上 下
12 / 14

勝湖ぶどう祭りの夜(その4)

しおりを挟む
 既にいつ決壊してもおかしくない尿意に悩まされながら、陸は猛烈な甘さのお茶を喉の奥に流し込む。水あめ状のお茶からは渋みや香りがまったく感じられず、ただひたすらに甘い。それでも一口二口と飲むごとに、周囲の観客からは大きな歓声が湧き上がった。

 花火も打ち終わり、露天の中には片付け始めている者もいる。祭りが終わりへと向かう中、突然始まったわた菓子大食いイベント。祭りのフィナーレに相応しいかどうかは別として、その大役を陸は気付かぬうちに引き受けていた。

 お茶も残りコップ一杯分となったが、ウミとクゥはまだお手洗いから戻っていない。今の状況を見ると、二人はきっと自分も手伝うと言い出すだろう。でもそうなると袋ごしに間接キスすることになるので、それも何だか気恥ずかしい。二人が戻る前に何とかすべてを終わらせようと、陸は最後の気力を振り絞って極甘緑茶を飲み干した!

『やったな坊主! 約束通り、ここのわた菓子を買ってやる』

『おじさん、私にもわた菓子ちょうだい』

 拍手をおくるギャラリーの中には、何故か涙を流している者までいる。ニメートル近い大きさのわた菓子を食べただけだが、感動したポイントが分かりづらい。聖火ランナーとして一緒に走ったメンバーもこの様子を見ていたのか、陸に気安く声をかけてくる。

 そしてこのメンバーに肩を叩いた瞬間、ついに陸の尿意は我慢の限界を迎えた……。

「す、すいません。急用を思い出しまして!」

 周囲の人だかりを掻き分けながら陸はグラウンドの近くにある総合体育館と弓道場の間に逃げ込むと、ルール違反とは承知しつつも人目から見えない位置で用を足す。

「はあ、助かった……」

「立ち小便とは少し行儀が悪くないかな、国津 陸くん」

 我慢していた尿意から解放され、陸は思わず安堵のため息をもらした。するとこの一部始終を目撃されていたのか、突然背後から声をかけられる。

「ごめんなさい、どうしても我慢出来なくて! って、なんで俺の名前を?」

 陸が振り返ると、そこには三十歳くらいの男性が立っていた。見覚えのないブランドの服を着ているが、違和感はまったく感じられない。その服を完璧に着こなしていることが容易に想像出来る。柔和な笑みを浮かべながら、男は陸に自己紹介した。

「初めまして、私の名はライオネル・グラフ。このたび倭(やまと)方面軍の指揮官を拝命することとなった。前作戦時に己が命を犠牲にして倭を守り抜いた国津 神の息子に一度あいさつをしておきたくて、こうして来た次第だ」



「倭方面軍?」

 急に飛び出してきた倭方面軍という言葉に、陸は困惑する。ライオネルは笑みを崩さずに、自分が親の仇の一人だと明かした。

「どうやら君は敵の素性について、何も聞かされていないようだ。私は君達のいうデモンの一人、倭方面軍とはこの日本を侵略するために編成されたデモンの精鋭部隊。君も多少はデモンについて調べてみるといい」

 敵指揮官が自ら宣戦布告に訪れる。それはいつでもこの町を、この国を滅ぼせる自信がそうさせるのだろうか……。額から汗が一筋流れる、不用意に動けば命は無い。身動きが取れずにいると、遠くからクゥとウミの声が聞こえてきた。二人はいつまでも戻らない陸を探しに来たのだろう。二人をどうやって逃がすか思考を巡らせている陸に、ライオネルは一通の書簡を手渡してきた。

「君にこれを渡しておく、そちらの司令官に渡すといい。私がこれまでの指揮官とは違うということを、理解してもらえると思う」

 輪郭が徐々にぼやけながら、ライオネルの身体が闇に溶けていく。その姿が消える直前彼は己の爵位を告げた。

「そうそう、私の名のグラフはドイツ語の伯爵からきている。ここまで話したのだから私の爵位くらい理解出来たはずだ、次は戦場で会おう陸君」

 陸はクゥ達に合流すると、急いで天照の許へ向かう。露天に到着すると彼女は、次々と訪れる客に満面の笑みで接客していた……。けれども祭りの会場にデモンが出没していたことを知った天照は、すべての露天を畳ませると司令部である学園長室へと帰還したのである。

「そんな……伯爵級のデモンの出現を許していただなんて!? 国守二等陸士、この書簡の他にそのデモンから何か言われたことはございますか?」

「そういえばその書簡を読めばこれまでの指揮官と違うことが理解出来ると、ライオネルってそのデモンは言っていたな」

 天照は陸から手渡された書簡を、慎重な手つきで開封した。その書簡の内容を見た者は皆、このライオネルというデモンが別の意味で違うことを悟る。

【拝啓 秋も終わりに近づき気温の低下と共に冬の到来を感じさせる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?】

「最初に時候の挨拶から始めるって、この人はだいぶ筆まめな方みたいですね」

「問題はそこではないぞ姉上、早く続きを読むのだ」

 時候の挨拶に感心している天照に対して、冷静なツッコミを入れる須佐之男。コホンと軽く咳払いをすると、天照は書簡の続きを読み始めた。

【さて当方で準備を進めてまいりました市街戦と郊外戦等の支度が調いましたので、来週十月九日の土曜日に執り行いたく存じます】

(市街戦と郊外戦?)

 全員の脳裏に疑問符が浮かびあがる。さらに続きを読み進めるうちに、とんでもない奴が敵の指揮官になったと皆で頭を抱える羽目になった……。
しおりを挟む

処理中です...