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第一話 婚約解消
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社交界では王太子の婚約破棄が大きな話題になっている。しかし、しがない子爵の私には関係がないと思っていた。
王太子の新しい婚約者を虐めていたとして、元の婚約者である公爵令嬢のユスティーナが投獄されたと聞いたが、どこまでも他人事だったのだ。
私にはティーアと言う名の三歳下の婚約者がいる。彼女と婚約したのは十六歳の時。それから六年が経ったが、今まで彼女に不満など抱いたことはない。
冴え冴えとした美貌を持つユスティーナとは違って、ティーアは特段美人ではないが、柔らかい雰囲気の可愛らしい女性だ。私は彼女をそれなりに気に入っていて、二人ならば穏やかな温かい家庭を築けると考えていた。
「お兄様、ティーアさんと知らない男が抱き合っているのを見てしまったの。私は彼女がお義姉様になるのは嫌よ。あんなことをするなんて、ふしだらだと思うもの」
ある日突然、妹のマリッカがそんなことを言い出した。
「何かの見間違いじゃないのか?」
妹を疑うわけではないが、ティーアがそんなことをするとはとても信じられない。私と会う時は頬を染めて、軽い口づけも許してくれていたのだ。私は彼女に少なくとも嫌われていないとの自信があった。
社交界には結婚は義務として諦め、嫡男出産後に自分好みの愛人を持つ女性もいるが、ティーアはそんなことを望んでいないだろうと思う。ましてや婚前に愛人を作るような愚かな真似をする娘ではない。
「でも、私ははっきりと見たの。昨夜の王宮で開催された夜会の時、風に当たりたくてバルコニーに出たのよ。すると少し離れた庭で抱き合っている男女が見えたの。あれはティーアさんに違いないもの。絶対に見間違いじゃないわ」
妹は頑なに言い張った。
「わかった。直接ティーアと会って確かめてくる」
妹の言葉は信じられない。夜の庭ならばかなり暗いはずだ。それほどはっきりと姿が確認できるとは思えない。私はティーアが笑って妹の言葉を否定してくれると考えていた。
ティーアは私と同じ子爵家の娘だ。私の父は半年前に病気で急逝したので、急遽私が子爵位を継ぐことになった。そして、父の喪が明ける半年後には結婚式を挙げることになっている。ティーアは私の妻として子爵夫人となることが決まっているのだ。他の男と抱き合うことなどあるはずがない。
ティーアの住むナルヴァネン子爵邸へ着くと、少し眠そうな彼女が出てきた。
私はティーアを庭に誘う。初めて彼女と手を繋いだのも、口づけを交わしたのもこの庭だ。ここには私たちの六年の思いが詰まっている。
「昨夜の夜会の時、私の知らない男と庭で密会していたと聞いたが」
私はティーアが笑って否定すると思っていた。
「えっ? ち、違うの。私は誰とも会っていないわ」
ティーアが慌てたように首を横に振った。顔色が血の気を失ってしまったように蒼白になっている。もちろん笑みなどない。
予想とは随分と違った彼女の反応に、私は戸惑ってしまった。
「本当よ。誰とも会っていないのよ」
言い訳のようにティーアは何度も同じ言葉を繰り返している。
「その男を庇っているのか!」
私にはそうとしか思えなくなっていた。
「違うの。私は誰とも会っていない。本当よ」
いつも幸せそうに微笑んでいたティーアの泣きそうな顔など、私は初めて見た。彼女にこのような顔をさせたのが密会相手の男かもしれないと思うと、私は苛立ちを抑えることができなかった。
「もういい」
私はそう言うとティーアを強く抱きしめて、乱暴に唇を奪った。彼女を抱きしめていたという名も知らぬ男の名残りを消し去りたい。それだけが私の頭を占めていた。
ティーアは苦しそうにしているが、私は許すつもりはない。彼女の体に触れるのは私だけでいい。他の男になど二度と触れさせたりしない。そう思いながら彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
ティーアの脚から力が抜けたのか、私の腕にかかる彼女の重みが一気に増した。私は慌てて彼女から唇を離す。
荒い息を繰り返しているティーアは、私を恐れるように見上げてきた。
「オリヴェル様、怖い」
確かにティーアはそう言った。今までのように頬を赤く染めて微笑んでくれることはない。
「昨夜、誰と会っていた。その男と口づけを交わしたのか? それとももっと深い仲になったのか?」
肯定されるのが怖かったが、それでも苛立ちに任せて問い質した。
「違う。あの人とはそんな仲じゃないの」
そう言ったティーアは、しばらくして自分の失言に気がついたようだ。
「違うのよ。オリヴェル様、信じて」
何を信じろと言うのだろうか?
「誰と会っていた?」
私はそれが知りたい。私たちは婚約者なのだ。私には知る権利があると思う。
「そ、それは……」
ティーアは俯いたままそれきり黙ってしまう。
ティーアにとって、私はただの政略結婚の相手だったのだろうか。確かに最初は爵位が釣り合うという理由で親が勝手に決めてきた婚約だった。
それでも私は彼女と幸せな家庭を築こうと思っていたし、彼女もそう思ってくれていると信じていた。
しかし、彼女は秘密の恋人を求めているらしい。
石で出来ていると思っていた床がまるで砂だったような頼りなさを感じてしまう。このまま地へ飲み込まれてしまうようだった。
「婚約を解消しよう」
正直に言うと、ティーアにはまだ未練があった。このまま彼女と結婚して外にも出さずに、他の男など忘れさせてしまいたい。
しかし、ティーアの私を見る目が怖かった。私を恐れる彼女の眼差しをこれ以上浴びたくはない。
「オリヴェル様、私は嫌です」
首を何度も横に振るティーアを残して、私はナルヴァネン子爵家を後にした。
王太子の新しい婚約者を虐めていたとして、元の婚約者である公爵令嬢のユスティーナが投獄されたと聞いたが、どこまでも他人事だったのだ。
私にはティーアと言う名の三歳下の婚約者がいる。彼女と婚約したのは十六歳の時。それから六年が経ったが、今まで彼女に不満など抱いたことはない。
冴え冴えとした美貌を持つユスティーナとは違って、ティーアは特段美人ではないが、柔らかい雰囲気の可愛らしい女性だ。私は彼女をそれなりに気に入っていて、二人ならば穏やかな温かい家庭を築けると考えていた。
「お兄様、ティーアさんと知らない男が抱き合っているのを見てしまったの。私は彼女がお義姉様になるのは嫌よ。あんなことをするなんて、ふしだらだと思うもの」
ある日突然、妹のマリッカがそんなことを言い出した。
「何かの見間違いじゃないのか?」
妹を疑うわけではないが、ティーアがそんなことをするとはとても信じられない。私と会う時は頬を染めて、軽い口づけも許してくれていたのだ。私は彼女に少なくとも嫌われていないとの自信があった。
社交界には結婚は義務として諦め、嫡男出産後に自分好みの愛人を持つ女性もいるが、ティーアはそんなことを望んでいないだろうと思う。ましてや婚前に愛人を作るような愚かな真似をする娘ではない。
「でも、私ははっきりと見たの。昨夜の王宮で開催された夜会の時、風に当たりたくてバルコニーに出たのよ。すると少し離れた庭で抱き合っている男女が見えたの。あれはティーアさんに違いないもの。絶対に見間違いじゃないわ」
妹は頑なに言い張った。
「わかった。直接ティーアと会って確かめてくる」
妹の言葉は信じられない。夜の庭ならばかなり暗いはずだ。それほどはっきりと姿が確認できるとは思えない。私はティーアが笑って妹の言葉を否定してくれると考えていた。
ティーアは私と同じ子爵家の娘だ。私の父は半年前に病気で急逝したので、急遽私が子爵位を継ぐことになった。そして、父の喪が明ける半年後には結婚式を挙げることになっている。ティーアは私の妻として子爵夫人となることが決まっているのだ。他の男と抱き合うことなどあるはずがない。
ティーアの住むナルヴァネン子爵邸へ着くと、少し眠そうな彼女が出てきた。
私はティーアを庭に誘う。初めて彼女と手を繋いだのも、口づけを交わしたのもこの庭だ。ここには私たちの六年の思いが詰まっている。
「昨夜の夜会の時、私の知らない男と庭で密会していたと聞いたが」
私はティーアが笑って否定すると思っていた。
「えっ? ち、違うの。私は誰とも会っていないわ」
ティーアが慌てたように首を横に振った。顔色が血の気を失ってしまったように蒼白になっている。もちろん笑みなどない。
予想とは随分と違った彼女の反応に、私は戸惑ってしまった。
「本当よ。誰とも会っていないのよ」
言い訳のようにティーアは何度も同じ言葉を繰り返している。
「その男を庇っているのか!」
私にはそうとしか思えなくなっていた。
「違うの。私は誰とも会っていない。本当よ」
いつも幸せそうに微笑んでいたティーアの泣きそうな顔など、私は初めて見た。彼女にこのような顔をさせたのが密会相手の男かもしれないと思うと、私は苛立ちを抑えることができなかった。
「もういい」
私はそう言うとティーアを強く抱きしめて、乱暴に唇を奪った。彼女を抱きしめていたという名も知らぬ男の名残りを消し去りたい。それだけが私の頭を占めていた。
ティーアは苦しそうにしているが、私は許すつもりはない。彼女の体に触れるのは私だけでいい。他の男になど二度と触れさせたりしない。そう思いながら彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
ティーアの脚から力が抜けたのか、私の腕にかかる彼女の重みが一気に増した。私は慌てて彼女から唇を離す。
荒い息を繰り返しているティーアは、私を恐れるように見上げてきた。
「オリヴェル様、怖い」
確かにティーアはそう言った。今までのように頬を赤く染めて微笑んでくれることはない。
「昨夜、誰と会っていた。その男と口づけを交わしたのか? それとももっと深い仲になったのか?」
肯定されるのが怖かったが、それでも苛立ちに任せて問い質した。
「違う。あの人とはそんな仲じゃないの」
そう言ったティーアは、しばらくして自分の失言に気がついたようだ。
「違うのよ。オリヴェル様、信じて」
何を信じろと言うのだろうか?
「誰と会っていた?」
私はそれが知りたい。私たちは婚約者なのだ。私には知る権利があると思う。
「そ、それは……」
ティーアは俯いたままそれきり黙ってしまう。
ティーアにとって、私はただの政略結婚の相手だったのだろうか。確かに最初は爵位が釣り合うという理由で親が勝手に決めてきた婚約だった。
それでも私は彼女と幸せな家庭を築こうと思っていたし、彼女もそう思ってくれていると信じていた。
しかし、彼女は秘密の恋人を求めているらしい。
石で出来ていると思っていた床がまるで砂だったような頼りなさを感じてしまう。このまま地へ飲み込まれてしまうようだった。
「婚約を解消しよう」
正直に言うと、ティーアにはまだ未練があった。このまま彼女と結婚して外にも出さずに、他の男など忘れさせてしまいたい。
しかし、ティーアの私を見る目が怖かった。私を恐れる彼女の眼差しをこれ以上浴びたくはない。
「オリヴェル様、私は嫌です」
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