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第一章 見習い魔女と界の狭間から落ちてきた者
界の狭間から落ちてきた者
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――エマが『扉の魔女』に引き取られて三年。
ヴィオレットの森は普通の森とは違う。
大陸北部の森は一般的には針葉樹林だ。ヴィオレットの森も外周部分は針葉樹林なのだけれど、『扉の魔女の家』の周辺はもう違っている。もっと南に生える落葉樹や照葉樹や果樹が生えていて、季節に関係なく木によって好き勝手に花を咲かせたり実をつけたりしている。『扉の魔女』でさえ立ち入りを控える森の奥は、人間界にはない植物も生えているらしい。ヴィオレットの森にやってきて『扉の魔女』の師匠ゾエに教えられたのは、まず森の歩き方だった。
ヴィオレットの森は菫色の髪と瞳を持つ魔女の案内なしでは歩けない。すぐに迷ってしまうからだ。迷子の行きつく先は魔界の果て――『紫煙の崖』と呼ばれる場所だった。
それから、普通の人は長期間森にいると体調が悪くなる。いられてもせいぜい一日だ。
三年前、五歳のエマが森に来たとき師匠のゾエは六十六歳。いくらゾエの足腰がしっかりしていても、道もあってないような森の中だから客の送り迎えや森の見回りは早々にエマの仕事になった。
「うーん、こんなものかな」
湖の周りの草原で染料用の植物を採取していたエマは、いっぱいになったカゴを見て立ち上がった。大きく伸びをすると、労うように風が駆け抜ける。森の植物は季節と無関係だけれど、気温や風は季節通りの夏だった。
エマは夜空色のケープのフードを外して、風を受ける。八歳になったエマの菫色の髪は束ねていてもふわふわと広がってしまい、毎朝手がかかる。エマは風になびく髪を押さえて、宝石のように輝く菫色の瞳を湖に向けた。
日によって色を変える湖は、今日は透き通るような青だった。正体はゾエも知らないという大きな影が悠々と泳ぐのが見える。
湖は『魔女の家』から十分ほど歩いたところにある。
代々の『扉の魔女』は珍しい森の植物を使って、糸や布を染めて村の商店に卸して生計を立てていた。
魔女は森にいることが一番重要で、魔女がいるだけでヴィオレットの森の人間界と魔界の境界は安定するのだそうだ。だから、数日ならいいけれど何日も続けて森を離れることはできない。その次に大きな仕事が、魔力の均衡が崩れる満月や新月の夜にやってくる迷子を送り帰すことだった。
エマが期待していた絵本の魔法使いのような魔法は使えなかった。魔族のように宙に浮いたり姿を消したりすることもできない。一つだけ、迷子を送り帰すための『帰還の魔法』が使えるだけだった。
ここに来てからの三年間で、エマも『帰還の魔法』が使えるようになった。――というほど難しくはなく、魔女であれば呪文を唱えるだけで使えるのだけれど。
「魔族とのやり取りの方が難しいのよね」
相手の名前を知らないと『帰還の魔法』は発動しないため、名前を聞きださないとならなかった。素直に教えてくれる魔族ならいいけれど、エマは子どもだと侮られてからかわれることがしょっちゅうだった。
だから、まだ迷子の対応を一人でやったことはなかった。
「師匠には早く引退してゆっくり過ごしてもらいたいのに」
収穫物の入ったカゴを持ち上げて、エマは家に戻ろうとした。
そのとき。
ふいに辺りが暗くなる。
そうかと思うと、一瞬でまた明るくなる。
それが数回繰り返された。
風が止まる。
湖の水が真ん中から盛り上がり、ざばっと左右に割れた。
「え? 何?」
瞬く視界にふらついて、エマが頭を抱えてしゃがんだとき、ばきばきっと背後で枝の折れる音がした。
「きゃ」
「うっ!」
エマの悲鳴に重なって、誰かのうめき声。
そっと顔を起こすと、空の明るさは元に戻っていた。湖も風も元通りで、溢れた水で水浸しの草原がなければ白昼夢だったのかもと思っただろう。
エマは呆然と振り返る。そこには少年が倒れていた。彼の後ろの木は枝が上から順に折れていて、彼が落ちてきたのだと想像がつく。
彼は黒い髪だった。
エマにとって、ヴィオレットの森で会う黒髪といえば使い魔だ。この国の人間で黒髪はあまりいない。王都で暮らしていたときも数回しか会ったことがなかったし、辺境伯領では一度もない。
彼が使い魔だとしたら、迷子だろうか。
満月や新月の夜でもないのに、なぜ?
やはり、先ほどのおかしな現象のせいだろうか。
「大丈夫?」
魔族も使い魔も、魔界から来る人はたいてい体が頑丈だ。木から落ちたくらいで怪我はしないし、そもそも木から落ちたってきれいに着地する。
それなのに、目の前の少年はとても痛そうで、全然大丈夫には見えなかった。
「使い魔、よね?」
エマが近づいて声をかけると、彼はうっすら目をあけた。そこには、わずかに茶色がかった深い色合いの黒い瞳があった。使い魔も瞳は黒いけれど、彼らの黒はもっと光を通さない黒だ。
「違う。……人間?」
エマが戸惑う間も彼は痛そうにうめき声をあげていた。驚くほど白い色の丈の短い貫頭衣に、藍色のズボン。靴はやけにカラフルで、革でも布でもなさそうに見える。短い袖から出た腕には擦り傷があり、赤く血が滲んでいた。
「ちょっと待ってて!」
エマは、大声で「カイ!」と呼んだ。
カイは五百年ほど前から『扉の魔女』と代々契約している使い魔だ。見た目は虎だった。――使い魔でない普通の動物の虎はマス山脈のどこかに生息しているらしいけれど、エマは見たことがない。
使い魔は空間を越えて飛べる。
カイはすぐに現れた。朽葉色に黒い縞模様がある体はエマよりもずっと大きい。
「エマ、大丈夫か? 何があった?」
カイは低い男の声で話す。
「カイ! 空が点滅したのを見た?」
「ああ、ゾエも心配している」
「この子が木から落ちてきたの!」
カイはエマに言われて初めて少年を見た。
「『界の狭間』か」
「え? 何それ?」
「説明は後だ」
カイは珍しく人型を取った。そうすると黒髪黒目の二十代半ばの青年だ。がっしりした体にぴったり沿うような黒い上下の服を着ている。
カイの瞳の黒と、少年の瞳の黒はやはり違って見えた。
「私は彼を家に運ぶから、エマは村から医者を呼んできてくれ。ゾエには伝えておく」
「うん、わかった」
エマがうなずくと、カイはそっと少年を抱き上げた。
「バンドーと同じだと伝えたらムニール先生はわかるだろう」
エマには意味がわからなかったけれど、とにかく走って村を目指した。
森から一番近いヴェール村の医者ムニールを連れて戻ると、少年はエマのベッドに寝かされていた。『魔女の家』には客用の部屋などないからだ。
ムニールの見立てでは、骨などに異常はなく、怪我は枝でこすった擦り傷と落ちた際の打ち身だけだそうだ。
一通り治療を終えたムニールは、難しげな顔で腕を組んだ。ムニールは五十代の男性で、辺境伯の支援を受けて王都で勉強して戻ってきた優秀な医者だった。
「魔族や使い魔ではないですね。人間です」
「状況から考えたら『界の狭間から落ちてきた者』ですが……」
「間違いないでしょうね」
ムニールとゾエの話に、エマは口を挟んだ。
「人間なのに魔界から来たってこと?」
少年は痛み止めを飲んで今は眠っている。エマよりいくつか年下に見えた。
ムニールとゾエは顔を見合わせた。
「バンドーのことは?」
「いいえ、まだ話していません」
そうして、ムニールはエマに向き直った。
「ヴィオレットの森は、人間界と魔界の境界があるのは知っているね?」
うなずくエマに、彼は両手を握って見せる。右手を「こちらは人間界」、左手を「そしてこちらは魔界」と順に差し出して、拳をぴたりとくっつけた。
「こうやって二つはくっついている。合わさっている部分が、ヴィオレットの森だと考えてほしい」
実際はこんな風に陸続きのようにはなっていないがね、とムニールは付け加えて、
「この二つの世界が、ときどき少し離れるときがある――と、私たちは考えている」
ムニールは両の拳の間を少し開けた。その隙間を指して、
「これを『界の狭間』と呼んでいる」
「かいのはざま」
「狭間はまた別の世界の境界とつながっていて、こちらの人間界とも魔界とも違う世界から物や人が落ちてくることがある」
そしてムニールは眠る少年を見た。
「空が点滅したでしょう? そのときに『界の狭間』が空いたのだと思います」
ゾエの言葉にエマも思い出す。
「この子が落ちてきたのはちょうどそのあとだったわ」
エマは彼が木から落ちてきたと思っていたけれど、ムニールやゾエの口ぶりからすると、もっと上空から落ちてきたのかもしれない。
「二十年ほど前にも同じようにやってきたのが、バンドーです。やっぱり黒髪の男性で、当時は二十歳くらいでしたか。こちらの言葉を覚えて二年ほどで出て行って、今は旅をして暮らしているようです」
ゾエは「最後に手紙が届いたのはいつだったかしら?」と首を傾げた。
「私が『扉の魔女』になる前にも『界の狭間から落ちてきた者』はいたのよね、カイ」
「ああ。私が知る範囲では今回で六人目だ」
虎に戻ったカイが答えた。ムニールはカイが使い魔だと知っているため、驚くことはなかった。
五百年前から魔女の使い魔をしているカイの方がゾエより詳しい。
「法則はわからないが、ときどき『界の狭間』が開き、ごくまれに人や物が落ちてくるようだ」
「『帰還の魔法』で帰せるの?」
エマが尋ねるとカイは首を振った。
「いいや。魔法では無理だ。自力でも『界の狭間から落ちてきた者』が帰った記録はない」
「え? それじゃ……」
「この子はずっとここで暮らすことになるでしょうね」
ゾエが告げると、ムニールも痛ましげに眉をひそめた。
「まだ小さいのに……」
暗くなる前にエマはムニールを森の入り口まで送った。『界の狭間から落ちてきた者』はヴィオレットの森で生活しても体調が悪くならないらしい。診療所まで少年を移動させるよりはこのまま『魔女の家』で安静にさせておく方がいいということで、ムニールは明日にまた診察に来ることを約束して帰っていった。
「エマ。彼には私がついているからあなたは私の部屋で寝なさいな」
ベッドの脇に椅子を持ってきて編み物の練習をしていたエマは、ゾエに言われて顔を上げた。もういつもなら寝る時間だった。
ゾエは机の上に水と薬を用意した。薬包の下に見慣れない文字が書かれた紙がある。
「これは?」
「バンドーが元の国の言葉を大陸語に訳したノートを置いていったのですよ。この中から薬という言葉を書いてみたのだけれど……」
ゾエは薬の横にノートを何冊か置いた。その表紙に書かれている文字もエマには読めなかった。
一冊手に取って見ると、アルダーギ王国で使われている大陸共通語で単語が書かれた隣に、読めない文字が書かれていた。大きく書かれているのが訳語で、小さく書かれた長い文は説明だろうか。線や点で構成されたシンプルな文字と、線の多い複雑な形の文字が使われている。
「う……」
小さなうめき声が聞こえて、エマとゾエはベッドに目を向けた。
少年の目が開いて、黒い瞳が焦点を結んだ。
「目が覚めましたか?」
ゾエがゆっくりと声をかける。
少年は首を傾げた。表情がなくぼうっとしている。
≪……ここ、どこ?≫
彼が話したことが疑問形だったのはエマにもわかったけれど、内容はわからなかった。
ゾエがバンドーのノートの一冊を取って、ページを開いて彼に指さした。日常会話の短文が書かれており、『読めるか?』とあった。同じことを言葉にして聞く。
「読めますか?」
うなずいた彼に、ゾエはほっと息を吐いた。
「良かった。バンドーと同じ国の出身なのですね」
ああ、そういう心配もあったのかと、エマは初めて気づいた。魔族や使い魔はどういうわけか全員言葉が通じるのだけれど、人間の方は大陸共通語を使っていない国もあった。
「おなかがすいていますか?」
ゾエがまたノートを指さして聞くと、彼は首を振った。
「痛いところは?」
≪この辺……≫
彼は左腕をさすった。
ゾエはうなずいて、机の上の薬包と紙を渡す。薬と書かれた紙が通じたのか彼は素直に受け取った。ゾエが気遣いながら彼を起き上がらせて、背にクッションを当てた。
エマは水差しからコップに水を注いで彼に手渡した。少年はずっと黙っていたエマに初めて気づいたのか、少し驚いた顔をした。
≪あのときの≫
「え?」
聞き返すと彼は何か言おうとしたけれど結局は口を閉じた。
ゾエに促されて彼が薬を飲んでいる間に、エマもバンドーのノートをめくった。簡単な単語だから、おそらく最初の方にあると思う。
「名前。私は、エマ」
彼の膝の上にノートを広げて、エマは単語を順に指さして、最後に自分を指さした。
「エマ」
≪エマ?≫
「そう!」
初めて、彼が話した単語が理解できた。それはエマの名前だ。
「あなたは?」
彼に手のひらを向けると、彼は自分を指さした。
≪タクト≫
「タクト?」
うなずいた彼の両手を握って、エマは笑った。
「よろしくね、タクト」
タクトはまだ呆然とした様子でエマを見上げていた。
翌朝、エマは柔らかく仕上げたパン粥を持って、タクトが寝ている部屋の扉をノックした。
昨夜薬を飲んだタクトは穏やかに眠りについたため、寝ずの番は不要だろうと、ゾエもエマもきちんと睡眠をとったのだ。ゾエのベッドで一緒に寝るのは、ヴィオレットの森にやってきた当初だけで、久しぶりだった。
ノックに返事はなかったけれど、エマはそっと扉を開いた。
「起きてる? タクト?」
カーテンが閉まっていても明るい部屋。タクトはベッドの上に起き上がっていた。
「おはよう」
エマは机の上に食事のトレイを乗せてから、カーテンと窓を開ける。ヴィオレットの森は早朝に紫色の霧が立ち込めるけれど、今はもう晴れている。籠った部屋の空気を一掃する涼やかな風がエマの髪を揺らした。
タクトがあまりにも無反応なのに思いいたって、エマは彼を振り向いた。
タクトはバンドーのノートを読んでいた。そっと覗き込むと、辞書になっているページとは体裁が違い、長文がつらつらと書き連ねてあった。
後で聞いたところによるとそこには、『界の狭間』のことやこの世界のこと、『扉の魔女』やヴィオレットの森のことなどが書いてあったそうだ。タクトはそれで自分がどこにいるのか初めて知ったという。
「タクト?」
再度声をかけると、彼はやっと気づいたようで、エマを見上げた。
はっと目を見開く。
≪髪の毛が紫色……≫
「おはよう」
≪なんて言ってるのかわからない。……本当に? 異世界?≫
独り言のようなタクトの言葉がわからず、エマは日常会話が書いてある方のノートを手に取った。
エマもベッドに腰掛けて、タクトの前にノートを開いた。挨拶が並んだページを見せて『おはよう』を選んだところで、タクトはノートを取り上げた。
パラパラとめくった彼が指で差したのは、『本当なのか?』という文。
それから、別のノートから単語を選んだ。『帰る』と『できない』の後にタクトは自分を指さして、エマを見つめた。
「うん。帰れないみたい」
エマはそっとうなずいた。
≪嘘! 嘘だ!≫
「タクト!」
大声を出して、タクトはエマを押しのけて、ベッドから降りようとした。しかし、傷が痛んだのかすぐにうずくまってしまう。
「タクト、大丈夫?」
≪嘘だ、帰れないなんて……≫
タクトを抱き留めたけれど、起き上がる意志のない彼をエマはベッドに戻すことができない。
「どうした?」
「カイ!」
開いたままの扉からカイが入ってくる。
≪うわぁ! 虎!≫
「ああ、すまない。私の姿じゃ、この世界の人間だって驚くな」
≪ひ、人になった!≫
人型になったカイにタクトはまた驚いているようだったけれど、カイは気にせずに彼を抱き上げてベッドに戻した。
「私は使い魔だ」
カイは床に落ちたノートを拾ってタクトに見せた。
≪使い魔って、さっきの説明にあった……。それじゃあ、この子が魔女? 菫色って紫なのか≫
タクトに『魔女』という単語を指さされて、エマはうなずく。
「私は、魔女」
タクトは今度はがっくりとうなだれた。
≪違う世界……帰れないなんて……≫
エマはタクトの体を抱きしめる。エマの方が体が大きかったから、タクトはエマの腕に収まった。
エマも生まれた家には帰れないけれど、絶対に無理というわけではない。しかし、タクトは本当に不可能なのだ。
声を殺して泣くタクトをエマは守ってあげなければと思った。
実家では妹で、『魔女の家』ではゾエとカイと暮らし、ヴェール村でできた友だちも年上。エマにとってタクトは、初めて身近に接した年下の子どもだった。
実の家族から切り離された自分と重ねて、あるいは、自分より『かわいそう』に思えての同情だったかもしれない。『魔女の家』に来てからゾエやカイに優しくされてうれしかったことを、タクトにも与えてあげたかったのかもしれない。
きちんと自分の心境を理解はできなかったけれど、とにかくエマはタクトを守ろうと決めた。
エマはタクトの背中をゆっくりと撫でた。
しばらくして落ち着いた彼は、体を起こして、恥ずかしそうにうつむいた。
「もう平気?」
エマがノートを指さすと、
≪大丈夫。たぶん≫
タクトは言った。エマはそれを真似して言ってみる。
「ダイジョーブ、タ」
≪大丈夫≫
「ダイジョーブ」
≪大丈夫≫
タクトは初めて少しだけ笑顔を浮かべた。泣いたせいで目が赤くなっている。
「今日からタクトは私の弟よ」
エマはもう一度タクトを抱きしめた。
ヴィオレットの森は普通の森とは違う。
大陸北部の森は一般的には針葉樹林だ。ヴィオレットの森も外周部分は針葉樹林なのだけれど、『扉の魔女の家』の周辺はもう違っている。もっと南に生える落葉樹や照葉樹や果樹が生えていて、季節に関係なく木によって好き勝手に花を咲かせたり実をつけたりしている。『扉の魔女』でさえ立ち入りを控える森の奥は、人間界にはない植物も生えているらしい。ヴィオレットの森にやってきて『扉の魔女』の師匠ゾエに教えられたのは、まず森の歩き方だった。
ヴィオレットの森は菫色の髪と瞳を持つ魔女の案内なしでは歩けない。すぐに迷ってしまうからだ。迷子の行きつく先は魔界の果て――『紫煙の崖』と呼ばれる場所だった。
それから、普通の人は長期間森にいると体調が悪くなる。いられてもせいぜい一日だ。
三年前、五歳のエマが森に来たとき師匠のゾエは六十六歳。いくらゾエの足腰がしっかりしていても、道もあってないような森の中だから客の送り迎えや森の見回りは早々にエマの仕事になった。
「うーん、こんなものかな」
湖の周りの草原で染料用の植物を採取していたエマは、いっぱいになったカゴを見て立ち上がった。大きく伸びをすると、労うように風が駆け抜ける。森の植物は季節と無関係だけれど、気温や風は季節通りの夏だった。
エマは夜空色のケープのフードを外して、風を受ける。八歳になったエマの菫色の髪は束ねていてもふわふわと広がってしまい、毎朝手がかかる。エマは風になびく髪を押さえて、宝石のように輝く菫色の瞳を湖に向けた。
日によって色を変える湖は、今日は透き通るような青だった。正体はゾエも知らないという大きな影が悠々と泳ぐのが見える。
湖は『魔女の家』から十分ほど歩いたところにある。
代々の『扉の魔女』は珍しい森の植物を使って、糸や布を染めて村の商店に卸して生計を立てていた。
魔女は森にいることが一番重要で、魔女がいるだけでヴィオレットの森の人間界と魔界の境界は安定するのだそうだ。だから、数日ならいいけれど何日も続けて森を離れることはできない。その次に大きな仕事が、魔力の均衡が崩れる満月や新月の夜にやってくる迷子を送り帰すことだった。
エマが期待していた絵本の魔法使いのような魔法は使えなかった。魔族のように宙に浮いたり姿を消したりすることもできない。一つだけ、迷子を送り帰すための『帰還の魔法』が使えるだけだった。
ここに来てからの三年間で、エマも『帰還の魔法』が使えるようになった。――というほど難しくはなく、魔女であれば呪文を唱えるだけで使えるのだけれど。
「魔族とのやり取りの方が難しいのよね」
相手の名前を知らないと『帰還の魔法』は発動しないため、名前を聞きださないとならなかった。素直に教えてくれる魔族ならいいけれど、エマは子どもだと侮られてからかわれることがしょっちゅうだった。
だから、まだ迷子の対応を一人でやったことはなかった。
「師匠には早く引退してゆっくり過ごしてもらいたいのに」
収穫物の入ったカゴを持ち上げて、エマは家に戻ろうとした。
そのとき。
ふいに辺りが暗くなる。
そうかと思うと、一瞬でまた明るくなる。
それが数回繰り返された。
風が止まる。
湖の水が真ん中から盛り上がり、ざばっと左右に割れた。
「え? 何?」
瞬く視界にふらついて、エマが頭を抱えてしゃがんだとき、ばきばきっと背後で枝の折れる音がした。
「きゃ」
「うっ!」
エマの悲鳴に重なって、誰かのうめき声。
そっと顔を起こすと、空の明るさは元に戻っていた。湖も風も元通りで、溢れた水で水浸しの草原がなければ白昼夢だったのかもと思っただろう。
エマは呆然と振り返る。そこには少年が倒れていた。彼の後ろの木は枝が上から順に折れていて、彼が落ちてきたのだと想像がつく。
彼は黒い髪だった。
エマにとって、ヴィオレットの森で会う黒髪といえば使い魔だ。この国の人間で黒髪はあまりいない。王都で暮らしていたときも数回しか会ったことがなかったし、辺境伯領では一度もない。
彼が使い魔だとしたら、迷子だろうか。
満月や新月の夜でもないのに、なぜ?
やはり、先ほどのおかしな現象のせいだろうか。
「大丈夫?」
魔族も使い魔も、魔界から来る人はたいてい体が頑丈だ。木から落ちたくらいで怪我はしないし、そもそも木から落ちたってきれいに着地する。
それなのに、目の前の少年はとても痛そうで、全然大丈夫には見えなかった。
「使い魔、よね?」
エマが近づいて声をかけると、彼はうっすら目をあけた。そこには、わずかに茶色がかった深い色合いの黒い瞳があった。使い魔も瞳は黒いけれど、彼らの黒はもっと光を通さない黒だ。
「違う。……人間?」
エマが戸惑う間も彼は痛そうにうめき声をあげていた。驚くほど白い色の丈の短い貫頭衣に、藍色のズボン。靴はやけにカラフルで、革でも布でもなさそうに見える。短い袖から出た腕には擦り傷があり、赤く血が滲んでいた。
「ちょっと待ってて!」
エマは、大声で「カイ!」と呼んだ。
カイは五百年ほど前から『扉の魔女』と代々契約している使い魔だ。見た目は虎だった。――使い魔でない普通の動物の虎はマス山脈のどこかに生息しているらしいけれど、エマは見たことがない。
使い魔は空間を越えて飛べる。
カイはすぐに現れた。朽葉色に黒い縞模様がある体はエマよりもずっと大きい。
「エマ、大丈夫か? 何があった?」
カイは低い男の声で話す。
「カイ! 空が点滅したのを見た?」
「ああ、ゾエも心配している」
「この子が木から落ちてきたの!」
カイはエマに言われて初めて少年を見た。
「『界の狭間』か」
「え? 何それ?」
「説明は後だ」
カイは珍しく人型を取った。そうすると黒髪黒目の二十代半ばの青年だ。がっしりした体にぴったり沿うような黒い上下の服を着ている。
カイの瞳の黒と、少年の瞳の黒はやはり違って見えた。
「私は彼を家に運ぶから、エマは村から医者を呼んできてくれ。ゾエには伝えておく」
「うん、わかった」
エマがうなずくと、カイはそっと少年を抱き上げた。
「バンドーと同じだと伝えたらムニール先生はわかるだろう」
エマには意味がわからなかったけれど、とにかく走って村を目指した。
森から一番近いヴェール村の医者ムニールを連れて戻ると、少年はエマのベッドに寝かされていた。『魔女の家』には客用の部屋などないからだ。
ムニールの見立てでは、骨などに異常はなく、怪我は枝でこすった擦り傷と落ちた際の打ち身だけだそうだ。
一通り治療を終えたムニールは、難しげな顔で腕を組んだ。ムニールは五十代の男性で、辺境伯の支援を受けて王都で勉強して戻ってきた優秀な医者だった。
「魔族や使い魔ではないですね。人間です」
「状況から考えたら『界の狭間から落ちてきた者』ですが……」
「間違いないでしょうね」
ムニールとゾエの話に、エマは口を挟んだ。
「人間なのに魔界から来たってこと?」
少年は痛み止めを飲んで今は眠っている。エマよりいくつか年下に見えた。
ムニールとゾエは顔を見合わせた。
「バンドーのことは?」
「いいえ、まだ話していません」
そうして、ムニールはエマに向き直った。
「ヴィオレットの森は、人間界と魔界の境界があるのは知っているね?」
うなずくエマに、彼は両手を握って見せる。右手を「こちらは人間界」、左手を「そしてこちらは魔界」と順に差し出して、拳をぴたりとくっつけた。
「こうやって二つはくっついている。合わさっている部分が、ヴィオレットの森だと考えてほしい」
実際はこんな風に陸続きのようにはなっていないがね、とムニールは付け加えて、
「この二つの世界が、ときどき少し離れるときがある――と、私たちは考えている」
ムニールは両の拳の間を少し開けた。その隙間を指して、
「これを『界の狭間』と呼んでいる」
「かいのはざま」
「狭間はまた別の世界の境界とつながっていて、こちらの人間界とも魔界とも違う世界から物や人が落ちてくることがある」
そしてムニールは眠る少年を見た。
「空が点滅したでしょう? そのときに『界の狭間』が空いたのだと思います」
ゾエの言葉にエマも思い出す。
「この子が落ちてきたのはちょうどそのあとだったわ」
エマは彼が木から落ちてきたと思っていたけれど、ムニールやゾエの口ぶりからすると、もっと上空から落ちてきたのかもしれない。
「二十年ほど前にも同じようにやってきたのが、バンドーです。やっぱり黒髪の男性で、当時は二十歳くらいでしたか。こちらの言葉を覚えて二年ほどで出て行って、今は旅をして暮らしているようです」
ゾエは「最後に手紙が届いたのはいつだったかしら?」と首を傾げた。
「私が『扉の魔女』になる前にも『界の狭間から落ちてきた者』はいたのよね、カイ」
「ああ。私が知る範囲では今回で六人目だ」
虎に戻ったカイが答えた。ムニールはカイが使い魔だと知っているため、驚くことはなかった。
五百年前から魔女の使い魔をしているカイの方がゾエより詳しい。
「法則はわからないが、ときどき『界の狭間』が開き、ごくまれに人や物が落ちてくるようだ」
「『帰還の魔法』で帰せるの?」
エマが尋ねるとカイは首を振った。
「いいや。魔法では無理だ。自力でも『界の狭間から落ちてきた者』が帰った記録はない」
「え? それじゃ……」
「この子はずっとここで暮らすことになるでしょうね」
ゾエが告げると、ムニールも痛ましげに眉をひそめた。
「まだ小さいのに……」
暗くなる前にエマはムニールを森の入り口まで送った。『界の狭間から落ちてきた者』はヴィオレットの森で生活しても体調が悪くならないらしい。診療所まで少年を移動させるよりはこのまま『魔女の家』で安静にさせておく方がいいということで、ムニールは明日にまた診察に来ることを約束して帰っていった。
「エマ。彼には私がついているからあなたは私の部屋で寝なさいな」
ベッドの脇に椅子を持ってきて編み物の練習をしていたエマは、ゾエに言われて顔を上げた。もういつもなら寝る時間だった。
ゾエは机の上に水と薬を用意した。薬包の下に見慣れない文字が書かれた紙がある。
「これは?」
「バンドーが元の国の言葉を大陸語に訳したノートを置いていったのですよ。この中から薬という言葉を書いてみたのだけれど……」
ゾエは薬の横にノートを何冊か置いた。その表紙に書かれている文字もエマには読めなかった。
一冊手に取って見ると、アルダーギ王国で使われている大陸共通語で単語が書かれた隣に、読めない文字が書かれていた。大きく書かれているのが訳語で、小さく書かれた長い文は説明だろうか。線や点で構成されたシンプルな文字と、線の多い複雑な形の文字が使われている。
「う……」
小さなうめき声が聞こえて、エマとゾエはベッドに目を向けた。
少年の目が開いて、黒い瞳が焦点を結んだ。
「目が覚めましたか?」
ゾエがゆっくりと声をかける。
少年は首を傾げた。表情がなくぼうっとしている。
≪……ここ、どこ?≫
彼が話したことが疑問形だったのはエマにもわかったけれど、内容はわからなかった。
ゾエがバンドーのノートの一冊を取って、ページを開いて彼に指さした。日常会話の短文が書かれており、『読めるか?』とあった。同じことを言葉にして聞く。
「読めますか?」
うなずいた彼に、ゾエはほっと息を吐いた。
「良かった。バンドーと同じ国の出身なのですね」
ああ、そういう心配もあったのかと、エマは初めて気づいた。魔族や使い魔はどういうわけか全員言葉が通じるのだけれど、人間の方は大陸共通語を使っていない国もあった。
「おなかがすいていますか?」
ゾエがまたノートを指さして聞くと、彼は首を振った。
「痛いところは?」
≪この辺……≫
彼は左腕をさすった。
ゾエはうなずいて、机の上の薬包と紙を渡す。薬と書かれた紙が通じたのか彼は素直に受け取った。ゾエが気遣いながら彼を起き上がらせて、背にクッションを当てた。
エマは水差しからコップに水を注いで彼に手渡した。少年はずっと黙っていたエマに初めて気づいたのか、少し驚いた顔をした。
≪あのときの≫
「え?」
聞き返すと彼は何か言おうとしたけれど結局は口を閉じた。
ゾエに促されて彼が薬を飲んでいる間に、エマもバンドーのノートをめくった。簡単な単語だから、おそらく最初の方にあると思う。
「名前。私は、エマ」
彼の膝の上にノートを広げて、エマは単語を順に指さして、最後に自分を指さした。
「エマ」
≪エマ?≫
「そう!」
初めて、彼が話した単語が理解できた。それはエマの名前だ。
「あなたは?」
彼に手のひらを向けると、彼は自分を指さした。
≪タクト≫
「タクト?」
うなずいた彼の両手を握って、エマは笑った。
「よろしくね、タクト」
タクトはまだ呆然とした様子でエマを見上げていた。
翌朝、エマは柔らかく仕上げたパン粥を持って、タクトが寝ている部屋の扉をノックした。
昨夜薬を飲んだタクトは穏やかに眠りについたため、寝ずの番は不要だろうと、ゾエもエマもきちんと睡眠をとったのだ。ゾエのベッドで一緒に寝るのは、ヴィオレットの森にやってきた当初だけで、久しぶりだった。
ノックに返事はなかったけれど、エマはそっと扉を開いた。
「起きてる? タクト?」
カーテンが閉まっていても明るい部屋。タクトはベッドの上に起き上がっていた。
「おはよう」
エマは机の上に食事のトレイを乗せてから、カーテンと窓を開ける。ヴィオレットの森は早朝に紫色の霧が立ち込めるけれど、今はもう晴れている。籠った部屋の空気を一掃する涼やかな風がエマの髪を揺らした。
タクトがあまりにも無反応なのに思いいたって、エマは彼を振り向いた。
タクトはバンドーのノートを読んでいた。そっと覗き込むと、辞書になっているページとは体裁が違い、長文がつらつらと書き連ねてあった。
後で聞いたところによるとそこには、『界の狭間』のことやこの世界のこと、『扉の魔女』やヴィオレットの森のことなどが書いてあったそうだ。タクトはそれで自分がどこにいるのか初めて知ったという。
「タクト?」
再度声をかけると、彼はやっと気づいたようで、エマを見上げた。
はっと目を見開く。
≪髪の毛が紫色……≫
「おはよう」
≪なんて言ってるのかわからない。……本当に? 異世界?≫
独り言のようなタクトの言葉がわからず、エマは日常会話が書いてある方のノートを手に取った。
エマもベッドに腰掛けて、タクトの前にノートを開いた。挨拶が並んだページを見せて『おはよう』を選んだところで、タクトはノートを取り上げた。
パラパラとめくった彼が指で差したのは、『本当なのか?』という文。
それから、別のノートから単語を選んだ。『帰る』と『できない』の後にタクトは自分を指さして、エマを見つめた。
「うん。帰れないみたい」
エマはそっとうなずいた。
≪嘘! 嘘だ!≫
「タクト!」
大声を出して、タクトはエマを押しのけて、ベッドから降りようとした。しかし、傷が痛んだのかすぐにうずくまってしまう。
「タクト、大丈夫?」
≪嘘だ、帰れないなんて……≫
タクトを抱き留めたけれど、起き上がる意志のない彼をエマはベッドに戻すことができない。
「どうした?」
「カイ!」
開いたままの扉からカイが入ってくる。
≪うわぁ! 虎!≫
「ああ、すまない。私の姿じゃ、この世界の人間だって驚くな」
≪ひ、人になった!≫
人型になったカイにタクトはまた驚いているようだったけれど、カイは気にせずに彼を抱き上げてベッドに戻した。
「私は使い魔だ」
カイは床に落ちたノートを拾ってタクトに見せた。
≪使い魔って、さっきの説明にあった……。それじゃあ、この子が魔女? 菫色って紫なのか≫
タクトに『魔女』という単語を指さされて、エマはうなずく。
「私は、魔女」
タクトは今度はがっくりとうなだれた。
≪違う世界……帰れないなんて……≫
エマはタクトの体を抱きしめる。エマの方が体が大きかったから、タクトはエマの腕に収まった。
エマも生まれた家には帰れないけれど、絶対に無理というわけではない。しかし、タクトは本当に不可能なのだ。
声を殺して泣くタクトをエマは守ってあげなければと思った。
実家では妹で、『魔女の家』ではゾエとカイと暮らし、ヴェール村でできた友だちも年上。エマにとってタクトは、初めて身近に接した年下の子どもだった。
実の家族から切り離された自分と重ねて、あるいは、自分より『かわいそう』に思えての同情だったかもしれない。『魔女の家』に来てからゾエやカイに優しくされてうれしかったことを、タクトにも与えてあげたかったのかもしれない。
きちんと自分の心境を理解はできなかったけれど、とにかくエマはタクトを守ろうと決めた。
エマはタクトの背中をゆっくりと撫でた。
しばらくして落ち着いた彼は、体を起こして、恥ずかしそうにうつむいた。
「もう平気?」
エマがノートを指さすと、
≪大丈夫。たぶん≫
タクトは言った。エマはそれを真似して言ってみる。
「ダイジョーブ、タ」
≪大丈夫≫
「ダイジョーブ」
≪大丈夫≫
タクトは初めて少しだけ笑顔を浮かべた。泣いたせいで目が赤くなっている。
「今日からタクトは私の弟よ」
エマはもう一度タクトを抱きしめた。
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