秋彦

鳥丸唯史(とりまるただし)

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 おじいちゃんの姿がなかった。

「すいません。おじいちゃんは?」

 ちょうど看護婦が通りかかったのでたずねる。中庭へ出かけたと言うので、インスタントのゴマラーメンのカップの入ったビニール袋を置いておき、そこまで行くことにした。

 敷地内にある庭は広々している。車いすの少年や、松葉杖を両脇に挟みこんでリハビリしている中年がいる。診察を嫌がって逃げ回っている子もいた。

 それから整えられた芝生の辺にそってランニングしているおじいちゃんを発見した。ランニングはおじいちゃんの日課だ。看護婦が注意をしていない以上は大丈夫なのだろう。あの様子ではすぐにでも退院できそうに見える。走りを中断させるのもどうかと思ったので、終わるまでベンチで待つことにした。

 イチョウが庭を囲んでいる。黄緑をぼうっと眺めていると、年配の女性が近づいてきた。

「お隣よろしいかしら?」

 細くも和やかで上品な声づかい。その声がしんと沁みた。きっと死んだおばあちゃんと重なるからだ。

「あ、はい。どうぞ」

 女性はゆっくりと隣に腰を下ろした。私は人見知りをしない方だが、不思議とドキドキした。彼女のように、私も背筋を伸ばした。

「今日もいい天気だこと」
「そうですね」

 鳥のさえずり。とても気持ちのいい天気。

「こんな天気のいい時は、いつもこうやってイチョウを見に来ているの。入退院を繰り返していると、このお庭もわたしのお家の一部ね」
「別荘って奴ですね」
「そう。そうね。うふふふ」

 おばあちゃんは可笑しそうだった。私も楽しかった。と、私はおじいちゃんの言葉を思い出した。

「あのぉ、間違っていたらすいません。倉田さん、ですか?」
「あら、よく知ってる」
「はい。うちのおじいちゃんから聞いています」

 私はまだまだ走るのを止めないでいるおじいちゃんを指差した。

「あら、お孫さん? まぁ、本当に可愛らしくて素敵な方なのねぇ」

 目尻のしわをさらに深く作って微笑んだ。おばあちゃんの顔は和む。

「もう秋ですね」

 照れ隠しで私はそう言った。

「ついこの間まで暑かったのに、すっかり涼しくなって」
「本当ですね。もうすぐイチョウ、黄色くなりますね」

 すると倉田さんはイチョウの枝を見つめながら言った。

「こうしていると、若い頃を思い出すの。……彼と初めて出会ったのは春だったけど、その時からモミジの話をしていたから」

 ご主人とのなれそめに、倉田さんは少女のように愛らしい笑みを浮かべた。

「ここ、イチョウしかありませんね」
「そうなの。だから残念ね。イチョウもきれいなんだけれどねぇ」

 倉田さんのえくぼが何とも可愛らしかった。

「どんな人ですか?」
「とても繊細で、優しい人。わたしの愚痴もちゃんと聞いてくれてねぇ。短い間だったけれど、よく彼とモミジの並木道を歩いたわ。毎日紅葉になるのが楽しみだった」

 ご主人とは早く死に別れてしまったのだろうか。ちょっとかなしい。

「ごめんなさいね、初対面なのに。ここにはあまり話し相手がいないものだから」
「いえ、いいんです」

 倉田さんはその日々を思い出すかのように、静かに柔らかそうなまぶたを閉じた。

 おじいちゃんはやっと走るのをやめて、ぜいぜい息を切らしていた。無理しなくていいのに。
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