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1巻

1-2

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 心配そうにかけられた低い声に、蘭月は息をんだ。
 背の高い青年が、目の前にいた。月の光を背にしたその人は、透き通るような銀の髪をしていた。清流のような、青とも緑ともつかない碧色へきしょくの瞳は、真っ直ぐに蘭月を見つめている。月の都から来たと言われても納得してしまうほどに、美しい人だった。
 思わず見惚みとれていた蘭月は、次の瞬間には、自分がすっぴんであることを強烈に後悔し始める。
 月の光しかないおかげで、あざまでは見られていないと信じたい。それでも、自分が醜いすっぴんをさらしているという事実が耐えられなかった。
 穴があれば今すぐにでも入る覚悟で周りを見渡すも、隠れられる場所は無に等しい。
 幼獣が隠れていた草むらに入ってしまおうと考えたところで、青年はゆっくりと蘭月に近づく。

「――やっと会えた」

 ぽつり、と青年がつぶやく。

「な、何か言いましたか?」
「いや。それはこっちの話だ」

 蘭月の問いに律儀に答えて、青年はまじまじと蘭月を見つめた。
 その瞬間、蘭月はとある考えにたどり着く。
 この後宮にいる、男とは。
 こんな夜更けに後宮に足を踏み入れることが許される人物は、ひとりしかいない。
 皇帝――漣龍その人だ。

(ま、まずい!)

 こんなすっぴんを皇帝にさらすことになるなんて。わなわなと唇が震える。腕のなかの幼獣のあたたかさがなければ、悲鳴をあげて今すぐ卒倒するところだった。

「寒いのか?」

 蘭月の気も知らず、青年は気づかわしげに声をかけた。
 いつの間にか、足が震えていた。寒さのせいなのか、それとも極度の緊張のせいなのかはわからない。
 青年が蘭月の答えを待っていることに気づき、蘭月は思い切り首を縦にぶんぶんと振った。すると、青年は迷う間もなく、自らが羽織っていた服を震える蘭月の肩にかける。

「あ、あ、あの?!」

 突然のことに頭が追いつかず、蘭月はただぱくぱくと口をひらいた。青年の羽織からは、美麗で爽やかな見た目とは似つかない、強烈な甘い香りがした。これまで嗅いだことのない香りなのに、なぜか涙が出そうになるほど懐かしい気がした。くらくらと目が回る。このままでは、卒倒してしまいそうだった。

「その、腕のなかにいる獣は?」

 青年は蘭月に問いかける。羽織をかけるために蘭月に身を寄せた折に、腕のなかにいる幼獣に気づいたようだ。

「わ、私にもわかりません。鳴き声に誘われたようにここに来たら、この子がいて」
「ふむ。そなたは、白沢はくたくだな?」

 青年がそうたずねたと同時に、幼獣はぴょんと蘭月の腕から飛び出した。

「なんでぼくが白沢だってわかったんだい」

 幼獣が飛び出すのと同時に、少年のような高い声が幼獣のほうから聞こえる。
 思わず蘭月はぽかんと口をひらいた。しゃべっているのは、先ほどまで腕のなかにいた幼獣らしい。くるくると蘭月の周りを回った幼獣は、満足したように青年の目の前で止まってお座りの形をとった。

「以前、文献で見たことがあった。この世のすべてを知るという瑞獣ずいじゅう、白沢。獅子の姿をした霊獣だったと記憶しているが……」

 しゃべる幼獣にまったく動じずに、青年はすらすらと言葉を紡ぐ。
 どうやら、幼獣は白沢というらしい。蘭月でも、名前は聞いたことがあった。
 徳の高い為政者の御代に現れる、伝説の霊獣白沢。
 蘭月が想像していたよりずっと小さいが、たしかに言われてみれば小さな獅子に見えなくはない。白沢が現れたということは、やはり目の前にいる青年は、皇帝漣龍なのだ。

「私の前に現れたということは、何か意味があるのか」
「意味はあるよ。気まぐれにここに来たわけじゃない。でも、仙界のおきてがあるからきみにはなにも言えないよ」
「言えない、か」

 漣龍が白沢に一歩近づくと、白沢は一歩下がる。漣龍がもう一歩近づけば、白沢ももう一歩下がった。どうやら漣龍のことは苦手らしい。

「私はあまり好かれていないようだ」

 声の端にため息をのせて、漣龍は蘭月をちらりと見る。月光の影になり、漣龍の表情はよく見えない。

「君にはよく懐いているように見えるな。そうだ、名を聞いてもよいだろうか」

 蘭月だ、と告げるのはためらわれた。蘭月がこの顔だとバレてしまったら、もうこの後宮にはいられない。背中に冷たい汗がつーっと流れていくのを感じる。

「わ、私! 蘭月様付の侍女なんです!」

 勢いに任せて言うと、漣龍は側にある蘭月の宮に目を向けた。

「侍女?」

 不思議そうな表情をして、漣龍は蘭月を見つめる。冷や汗が止まらない。

「そ、そうです。私は侍女なんです」

 皇帝をだますなんて、もしバレたらどうなるかわからない。それでも、今このうそだけは乙女の秘密としてどうか許して欲しい。蘭月は、勢いに任せて宣言した。

「そ、そうか。だが、侍女だとしても名はあるだろう」
「あ……」

 侍女であることを強調しすぎて、名前については考えていなかった。

「か、華月かげつと言います!」

 咄嗟とっさに頭のなかに浮かんだ名前を、叫ぶようにして言う。

「そうか。華月か」

 なぜか嬉しそうに、漣龍は偽りの名をつぶやく。その表情を見て、蘭月の心がチクリと痛んだ。
 自分の感情に戸惑いながらも、窮地は切り抜けられたと、蘭月はほっとひと息ついた。無事に身分を隠し通せたからには、こっちのものだ。後はどうやってここから帰るかだ。その時、白沢がてちてちと近づき、足の上に寝転んだ。

(かわいい! けど!!)

 白沢の姿はとてつもなくかわいい。
 しかし、今すぐに漣龍の目の前から姿を消したいと思っている蘭月にとっては、地獄の始まりにも思えた。

「白沢はそなたに懐いているようだな」

 感心したように言う漣龍に、蘭月はぎこちなく頷いた。

「そうだな……そなた、侍女だと言っていたな。しばらくの間、白沢を預かってはくれないか?」
「私がですか?!」

 まさかの展開に、声がうわずる。

「ああ。これでも瑞獣ずいじゅうと言われているような霊獣だ。野放しにするわけにもいかないだろう」

 かわいらしい犬に見えるが、仮にも瑞獣ずいじゅうだ。犬小屋を建てて勝手に飼うわけにはいかない。それはわかっているが、蘭月は何も言えずにいた。
 蘭月の沈黙を、困惑と受け取ったのだろう。漣龍は口元に手をやって考え込んだ。

「そなただけでは決められぬか。それもそうだな。では、こうしよう。私からそなたの主に頼んでみよう。そなたの主にも、謝礼を渡す。そうすれば、そなたにも主にも悪い話ではないと思うが」

 ごくり、と蘭月は唾を飲み込む。後宮妃の侍女に頼み事をするのであれば、主に話をつけるのはもっともだ。ただ、これ以上首を突っ込んでは蘭月の秘密を守ることができなくなってしまう。

「私に、そこまでしていただけるのですか?」

 言外にそこまでしなくてもいいと含みを持たせる。蘭月の問いに、漣龍はどこか嬉しそうに頷いた。

「もちろんだ。私が預かることができればよいのだが、この調子ではそれも難しそうだしな」
「それは、そうですね」

 あはは、と苦笑いをしながら蘭月は白沢を見る。
 白沢と目を合わせようとする漣龍と、その視線をことごとく無視する白沢。この時間で漣龍と白沢が打ち解けることは、できなかったようだ。うまく収めるには、蘭月が頷くほかなさそうだ。

「承知しました。私からも蘭月さまにお伝えしておきますね」
「あぁ。あとで文を出そう」

 月の光に照らされながら、漣龍は微笑む。その笑顔の美しさに一瞬だけ見入ってから、とんでもないことに巻き込まれてしまったと後悔にさいなまれる。
 それでも、嬉しそうな漣龍の顔を見て、撤回することはできそうもなかった。


 * * * 


 あれは、たしかにだった。
 朝の光のなか、漣龍は庭院なかにわを歩いていた。考えを整理しようと、散歩を始めたのはよかったが、眠れずに歩いているうちに朝になっていた。どこかで鳥の声がしている。
 幸い、体力は有り余っているから疲れは感じない。問題は、一晩歩いているにもかかわらず、思考が止まらないということだった。
 何十年ぶりだろうか。こんなにも感情が高ぶるのは。
 彼女を目にした瞬間の、全身が逆毛立つような感覚が忘れられない。彼女とまた出会うためだけに、自分はここまで生きてきた。今度こそ、彼女と幸せになれる。そう思った次の瞬間、幸福感は強烈な渇きへと変化した。
 今すぐに、彼女を手にいれたくてたまらない。
 何も考えずに、彼女のことをさらってしまいたい。
 だが、邪気払いの宴では、他の後宮妃たちの目がある。く気持ちを、残り少ない理性で何とか抑え込んだ。そのはずなのに、漣龍は居ても立ってもいられなくなった。宴のあと、彼女の気配を手がかりに歩き出していた。花の香りに誘われる虫のように、ただ本能のままに向かった。そこに、彼女がいた。 
 ただ、宴のときに見かけた彼女とはまったくの別人に見えたのは驚いた。
 漂う香りや雰囲気、気配は彼女のものだというのに、見た目はまるで違う。自らを「華月」と名乗っていたことも、何か事情があるのだろう。
 準備が整い次第、皇后として召すつもりだったが、そうもいかなくなった。彼女のことを考えずに、自分の思いだけで突っ走ろうとするのは、悪い癖だ。流れる血がそうさせているのであれば、漣龍はそれを克服する必要がある。
 漣龍は、龍の血を引く皇帝であった。龍の血を引く皇帝は長命であり、只人ただびとの三倍以上も長く生きる。只人ただびとでは持て余す時間をかけて、皇帝はこの国を護る定めを負うのだ。
 皇帝の伴侶となる人は、龍のつがいと呼ばれていた。龍のつがいとなり、皇帝と誓いを結ぶことで、皇帝と同じ長き時を生きることができる。龍の血を引く者は、一目見ただけで一生の伴侶がわかるのだと言われていた。

(もう、二度と同じ過ちを犯すものか)

 一度、漣龍はを失った。彼女とつがいになれると思った直後、奈落の底に叩きつけられた。あれからもう何十年も経っているが、彼女を失ったときのことを思うと、身が引き裂かれるような苦しみが去来する。

「陛下! ここにおられたのですね」

 遠くからかけられた青海の声に、そろそろ政務の時間かと現実に戻る。
 漣龍がいないと知ってあちこち駆け回ったのだろう。少し息があがっている青海を見て、心苦しく思った。
 青海は、漣龍の信頼する側近のひとりだ。彼が幼い頃から知っている。まだ小さな男の子だった青海も、あっという間に大人になり、漣龍と肩を並べるようになった。自分に流れる時と、人々に流れる時が違うことに、寂しい気持ちになる。

「すまない。少し考え事がしたくてな」

 素直にびると、青海はため息をつきながら頷いた。

「今年の邪気払いの宴は、波乱を呼んでしまいましたね。後宮がせわしないのは、いつものことですが」

 青海の目元には、黒々としたくまがある。後宮の細々としたことは、青海にすべて任せている。さらに青海に心労を増やすことになると思いつつ、漣龍は口をひらいた。

「青海、少し頼まれてくれないか」
「なんでしょう」
「昨夜の黒衣の後宮妃の周辺をくまなく調べてくれ。あとは、書庫に白沢に関する本があっただろう。全部自室に送っておいてくれるか」
「黒衣の妃のことでしたら、ひとまず私のほうで調べておきました」
「話が早いな」

 漣龍が驚いている間に、青海がすらすらと情報を述べていく。

「楊蘭月。二十一歳。星辰商会を営む楊家のご令嬢です。楊家は先日、封爵されたばかりで、その縁もあり後宮入りしたようです。また、彼女は実家で『美蘭堂』という化粧品を作っていたようで、かなり平民たちから人気を博していたとか。その『美蘭堂』が販売を停止したのが二か月前。それからの後宮入りということで、他の後宮妃たちはかなり警戒しているようですね」

 だから黒衣を着ていたのか、と合点がいった。

「そうか。今後も何か情報があればもらえると助かる」
「承知しました。黒衣の妃の件はともかく、なぜ白沢のことを?」
「昨日、白沢と出会った」

 隠すことでもない。事実を述べると、青海は目を大きく見ひらいた。

「ええええええ! それは一大事ですよ」
「ここだけの話にしておいてくれ。少し気になることがあってな。皆に知らせるのはその後にしたい」

 声を落として言うと、青海は神妙な面持ちになって頷いた。

「陛下がそうおっしゃるなら、私は何も言いません。今日中には本をお持ちします」
「すまないな。助かる」
「いえ、礼には及びません」
「それからもうひとつ。黒衣の妃――蘭月と話がしたい」

 漣龍の言葉に、青海は固まる。

「何をするおつもりで?」
「白沢の件で、少し頼み事がある」
「念のために聞きますが、皇后に召されるだとか、そういった類のことではありませんよね?」

 いずれはそう考えているが、まだ早い。今にも皇后へと命じたくなるのをぐっとこらえて、漣龍は首を横に振った。

「違う。ただ話がしたいだけだ」
「わかりました。手配をしておきましょう。漣龍さま、もしもですよ? もしもそのような場合は、なるべく早めにおっしゃってくださいね」

 眉根に深いしわを作って言う青海の頼みに、漣龍は頷いた。


 * * *


 夢を見ている。そうはっきりとわかる夢を見ていた。
 夢のなかで、蘭月は後宮のなかにいた。美しい襦裙じゅくんを身にまとい、誰かと笑い合っている。こんなに笑ったのは久しぶりだ。心地よい疲労感に包まれている。
 ――漣龍さま。
 夢のなかで、蘭月はそう口にしていた。
 現実では一度も口にしたことがないその人の名を、愛おしげに呼ぶ。その瞬間に、目が覚めた。

「……ゆ、め」

 幸せから一気に現実に戻され、身体は重い。
 身体を起こそうとした瞬間、首元に重いものが乗っていることに気づく。
 顔だけあげて首元を見ると、白沢が気持ちよさそうに寝ていた。蘭月のことを寝具だと思っているのだろうか。ふっと笑い声が漏れて、力が抜ける。
 たしかに、今朝はいつもより少しだけ寒い朝だった。秋が近づいているのだ。首元は暖かいから、ここで暖を取っていたのだろう。
 昨夜、白沢や漣龍に会ったのは夢ではなかった。何が夢で何が現実なのか。気を抜くとわからなくなってしまいそうだ。それでも白沢のあたたかさが、昨夜の邂逅かいこうが本物だと蘭月に教えていた。

「蘭月さま、おはようございます」

 その時、寝所の外から侍女が声をかけた。部屋のなかに差し込むの光。いつもなら起床している時間を過ぎている。声に驚いたのか、白沢が蘭月の首元から降りてしまい、首元が寂しくなった。

「今起きたの。もう少し待っていてくれるかしら」
「かしこまりました」

 侍女に向かって声をかけると、足音は通り過ぎていった。蘭月が身支度を手伝わせないことがわかっているのだ。

「らんげつ、ぼくのご飯、用意してくれるよね?」

 ぴょんとベッドから飛び降りた白沢が、蘭月を見あげる。少し舌ったらずな少年の声が小さな獅子から聞こえてくるのは、やはり不思議だ。

「もちろんです。白沢さまは、何を召し上がるんです?」
「ぼくはね、甘いものが好き!」
「甘いもの……」

 目をきらきらと輝かせ、白沢が一番に出した食べ物に、蘭月は思わず考え込む。

「念のため聞いておきますが、お肉ではないんですよね」
「お肉はぼくの舌には合わないよ」
「そうなんですね」

 白沢のほうからドヤ、と聞こえた気がした。これだけ自信たっぷりに言われては、これ以上反論できない。どう見ても肉食動物だが、甘いものが好物らしい。

「わかりました。準備してきます。白沢さまはもう少し寝ていても大丈夫ですよ」
「あ~い」

 かわいらしく返事をして、白沢は蘭月の温もりの残ったベッドの上で再度丸くなる。その姿を見てにやけそうになる自分を律しながら、蘭月は鏡台の前に座った。
 空の盆に水をいれると、水のなかには平凡な蘭月の顔が映っている。昨夜は一番見せてはいけない相手にすっぴんを見せてしまった。今からでも自分は蘭月ですと白状してしまおうかと頭によぎったが、頭を振って思考を消す。
 冷たい水で顔を洗い、薔薇ばらの香りをつけた化粧水を肌に浸透させる。そして顔全体に一度薄く白粉おしろいをはたいた。
 これも『美蘭堂』の人気商品で、『月蘭紗げつらんしゃ』という。夜空に輝く月のように肌を自然に明るくする効果と、美しいしゃをかけたように、顔の色むらや凹凸をなくしてくれる効果がある。はたくだけで美人になれるという触れ込みで、人気を集めていた。
 肌が綺麗な人であればこれだけで十分だが、蘭月のあざまでは消えてくれない。あざの上から、肌色のコンシーラーを塗りたくる。厚く塗りすぎると、塗ったところが目立ってしまう。厚すぎず、薄すぎない絶妙な塩梅あんばい。毎日塗っているのに、この工程はいつも気が抜けない。ちょうどいいところで塗るのをやめ、しばらく乾燥させてから、もう一度上から『月蘭紗』をはたいた。これで、土台の完成だ。
 次は目だ。蘭月が好むのは、強い女に見える化粧メイクだ。目尻を跳ねあげ、つり目に見せる。強い目力を求めて、うわまぶたに朱色の陰影をのせる。平凡な顔が、一気に華やかになっていく。最後の仕上げが唇だ。元の唇よりふっくら見せるために、少しはみ出すぐらいに、真っ赤な口紅を大げさに塗る。これが『美蘭堂』の一番人気商品――『紅蘭こうらん』である。しっかり保湿してくれるだけでなく、飲み物を飲んでも色が落ちにくい。鉱石だけでなく染料も使って、従来の口紅より発色が良いのが売りのひとつだった。
 蘭月がよく使っているのは、『紅蘭華』のなかでも深い紅色をした『牡丹紅ぼたんこう』という品だ。牡丹ぼたんのようなあでやかさと上品さを兼ね備える色で、蘭月の一番お気に入りである。塗るだけで、顔色が明るくなり、しゃきっと気持ちが切り替えられるのだ。
 最後に鏡の前で澄ました顔をする。意志の強そうな悪女顔が、こちらをじっと見据えている。満足して、蘭月は立ちあがった。
 食卓へ向かうと、侍女たちが勢揃せいぞろいして蘭月を待っていた。蘭月の訪れに、侍女たちは一斉に頭を下げた。総勢二十名弱の侍女たちの間に、ぴりりとした雰囲気が漂う。
 後宮入りしてから約二か月。蘭月はまだ侍女たちと打ち解けられていなかった。
 侍女たちであっても、すっぴんを見せるわけにはいかない。身の回りの支度を任せることもなければ、寝所に入ることさえも禁止している。蘭月からすれば、自分を守るための行動だが、侍女たちから見たら信頼されていないと捉えられても仕方ない。侍女たちは、蘭月のことを良く思っていないらしい、というのが二か月のなかで知ったことだった。
 本来後宮に来るのは、財力のある良いところのお嬢様だ。蘭月のような平民の出が来るところではない。侍女として雇われるのも、貴族出身など十分な教養のある女性たちであることが多かった。平民から貴族にあがった蘭月に対する嫉妬やねたみの類もあるのだろう。
 侍女たちに良く思われていないのに加えて、蘭月も歩み寄る努力ができていない。それが、今この瞬間に流れる気まずい沈黙の原因だった。
 蘭月は無言のまま食卓につき、目の前に出された朝餉あさげを頬張る。

「蘭月さま。こちらを陛下よりお預かりしております」

 朝餉あさげを食べ終わったとき、ひとりの侍女が蘭月に近づいた。
 蘭月に手渡された文には、陛下直々の文であることを示す玉璽はんこが押してある。
 玉璽はんこを見た瞬間、心臓が止まるかと思った。昨夜のことがまざまざとよみがえってきて、このままつくえに突っ伏したくなる。

「こ、これはいつ届いたのかしら」

 渡された文から視線をあげ、蘭月は冷静を装って侍女にたずねた。

「朝方に青海さまがいらっしゃっておりました」

 青海、とは漣龍の側近だったはずだ。尚書しょうしょとして、後宮を取りまとめる役目を持つ。彼がやってきたということは、この文は本物なのだろう。
 見る勇気が出ずに、裏表にと文をひっくり返す。書いてあることに、おおよその予想はついていた。
 邪気払いの宴の件か、華月の件か。
 華月の件については、こんなに早く動くはずがないと、選択肢を頭のなかで排除する。残るは、邪気払いの宴についてだ。

(こんなに嬉しくない皇帝からの文があるのね)

 蘭月は思わずため息をついた。それでも、後宮妃である蘭月にとって、漣龍の意志は絶対だ。ひらかないという選択肢はない。意を決して文をひらく。
 誰かの代筆だろうか。存外に綺麗な字が並んでいた。ゆっくりと文字を読み込む。一度読んだだけでは理解できず、もう一度読み直す。それでも理解が追いつかない。

(宴については、ひとつも触れられてない?)

 書いてあるのは、昨夜会ったについてだった。伝えたいことがあるから、会いに来て欲しいとだけ書かれている。侍女の主への依頼だ。

(こんなに早急に動くなんて、漣龍さまは白沢さまのことを重要視しているのかしら)

 瑞獣ずいじゅうである白沢のことを考えると、急いで動くべきだということは理解できる。とはいえ、華月として漣龍の御前に出なければいけないのは気が重かった。


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