女神の左手

根鳥 泰造

文字の大きさ
上 下
5 / 11

8月5日 15:00

しおりを挟む
 彼女に会いにアパートに行くと、留守だった。
 仕事に行った可能性もあるので、もう一度、シャブ葉に戻る選択肢もあるが、先に周辺住人への聞き込みに当った。
 すると、何人かから、チェットの目撃情報が得られた。このアパートの前に、一人でぼうっと立っていたと言う。だが、水谷美咲と一緒の所を目撃したという証言は得られなかった。
 同時に、彼女についても分って来た。
 最近は、午前中は化粧もしないで家にいるらしいが、二か月前までは、高級バックを次々と買い換えて、厚化粧して派手な衣装で不規則に出かけていたらしい。水商売かと思ったが、夜は家にいたらしく、風俗勤めじゃないかとの噂もあった。今は、質素な恰好で外出し、夜遅くまで働いているらしいが、現在の職に就く前は、怪しいアルバイトで生計を立てていたらしい。

 三人は、水谷がシャブ葉に出勤している事を電話で確認してから、店に向かった。
 店長に呼出してもらって現れた水谷は、ナチュラルメイクだが、写真以上に美しかった。
 鼻の下を伸ばす高原と宗像を尻目に、阿川は質問を始めた。
「この人を御存知ですね」
「いえ、知りません。初めて見た人です」
 意外な回答に、刑事三人は顔を見合わせる。
「醸造試験場跡地公園で、二人で一緒に居るのを目撃した人がいます」
「そんなことを言われても、この人の事は知りません。この人、どんな犯罪をした人なんですか?」
「犯罪ではなく、昨日の早朝に、遺体で発見されました」
 彼女の表情が見る見る青ざめるのが、誰の目にも明らかだった。
「やはり、あなたと付き合っていたのですね」
 彼女は、暫くぼうっとして、質問が耳に届いていない様子だ。
「水谷さん、チェットさんを御存知ですね。本当の事を話して下さい」
 阿川の強めの口調に、水谷は、はっと我に返ったように驚いて、もう一度、「本当に知りません」と否定した。
 彼女が頑なに知らないと主張する理由は、誰も推察できなかった。
「では、八月三日金曜日、台風直撃の日ですが、深夜零時頃、何をしていたのか、教えて頂けますか?」
「その日は、台風が直撃すると分っていたので、店長に朝十時から夕方六時までのシフトにしてもらい、七時前には家に戻って、それからはずっと家にいました」
「二十二時以降、家にいた証明をできる人はいませんか」
「私一人で、電話もしなかったので、アリバイはありません」
 阿川は、こっちに顔を向け、他に何か質問はあるかと、アイコンタクトしてきた。
 そこで、高原は左利きかの確認をすることにした。
「申し訳ありません。念のため連絡を取らせていただくかもしれませんので、ここに貴女の携帯の電話番号を書いて頂けませんか」
 彼女は素直に承認して、右手で携帯番号を書いた。
「では、今日のところは、これで失礼しますが、何か思い出しましたら、ここに電話してください」
 阿川はそういって、名刺を彼女に渡して外に出た。

「彼女は、犯人じゃないわよ」
「わかってますよ。念のためです」
 すると、彼女の部下の刑事が店から飛び出し、走って追っかけて来て、彼女に耳打ちした。
「そう。やっぱりね。もうちょっと前に教えてくれてたら、彼女に直接確認したのに」
 その刑事は、すみませんと頭を下げた。
「高原さん、やはりビンゴでした。店長の溝口と水谷美咲は不倫関係にあったようです」
 彼女の予言通りだったことに脱帽し、何も言えなかった。
「永嶋くん、悪いけど、もうちょっと裏を取ってくれる。明日、任同してもらい、話を聞くつもりだから」
 その刑事は、「分りました」と急いで走り去って行った。
「今日は、早いけど、この辺で署に戻って、管理官と相談しましょう」
 彼女は、そう言って歩き出したが、平和祈念像が目に入ったようで、「本当にミニチュア、小さい」とはしゃいでから、滝野川署に戻った。

 管理官は、早くも容疑署が見つかり、機嫌は良かったが「直ぐに、重要参考人として出頭させ、話を訊け」と、阿川に指示を出した。
 彼女は、まだ情報収集不足だと言わんばかりに渋い顔をしたが、柿沢管理官命令なので、部下に、渋々電話を掛けていた。
 真犯人でもない男の事情聴取とはお気の毒さまだが、今日の御守は、これで終りでいいな。
 高原は、勝手にそう判断し、彼の妹、グエン・チ・ホアに、話を聞きに、病院に向かった。

しおりを挟む

処理中です...