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第三章 「旦那様は……?」「辺境騎士団長!」
アレグロ王国の夜会
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夜会まで二週間もなかった。
自国でもまだ披露目をしていないペルトボール辺境伯夫妻だ。どういう名目で他国の夜会に出ようかと考え、モデラート王国の国王に協力してもらった。
ミュリエル王女からオリヴィエ王太子への贈り物を、辺境伯に嫁いでくる際にアニエスが預かって来たため、という体裁を整えた。
辺境伯夫妻が助力したというよりも、国が助力したとするほうが、後々貸しを返してもらうときに有利だ。
(少ない利点はこちらから増やしていかないと)
アニエスは、デザートが得意な料理人に相談して、ホワイトミントチョコレートを作ってもらった。
「色は同じまま、ミントの味を強めることができるかしら?」
「もちろんです!」
「持ち歩いたら溶けるかしら?」
「コーティングしましょうか」
「色を石に合わせることを優先したいの」
「大丈夫ですよ」
まだ若い料理人は、アニエスの望むものを作ってくれた。
作ってもらったチョコレートを、領地の宝飾店に依頼して四百年前風デザインのブローチにはめ込んでもらった。オパールは傷がついてしまったから研磨しなおすかどうかして直してもらわないとならない。どうせ直すのなら、その前にチョコレートのブローチにしてみようと思ったのだ。
万が一誰か食べさせられたとしても、石よりチョコレートの方が安全だろう。
それに、敵側の手に渡ってしまったあとブローチが戻ってこない可能性もある。
チョコレートのブローチはなかなか良くできた。枠は銀製なので、中央にはまっているのがチョコレートだとは誰も思わないだろう。
「これは、どうなのですか……?」
アレグロ王国の王城に用意された部屋で支度をしたアニエスは、困惑の表情でフィリップを見上げた。
ドレスを持ってきたのに、オリヴィエ側で用意したものを身に着けてほしいと言われ、髪型や化粧もそちらの侍女の指示に従うことになった。
フリルの多いふわふわしたベビーピンクのドレス。髪はおろして、くるくる巻いてある。少し幼く見えるような化粧をされて、アニエスは納得がいかない。
「かわいいな。いつものドレスもいいが、そういうドレスも似合う」
童顔を気にしているアニエスは、フィリップに褒められるのも納得がいかない。
どうしてこんな装いを指示されたのか、判明したのは夜会が始まってしばらく経ってからだ。
アニエスは王太子補佐官としてアレグロ王国の夜会に出たことがあるが、きっちりした地味なドレスにひっつめ髪の女家庭教師スタイルだ。化粧だって年相応に見えるようにしている。
だから、今のアニエスは、王太子補佐官時代のアニエスの妹のように見えていた。
さらに、フィリップは他国の夜会に出たことがない。合同演習などで顔を合わせたことがあるアレグロ王国の騎士団上層部、モデラート王国の夜会に招かれるような要人でなければ面識がなかった。そして彼らはオリヴィエ陣営だ。彼らが口裏を合わせてフィリップを「誰だかわからない」と言えば、公爵陣営も中立派もフィリップの正体がわからない。
入場時に、モデラート王国ペルトボール辺境伯夫妻と紹介されているのに、周りの反応は微妙だ。王太子補佐官アニエス・マネジットに似た女とその夫、というような。
「どういう意図でしょうか?」
アニエスは扇の陰でフィリップに尋ねる。
「わからんな。まあ、殿下側の者に話しかければにこやかに対応されるから、こちらを騙そうとしているようには思えないが。我々の知らない作戦がありそうだ」
「あとできっちり苦情をいれましょう」
前方の入口から入ってきた人物に視線が集まる。銀髪を後ろに流した背の高い五十代くらいの男性だ。ワインレッドの上着が目立っている。
「ランベール・メヌエ公爵です」
アニエスはフィリップにささやいた。
ランベールを囲む人の隙間から、彼がエスコートしている女が見えた。
シルバーブルーのドレスを着たピンクブロンドの若い女性。緩く波打った髪はアニエスに似ている。会ったことはないが、もしかして。
「シルヴェーヌ・ミドリーザ公爵令嬢?」
「駆け落ちの?」
「確信はありませんが」
アニエスは客にまぎれているマクシミリアンに目をやる。彼はシルヴェーヌらしき令嬢を見ている。
オリヴィエはまだ入場していない。
「アニエス。向こうが手の内を見せないなら協力する必要はない。帰ろう」
フィリップがアニエスの前に回り込んだ。
「もう遅いみたいですわね。私の装いも作戦のうちなら、これが予定通りなのでしょうね」
アニエスは横から近づいてくるメイドを見てそう返した。
「ペルトボール辺境伯夫人。高貴な方がお呼びです。こちらへどうぞ」
有無を言わさぬ態度に、フィリップが、
「私も一緒に行く」
「ひっ! い、いえ。も、申し訳ございません。夫人だけと、い、言われておりますのでっ」
かわいそうなくらいにメイドは怯えた。
「彼女は一緒でもいいでしょう?」
アニエスはメイド服でついてきてくれているセシルを示す。
「いいよな?」
フィリップが重ねて言うと、メイドは「は、はいっ! はい、そう思います」と震え、アニエスにすがるような視線を向けた。
「こ、こちらへ」
(このメイドはオリヴィエ殿下の陣営ではなさそうね……。どちらでもない巻き込まれただけのメイドなのかも)
アニエスはメイドに同情しつつ、フィリップに「それでは行ってまいりますわ」と告げた。
フィリップは心配そうにアニエスの頬に触れて、「気を付けて」と送り出してくれる。
怯えたメイドに従って、アニエスはセシルを連れて、夜会会場をあとにした。
メイドは速足で廊下を進んでいく。
(フィリップ様が追いかけてくるとでも思っているのかしら)
ずいぶん奥へ進んでいるようだ。何度か角を曲がり、回廊も通った。
「どこまで行くのかしら?」
「もうすぐ着きますので」
夜会会場とは別の建物に入っているのでは、と思ったところで、メイドはとある扉の前で立ち止まった。
「こちらです」
ノックもせずに開ける。
「中で少しお待ちください」
室内には誰もいない。
それほど広くない部屋は、応接室だろうか。ソファとテーブル。飾り棚には絵皿が並んでいる。
アニエスはセシルと顔を見合わせた。セシルが先に中に入る。
彼女が室内を検分するのを見ていると、アニエスはどんっと突き飛ばされた。
「奥様!」
セシルがアニエスに駆け寄る。背後でドアが閉まって、鍵のかかる音がした。
メイドは公爵陣営だったようだ。
「一度敵に捕まるのは、予定通りね」
アニエスはセシルに向かって肩をすくめてみせた。
敵の誘いには乗ってほしいと言われていた。ブローチを売れと言われたら高額で売っていい、とも言われている。
セシルは部屋の検分を続け、アニエスは窓のカーテンを開けておいた。オリヴィエ陣営が見張ってくれているかもしれない。
一体誰が現れるのか、と思いながら待って、十分ほど経った。
ドアの鍵が開く。
先ほどとは別のメイドに促されて入ってきたのは、ランベールと一緒にいたピンクブロンドの女性だった。
メイドは部屋に入らずに、鍵を閉めていく。いつものことなのか、ピンクブロンドの女性は閉じ込められるのを気にしなかった。
「あなたが父がよこした身代わりね?」
「は?」
「いいわよ、とぼけないで。私は聞いているわ。ホワイトミントオパールを父が手に入れたんでしょう? 女に持たせるから私を返せ、とランベール様にお願いしたんですってね」
「シルヴェーヌ・ミドリーザ公爵令嬢?」
アニエスが聞くと、彼女は「そうよ」と胸を張った。
「あなたは私の異母妹かしら?」
「は?」
「あら、どこかに妹がいるのは前から知っているのよ。母もずっと疑っていたけれど、父は隠し通していたみたいね。私のために出してきたのね」
聞かなかったことにしなければならないような話は聞かせてほしくないのだけれど、シルヴェーヌは勝手に話す。
「公爵令嬢になりたかったなら、おあいにく様。公爵夫人は母ですから。母が許さないわ」
「はあ……? ええと、シルヴェーヌ様はどうしてメヌエ公爵閣下とご一緒されているのですか?」
「人質よ、人質。それも知らないで身代わりになったの? かわいそうねぇ」
シルヴェーヌはソファにどかりと座ると、足を組んだ。
テーブルの上に置いてあった果物の皿からブドウを一粒つまんで、食べずに転がす。
「ほら、私、ずっと領地に閉じ込められているでしょう? 母が気晴らしに時々演劇に連れていってくれるの。そのときに知り合ったのよ。私が逃げたいって言ったら、ランベール様は助けてくださるっておっしゃって。……でも、結局、父を自分の陣営に引き込むための人質だったってわけ」
「まあ……」
「社交界には出られるようになったけれど、お部屋は鍵付きだし、ランベール様と一緒じゃなければ観劇にもいけないのよ?」
学院で駆け落ち事件を起こしたのは十年近く前だけれど、全然反省していないのね、とアニエスは呆れた。
(ええと、どういうことかしら?)
まず、ひとつ目。ランベールはミドリーザ公爵から交渉を持ちかけられている。
そして、アニエスをこの夜会に送り込んだのはオリヴィエ。
シルヴェーヌは自業自得だろう。オリヴィエの作戦ではない気がする。
つまり、オリヴィエは、アニエスとオパールを用意することでミドリーザ公爵に恩を売ったということか?
「つまらないわ。家に帰ったらまた領地で静養かしら? はぁ、どこかに逃げられたらいいのに」
シルヴェーヌはため息をついた。
アニエスは思わず、
「助けてほしい、逃げられたら、ってそればっかりね。自分で出て行こうとは思わないの?」
「な、なによ」
「それでいて、一緒に逃げるって約束してくれた相手からも逃げたのね? 私は駆け落ちのことも知っているのよ」
「なんですって?」
「他人任せなのに文句ばっかり。勝手なことをして迷惑をかけているのに、反省しない」
「あなた、何なの? そんなことを言っていいと思っているの?」
シルヴェーヌは真っ赤になってアニエスを睨む。
「もちろん。私があなたの身代わりなら、文句を言う権利くらいあるでしょ?」
「私は公爵令嬢よ」
シルヴェーヌはソファから立ち上がる。
「あなたのお父様が公爵というだけの話でしょう? あなた自身は? 何ができるの? 何をしてきたの?」
「うるさいわね! そんなこと! 私は何もやらせてもらえないんだもの。何もできないのは当たり前でしょう!」
セシルがはっとして扉の陰になる位置に動いた。アニエスは彼女に目配せされて、うなずく。アニエスはブローチを外して手に持った。
「それじゃあ、一緒に逃げましょう!」
アニエスは空いている手でシルヴェーヌの腕をつかむ。
鍵が開いて、ドアが開いた。
入ってきたのはランベールだ。
彼がドアの前から数歩入ったところで、セシルが陰からランベールの腕を引いて室内に投げる。
アニエスはアニエスで、ブローチを投げた。
「メヌエ公爵閣下、お約束のブローチですわ」
アニエスはシルヴェーヌの腕をひっぱって、走り出す。
ランベールはひとりで来たらしく、護衛も側近も誰もいなかった。――オリヴィエの策略の結果なのかもしれない。
セシルが背後を気にしながら、アニエスの横についた。
「奥様、その女は捨ておいてもいいのでは?」
「まあ、ついでよ、ついで。ミドリーザ公爵の元に連れて行ってさしあげたら、きっと感謝してくださると思うのよ」
領地で蟄居させられていたらしいシルヴェーヌは、早くも息が上がっている。
「もっと早く走って。逃げたいなら、真剣に逃げないと。あなたが自分で走らないとどこにも行けないのよ」
「な…………」
彼女は文句を言いたいけれど何も言えない様子だ。
「奥様、申し訳ありません。ここはどこですか? 帰り道がわかりません」
セシルに言われて、アニエスは「大丈夫よ」と返す。
「さきほど通ったばかりだから、見ればわかるわ」
「さすが奥様!」
数分もしないうちに、シルヴェーヌが足をもつれさせた。倒れそうになるのをセシルが素早く支える。
「あなた、もう少し鍛えた方がいいんじゃない?」
「…………」
誰も追ってこないようなのでスピードを落として歩く。回廊のところまで戻った。
「あら! フィリップ様!」
大きな人影が廊下の真ん中に立っている。隣にはマクシミリアンとオリヴィエがいた。
「アニエス! 無事か?」
駆け寄って来たフィリップがアニエスを抱き上げる。アニエスもフィリップに抱きついて「無事ですわ!」と報告した。
抱き上げられると視界が高い。
オリヴィエの後ろにミドリーザ公爵がいることに気づいた。王太子補佐官時代に挨拶をしたことがある。
「フィリップ様、下ろしてください」
「このままでいいだろう?」
「だめです」
舌打ちしそうな顔でフィリップはアニエスを下ろした。
「オリヴィエ殿下、ブローチはメヌエ公爵閣下にお渡ししてきましたわ。多少投げ飛ばしたりしてしまったけれど、仕方ないですわよね? こちらは女性だけですもの」
「そうか。あ、ありがとう」
引きつった笑顔で、オリヴィエはうなずく。
社交用の笑顔で首をかしげるアニエスの後ろで、フィリップがにらんでいる。
それからアニエスはミドリーザ公爵の前に立った。
「ミドリーザ公爵閣下、ごきげんよう」
「君は……?」
「私は、モデラート王国ペルトボール辺境伯の妻アニエスでございます。結婚前に王太子補佐官を勤めていたころ、ご挨拶させていただきました」
「え? 本人なのか?」
「ええ、もちろん」
以前に挨拶したときも思ったが、ミドリーザ公爵はアニエスがシルヴェーヌの駆け落ちに巻き込まれたと知らないらしい。
「ご令嬢をお連れしましたわ」
アニエスは、セシルに支えられているシルヴェーヌを振り返る。
「シルヴェーヌ、無事だったか……」
ミドリーザ公爵はさきほどアニエスを迎えたフィリップと同じような顔をした。
しかし、ふたりは抱き合うことはない。
(不祥事を起こした娘なのに、公爵にとって人質になるほどの価値がシルヴェーヌ様にはあるのよね)
アニエスは公爵に向き直ると、
「シルヴェーヌ様は、私が異母妹ではないかと疑ってらっしゃいました」
「えっ!?」
公爵はアニエスの言葉に目をむく。
「そんな事実は一切ない! 私の娘はシルヴェーヌひとりだけだ!」
「奥様ともお話されたほうがいいのでは?」
「忠告感謝する」
アニエスはオリヴィエを見た。
「殿下のご成婚も控えておりますし、もうシルヴェーヌ様は社交界に戻られてもいいのではありません?」
「まあ、そうだな。メヌエ公爵と一緒にいた印象を払拭したほうがいいだろうが」
オリヴィエはうなずき、ミドリーザ公爵は「ありがとうございます」と礼をした。
アニエスはシルヴェーヌに近寄る。セシルから彼女の腕をひきとった。
「シルヴェーヌ様。自分からやろうと思わなければ、何もできないのですよ。あなたは何がしたいのですか?」
そう言って、彼女を公爵の前に連れていく。
シルヴェーヌは公爵から目をそらして、
「私は……」
「シルヴェーヌ、何でも言ってみなさい」
「私は……、私は歌が歌いたいですわ!」
「歌?」
公爵は目を丸くした。全く予想していなかったのだろう。
「そうです。本当は留学も、南海の向こうの芸術大国に行きたかったのです」
「そ、そうだったのか……」
何でも言えと言った手前、何も言えないのか公爵はぎこちなくうなずいた。
(歌いたいならもう少し体力をつけたほうがいいのではないかしら)
アニエスはそう思ったけれど、さすがに何も言わずにおいた。
アニエスの役割はそれで終わりだった。
オリヴィエの作戦では、当初アニエスを招待したときにはペルトボール辺境伯夫人としてランベールの前に出そうと思っていたけれど、途中でシルヴェーヌが人質になってしまったため、ミドリーザ公爵に恩を売るのを兼ねて、シルヴェーヌに似た娘として出すことに変更したらしい。――作戦変更をアニエスたちには伝えずに。
結局、ランベールは失脚した。一生出られない離宮に隔離されることになったらしい。派閥の者も、関わりの深さによってそれぞれ罰を受けたとか。
――罠の仕上げで、オリヴィエはランベールが仕掛けた『ホワイトミントオパール』を食べたらしい。
「あれはなんだ? 本当に毒かと思ったぞ!」
「石のままだと危険だと思って、チョコレートに換えておきましたの」
文句を言われたけれどアニエスはとぼけた。
「少しミントが強すぎましたわね」
オリヴィエはアニエスの後ろで睨みを利かすフィリップを見て、それ以上の文句をのみこんだようだった。
余談だが。
領地に帰ったあと、コレットとの茶会で、
「もしかして、マクシミリアン様はシルヴェーヌ様のことがお好きだったんじゃない!? 学院時代も見守ってらしたんでしょ?」
「見守ってたんじゃなくて、監視してたのよ」
「ずっと見てるんだから、どっちでも同じよ」
コレットからは「私もそのロマンスを近くで見たかったわぁ」と言われた。
そして、ジルも誰かから聞いたのか、
「なぜそんなおもしろい現場に僕はいなかったんですかね。やっぱり、辺境伯閣下ににらまれても家令になるべきですか?」
「家令でも、夜会には連れて行きませんよ」
「ですよね。わかっています。それなら、僕はどうしたらいいんでしょう?」
と嘆かれた。
自国でもまだ披露目をしていないペルトボール辺境伯夫妻だ。どういう名目で他国の夜会に出ようかと考え、モデラート王国の国王に協力してもらった。
ミュリエル王女からオリヴィエ王太子への贈り物を、辺境伯に嫁いでくる際にアニエスが預かって来たため、という体裁を整えた。
辺境伯夫妻が助力したというよりも、国が助力したとするほうが、後々貸しを返してもらうときに有利だ。
(少ない利点はこちらから増やしていかないと)
アニエスは、デザートが得意な料理人に相談して、ホワイトミントチョコレートを作ってもらった。
「色は同じまま、ミントの味を強めることができるかしら?」
「もちろんです!」
「持ち歩いたら溶けるかしら?」
「コーティングしましょうか」
「色を石に合わせることを優先したいの」
「大丈夫ですよ」
まだ若い料理人は、アニエスの望むものを作ってくれた。
作ってもらったチョコレートを、領地の宝飾店に依頼して四百年前風デザインのブローチにはめ込んでもらった。オパールは傷がついてしまったから研磨しなおすかどうかして直してもらわないとならない。どうせ直すのなら、その前にチョコレートのブローチにしてみようと思ったのだ。
万が一誰か食べさせられたとしても、石よりチョコレートの方が安全だろう。
それに、敵側の手に渡ってしまったあとブローチが戻ってこない可能性もある。
チョコレートのブローチはなかなか良くできた。枠は銀製なので、中央にはまっているのがチョコレートだとは誰も思わないだろう。
「これは、どうなのですか……?」
アレグロ王国の王城に用意された部屋で支度をしたアニエスは、困惑の表情でフィリップを見上げた。
ドレスを持ってきたのに、オリヴィエ側で用意したものを身に着けてほしいと言われ、髪型や化粧もそちらの侍女の指示に従うことになった。
フリルの多いふわふわしたベビーピンクのドレス。髪はおろして、くるくる巻いてある。少し幼く見えるような化粧をされて、アニエスは納得がいかない。
「かわいいな。いつものドレスもいいが、そういうドレスも似合う」
童顔を気にしているアニエスは、フィリップに褒められるのも納得がいかない。
どうしてこんな装いを指示されたのか、判明したのは夜会が始まってしばらく経ってからだ。
アニエスは王太子補佐官としてアレグロ王国の夜会に出たことがあるが、きっちりした地味なドレスにひっつめ髪の女家庭教師スタイルだ。化粧だって年相応に見えるようにしている。
だから、今のアニエスは、王太子補佐官時代のアニエスの妹のように見えていた。
さらに、フィリップは他国の夜会に出たことがない。合同演習などで顔を合わせたことがあるアレグロ王国の騎士団上層部、モデラート王国の夜会に招かれるような要人でなければ面識がなかった。そして彼らはオリヴィエ陣営だ。彼らが口裏を合わせてフィリップを「誰だかわからない」と言えば、公爵陣営も中立派もフィリップの正体がわからない。
入場時に、モデラート王国ペルトボール辺境伯夫妻と紹介されているのに、周りの反応は微妙だ。王太子補佐官アニエス・マネジットに似た女とその夫、というような。
「どういう意図でしょうか?」
アニエスは扇の陰でフィリップに尋ねる。
「わからんな。まあ、殿下側の者に話しかければにこやかに対応されるから、こちらを騙そうとしているようには思えないが。我々の知らない作戦がありそうだ」
「あとできっちり苦情をいれましょう」
前方の入口から入ってきた人物に視線が集まる。銀髪を後ろに流した背の高い五十代くらいの男性だ。ワインレッドの上着が目立っている。
「ランベール・メヌエ公爵です」
アニエスはフィリップにささやいた。
ランベールを囲む人の隙間から、彼がエスコートしている女が見えた。
シルバーブルーのドレスを着たピンクブロンドの若い女性。緩く波打った髪はアニエスに似ている。会ったことはないが、もしかして。
「シルヴェーヌ・ミドリーザ公爵令嬢?」
「駆け落ちの?」
「確信はありませんが」
アニエスは客にまぎれているマクシミリアンに目をやる。彼はシルヴェーヌらしき令嬢を見ている。
オリヴィエはまだ入場していない。
「アニエス。向こうが手の内を見せないなら協力する必要はない。帰ろう」
フィリップがアニエスの前に回り込んだ。
「もう遅いみたいですわね。私の装いも作戦のうちなら、これが予定通りなのでしょうね」
アニエスは横から近づいてくるメイドを見てそう返した。
「ペルトボール辺境伯夫人。高貴な方がお呼びです。こちらへどうぞ」
有無を言わさぬ態度に、フィリップが、
「私も一緒に行く」
「ひっ! い、いえ。も、申し訳ございません。夫人だけと、い、言われておりますのでっ」
かわいそうなくらいにメイドは怯えた。
「彼女は一緒でもいいでしょう?」
アニエスはメイド服でついてきてくれているセシルを示す。
「いいよな?」
フィリップが重ねて言うと、メイドは「は、はいっ! はい、そう思います」と震え、アニエスにすがるような視線を向けた。
「こ、こちらへ」
(このメイドはオリヴィエ殿下の陣営ではなさそうね……。どちらでもない巻き込まれただけのメイドなのかも)
アニエスはメイドに同情しつつ、フィリップに「それでは行ってまいりますわ」と告げた。
フィリップは心配そうにアニエスの頬に触れて、「気を付けて」と送り出してくれる。
怯えたメイドに従って、アニエスはセシルを連れて、夜会会場をあとにした。
メイドは速足で廊下を進んでいく。
(フィリップ様が追いかけてくるとでも思っているのかしら)
ずいぶん奥へ進んでいるようだ。何度か角を曲がり、回廊も通った。
「どこまで行くのかしら?」
「もうすぐ着きますので」
夜会会場とは別の建物に入っているのでは、と思ったところで、メイドはとある扉の前で立ち止まった。
「こちらです」
ノックもせずに開ける。
「中で少しお待ちください」
室内には誰もいない。
それほど広くない部屋は、応接室だろうか。ソファとテーブル。飾り棚には絵皿が並んでいる。
アニエスはセシルと顔を見合わせた。セシルが先に中に入る。
彼女が室内を検分するのを見ていると、アニエスはどんっと突き飛ばされた。
「奥様!」
セシルがアニエスに駆け寄る。背後でドアが閉まって、鍵のかかる音がした。
メイドは公爵陣営だったようだ。
「一度敵に捕まるのは、予定通りね」
アニエスはセシルに向かって肩をすくめてみせた。
敵の誘いには乗ってほしいと言われていた。ブローチを売れと言われたら高額で売っていい、とも言われている。
セシルは部屋の検分を続け、アニエスは窓のカーテンを開けておいた。オリヴィエ陣営が見張ってくれているかもしれない。
一体誰が現れるのか、と思いながら待って、十分ほど経った。
ドアの鍵が開く。
先ほどとは別のメイドに促されて入ってきたのは、ランベールと一緒にいたピンクブロンドの女性だった。
メイドは部屋に入らずに、鍵を閉めていく。いつものことなのか、ピンクブロンドの女性は閉じ込められるのを気にしなかった。
「あなたが父がよこした身代わりね?」
「は?」
「いいわよ、とぼけないで。私は聞いているわ。ホワイトミントオパールを父が手に入れたんでしょう? 女に持たせるから私を返せ、とランベール様にお願いしたんですってね」
「シルヴェーヌ・ミドリーザ公爵令嬢?」
アニエスが聞くと、彼女は「そうよ」と胸を張った。
「あなたは私の異母妹かしら?」
「は?」
「あら、どこかに妹がいるのは前から知っているのよ。母もずっと疑っていたけれど、父は隠し通していたみたいね。私のために出してきたのね」
聞かなかったことにしなければならないような話は聞かせてほしくないのだけれど、シルヴェーヌは勝手に話す。
「公爵令嬢になりたかったなら、おあいにく様。公爵夫人は母ですから。母が許さないわ」
「はあ……? ええと、シルヴェーヌ様はどうしてメヌエ公爵閣下とご一緒されているのですか?」
「人質よ、人質。それも知らないで身代わりになったの? かわいそうねぇ」
シルヴェーヌはソファにどかりと座ると、足を組んだ。
テーブルの上に置いてあった果物の皿からブドウを一粒つまんで、食べずに転がす。
「ほら、私、ずっと領地に閉じ込められているでしょう? 母が気晴らしに時々演劇に連れていってくれるの。そのときに知り合ったのよ。私が逃げたいって言ったら、ランベール様は助けてくださるっておっしゃって。……でも、結局、父を自分の陣営に引き込むための人質だったってわけ」
「まあ……」
「社交界には出られるようになったけれど、お部屋は鍵付きだし、ランベール様と一緒じゃなければ観劇にもいけないのよ?」
学院で駆け落ち事件を起こしたのは十年近く前だけれど、全然反省していないのね、とアニエスは呆れた。
(ええと、どういうことかしら?)
まず、ひとつ目。ランベールはミドリーザ公爵から交渉を持ちかけられている。
そして、アニエスをこの夜会に送り込んだのはオリヴィエ。
シルヴェーヌは自業自得だろう。オリヴィエの作戦ではない気がする。
つまり、オリヴィエは、アニエスとオパールを用意することでミドリーザ公爵に恩を売ったということか?
「つまらないわ。家に帰ったらまた領地で静養かしら? はぁ、どこかに逃げられたらいいのに」
シルヴェーヌはため息をついた。
アニエスは思わず、
「助けてほしい、逃げられたら、ってそればっかりね。自分で出て行こうとは思わないの?」
「な、なによ」
「それでいて、一緒に逃げるって約束してくれた相手からも逃げたのね? 私は駆け落ちのことも知っているのよ」
「なんですって?」
「他人任せなのに文句ばっかり。勝手なことをして迷惑をかけているのに、反省しない」
「あなた、何なの? そんなことを言っていいと思っているの?」
シルヴェーヌは真っ赤になってアニエスを睨む。
「もちろん。私があなたの身代わりなら、文句を言う権利くらいあるでしょ?」
「私は公爵令嬢よ」
シルヴェーヌはソファから立ち上がる。
「あなたのお父様が公爵というだけの話でしょう? あなた自身は? 何ができるの? 何をしてきたの?」
「うるさいわね! そんなこと! 私は何もやらせてもらえないんだもの。何もできないのは当たり前でしょう!」
セシルがはっとして扉の陰になる位置に動いた。アニエスは彼女に目配せされて、うなずく。アニエスはブローチを外して手に持った。
「それじゃあ、一緒に逃げましょう!」
アニエスは空いている手でシルヴェーヌの腕をつかむ。
鍵が開いて、ドアが開いた。
入ってきたのはランベールだ。
彼がドアの前から数歩入ったところで、セシルが陰からランベールの腕を引いて室内に投げる。
アニエスはアニエスで、ブローチを投げた。
「メヌエ公爵閣下、お約束のブローチですわ」
アニエスはシルヴェーヌの腕をひっぱって、走り出す。
ランベールはひとりで来たらしく、護衛も側近も誰もいなかった。――オリヴィエの策略の結果なのかもしれない。
セシルが背後を気にしながら、アニエスの横についた。
「奥様、その女は捨ておいてもいいのでは?」
「まあ、ついでよ、ついで。ミドリーザ公爵の元に連れて行ってさしあげたら、きっと感謝してくださると思うのよ」
領地で蟄居させられていたらしいシルヴェーヌは、早くも息が上がっている。
「もっと早く走って。逃げたいなら、真剣に逃げないと。あなたが自分で走らないとどこにも行けないのよ」
「な…………」
彼女は文句を言いたいけれど何も言えない様子だ。
「奥様、申し訳ありません。ここはどこですか? 帰り道がわかりません」
セシルに言われて、アニエスは「大丈夫よ」と返す。
「さきほど通ったばかりだから、見ればわかるわ」
「さすが奥様!」
数分もしないうちに、シルヴェーヌが足をもつれさせた。倒れそうになるのをセシルが素早く支える。
「あなた、もう少し鍛えた方がいいんじゃない?」
「…………」
誰も追ってこないようなのでスピードを落として歩く。回廊のところまで戻った。
「あら! フィリップ様!」
大きな人影が廊下の真ん中に立っている。隣にはマクシミリアンとオリヴィエがいた。
「アニエス! 無事か?」
駆け寄って来たフィリップがアニエスを抱き上げる。アニエスもフィリップに抱きついて「無事ですわ!」と報告した。
抱き上げられると視界が高い。
オリヴィエの後ろにミドリーザ公爵がいることに気づいた。王太子補佐官時代に挨拶をしたことがある。
「フィリップ様、下ろしてください」
「このままでいいだろう?」
「だめです」
舌打ちしそうな顔でフィリップはアニエスを下ろした。
「オリヴィエ殿下、ブローチはメヌエ公爵閣下にお渡ししてきましたわ。多少投げ飛ばしたりしてしまったけれど、仕方ないですわよね? こちらは女性だけですもの」
「そうか。あ、ありがとう」
引きつった笑顔で、オリヴィエはうなずく。
社交用の笑顔で首をかしげるアニエスの後ろで、フィリップがにらんでいる。
それからアニエスはミドリーザ公爵の前に立った。
「ミドリーザ公爵閣下、ごきげんよう」
「君は……?」
「私は、モデラート王国ペルトボール辺境伯の妻アニエスでございます。結婚前に王太子補佐官を勤めていたころ、ご挨拶させていただきました」
「え? 本人なのか?」
「ええ、もちろん」
以前に挨拶したときも思ったが、ミドリーザ公爵はアニエスがシルヴェーヌの駆け落ちに巻き込まれたと知らないらしい。
「ご令嬢をお連れしましたわ」
アニエスは、セシルに支えられているシルヴェーヌを振り返る。
「シルヴェーヌ、無事だったか……」
ミドリーザ公爵はさきほどアニエスを迎えたフィリップと同じような顔をした。
しかし、ふたりは抱き合うことはない。
(不祥事を起こした娘なのに、公爵にとって人質になるほどの価値がシルヴェーヌ様にはあるのよね)
アニエスは公爵に向き直ると、
「シルヴェーヌ様は、私が異母妹ではないかと疑ってらっしゃいました」
「えっ!?」
公爵はアニエスの言葉に目をむく。
「そんな事実は一切ない! 私の娘はシルヴェーヌひとりだけだ!」
「奥様ともお話されたほうがいいのでは?」
「忠告感謝する」
アニエスはオリヴィエを見た。
「殿下のご成婚も控えておりますし、もうシルヴェーヌ様は社交界に戻られてもいいのではありません?」
「まあ、そうだな。メヌエ公爵と一緒にいた印象を払拭したほうがいいだろうが」
オリヴィエはうなずき、ミドリーザ公爵は「ありがとうございます」と礼をした。
アニエスはシルヴェーヌに近寄る。セシルから彼女の腕をひきとった。
「シルヴェーヌ様。自分からやろうと思わなければ、何もできないのですよ。あなたは何がしたいのですか?」
そう言って、彼女を公爵の前に連れていく。
シルヴェーヌは公爵から目をそらして、
「私は……」
「シルヴェーヌ、何でも言ってみなさい」
「私は……、私は歌が歌いたいですわ!」
「歌?」
公爵は目を丸くした。全く予想していなかったのだろう。
「そうです。本当は留学も、南海の向こうの芸術大国に行きたかったのです」
「そ、そうだったのか……」
何でも言えと言った手前、何も言えないのか公爵はぎこちなくうなずいた。
(歌いたいならもう少し体力をつけたほうがいいのではないかしら)
アニエスはそう思ったけれど、さすがに何も言わずにおいた。
アニエスの役割はそれで終わりだった。
オリヴィエの作戦では、当初アニエスを招待したときにはペルトボール辺境伯夫人としてランベールの前に出そうと思っていたけれど、途中でシルヴェーヌが人質になってしまったため、ミドリーザ公爵に恩を売るのを兼ねて、シルヴェーヌに似た娘として出すことに変更したらしい。――作戦変更をアニエスたちには伝えずに。
結局、ランベールは失脚した。一生出られない離宮に隔離されることになったらしい。派閥の者も、関わりの深さによってそれぞれ罰を受けたとか。
――罠の仕上げで、オリヴィエはランベールが仕掛けた『ホワイトミントオパール』を食べたらしい。
「あれはなんだ? 本当に毒かと思ったぞ!」
「石のままだと危険だと思って、チョコレートに換えておきましたの」
文句を言われたけれどアニエスはとぼけた。
「少しミントが強すぎましたわね」
オリヴィエはアニエスの後ろで睨みを利かすフィリップを見て、それ以上の文句をのみこんだようだった。
余談だが。
領地に帰ったあと、コレットとの茶会で、
「もしかして、マクシミリアン様はシルヴェーヌ様のことがお好きだったんじゃない!? 学院時代も見守ってらしたんでしょ?」
「見守ってたんじゃなくて、監視してたのよ」
「ずっと見てるんだから、どっちでも同じよ」
コレットからは「私もそのロマンスを近くで見たかったわぁ」と言われた。
そして、ジルも誰かから聞いたのか、
「なぜそんなおもしろい現場に僕はいなかったんですかね。やっぱり、辺境伯閣下ににらまれても家令になるべきですか?」
「家令でも、夜会には連れて行きませんよ」
「ですよね。わかっています。それなら、僕はどうしたらいいんでしょう?」
と嘆かれた。
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