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第三章 初めてのはなればなれ

ブリジットとホネスト

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「どうしてだめなの?」
 自室のベッドに突っ伏して、ブリジットはつぶやいた。
「ブリジット、私の愛しい子」
 低い声がそうささやいて、彼女の頭を撫でる。
「ほら、起きて、抱きしめてあげる」
 声の主が座ったことでベッドは大きく沈む。ブリジットを長い手足で抱き上げて膝に抱えた男は、黒いロングコートに真っ赤なジレを合わせて、緑の髪をきっちり撫でつけていた。明らかに使用人とは違う格好だ。彫像の如く整った顔は、ブリジットを見つめて緩む。
 家族でもない男性が寝室にいて、彼に抱きしめられているというのに、ブリジットは驚きも嫌がりもしない。彼の胸に甘えるように頬を寄せる。異性に対してではなく、家族に対しての甘え方だった。
「ホネスト……」
 ブリジットは彼の名前を呼んだ。
 素性のよくわからない彼との付き合いは、一か月ほどになる。
 最初に庭の東屋で出会ったときは兄の友人かと思った。うまく話せないブリジットが嫌になってさっさと出て行くと思ったのに、彼はそのまま話し相手になってくれた。彼と話をしているとふわふわと夢見心地で、楽しく話ができるのが不思議だった。「また会おう」という約束以外は、何を話したか思い出せなかった。楽しい気分だけが残った。
 彼は神出鬼没で、それからも屋敷のいろんなところで遭遇した。特にブリジットが落ち込んでいるときは必ず現れて、なぐさめてくれた。
 だから、ブリジットは彼が寝室に現れるのも、二人のときにしか会えないのも、自分以外の誰も彼のことを知らないのも、気にしないことにした。
 ホネストは、いつでもブリジットを楽しい気持ちにしてくれた。
 かわいい。大好き。愛しい子。そうささやいて甘やかしてくれる。
 彼とのやりとりは全部自分の夢で、ホネストなんて本当は存在しないのではないか。
 ブリジットはそんな風にも思っていた。
「ブリジット、綺麗な髪がぐしゃぐしゃだ」
 ホネストが撫でてくれたブリジットの茶色の髪は母親譲りだ。
 ダーツ辺境伯家では、ここ五代ずっと直系の子どもは全員金髪だった。父も兄も金髪。ブリジットだけが違った。
 誰も気にしていないのはわかる。ブリジットだって、遠い親戚の誰かに茶化されるまで気づきもしなかった。
 しかし、そうして気づいてしまうと、とげのように刺さり、いろいろなものがそこに巻き付き、段々と大きくなった。
 ブリジットの内気な性格を皆が心配しているのがわかる。
 平民のエマや、四年前に嫁いできたばかりのジュリエンヌの方が、自分よりもよほど辺境伯家になじんでいる気がする。
 最初は言葉すらわからなかったタクトの方が、父に期待されているように見える。
 ブリジットは自分が抱えた劣等感を誰かに話すことさえできなかった。
「ブリジット。君はタクトが好き?」
「もうよくわからないわ」
 最初は好きだったと思う。
 タクトの出身地は黒髪黒目がほとんどで、茶色も金色も同じに珍しいそうだ。だからか、単に語彙が少なかったせいか、ブリジットに初めて挨拶したタクトは「かみ、きれい、いろ」と片言でほめてくれた。お世辞だろうけれど、それがとてもうれしかった。
「今は、ただうらやましい」
 エマがいるタクトが、タクトがいるエマが、うらやましい。
 社交界デビューが怖かった。
 誰かと知り合うなんて、疎まれる相手が増えるだけじゃないの?
 貴族の友人を作って、素敵な男性と婚約して……? 楽しい未来は想像もできなかった。
「どうして、ホネストを好きになったらだめなの?」
 ブリジットは顔を上げて、ホネストの赤い瞳を見つめる。
 彼はブリジットを好きだと言ってくれるけれど、ブリジットが彼を好きになるのは拒否した。
「私が君を手に入れたら、私たちはもう会えなくなってしまうから」
「そう……」
 よくわからないけれど、それは嫌だ。
「ホネスト、楽しい夢を見せてくれる?」
 そう願うと彼はいつも楽しい話を聞かせてくれる。目を閉じて聞くと本当に夢を見ているようだった。
「どんな夢がいい?」
「王城の夜会でエマと一緒に社交界デビューするの」
 ブリジットはホネストに寄りかかり目を閉じた。
 微笑んで彼女を見つめるホネストの指には、菫色の髪が一本巻き取られていた。
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