大好きだけど

根鳥 泰造

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第一話 蜘蛛の糸見つけた

手は糊塗れ 蛇口の水温し

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 今日は水曜日なので、便利屋昴の定休日だ。

 磯川は今時、週みが一日しかないなんて、ブラックだと言っているが、本来は、日曜日も休みの週休二日制だった。人探し業務に範囲を広げて、急に忙しくなってしまい、日曜日に休めなくなっただけだ。
 日曜に営業することになっても、未来は、「私は嫌。日曜は裕ちゃんが私の代わりに入ればいいでしょう」と、主張し、未だに、水曜日と日曜日と週休二日を守っている。
 安が一人前になったら、交代で土日を休んで、週休二日制に戻してもいいとは考えているが、磯川に関しては、そうもいかない。
 裕子があんな目にあった根幹にある事件の調査を再開させたいからだ。
 あの事件には、きっと国家の闇が絡んでいる。
 磯川も、その所為で警察をやめざるを得なくされたのだし、この事件の真相を暴くまでは、ブラックと言われようが、頑張ってもらうしかない。
 まあ、一番手間の掛かる、バス路線の自動乗降停留所検索に関しては、簡単にできそうなアイデアを思いついたので、それで自動検索するソフトの製作して、負担を少し低減させるつもりだ。その程度で許してもらいたい。

 そもそも、六十四歳の老体の私が、磯川以上に頑張ってるのだから、文句を言うなと言いたい。
 まあ、肉体的は四十二歳なので、無理できる身体ではあるが、昨晩も、新ソフト開発や、裕子サービスとこき使われ、休みの今日ですら、予定がびっしりで、のんびり休ませてもらえない。
 私の人生設計では、悠々自適なのんびりライフを満喫しているはずだったのに、裕子の所為でこうなった。

 私は本田技研にて長年働いていたが、経営陣にはなれず、会社は私の為に、子会社の取締役の天下りポストを設けてくれた。だが、私はエンジニアとしての人生は、これで終わりにして、第二の人生として、妻と二人で自由気ままに生きて見たかった。
 妻も私の気持ちを理解してくれ、天下りせずに、六十歳で定年を迎え、きっぱりと過去の経歴から決別した。
 そして、長男も就職し、妻との二人暮らしを始め、油絵や小説、料理といった創作活動を始めた矢先の夏、妻の交通事故。いっそ死んでしまおうかとすら、思ったほどだ。
 そして、一周忌の直ぐ後、長男が結婚すると言い出して、その紹介の宴席で、神谷裕子と出会った。
 その容姿や服装からは想像もつかない程の、嫌味で高慢な女で、前半は水面下でバチバチと激しいやり取りをして来て、後半はあからさまにこけおろし。
「それほどの経歴をあっさり捨てるなんて馬鹿だ」とか「今までの努力や経験を生かさないのはこの世界への奉仕の義務を怠っている」と私の人生設計を全否定し、「人はどんなに齢をとっても、手足が動く限り働かなきゃならないの」と説教までした。
 本当にむかつく女だったが、その帰りに、意味深なメモを渡して来た。「二人きりで会いたい」という言葉と、携帯番号が書いてあった。
 その後、紆余曲折あったが、気づけば、そんな飛んでもない女を好きになり、便利屋昴の所長なんかをさせられることになった。好きに小説を書いて過ごせばいいという話だったのに、未来を私の様子を探らせるスパイとして送り込み、常に行動を監視させていた抜け目のない女だ。
 それでも、私は裕子が大好きだし、何でも許せてしまう。四十歳で通用する容姿もそうだが、優れた人心掌握術を生まれ持っている女なのだ。
 そんな訳で、今じゃ、裕子の尻に敷かれ、彼女が思い描いたように、こき使われている。
 油絵や小説、料理といった趣味は一切する時間もなく、日々、精神的にはも肉体的にもボロボロになるほど、働かせられてると言う訳だ。

 水曜の午後の自由時間だけが、私が趣味に没頭し、リフレッシュできる時間だったのに、今日はその時間も、ガレージダクトの修理工事で休めそうもない。

 実は、昨晩、いつも激しい裕子が、声を必死に我慢ていたので、訊いてみたら、「安君の所に、私達の声が漏れているかもしれないから」と言ってきた。
「そんなことあり得ない」と言ったら、いつもの裕子に戻っていたが、冷静に考えると、全館空調のダクトが、車庫のところには集中している。
 配管は断熱用カバーで覆われているので、音は減衰するはずだが、音が漏れないとは言い切れない。
 安が来たのは、二週間前の火曜日だったので、もし本当に聞こえるとすると、昨晩を含めて三回も、変な声を聞かせてしまった事になる。
 そんな訳で、本当に声が漏れているかを確認し、漏れているのなら、それを修理しなければならないという訳だ。

 正直、安にはガレージを早く出て、ちゃんと屋内の部屋のセミダブルのベッドで寝させてやりたいと思っている。
 今まで、彼を観察してきたが、確かに信用できる真面目で優秀な男だ。
 仕事を学ぼうと、一生懸命なのが伝わるし、よく気が付くし、察しもいい。
 中卒なので教養は無いかもしれないが、裕子が言う様に、頭がかなりいいのは確かだ。
 まだ、完全に信用した訳ではないが、屋内で寝泊まりしてもらって構わないとは思っている。
 だが、引くに引けない男の意地。安には、腕相撲で勝って、堂々と、車庫を出て行ってほしい。

 その腕相撲の再戦が、間もなく予定されている。
 あれから、一度も挑戦してこなかったが、今朝の朝食時、彼から、再戦希望を伝えてきた。
 磯川と裕子が、何やら秘策を伝授したらしい。おそらく、トップロール・フック・サイドアタックと呼ばれる、相手に力を発揮できないようにするテクニックだ。
 自分で腕相撲を言いだすぐらいだから、当然、腕相撲は研究しているし、習得できているとは言い難いが、素人相手なら、それなりに出せる。
 ただ、磯川の時も安の時も、それは使っていない。
 今日も使うつもりはない。負けてやる気はないが、相手に負かせてもらいたい気持ちがあって、腕相撲を言いだすのだから。

 磯川が、組み合った手を確認し、ゴーと言ったとたん、一気に身体が持っていかれた。
 やはり、トップロールできた。だが、少し力が足りなかったみたいだ。
「安さん、頑張って」
「安、体重を乗せろ。もう少しだ」
「嘘。そんなぁ」
 テクニックだけじゃなく、僅か二週間で、筋力も見違える程アップした。
 でも、まだ敵じゃない。
「残念だったな。かなり強くなった。でも、鍛え直して、出直してこい」
 安は、最初の時と違い、露骨に悔しさを顔にだすようになった。
 もう、すっかり、うちの家族だ。

 そのあと、皆で掃除、洗濯、布団干しと、てきぱきと熟し、各人の自由時間が始まる。
 だが、私は、今日、ダクトの修理が待っている。
 先ずは、本当に声が聞こえるかの確認だ。
 私と裕子は、トランシーバ持参で、私達の部屋と車庫とに分かれて、待機する。

「じゃあ、普通の声で、なんか言ってみて。どうぞ」
 つい昔の癖で、プッシュ切替でもないのに、「どうぞ」という言葉をつけてしまう。
 昔の無線機は片道通話だったので、相手に会話を促す前に、必ず、どうぞという仕来たりになっていた。その癖が未だに抜けないのだ。
「なんで負けて上げないのよ」トランシーバーから聞こえきて、そのあと、「聞こえた?」と訊いてきた。
 本当に裕子の天然ボケは愉快だ。
 裕子は、俺の娘の夕実を天然だと馬鹿にするが、私に言わせれば、裕子も、彼女の娘の来夢らいむも、十分天然だ。
 昨晩もそうだ。
 普段は、終わると意識朦朧として、もう一人の裕子が現れ、暫く裕子の本当の気持ち等を教えてもらうのだが、この日は、自分の意識を保っていたので、「たまには自分の部屋に帰れよ」と追い返した。
 だが、ネグリジェを着て、ガウンを羽織って出て行ったと思ったら、「パンツを穿きわすれちゃった」と戻って来た。
 ペロッと舌を出して、可愛い振りをして誤魔化してきた。
 その齢なんだから、やめろと注意したいが、つい可愛いと思ってしまう。
 私も大概で、裕子に毒されている。

「回線切らないと、丸聞こえだから。それじゃ、わからない」
「御免。もう一度」
 今度は、何か聞こえたような気はするが、聞き取れず、呼び出し音がして「聞こえた」と訊いてきた。
「普通の声じゃ聞こえない。悶え声の大きさで話して」
「そんなの判んないよ」
「適当なボリュームで」
『早漏になるのはいや』と聞こえた気がするが、はっきりとは聞き取れない。
 そのあと、なんどもトライして、音がするのは、ダクトそのものではなく、ダクトメンテ用の蓋の所からで、しかも高音域の周波数だと、蓋が共振してよく聞こえる事が分かった。
 試しに、悶え声をあげてもらうと、丁度周波数が一致するのか、よく聞こえる。
 本当に、安には悪いことをした。
 因みに、耳を蓋に当てると、変な低周波音が強くて、逆に聞こえないのも確認できた。

 さすがにメンテの蓋を、防音シートで覆う事はできないので、蓋の内側にスポンジを張り付けて、蓋の部分にゴムを挟んで、共振しないようにして、対策した。
 早速、確認してみたが、かなり大きい声なら聞こえるが、おそらく裕子の悶え声程度なら聞こえないはずだ。

 車庫にやってきた裕子に、「これで声を出しても大丈夫」と言うと、喜ぶと思ってたのに、「昨日も聞こえてたよね。安君にどうやって謝ろう」と逆に悲しそうな顔をした。
「そんなの気にしてないよ。きっと。無視してればいい」
「そうよね。謝る方が変よね」
 また元気な裕子に戻った。
 でも、スポンジを張るのに使った接着剤をひっくり返し、どうしようと慌てて、滑って転び、接着剤塗れに。
 やはり、天然じゃないかと言いたかったが、先日、私も失敗したので、やめておいた。
 疲れていたこともあるのだが、深夜帰宅して、ラップに気づかず、お茶漬けの素を御飯に振りかけようとしたのだ。
 誰もいなかったから、良かったが、大笑いされるところだった。

 そういう訳で、天然というより、ちょっとした失敗で、誰にでもあることだと言いたいだけだ。

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