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2.夫婦の真似事
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「俺は十歳からここに来たので、あんまり話すことがないんだ」
ハヤテには十分な量の食事が与えられていて飢えるようなことはない。毎日入浴し、清潔な着物を与えられる。空を見上げて世界を見る五時間の他に、運動や勉強の時間も組み込まれた規則正しい生活を送っていた。
ハヤテはここの生活に不満を抱いているわけではないと思っている。
しかし、寂しがり屋の鬼であるハヤテは、人と触れ合うことに飢えてしまっていた。
「私も十歳で親元を離れて舞妓となったのですよ。ハヤテさんと同じですね。それから修行して十四歳で芸妓になりました」
サヨはハヤテと向かい合って座っていた。貧しい村の出身である彼女もまた、ご飯を腹いっぱい食べられる現状に不満があるわけではなかった。
それでも、唄のように身を焦がすような恋愛をしてみたいとサヨは憧れている。
「芸妓って何をするんだ?」
ハヤテは十歳の時から軍の研究施設に囚われている。彼は不思議な能力で見ることができる物事を正確に伝えるために勉強を教えられていたが、世間の常識はあまり持っていない。当然芸妓のことを知らなかった。
「三味線を弾いたり、長唄を歌ったり、踊りを見せたりするのです」
「俺にも見せてくれるのか?」
「はい。ハヤテさんを慰めるのが私の仕事ですから」
サヨは横に置いていた三味線を手にとった。糸巻きを回して調弦するサヨを、ハヤテは興味深くじっと見つめている。
静寂の中、三味線の音とサヨの声が響き渡る。
生き別れになった息子を想う女性の気持ちを朗々と唄うサヨ。子を産んでいないサヨであったが、いつかは母親になりたいと唄に思いを込めていく。
長唄の言葉は難しく、ハヤテは全てを理解できたわけではなかったが、サヨが自分のために歌ってくれているのが彼にはとても嬉しかった。
初めて聞いた三味線の奏でる音と長唄は、ハヤテを確かに癒していた。
並べて敷かれていた布団を畳み、少し広い場所を作ってサヨは踊り始めた。普段は仲間の芸妓の唄や三味線が入るが、今日は無音で踊る。それでも、ハヤテが嬉しそうに見ていてくれるので、サヨは一生懸命に踊り続ける。
「すごく面白かった。明日も見せてくれるのか?」
「はい。もちろんです。ハヤテさんが望むならいつでも、唄うし踊りますよ」
サヨの答えを聞いて、ハヤテは本当に嬉しそうに笑う。今まで、自分の希望を聞いてくれる相手などいなかった。
寂しがり屋のハヤテがサヨのことをどれほど大切だと思ったか、彼女は知らない。しかし、ハヤテの嬉しそうな笑顔を見て、ここに来て良かったとサヨは心から思っていた。
夕方になると、いつも以上に大量の夕食が運ばれてきた。
ハヤテが部屋の隅から座卓を運んで、料理をその上に載せる。
「サヨの分もあるから、いっぱい食ってくれ」
夕食は豪華という訳ではないが、おひついっぱいに白米のご飯が入っていた。魚の煮付けと野菜のおひたしが鉢に山盛りになっていて、ゆで卵が六個かごに入っている。キュウリの漬物と梅干しもついていた。鍋いっぱいのお味噌汁の具は豆腐と葱である。
とにかく量が多く、何人で食べるのだろうとサヨは不思議に思った。
「茶碗が変わっている」
ハヤテが不思議そうに盆を見る。
盆の上には同じ柄の大小の二つの茶碗が伏せて置かれていた。食事係が用意したささやかな結婚の祝いのようなものである。
サヨはいつかは結婚をして夫婦茶碗を使ってみたいと思っていたので、少し複雑な思いで大きな茶碗を手にとった。
ハヤテは大きい方が自分の茶碗だと思っていたので、残された小さな茶碗が少し不満だ。
サヨは大柄で若い鬼のハヤテならばかなりの量を食べるのだろうと思い、おひつからご飯を茶碗に山盛りによそいハヤテの前に置いた。そして、お椀に味噌汁を入れてハヤテに渡す。
「どうぞ、召し上がってください」
「俺が食ってもいいのか?」
十年間もたった一人で食事をしていたハヤテは、ご飯をよそってもらった経験などない。
「はい。あの、多すぎましたか?」
「いいや。これぐらいすぐ食ってしまう。サヨはまるで奥さんみたいだな」
ハヤテがまだ実家にいる頃、母親がご飯をよそって渡し、父親は嬉しそうに受け取って食べていたのをハヤテは覚えている。ハヤテと三人の姉妹は自分で好きな量をよそっていた。
「はい。私はハヤテさんの妻になるためにここに来ました」
サヨは鬼のハヤテに体を売ったのだ。その覚悟はできている。
鬼はとても情が深く、妻を愛して大切にする生き物である。当然ハヤテの両親も息子から見ても恥ずかしくなるぐらいに仲が良かった。
ハヤテはサヨともっと仲良くしなければと思う。
「俺もサヨさんのためにご飯を入れてやる」
ハヤテは小さな茶碗にご飯を山と盛っていく。
「サヨさんはもっと食わなくていいのか? それだけで腹が減らないか?」
ハヤテは五杯目のおかわりをしていた。サヨはまだ一杯目である。もちろんおかわりをする予定はない。
「これでも多いぐらいですから」
それでも、美味しそうに食べていく豪快なハヤテを見ているのは楽しく、サヨも食が進んだ。
ハヤテもサヨとの食事は思った以上に楽しく感じていた。
風呂には別々に入り、寝間着に着替えて二人は部屋に戻ってきた。
畳んであった布団を並べて敷き直すハヤテ。そして、使い慣れた方の布団に潜り込んだ。
「手を繋いでもいいか」
真新しい布団に横になるサヨにハヤテが訊く。まるで懇願のようだとサヨは思った。
ハヤテは眠っている間にサヨがいなくなるのではないかと恐れていた。
自らの身を売ったハヤテは、人との触れ合いのない今までの暮らしも仕方がないと諦めていたが、サヨの唄や踊りを見て、一緒に食事をしたことにより、再び独りになるのは耐えられないと思っている。
「ハヤテさんが望むならば、どうぞ」
サヨは白い小さな手をハヤテの方に差し出した。ハヤテの少し赤くて大きな手が包み込むようにそっと握る。
ハヤテは寂しい心が満たされていくような気がする。サヨもまた大きな手の暖かさが心地よいと思っていた。
ハヤテには十分な量の食事が与えられていて飢えるようなことはない。毎日入浴し、清潔な着物を与えられる。空を見上げて世界を見る五時間の他に、運動や勉強の時間も組み込まれた規則正しい生活を送っていた。
ハヤテはここの生活に不満を抱いているわけではないと思っている。
しかし、寂しがり屋の鬼であるハヤテは、人と触れ合うことに飢えてしまっていた。
「私も十歳で親元を離れて舞妓となったのですよ。ハヤテさんと同じですね。それから修行して十四歳で芸妓になりました」
サヨはハヤテと向かい合って座っていた。貧しい村の出身である彼女もまた、ご飯を腹いっぱい食べられる現状に不満があるわけではなかった。
それでも、唄のように身を焦がすような恋愛をしてみたいとサヨは憧れている。
「芸妓って何をするんだ?」
ハヤテは十歳の時から軍の研究施設に囚われている。彼は不思議な能力で見ることができる物事を正確に伝えるために勉強を教えられていたが、世間の常識はあまり持っていない。当然芸妓のことを知らなかった。
「三味線を弾いたり、長唄を歌ったり、踊りを見せたりするのです」
「俺にも見せてくれるのか?」
「はい。ハヤテさんを慰めるのが私の仕事ですから」
サヨは横に置いていた三味線を手にとった。糸巻きを回して調弦するサヨを、ハヤテは興味深くじっと見つめている。
静寂の中、三味線の音とサヨの声が響き渡る。
生き別れになった息子を想う女性の気持ちを朗々と唄うサヨ。子を産んでいないサヨであったが、いつかは母親になりたいと唄に思いを込めていく。
長唄の言葉は難しく、ハヤテは全てを理解できたわけではなかったが、サヨが自分のために歌ってくれているのが彼にはとても嬉しかった。
初めて聞いた三味線の奏でる音と長唄は、ハヤテを確かに癒していた。
並べて敷かれていた布団を畳み、少し広い場所を作ってサヨは踊り始めた。普段は仲間の芸妓の唄や三味線が入るが、今日は無音で踊る。それでも、ハヤテが嬉しそうに見ていてくれるので、サヨは一生懸命に踊り続ける。
「すごく面白かった。明日も見せてくれるのか?」
「はい。もちろんです。ハヤテさんが望むならいつでも、唄うし踊りますよ」
サヨの答えを聞いて、ハヤテは本当に嬉しそうに笑う。今まで、自分の希望を聞いてくれる相手などいなかった。
寂しがり屋のハヤテがサヨのことをどれほど大切だと思ったか、彼女は知らない。しかし、ハヤテの嬉しそうな笑顔を見て、ここに来て良かったとサヨは心から思っていた。
夕方になると、いつも以上に大量の夕食が運ばれてきた。
ハヤテが部屋の隅から座卓を運んで、料理をその上に載せる。
「サヨの分もあるから、いっぱい食ってくれ」
夕食は豪華という訳ではないが、おひついっぱいに白米のご飯が入っていた。魚の煮付けと野菜のおひたしが鉢に山盛りになっていて、ゆで卵が六個かごに入っている。キュウリの漬物と梅干しもついていた。鍋いっぱいのお味噌汁の具は豆腐と葱である。
とにかく量が多く、何人で食べるのだろうとサヨは不思議に思った。
「茶碗が変わっている」
ハヤテが不思議そうに盆を見る。
盆の上には同じ柄の大小の二つの茶碗が伏せて置かれていた。食事係が用意したささやかな結婚の祝いのようなものである。
サヨはいつかは結婚をして夫婦茶碗を使ってみたいと思っていたので、少し複雑な思いで大きな茶碗を手にとった。
ハヤテは大きい方が自分の茶碗だと思っていたので、残された小さな茶碗が少し不満だ。
サヨは大柄で若い鬼のハヤテならばかなりの量を食べるのだろうと思い、おひつからご飯を茶碗に山盛りによそいハヤテの前に置いた。そして、お椀に味噌汁を入れてハヤテに渡す。
「どうぞ、召し上がってください」
「俺が食ってもいいのか?」
十年間もたった一人で食事をしていたハヤテは、ご飯をよそってもらった経験などない。
「はい。あの、多すぎましたか?」
「いいや。これぐらいすぐ食ってしまう。サヨはまるで奥さんみたいだな」
ハヤテがまだ実家にいる頃、母親がご飯をよそって渡し、父親は嬉しそうに受け取って食べていたのをハヤテは覚えている。ハヤテと三人の姉妹は自分で好きな量をよそっていた。
「はい。私はハヤテさんの妻になるためにここに来ました」
サヨは鬼のハヤテに体を売ったのだ。その覚悟はできている。
鬼はとても情が深く、妻を愛して大切にする生き物である。当然ハヤテの両親も息子から見ても恥ずかしくなるぐらいに仲が良かった。
ハヤテはサヨともっと仲良くしなければと思う。
「俺もサヨさんのためにご飯を入れてやる」
ハヤテは小さな茶碗にご飯を山と盛っていく。
「サヨさんはもっと食わなくていいのか? それだけで腹が減らないか?」
ハヤテは五杯目のおかわりをしていた。サヨはまだ一杯目である。もちろんおかわりをする予定はない。
「これでも多いぐらいですから」
それでも、美味しそうに食べていく豪快なハヤテを見ているのは楽しく、サヨも食が進んだ。
ハヤテもサヨとの食事は思った以上に楽しく感じていた。
風呂には別々に入り、寝間着に着替えて二人は部屋に戻ってきた。
畳んであった布団を並べて敷き直すハヤテ。そして、使い慣れた方の布団に潜り込んだ。
「手を繋いでもいいか」
真新しい布団に横になるサヨにハヤテが訊く。まるで懇願のようだとサヨは思った。
ハヤテは眠っている間にサヨがいなくなるのではないかと恐れていた。
自らの身を売ったハヤテは、人との触れ合いのない今までの暮らしも仕方がないと諦めていたが、サヨの唄や踊りを見て、一緒に食事をしたことにより、再び独りになるのは耐えられないと思っている。
「ハヤテさんが望むならば、どうぞ」
サヨは白い小さな手をハヤテの方に差し出した。ハヤテの少し赤くて大きな手が包み込むようにそっと握る。
ハヤテは寂しい心が満たされていくような気がする。サヨもまた大きな手の暖かさが心地よいと思っていた。
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