奥様はエリート文官

神田柊子

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第三章 「旦那様は……?」「辺境騎士団長!」

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 街歩きデートから帰宅したとき、アニエスはブローチがなくなっていることに気づいた。
 馬車の中にないか探してもらったけれど見つからない。
「街を騎士に探させよう」
 もうすぐ暗くなるのに、今から命令を出しそうなフィリップを、アニエスは慌てて止めた。
「明日で大丈夫ですから」
 翌朝、アニエスはフィリップの腕の中で目を覚ました。
 まどろみながら髪をなでられる感覚に、そういえば先日は夢を見たわ、とぼんやり思った。
(学生時代の……)
「あ、そうだわ!」
 突然アニエスが声を上げたから、フィリップが「ど、どうした?」と驚く。
 アニエスはフィリップを見上げると、
「昨日の紳士! あのどこかでお会いしたことがある気がするのに思い出せなかった方! 学生時代に助けていただいた方かもしれません!」
 記憶の中のぼんやりしたシルエットと昨日見た人物が重なる。年齢や服の情報があいまいなせいで、雰囲気や印象が強く残り、十年近く前のことなのに似て見えるのかもしれない。
 確信はない。
 けれど、あんなに意味ありげに現れるのだから、相手もアニエスを知っているはず。そう考えると、学生時代の思い出はしっくりくる。
(一体どういうこと?)
 令嬢の実家の関係者なら駆け落ちを計画している段階で止めるだろうから、アニエスを助けてくれたのはアレグロ王国の王太子の関係者だと思う。
 どうして今アニエスに接触してくるのだろう?
 アレグロ王国の王太子オリヴィエは二十六歳。補佐官時代に王太子とは会ったことがあるが、個人的に話したことはない。
 今このタイミングなら、盗掘団関連か?
 盗掘団討伐の顛末は、アニエスも知っている。口を割らない犯人たちがアレグロ王国に関わっているなら?
 もしかしてブローチも盗まれたのだろうか。
 考え込んでしまったアニエスをフィリップは黙って待ってくれていた。
 これはフィリップに情報共有すべきだと思う。
 アニエスは意を決して起き上がった。
「フィリップ様、お話があります」
「アニエス、すまない。肩が!」
「え。きゃっ」
 夜着がずれて肩が出てしまっている。アニエスは慌てて襟を直した。
(夜会ドレスなんて肩丸出しじゃない!? それに比べたら全然出ていないのに、どうしてやっぱり恥ずかしいの?)
 アニエスは赤くなった頬を押さえてうつむくのだった。

 コレットに知られたら呆れられそうだが、よりによって思いを確かめ合った翌朝、アニエスはフィリップに隣国の公爵令嬢の駆け落ちに巻き込まれた話をしている。
「その騎士? 諜報の者かもしれないが――その男が昨日ペルトボールにいたと言うのか?」
「おそらく、ですが」
 ソファに並んで座ったフィリップは、難しい顔で腕を組む。
「盗掘団がアレグロ王国から来ていた可能性もありますよね?」
「そうだな」
「昨日の紳士は私に見せつけるようでした。きっとまた接触してくると思います」
「ああ、アニエスは当分外出禁止だ」
「わざと出かけて接触を待つというのは?」
「ない! 絶対にない!」
 強く否定されて、アニエスは素直に「わかりました」と承知する。
 そこで、ドアが控えめに叩かれた。
「奥様、旦那様。起きてらっしゃいますか?」
 話をしていて朝食の時間になっていることに気づかなかった。
 新婚の夫婦が朝からこんな殺伐とした話をしているとメイドは思っていないだろう。
「起きているわよ。どうぞ入って」
 返事をすると、そっとドアが開き、ミュラが顔を出した。
「お邪魔して申し訳ございません。今朝は呼ばれるまで絶対に行かないと皆で決めていたんですが、急ぎの手紙が届きまして」
 そんなに気を使われると恥ずかしい。
「起きていたから大丈夫よ」
 手紙ってなに? と促すと、ミュラは折りたたんだ紙を差し出した。
 手紙というよりメモだ。
「今日納品予定の家具店から届きました」
 アニエスが開く横からフィリップも覗き込む。
『ブローチの件で奥様にお会いしたいという方が来ています。秘密裏に屋敷に行きたいから、一緒に紛れ込ませろと言うのですが、どのようにいたしますか?』
 読み終わったアニエスは、手紙を握りつぶしそうになった。
「まあ! 領民を脅すなんて!」
「私も同席しよう」
 アニエスとフィリップは顔を見合わせてうなずいた。

 午後、家具店から家具が納品された。まだ全部出来上がっておらず、注文したうちの半分だ。
 アニエスは椅子を運んでいたひとりの男に声をかける。
「応接室の家具の件で相談があります。お時間くださる?」
 応接室にはフィリップが待っていてくれた。
 アニエスはフィリップの横に座り、男に正面の席を勧める。
 セシルが彼の前に紅茶と小皿を置いた。
 花を模した小皿には、わずかに緑がかった白いチョコレートが載っている。あのオパールよりも一回り小さな円形だ。
 ブローチと一緒に届いたホワイトミントチョコレートだった。まだ残っていたものを出した。
 皮肉は伝わったようで、男はそれを見て、ほんの少しだけ顔をこわばらせた。
「どうぞ、召し上がって? 王都で人気のホワイトミントチョコレートですわ」
「ご冗談を……」
「おいしいのですけれどね」
 アニエスはそう言うと、自分の前の皿のチョコレートを一口で食べた。
 ホワイトチョコレートのミルクの甘さに、すぅっと爽やかなミントがおいしい。
 アニエスが社交用の笑みを浮かべると、男は頭を下げた。
「失礼をいたしました。申し訳ございません。私が夫人に接触したのを知られたくなかったので」
「昨日はあからさまに会いにきたじゃないか」
 フィリップが低い声を出す。
「昨日は仕方なくです。こうやってお話するための布石ですから」
 昨日は貴族紳士の格好だったが、今日は家具屋の下男といった服装だ。服だけでなく、髪や仕草も変わっている。
「ブローチはあなたが盗んだの?」
「我々の手の者です」
 彼は「こちらです」と懐から取り出した布包みを開いて、テーブルに載せた。
 アニエスのブローチだ。
 アニエスが手を伸ばそうとしたら、横からセシルが「奥様、触らずに」と注意してくれた。アニエスはうなずいて、座ったままブローチを観察する。
 すると、オパールの端に傷がついているのがわかった。
「削ったの?」
「毒性を確かめました」
「まあ……」
 アニエスが適当についた嘘がここまで影響するとは思わなかった。
 男はフィリップに二通の手紙を差し出した。
「一通は我が主から、もう一通はモデラート国王陛下からです」
 フィリップは先に読んでから、アニエスにも回してくれた。
 男の主はアレグロ王国王太子オリヴィエだった。
 ペルトボール辺境伯夫妻をアレグロ王国の夜会に招待する内容だ。
 国王からはオリヴィエに協力するかしないかの判断はフィリップとアニエスに任せるとある。
「陛下にはこちらから改めて連絡をとる」
 フィリップはそう言ってから、男に向き直る。
「この招待の裏側を聞かせてもらおう。そもそも君は誰だ? 盗掘にオリヴィエ殿下が関わっているのか?」
 男は座ったまま頭を下げた。
「私はマクシミリアン・ビネルガーと申します。爵位は子爵ですが形ばかりで、普段はオリヴィエ殿下の元で働いております」
「殿下とはお会いしたことがありますが、ご挨拶した側近の中にはおりませんでしたわね」
「ええ、表に出ない位置でお支えしておりますので」
「そうですか」
 モデラート王国の騎士団にも諜報部はあるが、その個人版ということだろうか。
「まずお伝えしたいのは、ペルトボール辺境伯領での盗掘は我々の仕業ではありません。オリヴィエ殿下の敵が関わっておりました」
「敵、ですか? それはもしかしてメヌエ公爵閣下……?」
 アニエスはアレグロ王国の事情を思い出す。
 現国王には王子がふたりいたが、王太子だった第一王子は二十年前に十六歳で亡くなった。第二王子のオリヴィエは年が離れており、当時六歳。一方で、王にも年の離れた弟がおり、彼は三十二歳だった。
 王弟がアニエスが名前を挙げたメヌエ公爵ランベールだ。
 国王は、一旦、ランベールを継承権第一位に戻した。
 しかし、オリヴィエが成長して十六歳になったとき、オリヴィエを王太子に指名したのだ。
(年の離れた兄弟が生まれる呪いでもあるのかしらね……。ああ、でも、我が国も、王女もいるけれど王子はふたりで、血の近いミナパート公爵家も兄弟ふたり。アレグロ王国の血筋も遠くないことを考えると、おもしろいわね)
 などと、アニエスは不謹慎なことを考えつつ、マクシミリアンの話を聞く。
「手に入らないと思っていた王位が手に入りそうになったが、やはり手に入らなかった……そういう経緯が影響したのでしょうか。オリヴィエ殿下の立太子以降、殿下を排除しようという動きが公爵周辺で見えてまいりました。陛下は、無駄に希望を持たせて裏切るようなことになり、後ろめたいのでしょう――強硬手段をとらずにきました。メヌエ公爵を持ち上げる者たちを少しずつ散らして、勢力を小さくしてきたのです」
「第一王子の死は……?」
 フィリップが尋ねると、マクシミリアンは「それは事故でした」と首を振った。
 確か、海難事故だったと思う。
「メヌエ公爵側は、オリヴィエ殿下のご成婚前に事を起こしたいのでしょう。現在、国内外で資金集めをしています。南海の向こうの国々での活動が多いのですが、偶然、こちらの鉱山を発見して利用しようと思ったのだと思います」
 アレグロ王国の南側は海に面している。こちらは西の大海と違って、向こうの陸地までの距離が近く、貿易が盛んだ。
「こちらから盗掘した宝石は南海の向こうで売りさばく予定だったと思われます。首謀者は捕まえてあります。こちらで確保された犯人は、アレグロ王国で取り調べさせていただきたく、モデラート王国騎士団に交渉中です」
「ペルトボールの動向を把握していたのか?」
「敵がモデラート王国で何かやっているらしいとわかったときには、こちらの作戦が決行されたあとでした。ペルトボールより王国騎士団に話を通すほうが早いと思ったので、申し訳ございません」
「いや、問題ない」
 アニエスは、「それで」と話をつなぐ。
「首謀者から『ホワイトミントオパール』の話を聞いたのですか?」
「はい。マルゴが夫人から聞いたとして実行犯に話し、実行犯が首謀者に話しました。夫人がモデラート王国の王妃殿下の腹心だったこと、王太子筆頭補佐官だったこと、陛下の甥の辺境伯と結婚されたことから、モデラート王国の機密を知っていてもおかしくないと考えたようです」
「まあ……」
 アニエスは目を瞬かせる。
(想像力が豊かすぎないかしら? 探偵小説じゃないのだから……)
 そもそも王族間であれだけ婚姻が行われていて、モデラート王国だけに伝わる機密があるとなぜ思う? 本当にあるなら王と王妃にしか継承されないくらいの最高機密だろう。アニエスごときが知っていると考えるのが不思議だ。
 開いた口がふさがらないアニエスの代わりにフィリップが質問した。
「実行犯は、盗掘作業をさせていた男たちに石を飲ませたようだが、それで機密の話が嘘だと思わなかったのか?」
 マクシミリアンはテーブルの上のブローチを見て、もう一度頭を下げた。
「こちらは、念のためです。申し訳ございません。敵はともかく、突然登場した四百年前の宝石にまつわる機密など、我々は信じておりません」
「敵はまだ信じているのか?」
「ええ。新しい鉱山は別の石だから効果がない、四百年前の宝石なら毒性がある、と考えているようです。それで昨日、夫人がブローチをつけていらして、『四百年前のデザイン』『ホワイトミント』などといった言葉が聞こえてきましたので、念のため」
 確かに、屋台の昼食を食べながら話していた。こちらは機密とも何とも思っていないので、声を潜めることもしていない。
「昨日、敵側も私たちを見張っていたということですか?」
「いえ、それはなさそうですが、今はわかりません」
 脅すような言葉。そして夜会への招待。
 アニエスはマクシミリアンを見た。
「私にこのブローチをつけて夜会に参加して囮になれ、ということですか?」
(ということは、作戦として、オリヴィエ殿下側が『ホワイトミントオパール』が本当だと思わせるように動いているのね……。だから敵側は信じている、と)
 王太子補佐官として接したオリヴィエは、良い意味で普通に見えた。しかし、後継争いを他国に悟らせず、うまく敵をさばきながら、『普通』に見せている――同盟国三国の王太子の中で一番曲者かもしれない。
 マクシミリアンは、
「そう考えていただいて構いません」
「絶対に認めん!」
 フィリップが拳を膝に打ち付けた。
 アニエスは彼のその拳に手を添える。
 マクシミリアンはひるまず、
「我々が鉱山の首謀者を捕えたことを、メヌエ公爵側はまだ知りません。一方でホワイトミントオパールの話は公爵にも伝わっている。今なら罠として使えるのです。夫人はアレグロ王国でも顔が知られています。狙われないとも限らない。共闘して一網打尽にしてしまった方が良いのではありませんか?」
「こちらのリスクが大きいのに、得られる利点が少なすぎる」
「もちろん、夫人の安全は保証します。オリヴィエ殿下もご成婚前に片を付けたいのです」
「ああ……」
 それを言われるとアニエスも痛い。
 オリヴィエの婚約者は、モデラート王国の末子ミュリエル王女だ。
 現在、二十二歳のミュリエルは、アニエスがグレースの補佐官だったころはまだ十代前半で、母であるグレースとよく茶会をしていた。王太子妃よりミュリエルの方が、アニエスは交流が多かった。
 アニエスの心が動いたのがわかったのか、フィリップが逆にアニエスの手をつかんだ。
「アニエス」
 アニエスはフィリップの手を握り直し、マクシミリアンに尋ねた。
「今回で終わらせる算段があるのですね?」
「ええ」
「私の安全は守られる?」
「もちろんです」
「わかりました」
「アニエス!」
 フィリップの制止に、アニエスは彼を見上げる。
「ミュリエル殿下には幸せになっていただきたいです。王妃殿下はいつも心配されていました」
「それは私もそう思うが、君が囮にならなくてもいい」
「狙われたり見張られたりを気にして暮らすのも、嫌なのです。私は、街に自由に出かけたいですし、鉱山も視察したいですし、農村に統一規格の指導に行かねばなりません。やりたいこともやらねばならないことも山積みです。片づけられる案件はさっさと片づけてすっきりさせましょう」
「アニエス……」
 フィリップはため息をついた。アニエスは「だめですか?」と再度聞く。
「それはわかっていてやっているのか?」
「何がです?」
「いや、無自覚ならいい……」
 一度天を仰いで頭を振ったあと、フィリップはアニエスに目を向けた。
「いいだろう。ふたりでアレグロ王国に乗り込むぞ」
「ありがとうございます」
 アニエスは、問題の解決に一歩近づいたことに笑顔を浮かべてから、マクシミリアンに向き直る。そのときにはすでに真顔に戻っていたため、マクシミリアンは幻を見たように口を開けた。
 アニエスは手帳を取り出すと、
「夜会の詳細を教えていただけますか?」
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