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第一章 「辺境伯といえば……?」「君を愛することはない!」
王太子筆頭補佐官アニエス・マネジット
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ことの起こりはこうであった。
「マネジット、少しいいか」
上司であるモデラート王国王太子フェルナン・モデラートに呼ばれて、アニエス・マネジットは自席を立って彼の執務机の前に出た。
「エマニュエルがまたマネジットとの仲を疑うんだ」
「はあ……」
豪奢な金髪をかき上げるようにして頭を抱えるフェルナンに、アニエスは同意とも呆れとも取れる返事をした。
またか、とアニエスは思ったけれど、いつもの半分惚気話のような愚痴に比べ、今日のフェルナンは深刻そうな雰囲気だ。
エマニュエルは王太子妃だ。国内の有力侯爵家から嫁いできて三年。エマニュエルは二十二歳、フェルナンは二十九歳と年の差はあったけれど、政略結婚から恋愛に発展して仲良くやっているふたりだった。
筆頭補佐官が妙齢の女なのが気になるのはわかる。
アニエスのほうがエマニュエルよりフェルナンに年が近い。
加えて、アニエスの見た目が男性の庇護欲を誘うようなかわいらしいものだから余計に心配なのだろう。アニエス本人は庇護など全然必要としてないが、勘違いされがちなのは確かだ。
しかし、アニエス以外にも補佐官は何人もいて、執務室には他部署の文官も大勢出入りする。アニエスとフェルナンがふたりきりになることはない。
エマニュエルは繁忙期の執務室がどれだけ殺伐としているかなんて知らないで、ちょっと残業が続くとフェルナンに「アニエスとばかり一緒にいる」と苦情を言うらしい。
それだけならかわいい嫉妬で、フェルナンから聞かされると単なる惚気話だ。
アニエスはエマニュエルに会う機会がほとんどないため、直接何か言われることもない。
ただ、エマニュエルの心配を煽る人間がいるようで、それが面倒だった。アニエス自身が、女のくせに筆頭補佐官かと一部の貴族から反感を買っているからだ。
普段は取りなす人もいるし、エマニュエルも自制できる。しかし、今は時期が良くなかった。
「子どものこともあるだろう? エマニュエルの心の安定が必要なんだ。大変申し訳ないが、君には王太子補佐官の任から離れてほしい」
現在、エマニュエルは待望の第一子を妊娠中だ。
それを持ち出されるとアニエスには何も言えない。
ふたりの姉と弟の間に生まれたアニエスはマネジット伯爵家の三女だ。自己主張の強い年子の姉たちと違い手がかからなかったアニエスは、愛されながらも放置されぎみに育ち、姉たちの遊びに巻き込まれる以外はひとりで本ばかり読む子ども時代を過ごす。姉たちの嫁入りを横目に、自分の嫁入りの持参金は厳しいのではないかと察したアニエスは文官を目指すことにした。
十八の年に、最優秀で学院を卒業してグレース王妃の補佐官の職を得た。グレースに目をかけられたアニエスは、彼女に請われて五年前に王太子補佐官に異動し、二年前に筆頭補佐官になった。
女性文官は多くはないが全くいないわけではない。各省庁で働いている者がほとんどで、女性王族の補佐官になれたら最高というのが今までだった。その中で、アニエスは初めて男性王族――それも王太子の補佐官に就任し、さらに筆頭補佐官になった。王太子補佐官になった当初は他の文官からのやっかみも受けたが、筆頭補佐官になったときはおおむね歓迎された。普段の仕事で関わりがない貴族などからはいまだに疎まれているが、当初に比べるとずいぶん仕事がしやすくなった。
グレースは去年逝去されたが、アニエスはこのままフェルナンが即位してからも補佐官を続けられたらと思っていた。
その希望がこんなことで断たれるのか。
いろいろな思いをのみ込んで「わかりました」と了承すると、アニエスはフェルナンに尋ねた。
「どちらに異動でしょうか?」
「マネジットには、ペルトボール辺境伯のところに行ってもらいたい」
「辺境伯家の血筋が断絶してから王家が管理している領地ですよね」
直轄領の管理官なら悪くない異動だと思う。
少し気持ちが前向きになったアニエスだったが、フェルナンは首を振った。
「管理官じゃなくて、辺境伯夫人だよ」
「は?」
「第三騎士団の副団長をやってたフィリップ・ミナパートが辺境伯になるんだ。マネジットは彼に嫁いでもらう」
「は?」
アニエスの冷たい表情にも負けず、フェルナンは朗らかに続ける。
「名前と顔くらい知ってるだろう? ミナパート公爵の次男。ああ、公爵位をフィリップの兄が継いだから、現公爵の弟ってことになるのかな。前公爵夫人が陛下の姉だから、私の従兄だ。独身の中ではエドモンに次いで高位の男だよ。いい縁談だろう?」
「は?」
エドモンは、フェルナンの弟の第二王子だ。二十四歳の彼の縁談は、フェルナンの子どもが生まれて次代が安定してからだと言われている。
政治的に有力な家や人は別にたくさんあるが、確かにミナパート公爵家が一番王家に血が近い。
しかし、アニエスの口からは「は?」しか出てこない。
良い悪いに関わらず、アニエスは縁談を必要としていないのだ。
それに、フィリップは高位は高位だけれど、いかつい見た目から話しかけにくく、令嬢に人気かといわれるとそうでもない。
実際、フィリップに浮いた噂は聞かない。
十五年ほど前には誰それが縁談を申し込んで断られたといった話をいくつか聞いた。彼はアニエスの姉たちと同年代だ。アニエスの実家マネジット伯爵家ではミナパート公爵家とつり合いが取れないから、姉たちの嫁ぎ先の候補にも入っていなかったけれど、アニエスと違って社交に熱心な彼女たちは独身男性の動向には詳しかった。
縁談を断っていたなら、フィリップも自ら結婚を避けていたくちではないだろうか。
「縁談はお断りいたします」
「理由は?」
「身分がつり合いませんし、我が家では持参金が用意できません」
「それは心配ない。マネジットの縁談は母上が気にしていたから、陛下が後ろ盾になってくれるそうだよ。祝い金も出る」
「陛下が、ですか?」
それはもう王命なのでは?
「ミナパート公爵家からも良い返事をもらっているから心配しなくていい」
「……すでに決定事項なのですね……」
「そうなるね」
フェルナンは陽気に笑った。
「婚約おめでとう!」
「はあ……」
アニエスは力なく返事をした。
強く拒否すれば縁談は断れるだろう。でも、文官を続けることはできないと思う。ただの文官よりも、王族のエマニュエルやその子どもが優先されるのは仕方ない。
辞めたあとはどうする? 王宮を解雇されたアニエスを雇う者がいるだろうか。弟が継ぐ実家に居座るわけにもいかない。
それに、縁談を断ったら、王やフェルナンの心証も悪くなるだろう。アニエスだけなら国外に出てもいいが、実家に影響が出るのも困る。
どう考えても、王命の縁談を受けるのが一番無難だった。
(辞令だと思えば……。辺境伯夫人という新しい役職……)
そういえば、とアニエスは思い直す。
管理官が派遣されているのは領主不在だったからだ。フィリップが領主になるなら管理官は廃止されるのではないだろうか。当然、領地管理は領主の辺境伯の仕事になる。
フィリップは騎士だから、領地経営は苦手かもしれない。少なくとも補佐は必要だろう。
きっと、そこにはアニエスが手を出す余地がある。
前領主だとか口出ししてくる面倒な親族とかもいない。上司はフィリップだけ。
(これは案外良い職場なのでは?)
王命で断れないのだ。もっと厄介な結婚を強いられるよりはよほどましだ。
少し気を取り直したアニエスは、顔を上げる。
「筆頭補佐官の後任はどうなりますか? 私が任命してもよろしいでしょうか?」
アニエスがそう言いながら執務室を振り返ると、補佐官の部下たちは皆そっと視線を逸らした。
「いや、もう決まっているんだ。あさってにはこちらに異動してくるから引き継ぎしてくれ」
「あさって?」
アニエスは片方の眉を上げる。
断れない命令なら、もっと早く連絡してほしいと心底思う。
「後任はどなたでしょうか?」
「宰相補佐官のウスター子爵だ」
「わかりました」
エマニュエルの実家の侯爵家の親族だったりしたら眉を顰めるところだが、宰相補佐官なら安心して引き継げる人事だ。ウスター子爵はアニエスも面識がある。
納得して自席に戻ろうとしたアニエスをフェルナンが引き留めた。「これを」と、彼は声をひそめてクリーム色のカードを差し出した。
蔓薔薇の型押しがされたそのカードは、エマニュエルのものだ。
「今朝エマニュエルからもらったんだが、私には心当たりがないんだ。マネジットはわかるか?」
受け取ったカードを開くと『去年もらったのと同じ薔薇を今年もほしいです。同じ日に』とある。
「日にちもわかりませんか?」
「薔薇だろう? 心当たりがありすぎてわからない」
「例年ではなくて、去年初めて贈ったものなのですよね」
「そうだろうね」
「わかりました。調べてみます」
こんなことよりも本当は、結婚の詳細や業務の引き継ぎを確認すべきなのだろう。
わかっているけれど、逃避したいときもある。
アニエスは面倒なことにふたをして、手元のカードに意識を向けた。
フェルナンが休憩のために護衛を伴って執務室を出ていくと、部下の補佐官がわっとアニエスの前に集まった。
「アニエスさんがまさか結婚退職なんて!」
「皆で抗議しましょう。他の部署にも声をかけます」
五年前に異動してきたときには全く歓迎されなかったことを思えば、こうやって惜しんでくれるのは素直にうれしい。
アニエスは、ありがたく思いながらも首を振った。
「もう決まってしまっているようですし、退職は受け入れます」
「しかし」
「ここでは、女のくせにといろんな人から文句を言われますが、辺境伯家で文句を言いそうなのは辺境伯ひとりです。領地経営の手はいくらあっても困らないでしょう? 嫁いだほうが自由に仕事ができそうに思えてきました」
「それはそうかもしれないですが、しかし辞めてしまうなんて」
「文句を言うのはアニエスさんの実力を知らない人だけです! 文官は皆アニエスさんの味方ですよ!」
とまだ反対したそうにする補佐官もいる反面、
「それでこそアニエスさんですね」
と笑みを浮かべる補佐官もいる。
「前領主の血筋が途絶えて一年経っていないですが、治安が悪化しているらしいです。なかなかやりがいがある職場なんじゃないでしょうかね」
「相変わらずの情報通ですね」
意味ありげに笑うジル・パエリメにアニエスは目を向けた。
彼はアニエスより年上の二十九歳。アニエスが王太子補佐官に異動してくる前から補佐官だった先輩だ。
人当たりのいい彼は他部署に知り合いが多く、するりと入り込んでいろいろな情報を仕入れてくる。今ではアニエスの副官のような存在だった。
「私のことより、このカードをどうにかしてしまいましょう」
アニエスはエマニュエルのカードをジルに見せる。
ジルは他の補佐官を仕事に戻らせて、棚から赤い表紙の日誌を取り出してパラパラとめくった。
「毎年薔薇を贈っている日はありますけれど、去年だけの記録はありませんね」
「そうですか」
アニエスは棚から黒い表紙の日誌を出してもらう。黒い表紙が公務の記録だ。
ジルが開いた赤い日誌は、私的な――主にエマニュエルとの記録だった。
エマニュエルはなんでも記念日にする人だった。記念日というより思い出を繰り返したがる、というか。初めて会った日や初めて夜会で踊った日くらいならアニエスにも理解できるが、一緒に庭を散歩して小さなすみれを見つけた日と言われてもよくわからない。翌年の同じ日にまた同じ感動を味わいたいのだそうだ。
ロマンティックと言えば言えないこともないけれど。
そんな些細なことをフェルナンは覚えていない。エマニュエルの侍女などは把握しているかもしれないけれど、夫婦の秘密にしておきたいエマニュエルと彼女の周囲の人間には頼りたくないフェルナンのせいで、アニエスたちが補佐する羽目になった。
フェルナンが夫婦の出来事のうち記念日になりそうなことを話し、補佐官が赤い日誌に記録している。エマニュエルが大事にしている記念日は、彼女に催促される前に祝えるように、毎年スケジュールを確認していた。
変に格好つけたりせずに細かいことは覚えられないとエマニュエルに話してしまえば、それはそれでうまくいくのでは、とアニエスは思っているのだけれど、フェルナンは完璧な夫であり続けたいらしい。
赤い日誌に記録がないなら、フェルナンが補佐官に話さなかったことになる。
直接渡したのならフェルナンは話したはずだ。彼は贈り物をしたと思っていなかったのかも。それなら献上品かしら、とあたりをつける。
「ジルさん、献上品目録を出してください」
「うぇ、献上品ですか。絞り込んでくれるんですよね?」
「ええ、そのつもりです」
献上品目録は王太子宛て以外のものも記録されているから、量が多い。ジルが顔をしかめる気持ちがわかる。
「でもこちらの日誌になかったら、諦めてくださいね」
そう言いながら、アニエスは昨年版の黒い日誌を開いた。
エマニュエルは無理なわがままは言わないから、今日明日の日付ではないはず。実際、薔薇の咲く時期は温暖な地域でも一か月ほど先だ。その辺りから見ていけば良いだろう。
まずざっと見て、薔薇そのものに関わる仕事がなかったことを確認する。そんなものがあればすぐに思い出すだろうから、念のためだ。
次に面会者を見て、薔薇の産地や加工品に関係しているかどうか記憶を掘り下げていく。
フェルナンの公務には補佐官が付き従うが、分野ごとに分担している。筆頭補佐官のアニエスは統括の役目が大きいため、議会や国賓を招く式典などは参加するが、特定の議題を扱う小会議やご機嫌伺いのような軽い謁見には参加しない。その場にいなければ知ることもない雑談までは記録しないため、薔薇と無関係な人からの献上品ならお手上げになる。
幸運なことに、とある貴族の名前から顔を思い出したとき、薔薇にまつわる別の記憶にその顔が引っかかった。
「あら、ナミーズ男爵……? 男爵は薔薇の品評会の常連参加者じゃなかったかしら?」
毎年、王都の植物園で開催される薔薇の品評会だが、四年前に百回記念でフェルナンが招待された。当時、内政や国内行事を担当していたアニエスはフェルナンに付き従い品評会に出向いた。そのときのことをアニエスは思い出す。ナミーズ男爵は領地の産業ではなく趣味で品種改良している人だった。
アニエスは顔をあげると、ジルに面会の日付を伝えて確認してもらう。
「ナミーズ男爵が謁見の際に持ってきたものに薔薇がないですか?」
謁見の場で直接手渡ししたければ事前申請が必要なため、単なる土産なら受付で渡す人がほとんどだ。物によっては、フェルナンには報告しか届かない場合もあるが、それは献上する側も承知している。
薔薇は手渡ししていないだろう。
「あります、あります!」
献上品目録を見て、ジルが声を上げた。
「白薔薇三十本。安全を確認したあとで百合宮に渡したとあります」
百合宮は王太子夫妻の生活する宮だ。
おそらくこれだ。フェルナンの認識では男爵からの献上品だったが、百合宮の中ではフェルナンからの贈り物の扱いをされたのだろう。
「やっぱりアニエスさんに探してもらうのが一番早いんですよね」
ジルが感嘆する。
「そうかしら? 皆、同じようなやり方でしょう?」
「やり方は同じでも、僕なら、ナミーズ男爵の名前から薔薇の品評会は思い出せませんよ」
「私だって何でも覚えているわけではないですよ。今回はたまたま予想が当たっただけです」
ひとつの物事からそれに関する事柄がなんとなく思い出せるだけで、全部を覚えているわけではなかった。
それにアニエスの記憶は視覚情報が強く、聞いただけだとあまり覚えていられない。間違えることもあるし、自分では記憶力がいいとも思っていないからあまり期待されると困る。
今回だって献上品目録を調べればナミーズ男爵にたどり着いただろう。
ちょっと便利なだけ。アニエスはそう思っている。
「それでも、目録を全部調べるよりは断然早いですからね」
ジルの誉め言葉を「それはそうですね」と受け流し、アニエスは話を戻す。
「日付と詳細を書き出して、殿下に提出してください」
「百合宮へは殿下から確認していただいたほうがいいですよね」
「ええ。ナミーズ男爵に問い合わせないとならないので、締め切りは明日と殿下に伝えてください」
そう指示をするとジルは請け負ってから、「ところで」とアニエスを見た。
「辺境伯夫人に補佐官はいりませんか? 家令でもいいんですが」
「え?」
「必要ならいつでも呼んでくださいね」
ジルはにっこり笑って席に戻っていった。
本気だろうか。
戸惑うアニエスに、声がかけられた。
「アニエスさん、宰相がお呼びだそうです」
「マネジット、少しいいか」
上司であるモデラート王国王太子フェルナン・モデラートに呼ばれて、アニエス・マネジットは自席を立って彼の執務机の前に出た。
「エマニュエルがまたマネジットとの仲を疑うんだ」
「はあ……」
豪奢な金髪をかき上げるようにして頭を抱えるフェルナンに、アニエスは同意とも呆れとも取れる返事をした。
またか、とアニエスは思ったけれど、いつもの半分惚気話のような愚痴に比べ、今日のフェルナンは深刻そうな雰囲気だ。
エマニュエルは王太子妃だ。国内の有力侯爵家から嫁いできて三年。エマニュエルは二十二歳、フェルナンは二十九歳と年の差はあったけれど、政略結婚から恋愛に発展して仲良くやっているふたりだった。
筆頭補佐官が妙齢の女なのが気になるのはわかる。
アニエスのほうがエマニュエルよりフェルナンに年が近い。
加えて、アニエスの見た目が男性の庇護欲を誘うようなかわいらしいものだから余計に心配なのだろう。アニエス本人は庇護など全然必要としてないが、勘違いされがちなのは確かだ。
しかし、アニエス以外にも補佐官は何人もいて、執務室には他部署の文官も大勢出入りする。アニエスとフェルナンがふたりきりになることはない。
エマニュエルは繁忙期の執務室がどれだけ殺伐としているかなんて知らないで、ちょっと残業が続くとフェルナンに「アニエスとばかり一緒にいる」と苦情を言うらしい。
それだけならかわいい嫉妬で、フェルナンから聞かされると単なる惚気話だ。
アニエスはエマニュエルに会う機会がほとんどないため、直接何か言われることもない。
ただ、エマニュエルの心配を煽る人間がいるようで、それが面倒だった。アニエス自身が、女のくせに筆頭補佐官かと一部の貴族から反感を買っているからだ。
普段は取りなす人もいるし、エマニュエルも自制できる。しかし、今は時期が良くなかった。
「子どものこともあるだろう? エマニュエルの心の安定が必要なんだ。大変申し訳ないが、君には王太子補佐官の任から離れてほしい」
現在、エマニュエルは待望の第一子を妊娠中だ。
それを持ち出されるとアニエスには何も言えない。
ふたりの姉と弟の間に生まれたアニエスはマネジット伯爵家の三女だ。自己主張の強い年子の姉たちと違い手がかからなかったアニエスは、愛されながらも放置されぎみに育ち、姉たちの遊びに巻き込まれる以外はひとりで本ばかり読む子ども時代を過ごす。姉たちの嫁入りを横目に、自分の嫁入りの持参金は厳しいのではないかと察したアニエスは文官を目指すことにした。
十八の年に、最優秀で学院を卒業してグレース王妃の補佐官の職を得た。グレースに目をかけられたアニエスは、彼女に請われて五年前に王太子補佐官に異動し、二年前に筆頭補佐官になった。
女性文官は多くはないが全くいないわけではない。各省庁で働いている者がほとんどで、女性王族の補佐官になれたら最高というのが今までだった。その中で、アニエスは初めて男性王族――それも王太子の補佐官に就任し、さらに筆頭補佐官になった。王太子補佐官になった当初は他の文官からのやっかみも受けたが、筆頭補佐官になったときはおおむね歓迎された。普段の仕事で関わりがない貴族などからはいまだに疎まれているが、当初に比べるとずいぶん仕事がしやすくなった。
グレースは去年逝去されたが、アニエスはこのままフェルナンが即位してからも補佐官を続けられたらと思っていた。
その希望がこんなことで断たれるのか。
いろいろな思いをのみ込んで「わかりました」と了承すると、アニエスはフェルナンに尋ねた。
「どちらに異動でしょうか?」
「マネジットには、ペルトボール辺境伯のところに行ってもらいたい」
「辺境伯家の血筋が断絶してから王家が管理している領地ですよね」
直轄領の管理官なら悪くない異動だと思う。
少し気持ちが前向きになったアニエスだったが、フェルナンは首を振った。
「管理官じゃなくて、辺境伯夫人だよ」
「は?」
「第三騎士団の副団長をやってたフィリップ・ミナパートが辺境伯になるんだ。マネジットは彼に嫁いでもらう」
「は?」
アニエスの冷たい表情にも負けず、フェルナンは朗らかに続ける。
「名前と顔くらい知ってるだろう? ミナパート公爵の次男。ああ、公爵位をフィリップの兄が継いだから、現公爵の弟ってことになるのかな。前公爵夫人が陛下の姉だから、私の従兄だ。独身の中ではエドモンに次いで高位の男だよ。いい縁談だろう?」
「は?」
エドモンは、フェルナンの弟の第二王子だ。二十四歳の彼の縁談は、フェルナンの子どもが生まれて次代が安定してからだと言われている。
政治的に有力な家や人は別にたくさんあるが、確かにミナパート公爵家が一番王家に血が近い。
しかし、アニエスの口からは「は?」しか出てこない。
良い悪いに関わらず、アニエスは縁談を必要としていないのだ。
それに、フィリップは高位は高位だけれど、いかつい見た目から話しかけにくく、令嬢に人気かといわれるとそうでもない。
実際、フィリップに浮いた噂は聞かない。
十五年ほど前には誰それが縁談を申し込んで断られたといった話をいくつか聞いた。彼はアニエスの姉たちと同年代だ。アニエスの実家マネジット伯爵家ではミナパート公爵家とつり合いが取れないから、姉たちの嫁ぎ先の候補にも入っていなかったけれど、アニエスと違って社交に熱心な彼女たちは独身男性の動向には詳しかった。
縁談を断っていたなら、フィリップも自ら結婚を避けていたくちではないだろうか。
「縁談はお断りいたします」
「理由は?」
「身分がつり合いませんし、我が家では持参金が用意できません」
「それは心配ない。マネジットの縁談は母上が気にしていたから、陛下が後ろ盾になってくれるそうだよ。祝い金も出る」
「陛下が、ですか?」
それはもう王命なのでは?
「ミナパート公爵家からも良い返事をもらっているから心配しなくていい」
「……すでに決定事項なのですね……」
「そうなるね」
フェルナンは陽気に笑った。
「婚約おめでとう!」
「はあ……」
アニエスは力なく返事をした。
強く拒否すれば縁談は断れるだろう。でも、文官を続けることはできないと思う。ただの文官よりも、王族のエマニュエルやその子どもが優先されるのは仕方ない。
辞めたあとはどうする? 王宮を解雇されたアニエスを雇う者がいるだろうか。弟が継ぐ実家に居座るわけにもいかない。
それに、縁談を断ったら、王やフェルナンの心証も悪くなるだろう。アニエスだけなら国外に出てもいいが、実家に影響が出るのも困る。
どう考えても、王命の縁談を受けるのが一番無難だった。
(辞令だと思えば……。辺境伯夫人という新しい役職……)
そういえば、とアニエスは思い直す。
管理官が派遣されているのは領主不在だったからだ。フィリップが領主になるなら管理官は廃止されるのではないだろうか。当然、領地管理は領主の辺境伯の仕事になる。
フィリップは騎士だから、領地経営は苦手かもしれない。少なくとも補佐は必要だろう。
きっと、そこにはアニエスが手を出す余地がある。
前領主だとか口出ししてくる面倒な親族とかもいない。上司はフィリップだけ。
(これは案外良い職場なのでは?)
王命で断れないのだ。もっと厄介な結婚を強いられるよりはよほどましだ。
少し気を取り直したアニエスは、顔を上げる。
「筆頭補佐官の後任はどうなりますか? 私が任命してもよろしいでしょうか?」
アニエスがそう言いながら執務室を振り返ると、補佐官の部下たちは皆そっと視線を逸らした。
「いや、もう決まっているんだ。あさってにはこちらに異動してくるから引き継ぎしてくれ」
「あさって?」
アニエスは片方の眉を上げる。
断れない命令なら、もっと早く連絡してほしいと心底思う。
「後任はどなたでしょうか?」
「宰相補佐官のウスター子爵だ」
「わかりました」
エマニュエルの実家の侯爵家の親族だったりしたら眉を顰めるところだが、宰相補佐官なら安心して引き継げる人事だ。ウスター子爵はアニエスも面識がある。
納得して自席に戻ろうとしたアニエスをフェルナンが引き留めた。「これを」と、彼は声をひそめてクリーム色のカードを差し出した。
蔓薔薇の型押しがされたそのカードは、エマニュエルのものだ。
「今朝エマニュエルからもらったんだが、私には心当たりがないんだ。マネジットはわかるか?」
受け取ったカードを開くと『去年もらったのと同じ薔薇を今年もほしいです。同じ日に』とある。
「日にちもわかりませんか?」
「薔薇だろう? 心当たりがありすぎてわからない」
「例年ではなくて、去年初めて贈ったものなのですよね」
「そうだろうね」
「わかりました。調べてみます」
こんなことよりも本当は、結婚の詳細や業務の引き継ぎを確認すべきなのだろう。
わかっているけれど、逃避したいときもある。
アニエスは面倒なことにふたをして、手元のカードに意識を向けた。
フェルナンが休憩のために護衛を伴って執務室を出ていくと、部下の補佐官がわっとアニエスの前に集まった。
「アニエスさんがまさか結婚退職なんて!」
「皆で抗議しましょう。他の部署にも声をかけます」
五年前に異動してきたときには全く歓迎されなかったことを思えば、こうやって惜しんでくれるのは素直にうれしい。
アニエスは、ありがたく思いながらも首を振った。
「もう決まってしまっているようですし、退職は受け入れます」
「しかし」
「ここでは、女のくせにといろんな人から文句を言われますが、辺境伯家で文句を言いそうなのは辺境伯ひとりです。領地経営の手はいくらあっても困らないでしょう? 嫁いだほうが自由に仕事ができそうに思えてきました」
「それはそうかもしれないですが、しかし辞めてしまうなんて」
「文句を言うのはアニエスさんの実力を知らない人だけです! 文官は皆アニエスさんの味方ですよ!」
とまだ反対したそうにする補佐官もいる反面、
「それでこそアニエスさんですね」
と笑みを浮かべる補佐官もいる。
「前領主の血筋が途絶えて一年経っていないですが、治安が悪化しているらしいです。なかなかやりがいがある職場なんじゃないでしょうかね」
「相変わらずの情報通ですね」
意味ありげに笑うジル・パエリメにアニエスは目を向けた。
彼はアニエスより年上の二十九歳。アニエスが王太子補佐官に異動してくる前から補佐官だった先輩だ。
人当たりのいい彼は他部署に知り合いが多く、するりと入り込んでいろいろな情報を仕入れてくる。今ではアニエスの副官のような存在だった。
「私のことより、このカードをどうにかしてしまいましょう」
アニエスはエマニュエルのカードをジルに見せる。
ジルは他の補佐官を仕事に戻らせて、棚から赤い表紙の日誌を取り出してパラパラとめくった。
「毎年薔薇を贈っている日はありますけれど、去年だけの記録はありませんね」
「そうですか」
アニエスは棚から黒い表紙の日誌を出してもらう。黒い表紙が公務の記録だ。
ジルが開いた赤い日誌は、私的な――主にエマニュエルとの記録だった。
エマニュエルはなんでも記念日にする人だった。記念日というより思い出を繰り返したがる、というか。初めて会った日や初めて夜会で踊った日くらいならアニエスにも理解できるが、一緒に庭を散歩して小さなすみれを見つけた日と言われてもよくわからない。翌年の同じ日にまた同じ感動を味わいたいのだそうだ。
ロマンティックと言えば言えないこともないけれど。
そんな些細なことをフェルナンは覚えていない。エマニュエルの侍女などは把握しているかもしれないけれど、夫婦の秘密にしておきたいエマニュエルと彼女の周囲の人間には頼りたくないフェルナンのせいで、アニエスたちが補佐する羽目になった。
フェルナンが夫婦の出来事のうち記念日になりそうなことを話し、補佐官が赤い日誌に記録している。エマニュエルが大事にしている記念日は、彼女に催促される前に祝えるように、毎年スケジュールを確認していた。
変に格好つけたりせずに細かいことは覚えられないとエマニュエルに話してしまえば、それはそれでうまくいくのでは、とアニエスは思っているのだけれど、フェルナンは完璧な夫であり続けたいらしい。
赤い日誌に記録がないなら、フェルナンが補佐官に話さなかったことになる。
直接渡したのならフェルナンは話したはずだ。彼は贈り物をしたと思っていなかったのかも。それなら献上品かしら、とあたりをつける。
「ジルさん、献上品目録を出してください」
「うぇ、献上品ですか。絞り込んでくれるんですよね?」
「ええ、そのつもりです」
献上品目録は王太子宛て以外のものも記録されているから、量が多い。ジルが顔をしかめる気持ちがわかる。
「でもこちらの日誌になかったら、諦めてくださいね」
そう言いながら、アニエスは昨年版の黒い日誌を開いた。
エマニュエルは無理なわがままは言わないから、今日明日の日付ではないはず。実際、薔薇の咲く時期は温暖な地域でも一か月ほど先だ。その辺りから見ていけば良いだろう。
まずざっと見て、薔薇そのものに関わる仕事がなかったことを確認する。そんなものがあればすぐに思い出すだろうから、念のためだ。
次に面会者を見て、薔薇の産地や加工品に関係しているかどうか記憶を掘り下げていく。
フェルナンの公務には補佐官が付き従うが、分野ごとに分担している。筆頭補佐官のアニエスは統括の役目が大きいため、議会や国賓を招く式典などは参加するが、特定の議題を扱う小会議やご機嫌伺いのような軽い謁見には参加しない。その場にいなければ知ることもない雑談までは記録しないため、薔薇と無関係な人からの献上品ならお手上げになる。
幸運なことに、とある貴族の名前から顔を思い出したとき、薔薇にまつわる別の記憶にその顔が引っかかった。
「あら、ナミーズ男爵……? 男爵は薔薇の品評会の常連参加者じゃなかったかしら?」
毎年、王都の植物園で開催される薔薇の品評会だが、四年前に百回記念でフェルナンが招待された。当時、内政や国内行事を担当していたアニエスはフェルナンに付き従い品評会に出向いた。そのときのことをアニエスは思い出す。ナミーズ男爵は領地の産業ではなく趣味で品種改良している人だった。
アニエスは顔をあげると、ジルに面会の日付を伝えて確認してもらう。
「ナミーズ男爵が謁見の際に持ってきたものに薔薇がないですか?」
謁見の場で直接手渡ししたければ事前申請が必要なため、単なる土産なら受付で渡す人がほとんどだ。物によっては、フェルナンには報告しか届かない場合もあるが、それは献上する側も承知している。
薔薇は手渡ししていないだろう。
「あります、あります!」
献上品目録を見て、ジルが声を上げた。
「白薔薇三十本。安全を確認したあとで百合宮に渡したとあります」
百合宮は王太子夫妻の生活する宮だ。
おそらくこれだ。フェルナンの認識では男爵からの献上品だったが、百合宮の中ではフェルナンからの贈り物の扱いをされたのだろう。
「やっぱりアニエスさんに探してもらうのが一番早いんですよね」
ジルが感嘆する。
「そうかしら? 皆、同じようなやり方でしょう?」
「やり方は同じでも、僕なら、ナミーズ男爵の名前から薔薇の品評会は思い出せませんよ」
「私だって何でも覚えているわけではないですよ。今回はたまたま予想が当たっただけです」
ひとつの物事からそれに関する事柄がなんとなく思い出せるだけで、全部を覚えているわけではなかった。
それにアニエスの記憶は視覚情報が強く、聞いただけだとあまり覚えていられない。間違えることもあるし、自分では記憶力がいいとも思っていないからあまり期待されると困る。
今回だって献上品目録を調べればナミーズ男爵にたどり着いただろう。
ちょっと便利なだけ。アニエスはそう思っている。
「それでも、目録を全部調べるよりは断然早いですからね」
ジルの誉め言葉を「それはそうですね」と受け流し、アニエスは話を戻す。
「日付と詳細を書き出して、殿下に提出してください」
「百合宮へは殿下から確認していただいたほうがいいですよね」
「ええ。ナミーズ男爵に問い合わせないとならないので、締め切りは明日と殿下に伝えてください」
そう指示をするとジルは請け負ってから、「ところで」とアニエスを見た。
「辺境伯夫人に補佐官はいりませんか? 家令でもいいんですが」
「え?」
「必要ならいつでも呼んでくださいね」
ジルはにっこり笑って席に戻っていった。
本気だろうか。
戸惑うアニエスに、声がかけられた。
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