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リーゼが牢を抜け出して六日が経っていた。油分は控えているものの普通食を口に出来るようになり、少しはふっくらとしてきていた。それでも、まだかなり細い。
牢はトイレとシャワーを備えた清潔な場所だったので、体力は落ちているものの感染症などに罹患していなかったのと、滋養分が多い果物を口にしていたので、貧しいため飢えている者より回復は早かった。リーゼが生きたいという気力を取り戻したのも大きい。
馬での長旅は初めてだったリーゼだが、見るもの全てが目新しく、ディルクと馬上で会話するのも楽しかったので辛くはなかった。
ブランデスの王都まで馬車では十日ほどかかる。その距離をディルクは馬で三日で駆けてきた。しかし、リーゼを同乗させているので馬車より速度を落として進んでいたが、岩場や森なども通行したため馬車と同じぐらいの距離を移動できた。ディルクは当初より宿泊予定の町に入り、町一番の宿の前に馬を止めた。
馬から下ろすために抱き上げたリーゼの体があまりにも軽く、ディルクは本当に痛々しいと感じた。
「疲れなかったか?」
王都に住まう女性ならば長時間馬に乗った経験はないはずだ。上下に大きく揺れるほどの速度は出していないが、揺れることには違いない。
「私は大丈夫です。休憩を多くとっていただいたし、速度もゆっくりでしたもの。予定より遅れてしまったのではないですか?」
「ここは元々宿泊予定地だったのですよ。旅は順調です。安心してください」
そうディルクが言うと、
「良かった」
リーゼが微笑んだ。
ディルクはその笑顔から目を背けた。ディルクの記憶にあるリーゼに似ていたからだ。
自分の失態で亡くしてしまった愛しい人を恋い焦がれるあまりに、また、リーゼを救えなかったという事実を素直に認めることができないほど自分の心が弱いので、リーナの笑顔にリーゼの面影を見てしまうのだと、ディルクは罪悪感に苛まれた。
リーナにリーゼを重ねて見てしまうのは、リーナにもリーゼにも失礼であると感じ、ディルクは頭を振りながら心を強く持たねばと自らを叱咤した。
町一番の高級宿はやはり快適だった。大人数向けの部屋なのでベッドルームが二室ある。それぞれの寝室にはベッドが二台置かれていたが、もちろん二人は違う部屋を使った。
ディルクに気遣われながらリーゼは食堂で夕食を済ませ、シャワーを浴びる。
夜になり一人でベッドに入ったリーゼは、ディルクのことを考えていた。
大きく節くれだった手や馬上で触れ合った時に感じた思った以上に筋肉質の体は、とても貴族のものとは思えない。しかし、洗練された身のこなしは農民や作業員とも考えにくかった。穏やかそうな顔をしているが、やはり騎士や兵士なのだろうかとリーゼは思う。そして、長期に国を留守にして大丈夫なのかとも気になった。
翌日、リーゼは確かめてみることにした。隠されるのならば仕方がないが、偽りとはいえ夫となる人のことを何も知らないのは不安だった。
「あの、ディルクの職業は何なのでしょうか?」
草原を快適に走る馬の上で、リーゼは後ろのディルクに小さな声で訊いた。答えたくないのであれば聞こえなかった振りをして無視すればいいと思ったからだ。
「一応、将軍?」
短くはない沈黙の後、首を傾げながらディルクが答えた。
「えっ? 何とおっしゃいましたか?」
聞こえていたけれど、内容が理解できないリーゼだった。
「えっと、将軍たっだりするんだ」
ディルクはそう言って笑う。
リーゼの知る限り、ブランデスに将軍と呼ばれる人物は一人しかいないはずだ。
「まさか、ハルフォーフ将軍閣下?」
「知っているのか? もしかして噂も?」
ディルクは大層驚いているが、青碧の闘神のことならば平民の子どもだって知っている。リーゼの実家である公爵邸の侍女も噂していた。だから、貴族の侍女をしていたと偽っているリーゼがハルフォーフ将軍のことを知っていたとしても可笑しくはない。しかし、リーゼは本人と直接顔を合わせたことがある。ディルクにリーゼと知られてしまうのでないかと恐れていた。
リーゼの恐れの気配を、青碧の闘神の噂に恐れているのだとディルクは誤解した。
「青碧の闘神の伝説は作られたものだ」
ディルクは静かに語りだした。リーゼは黙って聞くことにする。
「父は清廉潔白な人物で部下の信任も厚かった。相手がどのように卑怯な手を使ってきても正々堂々と受けて、卑怯な手で応じることを良しとしなかった。それは、伝統ある大国の兵を率いる将として必要なことだった。しかし、父は卑怯な奇襲に破れた。国を追われた難民のふりをして我が軍に近付き、保護しようとした父を殺した。だから、僕は新しい将軍になった。父を卑怯な手で殺され復讐に燃える十九歳の若造が暴走しても、ブランデスの名を汚すことはないと判断したから」
ディルクは当時のことを思い出したのか、悔しそうに目を細めた。
「父の部下たちも父の命を守って正々堂々と戦っていたが、僕は彼らにどんな手を使ってでも勝てと命じた。それが卑怯な行いだったとしても全て若く未熟な将軍のせいにすればいいと。僕は陽動のために目立つ鎧をまとい戦った。敵方に新しい将軍は血に飢えた戦闘狂だと知らしめながら」
ディルクが勝利したした時のことを思い出し柔らかく笑った。
「戦争に勝つことができたのは、優秀な父の部下がいたからだ。僕の力ではない。本当は国のために死ぬつもりだったが、僕は生き残り、気がつけば伝説が大げさなものになっていた。陛下はその伝説を利用して国の威信を高めようとしたので、益々大層な伝説に変貌していった。だから、僕は普通の人間だ。怖がらないで欲しい」
怖がったりしない。そうリーゼは思った。昨年ブランデスに訪れた時、ハルフォーフ将軍の人柄に触れて噂のような怖い人物ではないと知っていたからだ。
しかし、それを伝えることはできない。ハルフォーフ将軍は一年前に一ヶ月ほど護衛と案内役を勤めてくれたが、幸いにもリーゼのことを覚えていないようだ。
リーゼはこの世からいなくなった。助け出してくれた牢番のためにも、リーゼであることを知られてはならない。
「でも、母は噂通りの人かもしれない」
無言のリーゼにディルクは困ったようにそう言った。
「勇ましいお母様でしょうか?」
偽りの妻だが、リーゼはまだ見ぬ姑がちょっと怖いと思ってしまう。
「リーナが想像するよりもっと凄いと思う。でも、僕も将軍なんだから君を守るぐらい出来ると思うんだ。きっと」
見上げるとディルクの目が泳いでいたので、リーゼは少し不安になった。
牢はトイレとシャワーを備えた清潔な場所だったので、体力は落ちているものの感染症などに罹患していなかったのと、滋養分が多い果物を口にしていたので、貧しいため飢えている者より回復は早かった。リーゼが生きたいという気力を取り戻したのも大きい。
馬での長旅は初めてだったリーゼだが、見るもの全てが目新しく、ディルクと馬上で会話するのも楽しかったので辛くはなかった。
ブランデスの王都まで馬車では十日ほどかかる。その距離をディルクは馬で三日で駆けてきた。しかし、リーゼを同乗させているので馬車より速度を落として進んでいたが、岩場や森なども通行したため馬車と同じぐらいの距離を移動できた。ディルクは当初より宿泊予定の町に入り、町一番の宿の前に馬を止めた。
馬から下ろすために抱き上げたリーゼの体があまりにも軽く、ディルクは本当に痛々しいと感じた。
「疲れなかったか?」
王都に住まう女性ならば長時間馬に乗った経験はないはずだ。上下に大きく揺れるほどの速度は出していないが、揺れることには違いない。
「私は大丈夫です。休憩を多くとっていただいたし、速度もゆっくりでしたもの。予定より遅れてしまったのではないですか?」
「ここは元々宿泊予定地だったのですよ。旅は順調です。安心してください」
そうディルクが言うと、
「良かった」
リーゼが微笑んだ。
ディルクはその笑顔から目を背けた。ディルクの記憶にあるリーゼに似ていたからだ。
自分の失態で亡くしてしまった愛しい人を恋い焦がれるあまりに、また、リーゼを救えなかったという事実を素直に認めることができないほど自分の心が弱いので、リーナの笑顔にリーゼの面影を見てしまうのだと、ディルクは罪悪感に苛まれた。
リーナにリーゼを重ねて見てしまうのは、リーナにもリーゼにも失礼であると感じ、ディルクは頭を振りながら心を強く持たねばと自らを叱咤した。
町一番の高級宿はやはり快適だった。大人数向けの部屋なのでベッドルームが二室ある。それぞれの寝室にはベッドが二台置かれていたが、もちろん二人は違う部屋を使った。
ディルクに気遣われながらリーゼは食堂で夕食を済ませ、シャワーを浴びる。
夜になり一人でベッドに入ったリーゼは、ディルクのことを考えていた。
大きく節くれだった手や馬上で触れ合った時に感じた思った以上に筋肉質の体は、とても貴族のものとは思えない。しかし、洗練された身のこなしは農民や作業員とも考えにくかった。穏やかそうな顔をしているが、やはり騎士や兵士なのだろうかとリーゼは思う。そして、長期に国を留守にして大丈夫なのかとも気になった。
翌日、リーゼは確かめてみることにした。隠されるのならば仕方がないが、偽りとはいえ夫となる人のことを何も知らないのは不安だった。
「あの、ディルクの職業は何なのでしょうか?」
草原を快適に走る馬の上で、リーゼは後ろのディルクに小さな声で訊いた。答えたくないのであれば聞こえなかった振りをして無視すればいいと思ったからだ。
「一応、将軍?」
短くはない沈黙の後、首を傾げながらディルクが答えた。
「えっ? 何とおっしゃいましたか?」
聞こえていたけれど、内容が理解できないリーゼだった。
「えっと、将軍たっだりするんだ」
ディルクはそう言って笑う。
リーゼの知る限り、ブランデスに将軍と呼ばれる人物は一人しかいないはずだ。
「まさか、ハルフォーフ将軍閣下?」
「知っているのか? もしかして噂も?」
ディルクは大層驚いているが、青碧の闘神のことならば平民の子どもだって知っている。リーゼの実家である公爵邸の侍女も噂していた。だから、貴族の侍女をしていたと偽っているリーゼがハルフォーフ将軍のことを知っていたとしても可笑しくはない。しかし、リーゼは本人と直接顔を合わせたことがある。ディルクにリーゼと知られてしまうのでないかと恐れていた。
リーゼの恐れの気配を、青碧の闘神の噂に恐れているのだとディルクは誤解した。
「青碧の闘神の伝説は作られたものだ」
ディルクは静かに語りだした。リーゼは黙って聞くことにする。
「父は清廉潔白な人物で部下の信任も厚かった。相手がどのように卑怯な手を使ってきても正々堂々と受けて、卑怯な手で応じることを良しとしなかった。それは、伝統ある大国の兵を率いる将として必要なことだった。しかし、父は卑怯な奇襲に破れた。国を追われた難民のふりをして我が軍に近付き、保護しようとした父を殺した。だから、僕は新しい将軍になった。父を卑怯な手で殺され復讐に燃える十九歳の若造が暴走しても、ブランデスの名を汚すことはないと判断したから」
ディルクは当時のことを思い出したのか、悔しそうに目を細めた。
「父の部下たちも父の命を守って正々堂々と戦っていたが、僕は彼らにどんな手を使ってでも勝てと命じた。それが卑怯な行いだったとしても全て若く未熟な将軍のせいにすればいいと。僕は陽動のために目立つ鎧をまとい戦った。敵方に新しい将軍は血に飢えた戦闘狂だと知らしめながら」
ディルクが勝利したした時のことを思い出し柔らかく笑った。
「戦争に勝つことができたのは、優秀な父の部下がいたからだ。僕の力ではない。本当は国のために死ぬつもりだったが、僕は生き残り、気がつけば伝説が大げさなものになっていた。陛下はその伝説を利用して国の威信を高めようとしたので、益々大層な伝説に変貌していった。だから、僕は普通の人間だ。怖がらないで欲しい」
怖がったりしない。そうリーゼは思った。昨年ブランデスに訪れた時、ハルフォーフ将軍の人柄に触れて噂のような怖い人物ではないと知っていたからだ。
しかし、それを伝えることはできない。ハルフォーフ将軍は一年前に一ヶ月ほど護衛と案内役を勤めてくれたが、幸いにもリーゼのことを覚えていないようだ。
リーゼはこの世からいなくなった。助け出してくれた牢番のためにも、リーゼであることを知られてはならない。
「でも、母は噂通りの人かもしれない」
無言のリーゼにディルクは困ったようにそう言った。
「勇ましいお母様でしょうか?」
偽りの妻だが、リーゼはまだ見ぬ姑がちょっと怖いと思ってしまう。
「リーナが想像するよりもっと凄いと思う。でも、僕も将軍なんだから君を守るぐらい出来ると思うんだ。きっと」
見上げるとディルクの目が泳いでいたので、リーゼは少し不安になった。
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