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「安倍晴明」

五、左大臣家

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 次の日の朝。

『起きてください。晴明』

 小春を起こしたのは、白の声だった。
 眠い目をあけると、そこにあったのは白のもふもふの顔。
 一気に目が覚めた小春は、白の毛並みを触ろうとするも、白はめんどくさそうにすっと離れた。

(今なら触れるかと思ったのに……!)

 目をこすりながら寝所から起き上がると、白はすとんと小春の前でお座りをした。

『坊ちゃんがお呼びです』

「兄上が?」

 小春はさっと狩衣に着替える。最初は気ぐるしかった狩衣も着慣れてしまった。
 男として過ごすのも悪くはない、と今となっては思う。
 重い女房装束を着こなす女房たちを見かけるたび、その澄ました笑みの裏にある苦労を思うと涙ぐましい。
 最後に立烏帽子をかぶって自室を出て、保憲の元へ向かおうと渡り廊下を歩く。
 角をひとつ曲がったところで、保憲と鉢合わせをした。

「兄上、お呼びでしたか」

「よかった、晴明。今向かうところだったんだ」

 そう言った保憲は、小春の耳元に顔を寄せて囁いた。

「……父上から聞いた。左大臣家の姫君のこと、噂が広まりつつあるみたいだ」

「もう、広まっているんですか」
 
 驚いて聞き返すと、保憲は困ったように笑う。

「だろうね。この宮中で、噂が広まるのを抑えるほうが難しいよ」

 どこか遠い目をした保憲は、さて、と明るい声を出した。

「さっそく、左大臣家に行ってみようか」

 保憲の後ろを付いて歩く。
 保憲はまた背が伸びたような気がする。小春とは手のひら二つ広げた分の身長さがある。女子としては平均的な身長だと思うが、いつの間に保憲のほうがぐんぐん背を越していった。最初に出会ったときは、小春とほとんど変わらなかったのに、と思うとすこし悔しい。

 左大臣家は、宮中を出た五条のあたりにある。
 保憲が手配してくれた牛車に乗り込み、ゆらゆらと揺られながら目的地を目指す。
 牛車のなかは小春と保憲だけ。保憲はこんな時でも、書物を読んでいる。
 
 そっと御簾を寄せて外の景色を見ると、まだ肌寒い京の春が色づき始めていた。
 この冬を、どれだけの子どもが乗り越えられたのだろうと思うと、胸がちくりと痛んだ。
 小春の両親や、弟たちはどうしているだろう。
 もうきっと、出会うことはない。
 
(私は、陰陽師になった……)

 人あらざるものが見える陰陽師は、人とあやかしの狭間に生きているのだ。
 ならば、陰陽師としてこの生を全うするしかない。
 あらためて、小春は気合を入れなおす。
 今回与えられた任は、小春にとっては重すぎる。けれど、だからと言って投げ出して良いわけではない。

「――兄上も、事件だとお考えなのですか?」

 牛車のなかで、やっと小春は胸の内にあった疑問を吐き出した。
 保憲は読んでいた書物から目をあげ、小春を見た。

「僕にはまだ分からない。でも、父上がそうおっしゃったのには訳があるのだと思っている」

 父上は、根拠のないことはおっしゃらない、と保憲は付け足した。
 
「兄上、私にできるでしょうか」

 思わずたずねると、保憲は静かにほほ笑んだ。

「何があっても、僕がついている」

 そのとき、牛車が動きを止めた。
 御簾越しに見えるのは、大きな屋敷。

「左大臣家に着いたみたいだね」

 牛車を降りようとした小春の手を、一足先に降り立った保憲が取った。
 その手は、男性らしいごつごつとしたもので、保憲の細面からは想像できない。
 どこか中性的な美貌をもつ保憲の、男性らしいところを意識してしまう。

「あ、兄上っ。一人でも降りられます」

「そうか。すまん」

 ぱっと重なっていた手が離れると、それはそれで寂しいような気もした。
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