王国の飛行騎士

神田柊子

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第一部

三年前、第四側妃タールラルと第七王子カッラ

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 ――三年前。メデスディスメ王国、王宮。
 サリヤは十三歳だった。

「最近の情勢はどうなんだ? イキュリークイ国では一昨年鉱山が発見されたと、図書館の資料で読んだが」
「図書館! またですか、カッラ殿下」
 サザナ卿は目を吊り上げて、第七王子カッラであるサリヤに抗議した。
「殿下の教師は私ですよ。私が教えたことだけ覚えてくださればよいのです。余計な勉強などしなくてよろしい。以前のように司書や文官に質問などしていないでしょうね。私の教え方が悪いと思われるじゃないですか」
 大いに不満だったが、サリヤは口をつぐんだ。
 彼の教え方が悪いとはサリヤも思っていない。ただ、サザナ卿の講義ではサリヤの知りたいことを満たさなくなっていたのだ。しかも彼は自身の力不足を認めず、サリヤのせいにする。
 結果、今日もサリヤは退屈な講義の時間をあくびをかみ殺して乗り越えた。
 サザナ卿を教師にしたのは、サリヤと母を後見しているベップ侯爵だ。一年ほど前にサリヤはベップ侯爵に教師を変えてくれと訴えたが、一蹴されてしまった。第七王子が高度な学問を修める必要などないそうだ。――そんなわけがないだろうと思ったが、そこでもサリヤは口をつぐんだ。下手に何か言うとサザナ卿の講義でさえ受けさせてもらえなくなる可能性がある。
 代わりに密かに知識を得る方法を考えた。
 暇があれば図書館の本を読み漁り、司書や図書館で知り合った文官に質問をした。母の付き添いで訪れる聖堂では聖職者から歴史の話を聞いた。大陸公用語以外の他国の言葉は、傭兵上がりの兵士や辺境出身の使用人が遊び半分に教えてくれる。
 サリヤの未来はずっと暗雲に包まれている。
 王族であることに興味はない。成人したらすぐに王位継承権を返上し、いずれ文官にでもなれたら最高だ。
 しかし、サリヤは女だった。
 いつまで男だとごまかし続けられるのかわからない。偽りが明らかになったときにはきっと罰せられるだろう。
 破綻する前に逃げなければ命の保証が得られないが、逃げてしまったら二度と表舞台には立てないだろう。市井で目立たないように暮らすしかない。
 ベップ侯爵の言う通り、サリヤに高度な学問など必要ないのだった。
 自分が本当に男に生まれていたらどんなに良かっただろうか、と小さなころから何度も考えた。目が覚めたら男に変わっていますように、と何度も願った。
 だが、現実は厳しい。
 退屈な講義の時間の後、母と暮らす棟に戻ると間もなくベップ侯爵がやってきた。
 サリヤは彼をタールラルと一緒に迎える。
「タールラル妃。お加減はいかかですかな」
「ええ。あなたの顔を見るまでは、それなりに良好でしたわ」
 笑顔で返すタールラルにベップ侯爵の顔が引きつる。
 サリヤを出産して半年ほど寝込み、床上げしてからも体調を崩すことが増えたタールラルだが、最近は調子が良く、今日も起きていた。体を締め付けない楽なドレスで長椅子に座る。
 十六歳でサリヤを産んだタールラルはまだ二十九歳。サリヤの長兄である第一王子と同じ年だった。――つまり、タールラルは親子ほど年が離れた王に嫁がされたのだ。
 平民から側妃に上がったタールラルは王の寵愛を一身に受けていると思われた。それは間違いではなかったが、王の興味はさほど長続きもしなかった。
 自身の代で宮廷の役職を得られなかったベップ侯爵は、地位を固めようとタールラルの後見についたが、早々に目論見が外れた。タールラルの妊娠発覚と地方の反乱が立て続いたことで、王の足は遠のいたのだ。
 生まれた子どもが王子であったなら起死回生もあるかと、サリヤの性別を偽ったのはベップ侯爵だ。タールラルも知らないうちに王子として届け出がなされていた。
 そこまでしたのに王の興味は戻らなかった。他の妃に寵が移ったというよりは、各地の反乱の平定に忙しかっただけだったが。
 実際のところ、国王アンザイ三世は実力主義で、爵位の高低や姻戚関係、王子の後見などの理由で臣下を取り立てることはない。軍のトップの将軍でさえ身分低い子爵家の出身だ。しかし、宮廷に集まる大部分の者は身分重視だった。第二王子を産んだ第一側妃とその実家の方が、王子を産んでいない第三妃とその実家よりも幅を利かせているのが現状だった。
 ベップ侯爵もそれを狙ったのだろう。
 けれども、七人いる妃の一番下、十二人いる子どもの一番下。王女よりは王子の方がましな扱いだったかもしれないが、どうしたって重んじられる存在ではない。
 ベップ侯爵は無駄に罪を犯しただけだった。
 もういっそのことタールラルやサリヤは忘れられたままであってほしいとベップ侯爵は思っていることだろう。
「それはそうと、カッラ殿下。イキュリークイ国の使節団の者と接触したというのは誠ですか」
「ああ、耳が早いな」
 サリヤはため息を飲み込む。
 誰がどこで見ているのか。
 イキュリークイ国はメデスディスメ王国の北東。国境に大山脈があり陸路で行き来が難しいため、アンザイ三世も攻めあぐねて一度も戦火を交えていない。イキュリークイ国使節団は貿易協定締結の打診に訪れていた。
「たまたま、従者の少年が王宮の庭で迷子になっているところに出くわしただけだ」
「イキュリークイ国の言葉でお話されたとか」
「相手は共用語があまりわからないようだったからな」
「その従者が主人に報告したようで、殿下にお礼を申し上げたいと言っておりましたが、断っておきましたぞ」
「………………」
 何を勝手にと思うものの、目立って困るのはサリヤも同じだ。
 ベップ侯爵は鼻息荒く続ける。
「一部の文官の間で、カッラ殿下がイキュリークイ国の言葉を話せると噂になっておりますぞ!」
「片言だ。たいしてうまくはない」
 サリヤの話を聞かずに侯爵は「全く余計なことを」と苦々しく吐き捨てる。
「誰のおかげで王宮で暮らせていると思っているのだか」
 侯爵の言葉に「あら」と声を上げたのはタールラルだった。
「まあ、私たちはいつ王宮から出て行っても構わないのよ? ここに暮らしたいなんてちっとも思っていないもの」
 ねえ、とサリヤに微笑むが、目の奥は全く笑っていない。
「でも、私たちが王宮からいなくなったら侯爵は何の名目で王宮を訪れるのかしら」
 今でも役職のないベップ侯爵だ。後見している側妃と王子の機嫌伺いで参上していた。
 侯爵は「くぅ」っと唸ると、
「とにかく、目立つ真似は控えていただきたいですな!」
 そう捨て台詞を残し、帰っていった。
 扉が閉まり部屋に二人だけになってから、タールラルは大きな舌打ちをした。
「ちっ! あンの、くそじじいが! 何もかも手前のせいだろうに!」
 王の妃とは到底思えない口調で悪態をつく。
 酒場の歌い手だったタールラルは外面を取り繕うのがうまく、生粋の貴族夫人には劣るが普段はそこそこ淑女然とした態度を保っている。しかし、サリヤと二人のときは素を隠さなかった。
「あいつは頼りにならないわね。……ほんと、どうしようかねぇ」
 タールラルは丸みを帯びてきたサリヤの身体を見た。ごまかせるのもせいぜいがあと数年だ。
 ベップ侯爵がつけたサリヤの乳母は、カッラ王子が女だと知っている。今は彼女がサリヤの身の回りの世話もしているから問題にならないが、兄王子たちの例を見るとそろそろ少し年上の少年侍従がつけられるだろう。そうなったら期限はさらに早まるかもしれない。
「買い物の仕方は覚えたわね。乗合馬車の乗り方も。仕事を探す方法もいいわね」
 サリヤはうなずく。
 タールラルはサリヤに市井での暮らし方を教えてくれていた。タールラルが仕事にしていた歌も伝授してくれた。サリヤの腕前は歌手として十分やっていけると母のお墨付きだった。
 しかし実際に城下の街に一人で出たことはなかった。
「問題は逃げ出す方法ってわけね……ごほっ」
 タールラルは突然咳き込んだ。
「母上! 大丈夫ですか」
 サリヤは慌てて母の背中をさする。
「今、薬湯を取ってきます」
 立ち上がろうとするサリヤの手をタールラルは引いた。
「いい、わ。大丈夫……」
「しかし」
「飲んだら、減るでしょ。この程度……平気よ」
 タールラルはぜいぜいと耳障りな呼吸の合間に言葉を絞り出す。
 忘れられた側妃に王宮の薬師はなかなか薬を渡さない。そもそもが賄賂の量で薬の効き目を変えているような連中だった。
 ――メデスディスメ王国の宮廷は年々腐っていっているような気がする。
 国王アンザイ三世に関しても、近頃はあまりいい話を聞かなかった。
 覇王の称号通りに以前から専制的ではあったが、大国を率いていく力ある王として尊崇を集めてもいたのだ。それが最近では、常に不機嫌で、理由もなく人を怒鳴ったり手を上げたりするなど、暴君と呼ばれつつある。――王の求心力が下がったことで宮廷の腐敗が進んだのかもしれなかった。
 サリヤは生まれてから数回しか王と会話したことはない。公式行事でも端に並ぶサリヤは王の視界にも入らない。玉座に座る大きな男が自分の父親だという実感は全くなかった。
 一方でタールラルは思うところがあるらしく、王の悪評には憂い顔を見せる。
 ゆっくりと水を飲ませながら背中をさすり、母が落ち着くのを待つ。
 王宮から逃げるときにはサリヤ一人だと、タールラルは常に言っていた。
 それが嫌で、サリヤは逃走手段を探すことに必死になれずにいた。

 転機はすぐにやってきた。

 その日、サリヤは図書館から戻る途中だった。司書とうっかり話し込んでしまい、サザナ卿の講義の時間が迫っていた。
 いつもは通らない道を通ったのが失敗だった。
「おっと、カッラじゃないか!」
 声をかけられてサリヤは廊下の端に寄って、頭を下げる。心の中では舌打ちとため息が止まらない。
 第二王子のマスモットだ。
 マスモット王子は、国内の伯爵家から嫁いだ第一側妃の息子。第一王子とは一歳違いの二十八歳だ。
 メデスディスメ王国の王太子はまだ決まっていなかった。
 第一王子の母は公爵家出身の第二妃。同じく公爵家出身の第一妃を母に持つ第三王子も二十五歳と年が近い。
 王太子はこの三人のいずれかだろうと思われている。
 サリヤはできることなら第三王子に王太子になってほしかった。なんといっても、彼が一番まともなのだ。
 第一王子は父親の好色の部分だけ受け継いだような、女性関係の悪い噂しか聞かない男だ。イキュリークイ国の使節団に「なぜ女を連れて来なかった」と文句を言ったらしい。
 それでイキュリークイ国が何か言ってくるようなら攻め込めばいい、と公言するのがこの第二王子マスモットだった。こちらもこちらで父親の好戦的な部分だけを受け継いでいる。
「久しぶりだな。お前、まだ王宮にいたのか!」
 あははと大きな声を上げてマスモットは笑った。取り巻きの貴族の若者も追従して笑う。
「お久しぶりにございます」
「顔を上げろ」
「は」
 さっさと通り過ぎてくれないかと願ったが、そうはいかなかった。
 顔を上げたサリヤに、マスモットは「へぇ」と声を上げる。何か彼の興味を引いてしまったらしい。体の大きなマスモットが正面に立つと威圧感がある。
「下賤な母親に似てきたな」
 彼はサリヤの足を軽く蹴る。一歩引いたサリヤにマスモットは、にやにや笑った。
「そんなことでふらつくようじゃダメだろう。特別に俺が鍛えてやる」
「いえ、殿下のお手を煩わせるなどとんでもない」
「いやいや、遠慮するな。お前も王子だ。いつか戦に出ることもある。今のうちから鍛えた方がいい」
 倍以上も年齢が違うし、サリヤに武芸の才能はない。こちらが子どもだからといってマスモットが手加減するとも思えない。彼と手合わせなどしたら、一方的になぶられる展開が目に見えている。
 サリヤは内心は必死で、表面上は静かに断りの言葉を重ねた。
「いいえ。私は成人しましたらすぐに臣下に下るつもりでおります。武芸には向いておりませんので、文官を目指しております」
「ははは、文官だ? それでも剣の心得はあって損はない」
「申し訳ございません。このあとは講義がありますゆえ」
「カッラ。俺が鍛えてやるって言っているんだ」
 マスモットは声を低くして、後ろにいた取り巻きの男に顎をしゃくった。指示された男がサリヤに近づく。
 サリヤが体を硬くしたときだ。
「兄上! こんなところにいらっしゃったのですか」
 絶体絶命のところに割って入ってきたのは、第四王子イーノヴェだった。彼はマスモットの同母の弟だ。少し年齢が離れているイーノヴェは十九歳。――第三王子と第四王子の間には王女が三人いる。
「第二師団のアガツマが兄上に面会にやってきていましたよ」
「おお! アガツマか。そういえば約束があったな」
 マスモットはサリヤの存在を忘れたように、取り巻きを連れてさっさと去っていった。こちらのことなど暇つぶしの玩具としか見ていないのだ。
 取り残されたサリヤは、イーノヴェに頭を下げる。彼のことはよく知らなかった。サリヤを助ける意図があったのかどうか。
「イーノヴェ殿下、ありがとうございます。私は剣術は得意ではないもので困っていたところでした」
「兄上と手合わせなんて、僕でも遠慮したいからね」
 イーノヴェはにこやかに笑う。線の細い男だった。見た目も性格も兄とは違うようだった。まあ、違うからこそ仲良くできるのかもしれない。
「カッラ」
 また別の声に振り返り、サリヤは目を見開いた。
 現れたのは第三王子ウェダだ。
 彼は護衛の騎士を一人連れていた。
 イーノヴェは笑顔でウェダを迎える。
 王太子を争っているマスモットとウェダ。マスモットとイーノヴェは同母で兄弟仲も悪くないことを考えると、ウェダとイーノヴェは敵同士とも言える。その二人が自然に並んでいる。
 二人を見比べるサリヤに、ウェダはうなずいた。美貌を誇る第一妃に似た秀麗な顔は、銀の髪と相まって冷淡にも見える。
「確かに頭は悪くないようだな」
「引き込んでおいて損はないと思いますよ」
 この二人は裏で協力していたのか。
 サリヤは息を飲む。
 淡い青の瞳がサリヤを見下ろした。
「文官になりたいと言ったな?」
「え? ……え、ええ」
「教師を派遣してやろう」
「本当ですか?」
「内密になるから、今の教師はそのままにしておけ」
「は、はい」
 ありがとうございます、とサリヤは頭を下げた。
「いずれ役立ってもらうからそのつもりでいるように」
「は」
 短く答えたものの、性別を偽っているサリヤが彼の役に立てるかはわからない。ウェダに打ち明けるか、予定通り逃げるか、まだ判断がつかない。
「そのときまで、五年はかからない」
 何の気負いもなく、ウェダはそう言った。五年以内に王太子になる、と。ごく当たり前の予定のように。
 サリヤは目を瞠る。
 イーノヴェにちらりと目をやると、彼はにこやかに笑った。
「お二人は、」
 サリヤの言葉をウェダが手を上げて遮る。それが顔のすぐ前だったため、サリヤは驚いてたたらを踏んだ。バランスを崩しかけたサリヤの上体をウェダが支えた。
「驚かせたか」
「いえ、ありがとうございます」
 サリヤは慌てて体を引く。
 ウェダは怪訝な顔でサリヤを見つめた。
 サリヤは背筋を凍らせた。女だと気づかれたかもしれない。
 彼女の心配をよそに、ウェダは表情を戻すと、
「ここで長話はできない。詳細は追って連絡する」
「はい。それでは」
 挨拶もそこそこにサリヤはその場を辞した。
 三日後告げられたのは、フスチャットスフ領にある離宮への移転だった。名目はタールラルの病気療養。彼女の故郷のフスチャットスフ領で静養しろということらしい。驚くことに国王の名前で出された命令だった。
 それがウェダの采配だとわかったのは、サリヤの護衛として、ウェダの護衛騎士のマガリが配置されたからだ。イーノヴェとウェダと会ったあの場にもマガリはいた。
 サリヤの身の回りの世話をする侍女ヒルカも、ウェダの元からやってきた。
 ウェダは約束通りに教師も派遣してくれ、サリヤは離宮で国際情勢や外国語も習うことができた。
 ウェダやイーノヴェから直接の連絡はなかった。サリヤの性別について何か言われることもなかった。
 ただ、タールラルはウェダから「カッラの髪を伸ばしておくように」と指示されたらしい。
 ――メデスディスメ王国に髪の長い男はいるが、髪の短い女はいない。ウェダはきっと気づいたのだろう。「いずれ役立ってもらう」と言っていた。あのときは文官としての発言だっただろうが、今は王女として他国に嫁がせるつもりかもしれない。
 破滅の道からは逸れたかもしれないが、全部思い通りとはいかない。王女として生きてきていたなら、政略結婚は義務のようなものだ。本来の道に戻っただけだとサリヤは自身に言い聞かせた。
 マガリもヒルカも、教師も、サリヤが女だとは知らされていないようだった。マガリは全く疑ってもいなかったと思う。ヒルカはさすがに気づいていたようだが、指摘することはなく知らないふりを続けてくれていた。だから、爪や髪や肌を念入りに手入れされるのは、甘んじて受けた。
 ウェダが手を回したのか、離宮にベップ侯爵が現れることはなかった。他の王子や貴族も訪れることがなく、本当に忘れられたような生活だった。
 サリヤたちを害しようという者がいない分王宮より気が楽ではあったけれど、真実心を許せるのはタールラルだけ。何も知らされず、与えられたものを受け取り、ウェダのために政略の道具として整えられていく日々は、軟禁されているのと変わらなかった。

 五年はかからない。
 ウェダはそう言っていた。

 離宮に移って三年。
 ウェダからサリヤに直接の連絡はないままだった。
 火災が起きた、とサリヤは深夜に叩き起こされた。
 複数の箇所から一斉に火が上がった。明らかに放火だった。
 罠の危険を考慮しても、建物内には煙が立ち込め、外に出ない選択肢はなかった。
 サリヤは服装を変えて使用人に紛れ、外に逃れる。建物から離れ、敷地と接する森の木々の下に皆で集まった。
 マガリが兵に指示を出し、状況確認に走らせる。
 木の幹を使い防水布を張って、雨をしのぐ。そのうちの一つに入って、サリヤは息をついた。
 離宮を振り返ると、数か所煙が上がっている。雨が降っているため、大きく燃え広がることはなさそうなのが幸いだ。
 タールラルの体調を考えると、城下の宿でもすぐに移りたい。
 咳が止まらないタールラルをヒルカに預け、
「誰か、城下で移れる場所を探してくれ。それから、ワーダ医師は無事か。無事ならここに」
 目の前に立った使用人の様子がおかしい。暗くて顔が見えないため誰だかわからない。深夜だから私服でもいいが、平民の服装と体格や立ち姿に違和感があった。
 軍属の者では。
 そう気づいた瞬間、サリヤの前にマガリが立った。
 彼は難なく刺客の剣を受け止める。ガキンッと剣がぶつかる大きな音が響いた。
 刺客は三人。
 マガリと離宮の兵士が相手取る。
「カッラ殿下、後ろへ」
 ヒルカに声をかけられて、サリヤはタールラルを守るように下がった。
「どこの者だ!」
 マガリの声に刺客は答えない。いや、答える余裕がないのだろう。明らかにこちらが優勢だった。
「っ!」
 突然、タールラルがサリヤの腕を引っ張った。サリヤを抱きこんで、回転するようにぐるりと位置を変える。
「母上?」
 驚くサリヤの体をぎゅっと掴んだタールラルは、
「逃げて!」
 そう叫ぶと、サリヤを押し出した。
 サリヤは勢い後ろに倒れる。その身体を雨が叩いた。
 支えを失ったタールラルの体が傾いで、その背が裂けるように血が溢れた。
「は、母上?」
 呆然としたサリヤの背後に影が立った。
 強い殺気に振り返る前に、タールラルが飛び起きた。
 普段の彼女からは考えられないし、怪我をしている今はもっとありえない動きで、サリヤの背後の影にぶつかる。
「な! 母上!」
 影のような黒衣の男を体全体で押さえつけ、背中から血を流すタールラル。
 サリヤは慌てて駆け寄ろうとしたが、母はそれを制した。
 自分と同じ濃茶の瞳がサリヤを見据える。
「逃げなさい! どこでもいいから行きなさい!」
 鬼気迫る母に押され、サリヤは身をひるがえした。
「いけません!」
 引き止めるヒルカを振り払って、サリヤは森に逃げ込んだ。

 ――それからサリヤは黒衣の刺客に追いつかれ、川に落ちたのだ。

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