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第五話 ボンネフェルトへ
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シャウテンの町に来て十年目。私は二十三歳になっていた。
婚約者のいる男性を誘惑して婚約破棄に追い込んだと思われている私に良縁などあるわけもなく、偶に舞い込むのは年の離れた男性の後妻の話くらい。中には妾にならないかとの誘いもあった。
幸い、アクセサリーを作ったり刺繍をしたりして店の売り上げに貢献できているので、無理に結婚しなくても母や弟にそれほど迷惑をかけることもない。私は後妻や愛人になることなく、今まで独身を貫いている。
家事を一手に引き受け、残り時間を作業に当てる毎日だ。あれから六年も経ち、噂は随分と風化しているけれど、それでも外に出るのはちょっと怖い。幼かった弟も成人したので、仕入れや営業、納品などは弟に任せ、店番は母が担当しいている。
こうして、それなりに平和に暮らしていた。
しかし、ここにきて弟の縁談がまとまりそうになった。近所に住むルイザおばさんから女性を紹介されたのだ。まだ十八歳のアンチェさんはとても可愛くて、二十一歳の弟とお似合いだった。弟は一目惚れだったらしく、彼女と会って以来気もそぞろになっている。
嬉しいことに、アンチェさんも弟を気に入ってくれたとのこと。小さなこの家へお嫁にきてもいいと言ってくれているらしい。
弟の結婚はとても嬉しいことだと思う。でも、私は余計者になってしまう。とにかく家を出るために結婚相手を探さなければと焦って、久しぶりに外へ出てみる。
顔の広いルイザおばさんに相談してみようかと思うけれど、後妻になる決心もつかず、当てもなく歩いていた。
ふと、騎士分団駐在所の前に立っている掲示板を見ると、『ボンネフェルト』と書かれた張り紙が目についた。難しい文字は読めないけれど、数字と町の名前は確実にわかる。
ボンネフェルトはまだ父が生きていたころに訪れたことがある。辺境伯領の国境とは反対側の端にある町だ。田舎でもなく都会でもない。活気があって住みやすそうなところだった。
こことは違う町へ行けば、何かが変わるかもしれない。そんなことを考えながらぼうっと張り紙を見ていた。
「この張り紙に興味があるのか?」
急に声をかけられて振り向くと、後ろにラルスと同年代の騎士が立っていた。
「すみません。殆どの文字はわかりませんが、ボンネフェルトだけ読めたもので。昔、ボンネフェルトの町へ行ったことがあったのです。それで懐かしくなって見ていました」
勤務の邪魔をしては申し訳ないと思い、慌てて立ち去ろうとした。
「待って。これはボンネフェルト騎士団独身寮の調理補佐員募集のチラシなんだ。移住するつもりがあるのなら、中へ入って詳しい話を聞かないか?」
ボンネフェルトへ移住する。それはとても魅力的なことに思えた。私のことを誰も知らない町で、一人で仕事をしながら生きていく。そんなことが許されるのならば、どんなに幸せだろうか。その魅力に抗いがたく、その騎士の後に続いて駐在所へ入ることにする。
外からは小さな建物に見えたけれど、駐在所は思ったよりも広かった。小さな机が四脚置いてある。しかし、声をかけてくれた騎士以外誰もいなかった。机の前に置かれた木の椅子を勧められたので、躊躇いながら座った。反対側に座った騎士はにこやかに微笑んでいる。
私がラルスの将来を奪った女だと知ったら、怒鳴られるか、たたき出されるかもしれない。そんなことを思いながら顔を上げる。
「住み込みで働いてくれる人を募集しているらしいけれど、それは大丈夫なのか?」
住み込みで働けるなんて、願ったり叶ったりだ。
「はい。大丈夫です。こちらからお願いしたいくらいです」
「長く勤めてもらいたいので、向こうの希望は寡婦らしい。ほら、すぐ結婚して辞められると困るから」
「私は未婚ですが、結婚の予定はありません。できたら、長期で勤めたいです」
「名前と年齢を教えてくれるか?」
「雑貨屋のマノン。二十三歳です」
「向こうの通りの雑貨屋か?」
騎士が指さしたのは確かに我が家の方向だった。
「はい。そうです」
そう答えると、騎士は複雑そうな顔をした。やはり私のことを覚えているようだった。
遠い町に行き住み込みで働けるなんて夢のようだと思ったけれど、六年前のことを知っている騎士ならば、絶対に断るだろうと覚悟した。
「所長に推薦状を書いてもらうように頼んでおく。それで採用されるかわからないけれど、かなり有利にはなるだろう」
私のことを知っている様子なのに、その騎士は随分と親切だった。それが少し不思議だと思った。
「明日にでも推薦書を取りに来てくれるかな」
「はい。よろしくお願いいたします」
笑顔になった騎士に少し違和感を覚えながら承諾の返事をする。もしかしたら、凄く過酷な勤務なのだろうか?
寡婦を想定しているというので、独身騎士の性的な世話をする職なのかもしれないとの思いが過るが、それならばそれでもいいと思った。
私とラルスのことを知っている騎士が笑顔になるような仕事ならば、ラルスだって溜飲が下がると少しは喜んでくれるかもしれない。
翌日、分団駐在所に行くと、なんと奥の所長室に通された。それほど広くはないけれど、立派な机が置いてある。その向こうに年配の騎士が座っていた。
「ボンネフェルトまではここから馬車で五日ほどかかる。気軽に里帰りもできないが、それでもいいのか?」
所長の言葉にも毒は含まれていない。私を気遣っているようにすら聞こえる。
「はい。弟の結婚が決まり、お嫁さんが母と同居してくれるそうなのです。小姑が居座っているより、少し遠いところにいる方がいいと思います」
「主な仕事は食堂の手伝いなのだが、なにせ大食らいの若い騎士が百人以上住んでいる寮なので、結構な重労働らしい。寮長の娘さんが妊娠して仕事を休むことになり、採用を急いでいると聞いているので、なるべく早く出発して欲しいのだが」
仕事は性的なものではなく、ただの食堂の手伝いらしい。よく考えてみると、騎士分団の掲示板にそんな怪しい仕事のチラシを貼るはずない。
「わかりました。用意が出来次第出発します」
私のことを知らない新しい町。そう思うと早く行ってみたくなった。ここシャウテンは、父が亡くなってからとてもお世話になった町で、居づらくなったのは私のせいだけど、でも、この町には辛い思い出が多すぎる。
「これが推薦状だ。もし、独身寮に採用されなくても、これを見せれば洗濯女でよければ住み込みの職にありつけるだろう」
所長は何も書かれていない封筒を差し出した。封をしているので中は確かめられないけれど、推薦状が入っているらしい。本当に有難いことだ。馬車代を出してボンネフェルトへ行っても、不採用になったらどうしようと思っていた。この町に帰って来ても行くところもない。これ以上、母や弟に世話をかけるわけにはいかなかった。
「本当にありがとうございます」
封筒を受け取り、部屋を出ようとすると、
「体には気をつけて。頑張れよ」
後ろからそんな優しい声がした。父の声に似ているような気がして、少し涙ぐんでしまう。
六年前のあの日以来、酷い言葉を何度かぶつけられた。それは当然だと思うのでもう泣いたりしないけれど、母や弟以外からこんな風に優しくされることに馴れていない。
「はい。できるだけ努力いたします」
ラルスにしたことを知っているのに、黙って推薦状を書いてくれた所長の顔を潰すわけにはいかない。精一杯頑張ろうと思う。
「本当に行くのか? この町でも住み込みの職くらい探せると思うけど」
それから三日後、ボンネフェルトへ向かう馬車があるというので、それに乗って行くことにした。あまりに急なことなので、弟がびっくりしている。
「他の町に行ってみたいから」
そう言うと、弟は黙ってしまった。
「今度帰って来る時は、素敵な旦那様を連れて来てね」
そう言って母は笑って送り出してくれた。できれば母の願いを叶えたいけれど、それは無理だろうと思う。でも、笑顔で頷いておく。
騎士が馬を早駆けさせると二日もかからない距離だけど、馬車なら五日もかかる。最強と謳われる辺境騎士団が街道を見回っているお陰で、盗賊が現われることもなく天候にも恵まれて快適な旅であった。でも、十三歳まで町や村を巡回していて旅慣れているはずなのに、さすがに疲れた。
ボンネフェルトの町に着いた頃には夕方になっていたけれど、早速騎士団の独身寮へと向かう。
対応に出て来てくれたのは若い娘だった。彼女の名はアニカ。寮長の末娘だという。
「団長さんから貴女のことは聞いています。できれば明日から勤務してもらえれば嬉しいのだけど。今から夕食が始まるので、父は手が離せないの。食堂でここの様子を見がてら待っていてもらえますか? 夕食も食べてくださいね」
アニカはそう言って広い食堂へと連れて行ってくれた。
疲れていた私は、黙って彼女についていき、食堂の端にある椅子に座って待つことにした。
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幸い、アクセサリーを作ったり刺繍をしたりして店の売り上げに貢献できているので、無理に結婚しなくても母や弟にそれほど迷惑をかけることもない。私は後妻や愛人になることなく、今まで独身を貫いている。
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しかし、ここにきて弟の縁談がまとまりそうになった。近所に住むルイザおばさんから女性を紹介されたのだ。まだ十八歳のアンチェさんはとても可愛くて、二十一歳の弟とお似合いだった。弟は一目惚れだったらしく、彼女と会って以来気もそぞろになっている。
嬉しいことに、アンチェさんも弟を気に入ってくれたとのこと。小さなこの家へお嫁にきてもいいと言ってくれているらしい。
弟の結婚はとても嬉しいことだと思う。でも、私は余計者になってしまう。とにかく家を出るために結婚相手を探さなければと焦って、久しぶりに外へ出てみる。
顔の広いルイザおばさんに相談してみようかと思うけれど、後妻になる決心もつかず、当てもなく歩いていた。
ふと、騎士分団駐在所の前に立っている掲示板を見ると、『ボンネフェルト』と書かれた張り紙が目についた。難しい文字は読めないけれど、数字と町の名前は確実にわかる。
ボンネフェルトはまだ父が生きていたころに訪れたことがある。辺境伯領の国境とは反対側の端にある町だ。田舎でもなく都会でもない。活気があって住みやすそうなところだった。
こことは違う町へ行けば、何かが変わるかもしれない。そんなことを考えながらぼうっと張り紙を見ていた。
「この張り紙に興味があるのか?」
急に声をかけられて振り向くと、後ろにラルスと同年代の騎士が立っていた。
「すみません。殆どの文字はわかりませんが、ボンネフェルトだけ読めたもので。昔、ボンネフェルトの町へ行ったことがあったのです。それで懐かしくなって見ていました」
勤務の邪魔をしては申し訳ないと思い、慌てて立ち去ろうとした。
「待って。これはボンネフェルト騎士団独身寮の調理補佐員募集のチラシなんだ。移住するつもりがあるのなら、中へ入って詳しい話を聞かないか?」
ボンネフェルトへ移住する。それはとても魅力的なことに思えた。私のことを誰も知らない町で、一人で仕事をしながら生きていく。そんなことが許されるのならば、どんなに幸せだろうか。その魅力に抗いがたく、その騎士の後に続いて駐在所へ入ることにする。
外からは小さな建物に見えたけれど、駐在所は思ったよりも広かった。小さな机が四脚置いてある。しかし、声をかけてくれた騎士以外誰もいなかった。机の前に置かれた木の椅子を勧められたので、躊躇いながら座った。反対側に座った騎士はにこやかに微笑んでいる。
私がラルスの将来を奪った女だと知ったら、怒鳴られるか、たたき出されるかもしれない。そんなことを思いながら顔を上げる。
「住み込みで働いてくれる人を募集しているらしいけれど、それは大丈夫なのか?」
住み込みで働けるなんて、願ったり叶ったりだ。
「はい。大丈夫です。こちらからお願いしたいくらいです」
「長く勤めてもらいたいので、向こうの希望は寡婦らしい。ほら、すぐ結婚して辞められると困るから」
「私は未婚ですが、結婚の予定はありません。できたら、長期で勤めたいです」
「名前と年齢を教えてくれるか?」
「雑貨屋のマノン。二十三歳です」
「向こうの通りの雑貨屋か?」
騎士が指さしたのは確かに我が家の方向だった。
「はい。そうです」
そう答えると、騎士は複雑そうな顔をした。やはり私のことを覚えているようだった。
遠い町に行き住み込みで働けるなんて夢のようだと思ったけれど、六年前のことを知っている騎士ならば、絶対に断るだろうと覚悟した。
「所長に推薦状を書いてもらうように頼んでおく。それで採用されるかわからないけれど、かなり有利にはなるだろう」
私のことを知っている様子なのに、その騎士は随分と親切だった。それが少し不思議だと思った。
「明日にでも推薦書を取りに来てくれるかな」
「はい。よろしくお願いいたします」
笑顔になった騎士に少し違和感を覚えながら承諾の返事をする。もしかしたら、凄く過酷な勤務なのだろうか?
寡婦を想定しているというので、独身騎士の性的な世話をする職なのかもしれないとの思いが過るが、それならばそれでもいいと思った。
私とラルスのことを知っている騎士が笑顔になるような仕事ならば、ラルスだって溜飲が下がると少しは喜んでくれるかもしれない。
翌日、分団駐在所に行くと、なんと奥の所長室に通された。それほど広くはないけれど、立派な机が置いてある。その向こうに年配の騎士が座っていた。
「ボンネフェルトまではここから馬車で五日ほどかかる。気軽に里帰りもできないが、それでもいいのか?」
所長の言葉にも毒は含まれていない。私を気遣っているようにすら聞こえる。
「はい。弟の結婚が決まり、お嫁さんが母と同居してくれるそうなのです。小姑が居座っているより、少し遠いところにいる方がいいと思います」
「主な仕事は食堂の手伝いなのだが、なにせ大食らいの若い騎士が百人以上住んでいる寮なので、結構な重労働らしい。寮長の娘さんが妊娠して仕事を休むことになり、採用を急いでいると聞いているので、なるべく早く出発して欲しいのだが」
仕事は性的なものではなく、ただの食堂の手伝いらしい。よく考えてみると、騎士分団の掲示板にそんな怪しい仕事のチラシを貼るはずない。
「わかりました。用意が出来次第出発します」
私のことを知らない新しい町。そう思うと早く行ってみたくなった。ここシャウテンは、父が亡くなってからとてもお世話になった町で、居づらくなったのは私のせいだけど、でも、この町には辛い思い出が多すぎる。
「これが推薦状だ。もし、独身寮に採用されなくても、これを見せれば洗濯女でよければ住み込みの職にありつけるだろう」
所長は何も書かれていない封筒を差し出した。封をしているので中は確かめられないけれど、推薦状が入っているらしい。本当に有難いことだ。馬車代を出してボンネフェルトへ行っても、不採用になったらどうしようと思っていた。この町に帰って来ても行くところもない。これ以上、母や弟に世話をかけるわけにはいかなかった。
「本当にありがとうございます」
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「体には気をつけて。頑張れよ」
後ろからそんな優しい声がした。父の声に似ているような気がして、少し涙ぐんでしまう。
六年前のあの日以来、酷い言葉を何度かぶつけられた。それは当然だと思うのでもう泣いたりしないけれど、母や弟以外からこんな風に優しくされることに馴れていない。
「はい。できるだけ努力いたします」
ラルスにしたことを知っているのに、黙って推薦状を書いてくれた所長の顔を潰すわけにはいかない。精一杯頑張ろうと思う。
「本当に行くのか? この町でも住み込みの職くらい探せると思うけど」
それから三日後、ボンネフェルトへ向かう馬車があるというので、それに乗って行くことにした。あまりに急なことなので、弟がびっくりしている。
「他の町に行ってみたいから」
そう言うと、弟は黙ってしまった。
「今度帰って来る時は、素敵な旦那様を連れて来てね」
そう言って母は笑って送り出してくれた。できれば母の願いを叶えたいけれど、それは無理だろうと思う。でも、笑顔で頷いておく。
騎士が馬を早駆けさせると二日もかからない距離だけど、馬車なら五日もかかる。最強と謳われる辺境騎士団が街道を見回っているお陰で、盗賊が現われることもなく天候にも恵まれて快適な旅であった。でも、十三歳まで町や村を巡回していて旅慣れているはずなのに、さすがに疲れた。
ボンネフェルトの町に着いた頃には夕方になっていたけれど、早速騎士団の独身寮へと向かう。
対応に出て来てくれたのは若い娘だった。彼女の名はアニカ。寮長の末娘だという。
「団長さんから貴女のことは聞いています。できれば明日から勤務してもらえれば嬉しいのだけど。今から夕食が始まるので、父は手が離せないの。食堂でここの様子を見がてら待っていてもらえますか? 夕食も食べてくださいね」
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