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第四章 境界の森
王都からの使者
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ダーツ辺境伯からの使者ロイクは、夜通し駆け、王都から辺境伯領のヴェール村にたどり着いた。
昼を少し過ぎたくらいの時間だ。もしかしたらの可能性を考えて、ロイクは通りかかった村人に尋ねた。
「『扉の魔女』殿は、今日はヴェール村に来ているだろうか」
ロイクに声をかけられた娘は、彼の恰好を上から下まで見て辺境伯家の騎士だと確認してから、口を開いた。
「エマは今日は村には来ていないと思います」
「そうか。どうやったら一番早く連絡が取れるだろうか」
「夕方に森の入り口にあるポストを確認しにくると思うので、手紙を入れておくか、待つか、でしょうか?」
「わかった。ありがとう」
ロイクは手短に礼を言って、再び馬にまたがる。
走り出す彼に後ろから娘が「絶対に勝手に森の中に入ったらだめですよー!」と叫んでいた。
森の入り口は村から近い。すぐに着いた。ポストも発見したが、中身は空だ。『扉の魔女』宛ての手紙など年に数回しか届かないと知らないロイクは、魔女はすでにポストを確認済みですれ違いになってしまった可能性を危惧した。
そうでなくても今は昼過ぎ。夕方までには時間がある。
緊急事態なのだ。できるだけ早く魔女に連絡を取らなくてはならない。
ポストの脇から、踏み固められた道が森の奥に向かって伸びていた。見える範囲では、普通の――普通よりは少し鬱蒼としているが――森だ。
ヴィオレットの森に魔女の案内なしで入ってはいけないことくらい、ロイクも知っている。しかし。
――昼間なら入っても大丈夫なのではないだろうか。
ロイクは一度だけ辺境伯に従って『魔女の家』に行ったことがある。森の入り口から家までは五分とかからないし、道も一本だ。
悩んでいるロイクは気づかなかったけれど、彼が視線をそらしているすきに、森の木や下草は道を広げた。親切なのか、彼を誘ったのか。森の意図を理解できる者も、推し量ろうとする者もここにはいなかった。
ロイクは胸元にしまった辺境伯からの親書を思う。
意を決して、ヴィオレットの森に一歩を踏み出した。
少し進んだあたりで道がわずかにカーブした。道なりに進んだつもりなのに、ふと気づくと足元の草は道とは思えない茂り方をしている。ロイクは慌てて後ろを振り返る。しかし、背後は木で遮られていた。森の入り口どころか道の片りんもない。
「ど、どういうことだ……」
つぶやいた彼の視界が曇る。霧かと思ったが、湿り気がない。何も匂いはしないけれど、煙のようだ。その煙は紫がかっている。
立ち尽くしたロイクに声をかける者があった。
「ようこそ、紫煙の崖へ」
気配など何もしなかった。ロイクは腰にさした剣の柄を握り、身をひるがえす。声に向き直ると、そこには光沢のある紫の長いローブドレスを身につけた、二十代半ばのすらりと細い女が立っていた。彼女の菫色の髪と菫色の瞳に、ロイクは息を飲む。
「『扉の魔女』?」
いや、エマには会ったことがある。彼女とは違う。目の前にいるのはエマとは別の『扉の魔女』だった。
「ええ。人間の迷子は久しぶりですこと。ここは魔界です」
「魔界?」
足元に草はなく、紫煙の向こうに木々はない。うっすら見える塊は岩だろうか。足元も土ではなくて岩だ。全く別の場所だとわかる。いつの間にか夜だった。
辺りを見回すロイクに、『扉の魔女』は注意した。
「後ろは崖なので、あまり下がらないように。海に落ちますよ」
そう言われて耳をすませると、確かに一度だけ行ったことがある海辺の波の音が聞こえる気がする。
「名前を教えていただければ、すぐに人間界に送り帰せますが、どうしますか?」
わずかに首を傾げ、『扉の魔女』は優しく微笑んだ。ロイクは素直に頭を下げる。
「俺はロイクと言います。ヴィオレットの森に戻れますか?」
「ええ。もちろん。紫煙の崖とヴィオレットの森は、境界を挟んで対になる場所」
魔女は両手を合わせた。銀を佩いた瞼が菫色の瞳を隠す。さらさらと透き通った髪が風を受けて広がった。紫煙は彼女の足元から渦を描いて登っていく。
両手に集まった光をロイクに向け、『扉の魔女』は目を開けた。逆に、ロイクはまぶしさに腕をかざす。
「紫煙の崖の魔女が扉に命じます。ロイクを元の場所に帰しなさい」
魔女が呪文を唱えた瞬間、ロイクは光に包まれ、視界を奪われた。
ぐらぐらと地面が揺れる。大きな扉が閉まるバタンという音。
ふらついて一歩踏み出すと、さくりと柔らかい土の感触だった。
湿った土と植物の青い匂い。
「はっ」
知らずに止めていた息を吐き出す。
「エマ! こっちだ! 大丈夫か?」
低い男の声がして、体を支えられる。彼にすがって体勢を立て直すころには視界は戻っていた。思った通りに森の中だ。明るさからしたら昼のままで、魔界に行って帰っても時間は経っていないようだった。
ロイクを支えた男は、黒いぴたりとした服を身につけていた。彼は確か『扉の魔女』の使い魔だ。
顔を上げると、数歩先に菫色の髪と瞳を持った『扉の魔女』がいた。
フードからこぼれたふわふわの髪は少女めいてかわいらしい。小柄な体も相まって、年齢よりも少し下に見えるほどだ。
エマが普通の少女だと、ロイクは知っている。
しかし、そこにいたのはまぎれもなく『扉の魔女』だった。
エマの瞳が宝石のように輝いている。ふわふわの髪は風もないのに揺れて、生き物のようだった。彼女が近づくと足元で光がはじけた。森の木々は彼女の背後に控えるように枝を張り出し、下草は彼女に道を空ける。
紫煙の崖の魔女に感じた畏怖に近い気持ちを、今の彼女にも感じ、ロイクは目を見開く。
そこで、エマはぱっと笑顔を浮かべた。
「良かった!」
にわかに神秘的な雰囲気が消え、いつもの少女に戻る。今度はその落差にロイクは戸惑った。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
「カイに飛んでもらったんですけど、間に合わなかったみたいで。……魔界に行っちゃいましたよね?」
心配そうに尋ねるエマに言葉を返せないでいたロイクの腕をタクトが叩いた。
「ロイクさん!」
「タクト……」
騎士団の訓練で一緒になることもあり、王都屋敷では数日同室だったタクトだ。彼を見て、ロイクはやっと現実に帰ってきたような気がして、大きく息を吐いたのだ。
昼を少し過ぎたくらいの時間だ。もしかしたらの可能性を考えて、ロイクは通りかかった村人に尋ねた。
「『扉の魔女』殿は、今日はヴェール村に来ているだろうか」
ロイクに声をかけられた娘は、彼の恰好を上から下まで見て辺境伯家の騎士だと確認してから、口を開いた。
「エマは今日は村には来ていないと思います」
「そうか。どうやったら一番早く連絡が取れるだろうか」
「夕方に森の入り口にあるポストを確認しにくると思うので、手紙を入れておくか、待つか、でしょうか?」
「わかった。ありがとう」
ロイクは手短に礼を言って、再び馬にまたがる。
走り出す彼に後ろから娘が「絶対に勝手に森の中に入ったらだめですよー!」と叫んでいた。
森の入り口は村から近い。すぐに着いた。ポストも発見したが、中身は空だ。『扉の魔女』宛ての手紙など年に数回しか届かないと知らないロイクは、魔女はすでにポストを確認済みですれ違いになってしまった可能性を危惧した。
そうでなくても今は昼過ぎ。夕方までには時間がある。
緊急事態なのだ。できるだけ早く魔女に連絡を取らなくてはならない。
ポストの脇から、踏み固められた道が森の奥に向かって伸びていた。見える範囲では、普通の――普通よりは少し鬱蒼としているが――森だ。
ヴィオレットの森に魔女の案内なしで入ってはいけないことくらい、ロイクも知っている。しかし。
――昼間なら入っても大丈夫なのではないだろうか。
ロイクは一度だけ辺境伯に従って『魔女の家』に行ったことがある。森の入り口から家までは五分とかからないし、道も一本だ。
悩んでいるロイクは気づかなかったけれど、彼が視線をそらしているすきに、森の木や下草は道を広げた。親切なのか、彼を誘ったのか。森の意図を理解できる者も、推し量ろうとする者もここにはいなかった。
ロイクは胸元にしまった辺境伯からの親書を思う。
意を決して、ヴィオレットの森に一歩を踏み出した。
少し進んだあたりで道がわずかにカーブした。道なりに進んだつもりなのに、ふと気づくと足元の草は道とは思えない茂り方をしている。ロイクは慌てて後ろを振り返る。しかし、背後は木で遮られていた。森の入り口どころか道の片りんもない。
「ど、どういうことだ……」
つぶやいた彼の視界が曇る。霧かと思ったが、湿り気がない。何も匂いはしないけれど、煙のようだ。その煙は紫がかっている。
立ち尽くしたロイクに声をかける者があった。
「ようこそ、紫煙の崖へ」
気配など何もしなかった。ロイクは腰にさした剣の柄を握り、身をひるがえす。声に向き直ると、そこには光沢のある紫の長いローブドレスを身につけた、二十代半ばのすらりと細い女が立っていた。彼女の菫色の髪と菫色の瞳に、ロイクは息を飲む。
「『扉の魔女』?」
いや、エマには会ったことがある。彼女とは違う。目の前にいるのはエマとは別の『扉の魔女』だった。
「ええ。人間の迷子は久しぶりですこと。ここは魔界です」
「魔界?」
足元に草はなく、紫煙の向こうに木々はない。うっすら見える塊は岩だろうか。足元も土ではなくて岩だ。全く別の場所だとわかる。いつの間にか夜だった。
辺りを見回すロイクに、『扉の魔女』は注意した。
「後ろは崖なので、あまり下がらないように。海に落ちますよ」
そう言われて耳をすませると、確かに一度だけ行ったことがある海辺の波の音が聞こえる気がする。
「名前を教えていただければ、すぐに人間界に送り帰せますが、どうしますか?」
わずかに首を傾げ、『扉の魔女』は優しく微笑んだ。ロイクは素直に頭を下げる。
「俺はロイクと言います。ヴィオレットの森に戻れますか?」
「ええ。もちろん。紫煙の崖とヴィオレットの森は、境界を挟んで対になる場所」
魔女は両手を合わせた。銀を佩いた瞼が菫色の瞳を隠す。さらさらと透き通った髪が風を受けて広がった。紫煙は彼女の足元から渦を描いて登っていく。
両手に集まった光をロイクに向け、『扉の魔女』は目を開けた。逆に、ロイクはまぶしさに腕をかざす。
「紫煙の崖の魔女が扉に命じます。ロイクを元の場所に帰しなさい」
魔女が呪文を唱えた瞬間、ロイクは光に包まれ、視界を奪われた。
ぐらぐらと地面が揺れる。大きな扉が閉まるバタンという音。
ふらついて一歩踏み出すと、さくりと柔らかい土の感触だった。
湿った土と植物の青い匂い。
「はっ」
知らずに止めていた息を吐き出す。
「エマ! こっちだ! 大丈夫か?」
低い男の声がして、体を支えられる。彼にすがって体勢を立て直すころには視界は戻っていた。思った通りに森の中だ。明るさからしたら昼のままで、魔界に行って帰っても時間は経っていないようだった。
ロイクを支えた男は、黒いぴたりとした服を身につけていた。彼は確か『扉の魔女』の使い魔だ。
顔を上げると、数歩先に菫色の髪と瞳を持った『扉の魔女』がいた。
フードからこぼれたふわふわの髪は少女めいてかわいらしい。小柄な体も相まって、年齢よりも少し下に見えるほどだ。
エマが普通の少女だと、ロイクは知っている。
しかし、そこにいたのはまぎれもなく『扉の魔女』だった。
エマの瞳が宝石のように輝いている。ふわふわの髪は風もないのに揺れて、生き物のようだった。彼女が近づくと足元で光がはじけた。森の木々は彼女の背後に控えるように枝を張り出し、下草は彼女に道を空ける。
紫煙の崖の魔女に感じた畏怖に近い気持ちを、今の彼女にも感じ、ロイクは目を見開く。
そこで、エマはぱっと笑顔を浮かべた。
「良かった!」
にわかに神秘的な雰囲気が消え、いつもの少女に戻る。今度はその落差にロイクは戸惑った。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
「カイに飛んでもらったんですけど、間に合わなかったみたいで。……魔界に行っちゃいましたよね?」
心配そうに尋ねるエマに言葉を返せないでいたロイクの腕をタクトが叩いた。
「ロイクさん!」
「タクト……」
騎士団の訓練で一緒になることもあり、王都屋敷では数日同室だったタクトだ。彼を見て、ロイクはやっと現実に帰ってきたような気がして、大きく息を吐いたのだ。
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