無法の街-アストルムクロニカ-(挿し絵有り)

くまのこ

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 目覚めた時、ナタンの頭上にあったのは、見慣れた「おどる子熊亭」の宿泊部屋の天井だった。
 彼は、少しの間ぼんやりとしていた後、自分が寝台に寝かされていることを認識した。
 頭の下には、冷たく、ところどころゴツゴツした感触の氷枕が置かれている。
 額には、ご丁寧に氷嚢まで載せられていた。
 衣服は、いつも寝る際に着ているシャツに着替えさせられている。
 最も大きな異変は、全身が重苦しく熱を持っていて、頭痛もすることだ。
 ナタンは首だけを動かし、周囲を見回した。
 刺激を避ける為か、窓掛けカーテンが半分ほど引かれた室内は薄暗いものの、時刻は、日中らしい。
 部屋にはナタン以外に誰の姿も見当たらない。
 熱を出して寝込むなどということが、ほんの幼い頃以来なのを、ナタンは思い出した。
 ――何か変な病気だったら、どうしよう……
 彼は、ひどく心細い気持ちになった。
 ナタンが鉛のように重い身体を何とか起こそうとした時、不意に部屋の扉が開いた。
「ナタンさん……気が付いたんですね?!」
 入ってきたのは、ポットや湯気を上げる皿の載った盆を手にしているリリエだった。
「まだ、熱があるから寝ていてください」
 ナタンに毛布を掛け直しながら、リリエが言った。
「お、俺、どうなっちゃったの?」
 自身の状況が全く分からないナタンは、てきぱきと中身の溶けかかった氷嚢を取り換えたり、寝台の周りを整えている彼女に問いかけた。
「私を助けに来てくれた後、急に倒れてしまったんです。覚えていませんか?」
「……あの『ウリヤス』って人を捕まえた後に、オリヴェルさんが来たんだっけ……うん、それからの記憶がないや」
 本当は、抱きしめたリリエの身体の感触や匂いも覚えていたが、何とはなしに恥ずかしい気がして、ナタンは黙っていた。
「この宿に、たまたま滞在していた元医師の方に、ナタンさんを診てもらったんです。発熱してはいるけれど、感染症や、どこかに炎症を起こしているといった所見はないので、精神的に負担がかかったことが原因ではないかと仰っていました」
「そうか……伝染うつる病気とかじゃないのか……」
 リリエの説明に、ナタンは、ほんの少し安堵した。精神的な負担という点では、これまでの彼の人生において、最も緊張と危機感を抱いた出来事と言えるものであったし、ある意味、納得できると思えた。
「ナタンさん、昨日は、まる一日、熱で朦朧もうろうとした状態だったんですよ。ちゃんと、お話しできるようになって安心しました」
「えっ? あれから、そんなに経ってるの? て、手洗いとかは、どうしてたの?」
 ナタンは、驚いて目を丸くした。
「お手洗いへは、フェリクスさんが付き添ってくれていました。食事の介助とかは、私やセレスティアさんでもできますけど、着替えや、お手洗い関連は同性の方の方がいいでしょうということで」
「だめだ、全然覚えてない……」
 リリエによれば、今、フェリクスとセレスティアは日用品の補充に出かけているという。
「お二人は、果物とか、熱がある時でも食べられそうなものも探してくると言ってました」
「なんか、みんなに迷惑かけちゃってて悪いな……」
「そんな……誰も迷惑なんて思っていません。それより、お粥を作ってもらったから、食べてくださいね。お薬も、ありますから」
 眉尻を下げるナタンの襟元に、リリエは汚れを防止する為の布を広げ、自身は椅子に腰掛けた。
「いや、起きて自分で食べるよ……」
「まだ辛そうだし、無理しないほうがいいですよ」
 そう言って微笑みながら、リリエは皿の中の粥を混ぜ、食べやすい温度にしたものを匙ですくった。
「……赤ん坊みたいだなぁ」
 ナタンは口を開け、リリエが差し出した匙から粥を一口食べた。
 米を柔らかく煮て、卵を混ぜた優しい味の粥が、喉を滑り降りていく。
「ナタンさんは白米ハクマイが好きだから、お粥も米を使ったものがいいだろうって、デリスさんが作ってくれたんですよ」
「うん、おいしいよ」
 ひどい倦怠感けんたいかんと頭の痛みは簡単に消えるものではないが、リリエに粥を食べさせてもらっているうちに、ナタンは何とも言えない幸せな気分になっていた。
「……そういえば」
 食事を終えると、リリエが、やや口籠くちごもりながら言った。
「あの、護衛の契約を解除するって言いましたけど……」
 彼女は、不安げな表情で俯いた。破落戸ごろつきたちにさらわれそうになった際のことを指しているのだろう。
「いや、あれって、その場をしのぐための方便だよね?」
 ナタンが言うと、リリエは頷いた。
「はい……何も言わなかったら、ナタンさんは私を守る為に無理してしまうと思って」
「たしかに、相手は多かったけど、腹をくくるしかないと思ってたからね。実際に戦っていたら、どうなっていたか考えると……」
「分かってもらえて、良かったです。本気だと思われていたら、どうしようって、少し心配だったので……」
 リリエが、ナタンの手を、そっと握った。
「こ、これからも、引き続き、よろしくお願いします」
「もちろんだよ。俺も、ずっと、君を守りたい」
 ナタンも、僅かに震えている彼女の手を、そっと握り返して微笑んだ。
「……お皿、片付けてきますね」
 少し経って、リリエが椅子から立ち上がり言った。
 使い終えた食器を盆に載せ、部屋を出ようと背中を向けたリリエの後姿を見て、ナタンは、あることに気付いた。
 「市場」で買ってリリエに贈った髪飾りが、彼女の後頭部に着けられている。
「髪飾り、着けてくれてたんだね」
 ナタンが言うと、リリエは振り返って微笑んだ。
「はい、ナタンさんに貰ったものですから」
 部屋を出るリリエの背中を見送りながら、ナタンは、これまでになく安らいだ気持ちで微睡まどろみへと沈んでいった。
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