奥様はエリート文官

神田柊子

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第一章 「辺境伯といえば……?」「君を愛することはない!」

第三騎士団副団長フィリップ・ミナパート

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 時間は少し遡る。

 フィリップ・ミナパートは、その日、叔父である国王アルベール・モデラートの執務室に呼び出されていた。
 ソファに座るフィリップの対面にアルベールが、横のひとり掛けに王太子フェルナンが座っており、それ以外は人払いされている。
(深刻な話なのか)
 それにしては、フェルナンがにやにやしているが、とフィリップは首をかしげる。
「何かありましたか?」
 フェルナンを無視してアルベールに問いかけると、
「そう難しい問題ではないから、楽にしなさい」
 と、笑いかけられた。
 アルベールはフィリップの母の弟だ。フェルナンと年近いこともあり、子どものころから王城に遊びに来ていたフィリップと兄は、叔父にかわいがってもらっていた。
 議会や謁見の際は威厳のある顔をしているが、穏やかな人柄の王は皆から好かれている。治世も安定していた。
「東のペルトボール辺境伯家が途絶えたのを知っているか?」
「はい。一年ほど前でしたか」
 暫定で王家直轄領になっている。
「どうやら治安が悪くなってきているらしい」
「辺境騎士団は?」
「手が回らないらしい」
 辺境伯家は国境に当たるため、騎士団は強いはず。それが手が回らないとは。
「それほど治安が悪いのですか?」
「いや、単純に人手が足りないようだな」
「国境警備の要の辺境騎士団が人出不足!?」
 フィリップは目をむく。
 確かに、東の国境は山脈があるため進軍は容易ではない。しかし、南北の隣国と違い、東の山脈の先の国は同盟国ではない。
「それでは、我々第三騎士団が出向いて対処いたします。人員の育成も行いましょう」
 フィリップは自分がここに呼ばれた理由を察して、そう言ったが、アルベールは「いやいや」と手を振った。
「君に出向いてもらいたいのは間違いないが、騎士としてではなく、辺境伯としてだ。君をペルトボール辺境伯に叙爵しようと思う」
「は? 私が辺境伯ですか?」
 フィリップは突然のことに口をぽかんと開けてしまう。そして、すぐにはっとして、
「私には無理ですよ! 領地経営なんてさっぱりです!」
「さっぱりって、一通り習っているんだろ?」
 横からフェルナンが口を挟んだ。
 確かに、兄に何かあったときの保険として同様の教育は受けた。
「もう何年も前のことだし、私に才能はないと教師のお墨付きだ」
「胸を張ることか?」
「事実だからな」
 兄エルネストと同じ教師に学んだが、座学に関しては「エルネスト様がいらして本当に良かったです」と何度も言われた。フィリップ自身も全くその通りだと思っている。ミナパート公爵はエルネストが継ぎ、彼には息子が二人いる。公爵家は安泰だろう。
 一方で剣術や体術はフィリップのほうが優秀だった。
 ミナパート公爵家初代は、西岸三国が争っていたころに海軍で軍功を立てた将軍だった。時折体格のいい者が生まれるが、フィリップはまさにそれだ。騎士は天職だと思っている。――出世するにつれて事務作業や政治的やりとりが増えたのにはうんざりしているが。
「君はそう言うだろうと思った。だが、領地経営が得意な者を妻に迎えれば問題ない」
 アルベールもフェルナンとそっくりににやにや笑いを浮かべた。
「王太子筆頭補佐官とかな」
「アニエス・マネジット女史ですか!?」
 フィリップはソファの上で飛び跳ねる。
「ま、まさか。無理です。第一マネジット女史は王太子補佐官ではないですか。仕事を辞めて辺境伯領まで嫁いでくれなどと口が裂けても言えません。そもそも彼女は誰からの求婚も断っているのです。私が求婚したところで玉砕者のひとりになるだけです」
 フィリップが勢いよくまくしたてると、ふたりはまた同じような呆れた顔をした。よく似た親子だ。
 ため息をついたフェルナンが、
「お前、当たってもみないうちから砕ける心配か。第三騎士団副団長が笑える」
「断られるのをわかっていて求婚するなど、マネジット女史に面倒をかけるだけではないか」
「求婚してみないと断られるかどうかなんてわからないだろうが」
「わかる」
 断言すると、フェルナンは再度ため息をついた。
 アニエスがフィリップを知っているかはわからないが、フィリップはアニエスを知っていた。

::::::::::

 かつて、フィリップには縁談が進んでいた相手がいた。
 卒業を控えた十八のとき、先方から打診があった相手は二つ年上の某侯爵令嬢。ひとり娘だったため、フィリップが婿入りする話だった。見合いの結果、家同士の不都合もなく、厳つい見た目で貴族令嬢から避けられがちなフィリップを好きだと言ってくれた令嬢にフィリップも好意を持ったため、縁談を進める方向で両親は詳細な調査を始めた。
 そんな中、王城の夜会での出来事だった。フィリップは、縁談相手の令嬢が休憩室で待っていると彼女の侍女に呼び出され向かった。侍女はドアをノックせずに静かに開けた。すると、部屋の中のソファでは、令嬢が別の男と抱き合っているところだった。幸か不幸か、フィリップの縁談相手を見たがったフェルナン――当時十四歳の彼はやんちゃな王子だった――が使用人通路経由で先回りしており、ドアを開けたタイミングで登場。王太子が目撃者のひとりとなれば言い逃れもできず、縁談はなかったことになった。
 後日聞いた話によれば、令嬢と男は以前から恋人同士だったが、身分差があり家から反対されていたそうだ。ミナパート公爵家の調査でも明らかになったが、一足遅かった。フィリップは両親から後手に回ったことを謝られた。
 密会現場に遭遇したとき、侍女はノックもせずにドアを開け、フィリップは部屋の中を見て呆然としてしまい身じろぎもしなかった。そのため、室内のふたりはしばらくドアが開いたことに気づかなかった。抱き合い、口づけをしながら会話を続けており、それはフィリップの耳にも届いた。
「もうすぐ君は結婚してしまうんだろう?」
「心配しないで。あなたとの関係は変わらないわ。私が愛しているのはあなただけだもの」
「でも、跡取りは必要じゃないか。君が別の男に抱かれるなんて」
「あなたとの愛を貫くために必要なことだから我慢してちょうだい。夫との間には子どもはできないようにするわ。私が産むのはあなたの子どもだけよ。そのために、あなたと同じ黒髪で青い瞳の相手を探したんだもの」
「……そんなにうまくいくだろうか。いくらなんでも気づくんじゃないか?」
「あの人は公爵令息だけれど次男だし、侯爵になれるんだから気づいたって文句は言わないわよ。子どもを作らないって約束してくれるならあっちが愛人を持つことだってもちろん許すわ」
 フィリップのことを好きだと言ってくれた令嬢は、くすりと嘲笑った。
「まあ、愛人になってくれる女がいるかわからないけれど。だって、貴族令嬢は皆あの人の見た目が怖いって避けてるんですもの」
 侍女がフィリップの腕に手を添えたため、フィリップは怖気がして振り払った。
 同時に、いつの間にか横に立っていたフェルナンが「貴様、我が従兄を愚弄する気か!」と言い放ち、室内の二人は見られていることに気づいた。――そして修羅場に至るわけだが、最初に冷静になってその場を取り仕切ったのはフェルナンだった。彼は人が集まる前に全員を室内に押し込み、自身を探していた護衛騎士にミナパート公爵夫妻と相手の侯爵夫妻を密かに呼びに行かせた。さすがに王太子なのだなとフィリップは感心したものだった。
 侯爵夫妻は娘が恋人と関係を続けていたことを知らず、自分からフィリップとの縁談を言い出したため身分違いの恋から醒めたのだと思っていた。公爵家だけではなく王家との今後の関係も考慮して、侯爵夫妻は娘の処遇をこちらにゆだねた。令嬢の恋人は男爵家の次男だったが、早々に勘当されたらしい。そう聞いたフィリップの母クリステルが、令嬢も勘当して恋人とふたりで国外追放させるように決めた。平民籍の身分証も当座の生活費も持たせため、働きながらつつましく暮らせば平民としてそれなりの生活ができるだろう。実際に恋人の男は前向きな顔をしていた、と船で北隣のアンダンテ王国まで護送した騎士が報告していた。一方、令嬢は悲壮感いっぱいに旅立ったそうだ。覚悟しての駆け落ちならともかく、そんなつもりなどなかった貴族令嬢がどこまで耐えられるだろうか。おそらく彼女にとっては領地で幽閉や修道院送りになるより過酷な罰だった。アンダンテ王国に向かったふたりがその後どうしているか、フィリップは知らないし、知りたくもない。
 最低の破談劇にはさらに最低な後日談があった。
 破談になったあと、例の侍女が公爵家の門を叩いた。
 侍女は侯爵家の遠縁の出身だったが、解雇されたそうだ。公爵家で雇ってほしいと図々しくもやってきた。
 執事が追い返してもいいところだが、念のためクリステルが応対すると言い、無理を言ってフィリップも同席した。
「実家は侯爵家におもねって私を受け入れてくれません。侯爵夫人は私を解雇する際、紹介状を書いてくださいませんでしたから、再就職しようにもできず……」
 玄関ホールで座り込んで泣き出す元侍女に、クリステルは呆れた声で言った。
「当たり前でしょう。侍女なら令嬢を諫めるべきです。協力していたなら同罪よ。国外追放にならなかっただけましだと思いなさい」
「協力なんて、そんなっ! 私は知りませんでした。お嬢様は私に見つからないように密会していたから」
「そんなわけがないでしょう」
「本当に知らなかったんです! 私が間違えてフィリップ様を案内したから、お嬢様の不貞に気づけたんですよね。性悪女と結婚しなくて済んだのは私のおかげだって思いませんか?」
「いいえ、こちらでも把握しておりましたわ。近々破談になったでしょう。それなのに、あなたのせいでフィリップは……」
 密会現場に立ち会って、フィリップが傷ついたと両親は知っている。
 気持ちを切り替えるように、クリステルは扇を閉じた。
「……主の所業に気づいていなかったなら、それはそれで職務怠慢です。そんな侍女は我が家には不要です」
 執事の指示で従僕が元侍女を外に連れ出そうとする前に、ホールの端で見ていたフィリップはクリステルに近づいた。フィリップに気づいた元侍女がすがるように見上げたが、その顔には涙の名残もない。
「ひとつ聞きたいことがある」
「はいっ! 何でしょうか!」
「あのとき、休憩室のドアをノックもせずに開けたのはなぜだ?」
 クリステルが首をかしげてフィリップを見た。
 密会の状況説明は主にフェルナンがしていた。後から考えれば王太子でもある少年になんてことを説明させてたんだと思うが、あのときはフィリップも呆然としていて頭が回らなかった。フェルナンはドアが開いたあとからしか見ていない。侍女がノックをしたかどうかなど、室内状況に比べたら些末なことで誰も確認しなかったから、フィリップは話す機会がないままだった。
「フィリップ、それはどういうこと?」
「母上。この元侍女は、令嬢と恋人が密会していると知っていて俺を連れてきたんですよ。わざと見せた」
 クリステルに睨まれて、元侍女は慌てて弁解し始めた。
「だから、それは、お嬢様からフィリップ様をお救いしたくてっ」
「あなた、さきほど、令嬢が恋人と会っていたのを知らなかったと言っていなかったかしら?」
「え、あ。それは……ええと」
 フィリップは、きょろきょろと周囲に目をやる元侍女を見下ろす。にらみつけると彼女は「ひぃっ!」と悲鳴を上げた。
 元侍女が主人の密会を知っていたのはクリステルも予想していただろう。フィリップに見せた理由を、主人に恨みがあって破談にしてやりたかったから程度に考えていたかもしれない。
 しかし、フィリップは違うと考えていた。
「君も彼女と同じで、俺が密会現場を見ても縁談を進めると思っていた。違うか?」
「…………」
「あれで俺の愛人に立候補したつもりか?」
「…………」
 元侍女は青くなって震えた。
 従僕は一層しっかりと彼女の腕を掴み、執事はホール脇の待機室の扉を開ける。クリステルは扇が折れそうなくらい握りしめ、「今度こそ正直に話を聞かせてちょうだい」と低い声で、待機室に元侍女を促した。
 このあとは早かった。フィリップの怒りの形相に恐れをなした元侍女は、聞かれるままに全て白状した。
 本当は、フィリップに密会現場を見せたら室内のふたりに気づかれる前にドアを閉めるつもりだったらしい。それで、フィリップに取り入って愛人になり、結婚後には令嬢を排除させて自分が侯爵夫人におさまるつもりだった。早めに密会現場を見せれば、令嬢への憎しみを煽り、他の愛人候補が現れる前に関係を持てるかもしれないと考えたそうだ。破談になっても自分との関係は残り、なんなら公爵夫人になれるかもしれない、と。
「公爵夫人? 俺を足掛かりに兄にも取り入るつもりだったのか?」
「ま、まさかっ! フィリップ様なら次期公爵なんて簡単に再起不能にできると思ったからっ! 私はフィリップ様だけです!」
「白々しい!」
 クリステルは最後の言葉に対して声を上げたようだが、フィリップにはその言葉はどうでもよかった。
 元侍女に手を上げそうになり、なんとか堪えて、右手の拳を左手に打ち付けた。それでも大きな音が鳴った。
「俺が兄を害するような人間だと、お前は言うのか?」
「ひぃぃ」
「先ほどは聞き流したが……。妻になる女が不貞を働いていると知りながら爵位目当てに結婚し、自分も別に愛人を持ち、最終的には妻を害して家を乗っ取る……お前は俺をそういう男だと言うのか?」
 フィリップは元侍女の両目を見据えると、低い声で静かに言った。
「馬鹿にするのも大概にしろ」
 それで気を失った侍女は、クリステルの手によって丁重に侯爵家に送り返された。

 そんなことがあり、フィリップは届く縁談を断りまくった。両親も兄も何も言わなかった。
 女性不信というよりは不貞腐れに近いものだったが、卒業して騎士団に所属すると、少なかった縁談は全くなくなった。
 騎士はフィリップの天職で毎日が楽しかった。時折参加した夜会などで女性と話すことがあっても、構えられることが多かったため、苦手意識は払しょくされないまま。兄が結婚して長男が生まれてからは、もう結婚しなくてもいいだろうと思うようになっていた。
 そして、五年前のこと。
 フィリップは二十八歳。第三騎士団の副団長になり、毎日慣れない書類仕事に奮闘していた。
 騎士団関連の議題を議会で承認させたり予算を通すためには、それなりの根回しも必要で、顔つなぎのために夜会に出ることが増えた。
 あの日フィリップは、王城の夜会に副官を伴って参加していた。
 目当ての伯爵がまだ来ておらず、時間を持て余したフィリップは少し風に当たろうかとバルコニーに出た。この広間のバルコニーは窓ごとに独立しており、奥行が広い。階段から庭にも降りられるが、フィリップは置いてあったテーブルセットで少し休もうと歩きだしかけた。
「第三騎士団のミナパート副団長様、最近よく夜会に参加されていますわね」
 自分の名前が聞こえ、フィリップは足を止めた。
 若い令嬢の声で、どうやら隣のバルコニーのようだ。
「あの怖そうな方ですわね」
「結婚相手を探してらっしゃるのかしら」
「ええっ。嫌だわ。だって公爵家の方ですもの。縁談が届いてしまったらお断りできないではないですか」
 同じように立ち聞きしていた副官のアンドレ・ダルリッツァが、踵を返そうとするのをフィリップは引き留めた。社交界に出入りしていたころに散々言われたことだ。――周囲をよく見ろ、うかつすぎるぞ、と注意したい気持ちはあるが、それだけだ。
 立ち去ろうとしたところで、新たな声が聞こえた。
「副団長様は、議会の前に議席を持つ方々にご挨拶にいらしたのだと思いますわよ。私がそうですもの」
「え、まあ……?」
「そうなのですか……」
 他の令嬢は気がそがれた様子だが、後から来た令嬢は構わない。
「それに、騎士なのですから、怖い見た目で良いではありませんか。あの方が前線に立つだけで、恐れをなした敵が逃げていくなら、戦わずして勝てるのですから最高です」
「はあ。まあ、それはそうでしょうけれど……今は戦時ではありませんし……」
「でも、アニエス様だってあの方から求婚されたら嫌でしょう?」
「私は、副団長様に限らず誰からの求婚もお断りですわ。公爵家からの縁談だってきっちりお断りさせていただきます」
 わずかに灯った心の火に、容赦なく速攻で水をかけられた気分だった。しかし、同時にとても爽快だった。
 誰でもお断りなら仕方ない。
(いや、待て。仕方ないとはなんだ? お断り発言を聞かなかったら求婚したとでも言うのか?)
 フィリップは内心苦笑する。見た目で避けられているから例外に出会うとコロッと落ちる、というあの破談相手の言葉は、それほど間違っていない。
「騎士団の方々と一緒にいらっしゃるところをお見かけしたことがありますけれど、副団長様は私よりよほど表情豊かでらっしゃいますわよ」
 捨て台詞のように、「それでは良い夜を」と言って、令嬢が去る気配がした。
 フィリップは少しだけ広間の中に顔を出し、隣の窓を見る。バルコニーから出てきたのは、ピンクブロンドを結いあげた小柄な令嬢だった。かわいらしい顔立ちに地味な紺色のドレスが少しちぐはぐだ。
 令嬢は気づかずにフィリップに背を向けたが、彼女に付き従っていたメイドがこちらに気づいた。フィリップが「言うな」と念じながら睨んだところ、意外にもメイドはうなずいて見せた。
 アニエスが去ったあとも、隣の会話は続いていた。
「アニエス様は相変わらずですわね」
「次期侯爵から、三国を股にかける銀行家の令息まで、端から切り捨てていた学生時代が思い出されますわ」
「ぜひ公爵家も切り捨てていただきたいですわね」
 今度はアニエスの噂話になるのか、と呆れたが、内容は一転、悪口ではなく賛美に近かった。
「学問でライバル視してた方々も容赦なく切り捨てていましたものね」
「最優秀で卒業して、王妃殿下の補佐官。そして今では王太子殿下の補佐官でしょう?」
「とても真似できないですけれど、憧れますわ」
 フィリップはそっとその場をあとにした。女性の王太子補佐官と言えばアニエス・マネジットだ。調べるまでもなく、王城では有名だった。
 それから二週間ほどあと。中央棟に書類提出に来た帰り、気晴らしに遠回りして歩いていたフィリップは人気のない廊下の角に立つメイドを見とがめた。近くまで寄って、メイドの顔に思い当たる。
「君はマネジット女史の?」
 フィリップに気づいて頭を下げていたメイドは、はっと顔を上げると「ご存じでしたか」と踵をそろえて敬礼をする。
「第一騎士団所属のセシル・ヘリターと申します」
「あ、ああ。……相手の意図がはっきりするまでは、たとえ相手が騎士団長でも自ら名乗らないように」
 今さら全く知らなかった、ただのメイドだと思っていたとも言えず、フィリップは知った顔で忠告した。
 フィリップが睨んでもひるまない胆力のあるメイドだと思ったが、騎士なら納得だ。
 先ほどまでの立ち姿は普通のメイドにしか見えなかった。なかなかうまい護衛だと思った。
「メイドに戻って構わない」
「はい」
 セシルはうなずくと姿勢を崩して、軽く顔を伏せる。
「マネジット女史は?」
「この奥にいらっしゃいます。そっと静かにお願いします」
 セシルに場所を譲られて、フィリップは角の向こうを覗く。
 狭い廊下で、アニエスは対面の壁に向かってまっすぐに立ち、何か言ったり、手元の紙束を確認したりしていた。
「議会の発表の練習だそうです」
 後ろからセシルが教えてくれた。
「文官の調べものや原稿作成は騎士の訓練と同じだとアニエス様はおっしゃっていました。あれは模擬戦だそうです」
 バルコニーで聞いた噂話では、簡単にライバルや求婚者を退けてきたような印象だったけれど、実際はきっと毎日の素振りや走り込みのような努力があったのだろう。
 フィリップは邪魔しないように、セシルを軽く労ってからその場を離れた。
 翌日の議会。フィリップは第三騎士団副団長として初出席した。
 王太子の補佐官席の末席にピンクブロンドの女性が座った。王城ではすでに知られているが、議員の中には女性が王太子補佐官に就任したことを知らない者もいたらしく、若干ざわついた。
 しかし、アニエスの発表は見事だった。堂々と政策を述べ、難しい質問から言いがかりに近いものまで捌き切った。事前の根回しも完璧で、援護の発言者も多かった。王太子が最後にまとめの話をしたときには、賛成の雰囲気ができあがっていた。
 無事に政策が通った安堵か、席に戻ったアニエスは、次の発表が始まった瞬間にわずかに顔をほころばせた。
 ふわっとゆるむような、刹那の笑顔。
 それは、フィリップの心の中の、決壊しそうになっていた堤防を壊す最後の一手になった。
 フィリップの長い片思いはここから始まったのだ。

::::::::::

 フィリップの意識は思い出から浮上する。
 目の前にはアニエスに求婚しろと迫る国王アルベールと王太子フェルナンがいた。
 フィリップの片思いは、家族どころか王家にまで知れ渡っているが、それ以外には全く知られていなかった。他に知っているのは、最初の場にいた副官アンドレくらいだ。
 誰にも知られていないのは、フィリップが何の行動も起こしていないからだ。
 家族や王家には余計な縁談を持ち込まれないようにする目的で、アニエス・マネジット以外と結婚する気はないと伝えていた。それと同時に、勝手に彼女に縁談を持ちかけるなとも頼んでいる。いずれフィリップが自分から求婚するのだと皆は考えただろうが、フィリップにそんなつもりはなかった。
(きっちりお断りされるのがわかっていて求婚するやつがどこにいる?)
 そんなこんなで回りからせっつかれながら、五年。我ながらよく持ちこたえた。
「私はマネジット女史に求婚するつもりはありません」
 フィリップの宣言を聞いたアルベールは難しい顔をした。
「それなら王命を出すことになる」
「一貴族の結婚に王命?」
 フィリップは耳を疑った。
「マネジットの退官は決まっているのだ。フィリップが求婚しなくても、マネジットは退官して誰かに嫁いでもらわないとならない」
「それは、どういうことですか?」
 フィリップが尋ねるとアルベールは息子に目をやった。促されたフェルナンが口を開く。
「エマニュエルが前からマネジットに嫉妬めいたことを言うのは話していただろう?」
「ああ、あの惚気か」
「妊娠してから前より神経質になっているんだ」
 フェルナンは真剣な表情だ。アルベールもうなずき、
「議会が始まれば、王都も王城も人が増える。エマニュエルやフェルナンを追い落とそうとする動きに利用されても困る」
 アルベールの言葉にフィリップははっとする。
 王太子フェルナンと第二王子エドモンは対立していない。エドモンは兄の治世の邪魔にならないことを念頭に生きてきたのだと思う。今はアカデミーで農業関連の研究をしており、明確に政治や軍事から距離を置いていた。同じくふたり兄弟の次男だったフィリップは、エドモンの立場や心情は察することができる。
 しかし公爵家と違って王家は、本人の意思とは無関係に、周囲が勝手に盛り上がったり利用しようと企んだりすることがある。
「そんな不穏な動きがあるのですか?」
「いや、今のところ何も問題はない。本気でエマニュエルに取って代わろうとしたり、エドモンを担ぎ上げるのを考えている者はおらん。だが、軽い気持ちで噂を利用され、出産に影響が出てもまずい。……逆に、出産に影響しないよう、先んじてマネジットを排除しようと考える者が出てくる可能性もある」
 アニエスの身の危険を指摘され、フィリップは小さく唸り声を上げた。
 アルベールは両手を広げて「可能性にすぎぬ」とフィリップをなだめ、
「……いや、我々も神経質になっているんだろう。疑心暗鬼で情けない。……今までこんなときはグレースがと考えては、グレースはなぜ今ここにいてくれないのか、どうしてこんなに早く逝ってしまったのか、とわめきたくなる」
 公にされていなかったがグレースは五年ほど前から患っており、徐々に公務を減らしていた。アルベールも早めに引退し、ふたりで離宮で余生を過ごす計画になっていたが、流行り風邪をこじらせてしまいグレースは帰らぬ人となった。
「叔父上……」
 頭を振るアルベールを見やり、フェルナンが続けた。
「万が一深刻な噂になってからマネジットを遠ざけたのでは余計な勘ぐりにもつながる。お前の辺境伯就任に合わせるのが自然だ。もっと早くに決まっていたが母上の喪明けを待っていたという言い訳も使える」
「ああ、理解はした……」
 理解はしたが、求婚できるかというと別問題だ。
 煮え切らないフィリップに、フェルナンはさらに、
「エマニュエルも本心ではわかっている。彼女の実家のカラエラ侯爵家も、マネジットとの仲を疑ってなどいない。彼女が母上の遺志に従って補佐官を続けてくれていたと理解している。宰相も大臣も、文官は皆マネジットの実力を知っているから、不手際があって辞めさせられたとは思わないだろう。それでも、お前との結婚があるかないかで天と地ほど印象が変わる」
「わかっている……」
「マネジットを幸せにできるのはフィリップだけだ」
 フェルナンのその言葉に、フィリップは怒りを覚えた。
「何を勝手なことをっ! そんなわけないだろうが」
 フィリップの怒声に、フェルナンはへらりと笑って肩をすくめた。
(ああ、わざと怒らせるためにあんなことを言ったのだ)
 即位を前に優秀な筆頭補佐官を手放さなければならないのは、誰だ。
 フィリップは深く息を吐いた。
「……公爵家から求婚状は送るようにする。だが、それを彼女が受け入れてくれる自信はない。……前に、公爵家から縁談があってもきっちり断ると言っていたのを聞いたことがある」
「ああ、なるほど。それなら、先に退官の話を伝えて、縁談も王命だと匂わせておこう。持参金なんて要らないだろう?」
「もちろん、全てこちらで用意する」
「フィリップの叙爵祝いで、叔父としていくらか贈るから、それで屋敷を整えるといいだろう。マネジットにはグレースが用意していた祝い金がある」
 フィリップはアルベールの申し出を遠慮なく受け入れた。
 フェルナンが、「あとは……」と人差し指を立てた。
「ペルトボール辺境伯領の管理官に不正の疑いがあって監査官を派遣したい、と宰相が言っていたから、それも利用しよう。宰相に伝えておく」
「不正?」
「そう。治安悪化に不正。マネジットの好きそうな課題を用意してくれるなんて、親切な領地だな」
 アニエスを囲い込む準備の良さに、フィリップは呆れる。
 フィリップが求婚の意思を固めるのを待ってくれたことに感謝するべきか。受け入れると読まれていたことを憤るべきか。
「おそらく、マネジットは監査官や管理官のつもりで嫁いでいくと思う。政略結婚よりある意味ひどい」
「……まあ、仕方ないだろう……」
「仕方ない、じゃない。結婚してからが求愛の本番だぞ。あの『執務室の氷の妖精』がお前にどれだけメロメロになっているか、楽しみにしているからな」
 フェルナンはにやにや笑う。
 フィリップは、やはりこいつは一発殴っておくべきか、と拳を固めたのだった。
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