なことのように思える。
 
「駄目よ。私はきっと足手まといになる。それに、もう覚悟はできているの」
 捧げものになる前に死んでしまえば、山の神が怒るだろう。村に報復するかもしれない。ユキはそれでも良かった。そうなれば、もうこんな辛い思いをする娘はいなくなるのだから。

「ユキが嫌がっても、俺はユキを連れてここから出ていく。絶対に殺さないし、誰にも殺させない。俺は鬼だから、大切な人を失えば壊れてしまう」
 ユウゴは真剣だった。その眼差しにユキは戸惑う。
 たった十日、疑似的の家族として過ごしてきただけだ。ユキは十六歳のユウゴに自分の人生を押し付けるつもりなどない。


「その女は儂のものだ。鬼の小僧、女を置いて出ていくのなら、見逃してやろう」
 突然、大きな声がした。しかし、姿は見えない。
 ユキを軽々と腕に抱え、ユウゴは家を飛び出した。

 家から飛び出た二人を睨んでいるのは、長い鼻を持つ天狗だった。大きな黒い翼で宙に浮いている。
 五年ごとに女の精気を奪いながら三百年も生きている天狗だったが、鬼と戦ったことはない。負けるとは思っていないが、無傷で勝つことは難しいとも感じていた。

「お前が山の神か!」
「そうだ。その女は儂への捧げもの。手を出すな。さっさとここから出ていけ」
「ユウゴ、怖い!」
 真っ赤な顔の真ん中に突き出るような長い鼻がついている。その異様な容姿にユキは怯え切っていた。
「大丈夫だ。絶対に守るから。ユキには指一本触れさせない!」
 ユキを守りながら、宙を飛ぶことができる天狗とやり合うのは、かなり厳しい闘いだとユウゴは思う。しかし、絶対に負けることはできない。
 ユウゴはユキを家の中に押し込めて戸を閉めた。

「小僧、逃げないのか? 仕方がない。叩き潰してやる。山の神に逆らったことを後悔しながら死ね!」
 天狗が団扇で大きく仰ぐと、近くの木の葉がまるで刃物のようにユウゴに襲い掛かった。普通の人ならば、それだけで体中に葉が刺さり死んでしまうかもしれない。しかし、ユウゴは鬼である。しかも、最近は腹いっぱい食べていたので、力は漲っていた。

 葉の攻撃を軽く躱して、ユウゴは重い石を天狗目がけて放り投げた。ユキの体重ほどもある石は天狗に向かってすごい勢いで飛んでいく。
 寸前で石を避けた天狗だったが、その勢いで団扇を落としてしまう。その後ろで、大きな音を立て石が落下した。砂埃がもうもうと舞い上がる。

 団扇を拾うために高度を下げた天狗を、ユウゴの拳が襲う。しかし、天狗は猛烈な風を起こしてユウゴを止めた。そして、いくつもの火球をユウゴに向かって飛ばず。

 ユウゴは地を転がりながら火球を避け、拾った小石を投げた。小石とはいえ、ユウゴの怪力で投げると木を貫くほどの威力がある。しかし、天狗が団扇で仰ぐと、小石は力なく落下した。

 睨み合いが続く。

 元は普通の修験者だったが、三百年も生きて妖力を高めてきた天狗と、年は若いが、生まれつき力があり得ないほど強い鬼。
 そんな二体が全力で戦っている。
 お互い傷ついていくが、致命傷は与えられない。
 

 ユキは家の中で震えながら、ユウゴを巻き込んでしまったことを後悔していた。
 ユウゴと出会ったときに殺してくれと願っていれば、それで済んだはずだ。家族として暮らしてほしいと頼んだから、ユウゴはユキに情を持ってしまい、殺せなくなったのだ。

 ユキが死ねば壊れてしまう。そうユウゴが言ったので、ユキは外へも出ていけない。ユウゴの戦いの枷にもなりたくない。
 激しい闘いを知らしめるような轟音が聞こえる中、ユキはただ待つしかできなかった。


 そして、静寂が訪れる。
 
 戸が開いて、顔を見せたのは、血だらけのユウゴだった。思わず彼に抱きついてしまうユキ。
「天狗は倒した。約束通り、二人でここを出て行こう」
 痛くないようにそっとユウゴは抱き返した。初めて感じる人肌が暖かい。
「うん」
 ユキは素直に頷く。ユウゴに迷惑をかけるとわかっている。それでも、ユキは彼の家族になりたかった。弟としてではなく。
 その思いはユウゴも同じだった。もう彼は他の女を愛することはできない。
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