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第四章 境界の森
ブリジットの夢の中
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魔族と話した直後、ふっと視界が変わった。倒れそうだった体は今は軽い。
エマは辺りを見回す。
薄明るい世界には空も地面もない。霧とも違い、白くぼんやりとしている。雲の中ってこんな感じかしら、とエマは一人ごちる。
一歩踏み出すと高級な絨毯のようにふかふかだった。
エマは自分がドレスを着ていることに気づく。菫色の肩の出るドレスだ。髪は結いあげられている。
「エマ!」
大きな声に振り向くと、ブリジットが抱きついてきた。彼女は社交界デビューの夜会用のドレスを着ていた。
「ブリジット様!」
「会いたかった!」
満面の笑みを浮かべるブリジットにエマは困惑する。エマの知っている彼女はもっと控えめな感情表現の令嬢だった。
「ブリジット様、皆、心配してるんですよ。そろそろ起きないと」
「いやよ」
ぷいと顔を背けて、ブリジットはエマの手を引く。
「ね、踊りましょう。私、エマと一緒に夜会に出たかったの」
「え?」
周囲はあっという間に、どこかの大広間に変わった。エマにはわからないけれど、ブリジットがデビューした王城だろうか。広々した空間にはエマとブリジットの二人だけだった。
シャンデリアが煌々と照る中、見えない楽団が音楽を奏でる。ブリジットはエマと向き合ってくるくる回る。彼女の令嬢教育に付き合っていたからワルツだとわかったけれど、とっさに踊れるほどエマはダンスを習っていない。ブリジットに足をひっかけないように気を付けながら、エマは振り回されていた。
「楽しい?」
エマにそう聞くブリジットはとても楽しそうに笑っている。
「ブリジット様。私、突然すぎてよくわからないんです。ちょっと一回休みましょう。ね?」
「もう、仕方ないわね」
すると、薔薇が咲き誇る庭園の中に変わった。壁のように高い薔薇の生垣に囲まれた東屋に茶の仕度がされている。エマは倒れこむように椅子に座った。ブリジットもおとなしくもう一つの椅子に座る。
菫色の砂の砂時計が落ちきると、ティーポットが浮き上がって二人のカップに紅茶を注いだ。茶菓子はブルーベリーのヨーグルトタルトだ。セドリックの結婚パーティでエマがおいしかったと話してから、毎年旬になると出してくれる。
ブリジットの夢だから、彼女の思う通りになるのだろう。
しかし、エマの爪は青緑に塗られていた。タクトの王都土産の鉱物の色は、ブリジットは知らない。現実ではもう落としたけれど、エマが着飾るなら爪を塗りたいと思っているからこうなるのだろう。
全てがブリジットの思うがままというわけでもないようで、エマの意志もいくらか反映されていることに安心した。彼女の夢に取り込まれるわけにはいかない。
エマは紅茶とケーキの皿を横によけた。
「王都で何があったんですか?」
「何も」
「話がしたくて私を呼んだんですよね?」
根気よく見つめると、ブリジットは頬を膨らませた。
「お友だちに話すみたいにしてくれたら話してあげるわ」
「わかったわ」
エマはため息をつくと、
「ブリジット、何があったの? いい加減に話してよ」
ブリジットは一瞬ぱあっと顔を輝かせてから、また頬を膨らませた。
「縁談が来たの」
「そうなの? おめでとう」
エマは身を乗り出した。
「おめでたくなんてないわ」
「どうして? 結婚したくないの? それで夢の中にいるの?」
「そうよ、結婚したくない」
「……それって、やっぱり、タクトが好きだから?」
恐る恐るエマが尋ねると、ブリジットは首を振った。
「タクトのことはもうよくわからないわ。彼と結婚したいなんて思ってない」
「そうなの?」
エマはほっとした。
そして、安心した自分に少しだけ焦った。
アリスに話した通り、タクトがエマ以外の女性と結婚するのは見たくない。
――これは恋かしら?
と考えてから、思い出す。
今はブリジットのことだ。
「タクトのことが原因じゃないなら、他に好きな人がいるの?」
「いないわ」
「だったら、相手が嫌な人だったの? すっごい年上とか?」
「知らないわ。会ってないもの」
ブリジットはうつむく。それはエマがよく見る彼女のしぐさだった。
「え? 相手に会ってみないと結婚したいかしたくないかなんて判断つかないじゃない」
「会うのが怖いんだもの! 会ってがっかりされたくないわ」
ブリジットは声を荒げた。
「ブリジット」
エマは椅子を立って、ブリジットの前に膝をつく。彼女の両手を握る。
「結婚はしたいの。エマとタクトがうらやましい」
「私たちが?」
「『界の狭間から落ちてきた者』と『扉の魔女』なんて、物語みたいな運命的な恋。絶対の唯一の相手だったら、私がどんなでも嫌わないでいてくれると思わない?」
「運命的な恋?」
「エマはタクトのもの、タクトはエマのものでしょう?」
そうなのだろうか。
そうかもしれない。
「でも、恋とは違って……」
エマが言い訳のように言うと、ブリジットは眉を吊り上げた。
「弟だって言うの? あなたは本当の弟を知らないからわからないのよ。私とお兄様と、あなたとタクト、全然違うじゃない。あなたのは、恋人の関係に『弟』って名前を付けただけよ」
「…………」
恋って何と考えていたけれど、そういわれると弟もよくわからなくなってきた。
エマは反論できずに言葉を失う。
そこでブリジットの後ろに、緑の髪の魔族がいるのに気づいた。
何も言わずに微笑みを浮かべて、エマとブリジットを見ている。彼は何がしたいのだろう。
「ブリジット、あなたは運命的な恋をしたいのね?」
エマは強引に話をブリジットに戻した。
「恋は出会わなきゃ始まらないわよ。とにかく会ってみないとわからないじゃない」
「だから、怖いって言っているじゃない。なんでわかってくれないの?」
ブリジットの両手を再び握って、エマは言葉を重ねる。
「わかるわ。皆、怖いわよ。それが普通。相手だって、ブリジットから嫌われたくないって思ってるわ」
「そんなこと思ってる人が求婚するわけないわ」
「求婚しないと――出会わないと何も始まらないから、アプローチするんでしょ。もう! わからずや! 嫌われることばっかり心配しているけど、人と人の間のことなんだから一方通行じゃないのよ? 嫌われる、好かれるだけじゃなくて、ブリジットの方から相手を好きになることだって嫌うことだってあるの。嫌われる心配は好きになってからしなさいよ!」
「なによ、エマはタクトがいるからって!」
「そういうこと言ってないでしょ」
ブリジットが立ち上がると、エマも立ち上がった。
エマが小柄なせいで、二つ年下だけれどブリジットの方が少し背が高い。
エマは菫色の瞳でブリジットをまっすぐに見つめた。ドレスに合わせた靴の高いかかとを打ち鳴らすと、魔力が散って星が瞬く。
「私はブリジットのこと、好きよ。あなたも私のこと好きでしょ? それは出会ったからわかったことなのよ」
ブリジットはエマを見つめ、息を詰めた。それからすっと視線をそらせ、テーブルの上の砂時計を手に取った。
「もう、一人にして」
ブリジットがつぶやいて砂時計を地面に打ち付けると、零れた菫色の砂は白く変わり風に飛ばされた。――エマは知らなかったけれど、それはホネストがエマの髪から作ったもので、彼女をブリジットの夢にとどめる役割を担っていた。
「ブリジット!」
あっという間に、辺りは真っ白になった。それからだんだんと色づいてくる。
紫がかった霞は、ヴィオレットの森の朝霧に似ているけれど、湿り気がなかった。足元が硬い。岩場のようだった。
ふと見ると、ドレスではなく辺境伯家を訪れたときの服装に戻っている。タクトが着せてくれた夜空色のケープのリボンが揺れた。
「もしかして、紫煙の崖?」
「ええ、その通り」
柔らかい声に顔をあげると、菫色の髪と菫色の瞳の女性が立っていた。長い髪にローブドレス。ロイクから聞いていた通りの姿だ。
――魔界側の境界の『扉の魔女』だった。
「はじめまして。私はヴィオレットの森の魔女、エマと申します」
「ええ、はじめまして。私は紫煙の崖の魔女ハズミ。楽に話して構いませんよ」
ハズミの微笑みや話し方は、師匠のゾエを思い出させた。
「私、どうして魔界に来てしまったんでしょうか? ヴィオレットの森の中にいたわけではなかったんです」
簡単に状況を説明すると、ハズミは少し首を傾げた。
「魔族が人間に見せた夢だから、境界になってしまったのかしらね? ここにいるあなたは精神だけのようです」
ハズミがエマの手を取ると、何の感触もなくすり抜けた。
ブリジットの夢の中では彼女の手を取れたのに。
「え、嘘。『帰還の魔法』で戻れますか?」
「大丈夫ですよ」
「良かった」
ほっとしたエマは、同時に不安になる。
戻る場合は現実に戻るのか、ブリジットの夢の中に戻るのか、どちらなんだろう。
それを口にする前に、ハズミは大きく手を動かした。空にいる鳥を呼ぶようなしぐさだった。
「帰る前に、会わせたい子がいます。もう少ししたら次の生へ旅立ってしまったかもしれなかったから、ちょうど良かったですね」
ハズミに答えて、紫煙の中からすいっと降りてきたのは小さな菫色の魚だった。空中を泳ぐように舞う。
「エマ、よくやっていますね」
魚はゾエの声で話した。
「師匠!」
「あなたなら大丈夫。さあ、行きなさい」
「あ、待って。まだ」
「『扉の魔女』は境界の要です。エマがここにいる今、人間界には一人もいない状態なのですよ。良くないことだとわかるでしょう?」
「はい」
エマがうなずくと、ゾエは少し離れた。
「いい色ですね」
エマのワンピースは自分で染めた藍だった。涙をぬぐって、エマは笑う。
「ありがとうございます」
魚の表情はわからないけれど、ゾエならきっと微笑んでくれただろうとエマは思う。菫色の魚は身をひるがえして、ハズミの後ろに泳いでいった。
ハズミは静かに両手を合わせた。エマもかかとを打ち鳴らす。二人分の星が散った。
「紫煙の崖の魔女が扉に命じます。エマを元の場所に帰しなさい」
白い光がエマを包む。エマは目を閉じて、深く礼をした。
バタンと扉が閉まる音がする。
そして。
目を開けたエマは、徐々に体の感覚を取り戻した。何かに横たわっているのがわかり、次いでブリジットの寝顔が目に入った。
「あ!」
一気に覚醒し、エマは飛び起きた。
「エマ!」
起き上がったエマはすぐさま押し倒された。タクトが抱きついてきたのだとわかった。
「エマ、大丈夫? 心配したんだ」
「タクト。心配かけてごめんなさい。大丈夫だから、離して」
少し苦しくてエマが押し返すと、タクトは慌てて離れてくれた。
エマは長椅子に寝ていたようだ。起き上がって座り直す。タクトはエマの足元にひざまずいて、彼女の無事を目を皿にして確かめているようだった。その隣に虎の姿のカイがいたから、エマは彼にも笑顔を見せた。
「私、眠っていたの?」
タクトの手を引いて、長椅子の隣りに座らせる。カイはエマの足元にすり寄った。
長椅子はベッドと並行に置かれていて、ブリジットの寝顔がよく見えた。なんとなく最初よりも険しい表情に見える。楽しい夢のままだといつまでも閉じこもっていそうだけれど、悩んでくれたほうが出てきてくれる気がしたから、エマは悪くない変化だと考えた。
タクトはそのままエマの手を握って、
「エマが眠ったあと、カイが魔族と話したんだ。ブリジット様がエマを呼んでいるから夢に招待する。彼女の気が済んだらエマを帰すって」
魔族の姿はエマも見た。夢に取り込まれる前と、夢の中で。緑の髪に赤い瞳、長い手足と彫像のような整った顔が印象的だった。
「それで、エマはずっと寝てた。ブリジット様が握っていた手が離れて、それからしばらくして目が覚めたんだよ」
「どのくらい寝てた?」
カーテンを通して外の明るさがわかる。夜ではない。
「一日」
「え、そんなに? 待って。新月って」
慌てるエマに、タクトは笑顔を向けた。
「明日だから大丈夫」
「良かった」
顔を巡らせると、客間にはブリジットの家族は誰もいなかった。
「ブリジット様のこと、お伝えしないと」
「メイドさんが出て行ったから誰か呼んでくると思う」
うなずいたエマは、カイの背を撫でた。
「最初はブリジット様の夢にいたんだけれど、そこから飛ばされて、魔界の紫煙の崖に行ったの。『扉の魔女』に会ったわ」
エマは一度言葉を切る。
「それから、師匠の魂にも」
「え?」
タクトが驚きの声をあげ、カイもエマを見上げた。
「うん。よくやってるって、私なら大丈夫だって」
エマはワンピースの裾をつまむと、満面の笑みを浮かべた。
「いい色ってほめられたわ」
エマは辺りを見回す。
薄明るい世界には空も地面もない。霧とも違い、白くぼんやりとしている。雲の中ってこんな感じかしら、とエマは一人ごちる。
一歩踏み出すと高級な絨毯のようにふかふかだった。
エマは自分がドレスを着ていることに気づく。菫色の肩の出るドレスだ。髪は結いあげられている。
「エマ!」
大きな声に振り向くと、ブリジットが抱きついてきた。彼女は社交界デビューの夜会用のドレスを着ていた。
「ブリジット様!」
「会いたかった!」
満面の笑みを浮かべるブリジットにエマは困惑する。エマの知っている彼女はもっと控えめな感情表現の令嬢だった。
「ブリジット様、皆、心配してるんですよ。そろそろ起きないと」
「いやよ」
ぷいと顔を背けて、ブリジットはエマの手を引く。
「ね、踊りましょう。私、エマと一緒に夜会に出たかったの」
「え?」
周囲はあっという間に、どこかの大広間に変わった。エマにはわからないけれど、ブリジットがデビューした王城だろうか。広々した空間にはエマとブリジットの二人だけだった。
シャンデリアが煌々と照る中、見えない楽団が音楽を奏でる。ブリジットはエマと向き合ってくるくる回る。彼女の令嬢教育に付き合っていたからワルツだとわかったけれど、とっさに踊れるほどエマはダンスを習っていない。ブリジットに足をひっかけないように気を付けながら、エマは振り回されていた。
「楽しい?」
エマにそう聞くブリジットはとても楽しそうに笑っている。
「ブリジット様。私、突然すぎてよくわからないんです。ちょっと一回休みましょう。ね?」
「もう、仕方ないわね」
すると、薔薇が咲き誇る庭園の中に変わった。壁のように高い薔薇の生垣に囲まれた東屋に茶の仕度がされている。エマは倒れこむように椅子に座った。ブリジットもおとなしくもう一つの椅子に座る。
菫色の砂の砂時計が落ちきると、ティーポットが浮き上がって二人のカップに紅茶を注いだ。茶菓子はブルーベリーのヨーグルトタルトだ。セドリックの結婚パーティでエマがおいしかったと話してから、毎年旬になると出してくれる。
ブリジットの夢だから、彼女の思う通りになるのだろう。
しかし、エマの爪は青緑に塗られていた。タクトの王都土産の鉱物の色は、ブリジットは知らない。現実ではもう落としたけれど、エマが着飾るなら爪を塗りたいと思っているからこうなるのだろう。
全てがブリジットの思うがままというわけでもないようで、エマの意志もいくらか反映されていることに安心した。彼女の夢に取り込まれるわけにはいかない。
エマは紅茶とケーキの皿を横によけた。
「王都で何があったんですか?」
「何も」
「話がしたくて私を呼んだんですよね?」
根気よく見つめると、ブリジットは頬を膨らませた。
「お友だちに話すみたいにしてくれたら話してあげるわ」
「わかったわ」
エマはため息をつくと、
「ブリジット、何があったの? いい加減に話してよ」
ブリジットは一瞬ぱあっと顔を輝かせてから、また頬を膨らませた。
「縁談が来たの」
「そうなの? おめでとう」
エマは身を乗り出した。
「おめでたくなんてないわ」
「どうして? 結婚したくないの? それで夢の中にいるの?」
「そうよ、結婚したくない」
「……それって、やっぱり、タクトが好きだから?」
恐る恐るエマが尋ねると、ブリジットは首を振った。
「タクトのことはもうよくわからないわ。彼と結婚したいなんて思ってない」
「そうなの?」
エマはほっとした。
そして、安心した自分に少しだけ焦った。
アリスに話した通り、タクトがエマ以外の女性と結婚するのは見たくない。
――これは恋かしら?
と考えてから、思い出す。
今はブリジットのことだ。
「タクトのことが原因じゃないなら、他に好きな人がいるの?」
「いないわ」
「だったら、相手が嫌な人だったの? すっごい年上とか?」
「知らないわ。会ってないもの」
ブリジットはうつむく。それはエマがよく見る彼女のしぐさだった。
「え? 相手に会ってみないと結婚したいかしたくないかなんて判断つかないじゃない」
「会うのが怖いんだもの! 会ってがっかりされたくないわ」
ブリジットは声を荒げた。
「ブリジット」
エマは椅子を立って、ブリジットの前に膝をつく。彼女の両手を握る。
「結婚はしたいの。エマとタクトがうらやましい」
「私たちが?」
「『界の狭間から落ちてきた者』と『扉の魔女』なんて、物語みたいな運命的な恋。絶対の唯一の相手だったら、私がどんなでも嫌わないでいてくれると思わない?」
「運命的な恋?」
「エマはタクトのもの、タクトはエマのものでしょう?」
そうなのだろうか。
そうかもしれない。
「でも、恋とは違って……」
エマが言い訳のように言うと、ブリジットは眉を吊り上げた。
「弟だって言うの? あなたは本当の弟を知らないからわからないのよ。私とお兄様と、あなたとタクト、全然違うじゃない。あなたのは、恋人の関係に『弟』って名前を付けただけよ」
「…………」
恋って何と考えていたけれど、そういわれると弟もよくわからなくなってきた。
エマは反論できずに言葉を失う。
そこでブリジットの後ろに、緑の髪の魔族がいるのに気づいた。
何も言わずに微笑みを浮かべて、エマとブリジットを見ている。彼は何がしたいのだろう。
「ブリジット、あなたは運命的な恋をしたいのね?」
エマは強引に話をブリジットに戻した。
「恋は出会わなきゃ始まらないわよ。とにかく会ってみないとわからないじゃない」
「だから、怖いって言っているじゃない。なんでわかってくれないの?」
ブリジットの両手を再び握って、エマは言葉を重ねる。
「わかるわ。皆、怖いわよ。それが普通。相手だって、ブリジットから嫌われたくないって思ってるわ」
「そんなこと思ってる人が求婚するわけないわ」
「求婚しないと――出会わないと何も始まらないから、アプローチするんでしょ。もう! わからずや! 嫌われることばっかり心配しているけど、人と人の間のことなんだから一方通行じゃないのよ? 嫌われる、好かれるだけじゃなくて、ブリジットの方から相手を好きになることだって嫌うことだってあるの。嫌われる心配は好きになってからしなさいよ!」
「なによ、エマはタクトがいるからって!」
「そういうこと言ってないでしょ」
ブリジットが立ち上がると、エマも立ち上がった。
エマが小柄なせいで、二つ年下だけれどブリジットの方が少し背が高い。
エマは菫色の瞳でブリジットをまっすぐに見つめた。ドレスに合わせた靴の高いかかとを打ち鳴らすと、魔力が散って星が瞬く。
「私はブリジットのこと、好きよ。あなたも私のこと好きでしょ? それは出会ったからわかったことなのよ」
ブリジットはエマを見つめ、息を詰めた。それからすっと視線をそらせ、テーブルの上の砂時計を手に取った。
「もう、一人にして」
ブリジットがつぶやいて砂時計を地面に打ち付けると、零れた菫色の砂は白く変わり風に飛ばされた。――エマは知らなかったけれど、それはホネストがエマの髪から作ったもので、彼女をブリジットの夢にとどめる役割を担っていた。
「ブリジット!」
あっという間に、辺りは真っ白になった。それからだんだんと色づいてくる。
紫がかった霞は、ヴィオレットの森の朝霧に似ているけれど、湿り気がなかった。足元が硬い。岩場のようだった。
ふと見ると、ドレスではなく辺境伯家を訪れたときの服装に戻っている。タクトが着せてくれた夜空色のケープのリボンが揺れた。
「もしかして、紫煙の崖?」
「ええ、その通り」
柔らかい声に顔をあげると、菫色の髪と菫色の瞳の女性が立っていた。長い髪にローブドレス。ロイクから聞いていた通りの姿だ。
――魔界側の境界の『扉の魔女』だった。
「はじめまして。私はヴィオレットの森の魔女、エマと申します」
「ええ、はじめまして。私は紫煙の崖の魔女ハズミ。楽に話して構いませんよ」
ハズミの微笑みや話し方は、師匠のゾエを思い出させた。
「私、どうして魔界に来てしまったんでしょうか? ヴィオレットの森の中にいたわけではなかったんです」
簡単に状況を説明すると、ハズミは少し首を傾げた。
「魔族が人間に見せた夢だから、境界になってしまったのかしらね? ここにいるあなたは精神だけのようです」
ハズミがエマの手を取ると、何の感触もなくすり抜けた。
ブリジットの夢の中では彼女の手を取れたのに。
「え、嘘。『帰還の魔法』で戻れますか?」
「大丈夫ですよ」
「良かった」
ほっとしたエマは、同時に不安になる。
戻る場合は現実に戻るのか、ブリジットの夢の中に戻るのか、どちらなんだろう。
それを口にする前に、ハズミは大きく手を動かした。空にいる鳥を呼ぶようなしぐさだった。
「帰る前に、会わせたい子がいます。もう少ししたら次の生へ旅立ってしまったかもしれなかったから、ちょうど良かったですね」
ハズミに答えて、紫煙の中からすいっと降りてきたのは小さな菫色の魚だった。空中を泳ぐように舞う。
「エマ、よくやっていますね」
魚はゾエの声で話した。
「師匠!」
「あなたなら大丈夫。さあ、行きなさい」
「あ、待って。まだ」
「『扉の魔女』は境界の要です。エマがここにいる今、人間界には一人もいない状態なのですよ。良くないことだとわかるでしょう?」
「はい」
エマがうなずくと、ゾエは少し離れた。
「いい色ですね」
エマのワンピースは自分で染めた藍だった。涙をぬぐって、エマは笑う。
「ありがとうございます」
魚の表情はわからないけれど、ゾエならきっと微笑んでくれただろうとエマは思う。菫色の魚は身をひるがえして、ハズミの後ろに泳いでいった。
ハズミは静かに両手を合わせた。エマもかかとを打ち鳴らす。二人分の星が散った。
「紫煙の崖の魔女が扉に命じます。エマを元の場所に帰しなさい」
白い光がエマを包む。エマは目を閉じて、深く礼をした。
バタンと扉が閉まる音がする。
そして。
目を開けたエマは、徐々に体の感覚を取り戻した。何かに横たわっているのがわかり、次いでブリジットの寝顔が目に入った。
「あ!」
一気に覚醒し、エマは飛び起きた。
「エマ!」
起き上がったエマはすぐさま押し倒された。タクトが抱きついてきたのだとわかった。
「エマ、大丈夫? 心配したんだ」
「タクト。心配かけてごめんなさい。大丈夫だから、離して」
少し苦しくてエマが押し返すと、タクトは慌てて離れてくれた。
エマは長椅子に寝ていたようだ。起き上がって座り直す。タクトはエマの足元にひざまずいて、彼女の無事を目を皿にして確かめているようだった。その隣に虎の姿のカイがいたから、エマは彼にも笑顔を見せた。
「私、眠っていたの?」
タクトの手を引いて、長椅子の隣りに座らせる。カイはエマの足元にすり寄った。
長椅子はベッドと並行に置かれていて、ブリジットの寝顔がよく見えた。なんとなく最初よりも険しい表情に見える。楽しい夢のままだといつまでも閉じこもっていそうだけれど、悩んでくれたほうが出てきてくれる気がしたから、エマは悪くない変化だと考えた。
タクトはそのままエマの手を握って、
「エマが眠ったあと、カイが魔族と話したんだ。ブリジット様がエマを呼んでいるから夢に招待する。彼女の気が済んだらエマを帰すって」
魔族の姿はエマも見た。夢に取り込まれる前と、夢の中で。緑の髪に赤い瞳、長い手足と彫像のような整った顔が印象的だった。
「それで、エマはずっと寝てた。ブリジット様が握っていた手が離れて、それからしばらくして目が覚めたんだよ」
「どのくらい寝てた?」
カーテンを通して外の明るさがわかる。夜ではない。
「一日」
「え、そんなに? 待って。新月って」
慌てるエマに、タクトは笑顔を向けた。
「明日だから大丈夫」
「良かった」
顔を巡らせると、客間にはブリジットの家族は誰もいなかった。
「ブリジット様のこと、お伝えしないと」
「メイドさんが出て行ったから誰か呼んでくると思う」
うなずいたエマは、カイの背を撫でた。
「最初はブリジット様の夢にいたんだけれど、そこから飛ばされて、魔界の紫煙の崖に行ったの。『扉の魔女』に会ったわ」
エマは一度言葉を切る。
「それから、師匠の魂にも」
「え?」
タクトが驚きの声をあげ、カイもエマを見上げた。
「うん。よくやってるって、私なら大丈夫だって」
エマはワンピースの裾をつまむと、満面の笑みを浮かべた。
「いい色ってほめられたわ」
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