女神の左手

根鳥 泰造

文字の大きさ
上 下
11 / 11

8月14日 8:30

しおりを挟む
 あの事件発生から十日が経っていた。
 朝、刑事部屋に出勤すると、何故か阿川が居て、課長と話をしていた。
「高原、木村の殺人罪での起訴が決まったらしい」
 高原は、鞄を自分の机に置いて、課長の手招きに従い、窓際席に向った。
「おはよう高原さん。今日の午前中、私と付き合ってくれないかしら」
「どうせ、お前、暇だろ」
「分りました。東田端のウカンムリの件(窃盗事件)があるけど、午前中だけなら」
「チホアさんと水谷さんの所に付き合ってほしいの」
 阿川はあの笑顔でにっこり微笑んだので、高原も悪い気はしなかった。

 滝野川病院に徒歩で向いながら、高原は疑問を口にした。
「事件が終わったのに、まだ何か調べてるんですか?」
「調べものじゃない。関わった事件の後片付け。貴方は犯人を起訴したら、それで終わりと考えてるでしょう。そう言う人が大半だけど、私は関わった人に、きちんとフォローするまで終わりじゃないと思てるの」
 フォローなんて考えたことが無かったが、事件の真相を話すつもりなのだろうと理解した。

 チホアの病室につくと、彼女は退院の準備をしていた。そう言えば、もうすぐ退院と言っていたのをすっかり忘れていた。
「あっ、刑事さん。いろいろ、有難と御座いました」
「大した事してないわ。こちらこそ、大切なお兄さんを、日本の地で、日本人により亡くさせてしまった事、改めてお詫びします。ベトナムに帰っても、きちんと生きて下さいね」
「はい。日本への入国許可、下りる、なったら、また来たいです」
「そう言ってくれると嬉しい。でも、日本のビザはなかなか許可されないから、ベトナムの地に足を付けて生きていく方が良いと思う」
「そうですか。わかりました。でも、いつか、来たいです」
 彼女は、明るく笑って見せた。
「何時に、迎えに来ることになってるの?」
「十時半。本当に、有難と御座いました。お礼、言う、いいですか」
「最後まで見送りしたかったけど、その時間じゃ無理ね。じゃあ、私達、失礼するわね」
「本当に、有難と御座いました」
 彼女は、何度も丁寧に頭を下げていた。

 病室を出てから話を聞くと、あの後、事故保険の交渉にも買って出て、病院の入院費等、全て保険会社が負担し、彼女も少額ながら慰謝料を手に出来る様に、手配したらしい。
 それだけでなく、入国管理局にも働きかけ、彼女が入管に逮捕されず済む様に手配したと言う。
 チホアはオーバーステイによる不法滞在者なので、出国命令制度の適用が可能で、出国しますと彼女自ら申告すれば、逮捕されずに出国でき、かつ、罰則の入国禁止年数も軽減するらしい。
 なんで、そんな面倒な事までしたのかと、高原には理解できなかったが、これが彼女の言うフォローと言うものらしい。

 そして、その足で、今度は水谷美咲のアパートを訪れた。
 玄関を開けた彼女はスッピンだったが、本当に美人だ。
「刑事さん、なんの用事でしょう」
「今日は木村を起訴しましたので、その報告に来ました」
「そんなのどうでもいいです」
「ですが、誤解したままでは、いけないと思い説明に来ました」
「誤解ですか?」
「申し訳ありませんが、中でお話しさせて頂けないですか?」
 そういって、部屋に入れさせもらい、ダイニングテーブルに腰掛けた。
 彼女は「お構いなく」の言葉を無視し、冷蔵庫から麦茶を出してくれた。
 阿川は恐れ入りますと、そのお茶を一口飲んで、バックから、赤い折鶴を取り出し、彼女に差し出した。
「この折鶴に見覚え有りますよね。チェットさんの所持品としてリュックサックのポケットに入ってました。これは、貴女が折ったものですね」
 水谷美咲は、その鶴を手にすることなく、眺めて確認し回答してきた。
「ええ、千羽鶴の話をしたら、彼が教えてくれと言ってきて、折り方を教えました。これは、その時に見本として折ったものです」
 チホアの病室にあった千羽鶴は彼が折ったものだったのかと理解した。
「彼のバックの中味は、生活必需品ばかりなのに、唯一、これだけは別でした。最初は、彼が何故こんなものを大切にしていたのか理解ができませんでした。でも、貴女と言う存在が浮かんできて、その意味が理解できました。彼は、この折り紙を宝物だと思っていたんです。彼にとって、これは貴女との大切な思い出なんです」
 彼女はその鶴を手に取って、胸で抱きしめるようにして目を潤ませた。
「それから、木村大吾の取調べで、色々と判ってきました。彼が貴女を助けた時の状況も木村から聞きました。貴女の以前のお仕事が切っ掛けだったんですね。以前のお仕事を辞められたのは何時だったんですか?」
「五月中頃です。正規採用の通知を受け取って辞めました」
「そうですか。ありがとうございます。で、これからが貴女が誤解していると思っている点についてです。チェットさんが貴女の事を避けるようになった理由を、以前の証言では、お金に困って犯罪の手伝いをして、貴女に迷惑が掛からない様に考えたのではないかと証言しましたよね。本当にそう思っていたんですか? 違いますよね」
 水谷はじっと黙り込んだまま、頷きも首を横に振る仕草もしなかった。
「確かに、木村はレストランで貴女にそう話したかもしれないと証言しました。でも、貴女はチェットさんに自分の過去を知られるのを恐れていたそうですね。その脅迫が利いたと話していました。本当は、彼が貴女の過去を知って、嫌われたと思われたんじゃないですか?」
 水谷は観念したように、コクリと頷いた。
「正直、不思議だったんです。彼は罪を犯す様な人では無い。なのになぜ、木村のそんな嘘を真に受けたのだろうって。やはり、そう思っていたんですね。ですがそれは誤解です。木村はあの後も、何度も貴方を襲おうと、待ち伏せしていました。ですが、チェットさんは、貴女のお迎えに行く前に、事前見回りをしていました。妹さんの面会の後、約二時間を公園で過し、それから、貴女のアパートから職場までの道を、木村が待ち伏せしていないか見て回って、貴女が木村と出くわさない様に対処していました。別れた後も、ずっとその見回りは続けていました。あなたが、木村に会わずに、安全に帰宅できていたのは、彼のお蔭です。そんなことするのは、貴女を大切な人と思っているからです。彼は、ずっとあなたを愛し続けていたんです」
「じゃあ、やっぱり……」
「いいえ、彼は一切の犯罪行為に手を貸してません。木村は二回目の待ち伏せを妨害された時、彼に、貴女の秘密を話していました。そして、口にするのも憚られる悪口を彼に話したそうです。でもチェットさんは『それが何だ。彼女に付きまとうな』と木村を睨みつけて威嚇したそうです。貴女と別れる十日以上前のことです。貴女の過去を知っても、知らない振りをして、そのままお付き合いを続けていたのです」
「じゃあ、何で? 何で彼は私に冷たくしたんですか?」
「そのお話をする前に、木村の待ち伏せを妨害し始めた頃の出来事から話させてください」
 彼女はコクリと頷いた。
「貴女達が付き合い始めて直ぐの頃たと思いますが、二人で仲良く楽しそうに話をしながら帰って行く姿を見かけたそうです。それが無性に嫌だったと木村は話しています。だから、最初にチェットさんに妨害された時、『入国管理局に言いつけて強制送還してやる』と言ったそうです。彼は留学生ビザですが、資格外活動許可を取得していたので、『不法就労ではありません』と言ったそうです。まぁ、一日八時間就労しているので違法なんですがね。それで木村は作戦を変え、彼に貴女のことを幻滅させ、別れさせるようにしたのです。でも、それも効果が無かった。そんな時、偶然、滝野川病院で、チェットさん姿を見かけます。彼の後をつけ、妹がいるのを知った木村は、この妹は不法滞在に間違いないと確信したのだそうです」
「チホアさんの為だったんですか」
「ええ、入院中の彼女が逮捕され強制送還される事はありませんが、それを知らない彼は、脅迫に屈するしかなかった。それが、急にあなたを避ける様になった本当の理由です。彼は貴女の事をずっと愛し続けていました」
「一言、話してくれれば……」
「そうですね。でも、その優しさが彼なんじゃないですか?」
「でも……」
「最後に、彼が何故木村に刺される事になったのかを話しておきます。貴女と別れると決めてから、仕事が休みの週末は、飛鳥山公園の平和の女神像の前で時間を過すようになります。あの女神像、ご覧になった事が有りますか? 長崎の平和祈念像の作者、北村西望が、平和への祈りを込めて作ったものです」
「ごめんなさい。飛鳥山公園には良く行くんですが……」
「今度、良くご覧になって下さい。その女神が貴女と少し似ているんです。彼の気持ちは今となっては知る由も有りませんが、貴女に逢えない悲しさを、あの女神を眺め、楽しかった日を思い出しながら、紛らせていたのだと思います。そして、夜になると、事前見回りをして、貴女の退社を待つ。貴女のシフトを知っていた訳でもないので、何時に退社するかも知らないのに、彼は毎日十時から貴方の帰りを北とぴあの広場で待ち続けていました。七月二十八日、木村に迫られて走って逃げたと言ってましたよね。その日、貴女は残業を頼まれて、零時上がりになった。事前見回りから随分時間が経過していたので、あんなことになりました。そして、木村が追いかけてこなかったのは、チェットが木村を捕まえて、説教をしたからです。酔っぱらっていて頭に来ていた木村は、貴女の職場の皆に過去の事を話し、辞めざるを得なくしてやると彼に話したそうです。すると、チェットさんは、『そんなことをしたら殺します』と彼を拳固でなぐったそうです。温厚で大らかで絶対喧嘩なんかしない人柄だそうなのに、彼は木村を殴った。どんなことをしてでもあなたを守りたかったからに違いありません。それほど、彼は貴女を愛していました」
 ずっと涙を我慢していた水谷だったが、目から涙がこぼれ落ちた。
「そして、あの台風の日も、貴女が既に帰宅しているとは知らずに、彼は北とぴあの広場で貴女を待ち続けていました。暴風雨の中、雨合羽を着て、閉店の零時過ぎまで、外で待ち続けていました。それを木村が見かけた。殴られた事を恨んでいた木村は、今なら誰も目撃者がいないので、殺人を決行すると決めたと言う事でした。そして、チェットさんが諦めて建設現場に帰ろうとして、防犯カメラのない位置まで来たのを確認し、木村はチェットさんに近付き、振り向いた彼のお腹を二度も刺しました。腹部大動脈損傷による重症で、激しい雨で、現場の血は洗い流されていましたが、それでも犯行現場を特定できる程の出血量でした。苦しくて、目も眩んでいたはずです。なのに彼は、飛鳥山を登って行きます。彼が、発見された時の事は、ご存じないですよね」
 水谷は、涙をポロポロと溢しながら、そっと頷いた。
「あの平和の女神像の前で、左手を女神に向かって真っ直ぐ付き出すようにして、亡くなっていました。きっと、貴女に逢いたくて、その代わりに女神像に会いに行ったのだと私は考えています。女神像のポーズの意味は知りませんが、北村西望作なので、左手をまっすぐに伸ばしたポーズは、平和を求める願いを意味している様な気がします。くしくも彼もその格好でなくなっていました。単に偶然の様な気がしますが、貴女に何事もなく平穏な日々が過ごせますようにと思いながら死んでいったのではないでしょうか。その思いが、左手をまっすぐに伸ばした姿勢を取らせた。そんな風に解釈しています」
 阿川は、そこまでいうと、立ち上がった。
「彼は貴女を純粋に愛し、そして、貴女の幸せと平穏な日々を願って亡くなった。その事を伝えたくて、今日、ここにきました。これで失礼しますが、もう、二度と命や身体を粗末にする様な真似はしないで下さい。貴女は彼が望んだ平和の女神なんですから」
 声まで出して泣き出した彼女を一人残して、阿川玲美は「失礼しました」とさっさと部屋を出て行った。
 正直、阿川玲美の言うフャローは、高原には理解できなかった。
「今日は、付き合ってくれて、有難う。これで戻るから、課長さんに宜しく伝えておいて下さい。それから、もし今度一緒に捜査することになったら、その時は、一緒にお酒を飲みましょう。貴方にはいろいろと話しておきたいことがあるから」
 そういって、彼女は滝野川署の駐車場に放置してあった車に乗り込んで帰って行った。
 それを見送りながら、こんなことだけなら、俺が付き合う必要もなかったじゃないかと思いつつも、にっこりとほほ笑み、また一緒に仕事をしてもいいかなと、考え直した。
 そして、高原は元気よく、階段を駆け上がって行くのだった。
                             (了)
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...