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第54話 キュン死に
しおりを挟むお店に戻ると、接客中のイヴェリスがこっちを見る。
その佇まいすらもかっこよすぎて、目が合ったことに思わずニヤけそうになるのを下唇を嚙みながらこらえる。なんて単純なんだと思うけど、これはあれだ。デレ期ってやつかもしれない。
「ただいま」
「大丈夫だったか?」
「なにが?」
「いや、何にもなかったらいい」
カウンターの中に戻ると、兄がなにかを気にかけてくる。一瞬、隼人さんのことかなとは思いながらも、とくに何かあったわけでもないから軽く流す。
自分の定位置に戻ると、コンビニに行く前に空っぽにしていったシンクには、すでに使ったグラスがいくつか溜まっている。そのグラスをまた、洗うことに専念する。
ああ、早く家に帰りたい。
早く家に帰ってイヴェリスと――
そこまで考えて、ふと浮かんできた言葉を書き消すように頭を横に振る。
働いているイヴェリスがかっこよすぎて、どうにかされたいとすら思っている自分がいたのだ。
家でボケーとしているイヴェリスも好きだけど。華麗に仕事をこなしていく姿とのギャップがたまらないと言うか。もう私の頭の中は本当にイヴェリスでいっぱいなのかもしれない。
「蒼。水を頼む」
「あ、うん」
片手にトレーを持って、イヴェリスがこっちに歩いてくるだけでドキドキしてしまう。
水をコップに入れて渡せば、「ありがとう」と言ってほほ笑む。
無理だ。
仕事に行く前からあんなことしてしまったせいか、かっこいいイヴェリスを摂取し過ぎてしまったせいか。どちらにせよ、好きのバロメーターが完全に振り切っていた。
「蒼。そろそろ台風が来る。頑張って耐えろよ」
そんな浮ついている私に、兄が突然耳打ちをしてくる。
「え?」
「ナズナにガチ恋のお客が来るって言ってんの」
続いた言葉に、前回ここに来た時に会ったモデルさんみたいな女の人を思い出す。
「もしかして――」
あの女? って聞こうとしたところで
「なーずなー! きたよー」
お店のドアが勢いよく開くなり、耳にまとわりつくようなあの声が聞こえてきた。
「いらっしゃい」
「会いたかった~」
イヴェリスが早々に迎えいれると、あの美月とか言う女はイヴェリスに抱き着こうとする。前回はされるがままのイヴェリスだったけど、今日は上手くかわすと奥の席へと誘導した。
「あの人、なんなの」
胸元と背中が大胆に開いたレースのワンピースを身にまとい、自信に満ち溢れたスタイルで歩いていく。その姿は、店内にいる全員の視線を引きつけていた。
「ナズナ、今日は何時まで?」
「最後までいますよ」
「えーじゃあ飲もう!」
「まだ仕事中なんで無理です」
甘えた声を出しながら、両手でイヴェリスの腕にしがみついて離れようとしない。
ここからだとよく見えないが、たぶん、ご自慢の胸を押し付けているのだろう。
イヴェリスがそのくらいで動揺しないことはわかっていても、見ていていい気分はしない。
「はあ」
「大丈夫か?」
思わず大きくため息をつくと、休憩を終えたトマリが戻ってきて私の顔を覗き込んでくる。
突然、目の前に現れたトマリの顔にびっくりしつつも、口の周りがケチャップだらけで思わず吹き出す。
「なっ、なんで笑うんだよ」
「スプーン使って食べなかったでしょ」
「げっ。なんでわかった」
「ケチャップが口の周りについてる」
指摘しながらそばにあったキッチンペーパーを渡すと、トマリはくしゃっと握って口の周りを拭った。
「まだついてるよ」
「どこだ」
「ここ」
雑に拭き取るも、ほっぺたについているケチャップはまだとれていない。
「ああ、めんどくさい。お前が拭け」
「え。昨日は嫌がったじゃん」
「いい、許す」
そう言って、ぐしゃぐしゃに丸められたキッチンペーパーを突き出してくる。
仕方なくそれを受け取ると、ほっぺに残っていたケチャップを私が拭き取った。
「はい、キレイになったよ」
顔がキレイになるのを確認すると、トマリはまたニッと笑って
「ありがとな」
って言いながら、ホールへと出ていった。
「ずいぶん懐かれてるな」
今の出来事を見ていた兄にボソッと突っ込まれる。
「餌付けしちゃったからかもしれない」
「餌付け?」
「あ、いや、こっちの話」
あれは懐かれているって言うのだろうか。思い返してみれば、昨日に比べたらだいぶ態度も距離感も変わっている気がする。
「蒼」
そんなことを考えていると、今度はイヴェリスの顔が目の前にくる。
「わ、びっくりした」
「疲れたか?」
「ううん、ちょっと眠いけど大丈夫」
「少し休んだらどうだ? ここは俺がやる」
「大丈夫だよ」
そう言ったあとに、ハッと気づく。
「あ。やっぱりお願いしようかな?」
「ああ、そうしろ」
たぶん、イヴェリスはホールに行きたくないんだ。
チラッと兄の方を見ると「別にいいぞ」と言うように頷いていた。
「じゃあ、ちょっと休んでくるね」
「いってらっしゃい」
裏に行こうとイヴェリスの横を通り過ぎる瞬間、すれ違いざまに私の手を軽く握ってくる。振り返るとイヴェリスがふわっと笑っていて――その笑顔に、再び好きのバロメーターが大きく振り切る音がした。
「ずるい、あんなのずるい!」
ソファのクッションに顔を埋めて、声にならない声を出す。
秘密の関係って、こんなにドキドキするものなのか。社内恋愛ってのは、こんな感じなのか。今まで漫画や人づてでしか聞いたことのないシチュエーションが、いざ自分の身に降りかかってくると、このキュンキュンする気持ちに耐えられそうになかった。
これがキュン死にってやつか……。
ソファに寝転ぶと、そのまま寝ちゃいそうな気がして。
座りながらスマホをいじる。
そう言えば、ここのお店がSNSで人気になってるって前に楓たちが言ってたのを思い出し、おもむろにお店の名前を検索してみた。
すると、出てくる出てくる。
イヴェリスの写真。
このお店っていうよりも、イヴェリスにしか注目されていない。
最新の投稿を見ると、イヴェリスだけじゃなくトマリの写真もさっそく載っていた。
#2次元に会うならここ
#イケメンに会える店
そのタグに、なんだそれって突っ込みを入れながらも。
この二人が吸血鬼と人狼だなんてことは私しか知らないんだと思うと、なんとなく背徳感があった。
次から次に出てくるイヴェリスの写真を眺めているだけで30分があっという間に過ぎていた。無意識のうちに何枚かスクショまで撮っている自分がおそろしい。一度座ると立ち上がるのが億劫で、「よっこいしょ」なんて言ってしまう。
お店に戻ると、美月さんの席にはイヴェリスではなくトマリがいた。
「トマリは私のこと好き?」
「あー顔は嫌いじゃない」
「なにそれ!」
「身体も嫌いじゃない」
「それ褒めてる?」
「好きか聞かれたから、答えてるだけだ」
二人の会話が嫌でも聞こえてくる。
トマリはいい意味で正直だから、ああいう女の人には丁度いいのかもしれない。
「じゃあ抱ける?」
「抱ける」
どんな話をしとんのじゃ。って思いながらも、つい会話が気になってしまい二人の方へと視線が奪われる。
「え~じゃあ抱いていいよ~」
美月さんは甘ったれた声を出しながら、トマリの首に腕を巻き付けて抱き着いていた。イケメンなら誰でもいいのかよ。
「今は別にそういう気分じゃないから、今度な」
「なにそれー!」
ベタベタとくっついてくる美月さんをグイッと引き離すトマリ。会話に飽きたのか、スクッと立ち上がるこっちに戻ってきた。
獣族は子孫繁栄が仕事って前にイヴェリスが言っていたけど、それって人間に対しても思うことなのだろうか。でも人間はトマリにとっては食べ物でしかないし……。そういう対象ではないのかな。
「なんだ?」
「あ、いや、なんでもない」
ふと、考えごとしていたらトマリと目が合ってしまい視線をそらす。
このままだと、美月さんもトマリに食べられてしまうのではないかっていう不安が頭を過ぎる。
「ダメだよ」
「なにが?」
「あの人食べちゃ」
「ああ。そんなことか」
食べないって約束をしてくれているとは言え、本能的なものもある。
“今はそういう気分じゃない”って言うのも、たぶん発情的な時期のことを意味しているのかもしれない。
杞憂ではあるけど、少し不安になってしまいトマリに釘をさすようにしつこく言うと、「お前が飯くれる間は食べねーよ」そう言いながら私の頭をくしゃっと撫でた。
ってことは、私が食事の面倒を怠ればトマリは人間を食べてしまうということだろうか。
グラスを片付けながら、ホールでせっせと働いているイヴェリスとトマリを視線で追う。こうやって見ている分には、二人とも人間なのに。なんで魔族なんだろう。
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