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頭中将
五十三、慈愛
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東宮に頼まれたものの、左大臣家の姫君のことを頼近はほとんど知らなかった。
あえて、宮中では敵味方を分けないように暮らして過ごしていたのが、ここで生きてくるとは。
頼近はどちらかといえば右大臣派に属するが、極めて中立に近い立場をとっている。それはただ単に、どちらか片方に肩入れすることで、政変に巻き込まれたときの危険を下げたいという思いがあった。
言い方を変えれば、自分以外の誰も信頼してない、と言えるかもしれないが。おそらく、東宮も同じだろう。頼近を信頼しているとは言うが、心の奥底では信頼していない。
もし、頼近が東宮の任を遂行するなかで何か事件を起こしてしまったら、もう「友達」ではいられなくなるかもしれない。
それが悲しいと思いながらも、それが宮中だと冷静に考えてしまう自分もいる。
約束した手前、いまさら断るなんてことはできない。気を引き締めて、ことに当たる他ないのだ。
* * *
苦心の末、頼近は左大臣家の姫君と出会った。香子——、彼女はそう名乗った。その名前に似つかわしく、彼女からはいつも芳しい白檀の香りが漂っていた。御簾越しに話をしているだけで、甘く柔らかな香りがする。
彼女は、穏やかな女性だった。
そう、本当に穏やかだった。
東宮の言葉を伝えても、怒りを表すことなく。ただ、淡々と言葉を紡ぐ。そのひとつひとつが、柔らかであたたかく。
頼近は、いつしか東宮の任であることを忘れて、香子の元へ訪れることを心待ちにしてしまっていた。
東宮には、香子が素晴らしい女性だと伝えてしまった手前、頼近にできることは、ただ黙って香子が東宮のもとに無事に輿入れするのを見守るだけだった。
東宮は、頼近が気にいるような女性であれば安心だと、頼近に告げる。
日に日に、自分の心が香子に惹かれていくのを知ってなお、東宮への忠義を尽くさなければという気持ちで、頼近の心中は揺れていた。
ここで、香子を選んで仕舞えば、これまで東宮との間に積み重ねていた友情も、信頼もすべて無に帰す。
しかし、香子という優れた女性をみすみすこの手から逃すということも、色好みとして名高い頼近にとって、出鼻をくじかれるような思いだった。
そんな最中だった。
——香子が死んだのは。
自死を選んだという話を聞いたとき、目の前が真っ暗になった。
何故、どうして。
そんな言葉を空に向かって投げかけても、誰も答えてはくれない。
東宮との輿入れが正式に決まる前だったこともあり、世間は、自分との痴情のもつれが原因なのではないか、と噂した。
今となっては、もう分からない。
それでも、頼近は気づいていた。
頼近が彼女に密かに思いを寄せるように、香子もまた、頼近に思いを寄せていたことに。
聡い彼女は、決して言わなかったから、もしかしたら頼近の勘違いかもしれない。けれど、決定的な証拠がなくたって、頼近は確信にも近い思いを抱いていた。
だからこそ、もし彼女が本当に自死したのであれば、自分のせいだろう。
東宮に輿入れするはずだった彼女を、悩ませ、死へと追いやったのは、自分だ。
「……だから、俺は否定しない。俺の背中に彼女がいるのだとしても」
頭中将が話し終わると、すこしだけ寒くなったような気がした。すでに、外は夕暮れが近づいていた。まだ日は短く、ふと外を見やると、真っ赤な夕日が家垣に隠れていく様が見えている。
頭中将の後ろには、左大臣家の姫君——香子がいる。
悲しそうな顔で、ただ頭中将の頬を撫でているその様は、まるで仏のような慈愛の満ちた表情をしていた。
あえて、宮中では敵味方を分けないように暮らして過ごしていたのが、ここで生きてくるとは。
頼近はどちらかといえば右大臣派に属するが、極めて中立に近い立場をとっている。それはただ単に、どちらか片方に肩入れすることで、政変に巻き込まれたときの危険を下げたいという思いがあった。
言い方を変えれば、自分以外の誰も信頼してない、と言えるかもしれないが。おそらく、東宮も同じだろう。頼近を信頼しているとは言うが、心の奥底では信頼していない。
もし、頼近が東宮の任を遂行するなかで何か事件を起こしてしまったら、もう「友達」ではいられなくなるかもしれない。
それが悲しいと思いながらも、それが宮中だと冷静に考えてしまう自分もいる。
約束した手前、いまさら断るなんてことはできない。気を引き締めて、ことに当たる他ないのだ。
* * *
苦心の末、頼近は左大臣家の姫君と出会った。香子——、彼女はそう名乗った。その名前に似つかわしく、彼女からはいつも芳しい白檀の香りが漂っていた。御簾越しに話をしているだけで、甘く柔らかな香りがする。
彼女は、穏やかな女性だった。
そう、本当に穏やかだった。
東宮の言葉を伝えても、怒りを表すことなく。ただ、淡々と言葉を紡ぐ。そのひとつひとつが、柔らかであたたかく。
頼近は、いつしか東宮の任であることを忘れて、香子の元へ訪れることを心待ちにしてしまっていた。
東宮には、香子が素晴らしい女性だと伝えてしまった手前、頼近にできることは、ただ黙って香子が東宮のもとに無事に輿入れするのを見守るだけだった。
東宮は、頼近が気にいるような女性であれば安心だと、頼近に告げる。
日に日に、自分の心が香子に惹かれていくのを知ってなお、東宮への忠義を尽くさなければという気持ちで、頼近の心中は揺れていた。
ここで、香子を選んで仕舞えば、これまで東宮との間に積み重ねていた友情も、信頼もすべて無に帰す。
しかし、香子という優れた女性をみすみすこの手から逃すということも、色好みとして名高い頼近にとって、出鼻をくじかれるような思いだった。
そんな最中だった。
——香子が死んだのは。
自死を選んだという話を聞いたとき、目の前が真っ暗になった。
何故、どうして。
そんな言葉を空に向かって投げかけても、誰も答えてはくれない。
東宮との輿入れが正式に決まる前だったこともあり、世間は、自分との痴情のもつれが原因なのではないか、と噂した。
今となっては、もう分からない。
それでも、頼近は気づいていた。
頼近が彼女に密かに思いを寄せるように、香子もまた、頼近に思いを寄せていたことに。
聡い彼女は、決して言わなかったから、もしかしたら頼近の勘違いかもしれない。けれど、決定的な証拠がなくたって、頼近は確信にも近い思いを抱いていた。
だからこそ、もし彼女が本当に自死したのであれば、自分のせいだろう。
東宮に輿入れするはずだった彼女を、悩ませ、死へと追いやったのは、自分だ。
「……だから、俺は否定しない。俺の背中に彼女がいるのだとしても」
頭中将が話し終わると、すこしだけ寒くなったような気がした。すでに、外は夕暮れが近づいていた。まだ日は短く、ふと外を見やると、真っ赤な夕日が家垣に隠れていく様が見えている。
頭中将の後ろには、左大臣家の姫君——香子がいる。
悲しそうな顔で、ただ頭中将の頬を撫でているその様は、まるで仏のような慈愛の満ちた表情をしていた。
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