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第五章 フィオレンツァは王宮に舞い戻る。そして…

03 王妃の誤算

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 グラフィーラ王妃は焦っていた。
 「竜の道」という裏技を危険を冒して使い、アレクシスたちを本館に呼び寄せたというのに、今回の計画の肝となるはずだった人物の行方がつかめなくなってしまったからだ。この国の王太子妃になれるというお膳立てをしてやっているのだから、まさか直前になって勝手に姿を消すとは思わなかった。手駒が少なくなっていたとはいえ、監視くらいつけるべきだったと悔やむ。

 「イリーナは一体どこに行ったの!?必ず謁見の間まで来るように言ったはずよ!!」
 「申し訳ございません、王妃様。…しかし、どうやら本館にはいらっしゃらないようなのです」
 「あのバカ娘…人の苦労を何だと思っているのよ」



 グラフィーラ・バザロヴァ・ルーズヴェルトは、バザロヴァ王国の第二王女だった。
 彼女の父である当時のバザロヴァ国王は好色で、正妃の他に側妃や妾が多くいた。グラフィーラの母も六人いた側妃のうちの一人だ。正妃は側妃や妾を容認し、決して虐げることはなかった。なぜなら正妃は第一王子を含める三人の王子と一人の王女を誰よりも早く生んでおり、その地位は揺らぎようがなかったのだ。
 グラフィーラの母は侯爵家の出身で、側妃の中では一番身分が高く、グラフィーラは王宮での生活については不自由したことがない。しかし何かあれば常に正妃の子が優遇され、母ともども悔しい思いをしていた。
 母が正妃だったのなら…。
 自分が正妃の子だったなら…。
 王女として生まれたにも関わらず、常にグラフィーラは身分に対するコンプレックスを抱いていた。

 やがて10歳になった年、グラフィーラの婚約が決まった。山を隔てた隣国、ルーズヴェルト王国の王太子の婚約者として名が挙がったのだ。
 バザロヴァ王国には正妃が生んだ第一王女がいたが、彼女は年齢が合わないことを理由に拒否していた。姉王女は何かの式典で会ったことのあるガドフリー王太子を「真面目だけが取り柄のつまらない男だ」と評していた。
 グラフィーラは呆れ果てた。真面目の何がいけないというのだろう。
 父王のように60を優に過ぎているというのに手当たり次第に女に手を出したり、兄王子のように公務を放り出して遊び惚けるよりはずっとましではないか。まあ姉王女は随分と奔放にふるまい、すでに純潔を失っているようなので、他国に嫁いだとして祖国の恥をさらすことになっていたことだろう。
 かくしてグラフィーラは16歳で20歳のガドフリー王太子に嫁ぐことになったのだが、この政略結婚は意外に穏やかにスタートした。ガドフリーは思いのほか美形(数多くの美男を食い散らかした姉にはそれでも物足りなかったらしい)だったし、ガドフリーも義母にあたる王太后も幼くして他国から嫁いできたグラフィーラに親切だった。グラフィーラは結婚一年目で早くも妊娠し、18歳で国王直系の男児を生むという大役を果たした。
 そしてガドフリーの父王が退位し、グラフィーラはとうとう王妃の地位に上り詰めたのだった。

 しかしあまりにうまく行き過ぎた彼女の半生も、ここにきて翳りを見せ始めた。
 第一王子を生んだことで彼女の地位は不動のものになったかのように思われたが、何とこのタイミングでガドフリーに側妃を迎えるべきだという声が相次いだのだ。グラフィーラが嫁いだばかりの時は妊娠するようにプレッシャーをかけ、妊娠すれば男児を産めとプレッシャーをかけ、そして望み通り健康な男児を生んだというのに…!
 一部の貴族は、いざグラフィーラが王子を産んだら怯んだのだ…この王子がいずれ国王になれば、バザロヴァ王国が政治に介入してくるのではないかと。その可能性は無論ありうる話ではあったが、婚約の段階ですでに審議され、懸念を払しょくするためのいくつかの条約は交わされていた。しかしそのことを知ろうともしない無知な一部貴族は、グラフィーラをけん制しようとルーズヴェルト王国の令嬢を側妃にと騒いだのだ。
 グラフィーラは失望した。…この国の貴族は、なんて馬鹿なんだろう。

 そうして側妃としてやってきた一人の邪悪な女。
 彼女の存在と振る舞いが、グラフィーラのこの国の貴族に対する不信感をさらに募らせていった。




 「王妃様、見つかりました!…イリーナ様がいらっしゃいました!」
 「…遅いわよ!!」
 過去に思いを馳せていたグラフィーラ王妃は、報告に来た自分の女官をつい怒鳴りつけてしまった。やがて扉が開き、黒服の従者にエスコートされたイリーナ公女が現れる。

 「イリーナ…」
 「おば様、ごきげんよう。私をお探しと聞きましたが…」
 イリーナ公女は悠然とほほ笑む。グラフィーラ同様ピンクブロンドの髪に薄緑色の瞳。瞳と同じ色のドレスをまとった彼女は、確かに王族に連なる気品を持つ姫君だった。
 「イリーナ、どこに行っていたの?」
 「南の庭園を散歩させていただいておりましたわ。おば様がいつでも見に行っていいと仰せでしたので」
 「…」
 言った。確かに言った。しかし、それは自分との約束を果たしてからの話だ。
 「12時に謁見の間に来るように言っておいたでしょう!どうして来なかったよ!?アレクシスはもう家族と一緒に部屋に下がってしまったわ」
 今日イリーナに引き合わせるつもりだったからこそ、アレクシス一行に手を出さずに王宮に招き入れたのだ。とにかく人目に付かずに本館に誘い込むことを優先したのもあるが、その先の作戦を前にアレクシスたちを油断させたかった。
 それがイリーナの勝手な行動のせいで全ておじゃんになってしまったのだ。
 「あらあら…それは申し訳ないことを致しましたわ。未来の旦那様にご挨拶しそびれましたわね」
 イリーナ公女はのほほんとそうのたまった。
 グラフィーラ王妃の目尻がどんどん吊り上がる。
 「あなた…!本当にアレクシスの妃になる気があるの!!?」
 「ええ。もちろんそのつもりで参りましたわ。祖国の陛下にもそのように命じられておりますし」

 あれほどの事件を起こし、まして子を成せないユージーンは廃嫡するしかなくなってしまった。そしてこのままでは、ユージーンが起こした問題の責をガドフリー国王とグラフィーラ王妃は負うことになる。アレクシスが立太子すれば、自分たちを疎ましがっているルーズヴェルト王国貴族から一年と経たずに退位を迫られることだろう。
 だがガドフリー国王もグラフィーラ王妃もまだ50代に差し掛かったばかりだ。華やかな表舞台から駆逐され、王宮の奥に押し込められるのは我慢ならなかった。
 だから考えたのだ…次の王太子妃もバザロヴァ王国の姫にすればいいと。バザロヴァ王国は現在経済的にも軍事的にもとても景気がいい。グラフィーラ王妃が嫁いできたときとは情勢が違う…ルーズヴェルト王国にとってはあまり刺激したくない隣国になっていた。輸出入品の関税などで優遇すればバザロヴァ王国もグラフィーラ王妃の後ろ盾になってくれるだろうし、ルーズヴェルト王国にさらに楔を打ち込むことになる婚姻に否やはないはずだ。現在バザロヴァ王になっている異母兄に事情を綴った手紙を送れば、こうして従兄妹姪のイリーナ公女を送り込んでくれた。アレクシスとははとこ同士になるが、血が近すぎるということもない…子供も成せるはずだ。
 もはやグラフィーラ王妃の行為は嫁ぎ先の国を祖国に売ろうとしていることに等しいのだが、この国の貴族たちに苦渋を舐めさせられたことを恨みに思っている彼女に罪悪感などなかった。
 
 「お許しくださいませ、おば様。南の庭があまりに綺麗で時間を忘れてしまいましたの。次はうまくやりますので」
 桜色の唇でそう言うイリーナ公女に、はいそうですかと頷くほどグラフィーラ王妃も暢気ではなかった。
 「明日の早朝、アレクシスを呼び出すわ。それまで監視をつけさせてもらうわよ」
 「ええ、かまいませんわ」
 「その従者は別室で待機しなさい。…いいわね?」
 「ご命令に従いますわ」
 監禁するぞと言っているようなものだが、イリーナ公女は動じるどころかころころと笑っている。グラフィーラ王妃は初めて不気味なものを彼女に感じた。
 「ところでおば様…。聞き忘れていたのですが」
 「…何かしら?」
 「アレクシス様には奥様がいらっしゃるのでしょう?フィオレンツァ夫人でしたかしら?」
 「ええ。貧乏伯爵家の娘よ」
 「私がアレクシス様の正妃になったら、フィオレンツァ夫人はどうなるのですか?」
 「あなたが考えなくていいことよ」
 「いいえ、是非お教えくださいませ。…不安なのです。フィオレンツァ夫人のことを思うと」
 イリーナ公女はそっと胸に手を当てた。儚げな表情は、アレクシスの隣に妻として居座る女からの悪意に怯えているのか。その時グラフィーラ王妃の脳裏に過ったのは、ガドフリー国王の側妃ヘロイーズだった。

 ハーヴィーの姉を含む側妃候補の令嬢たちを陥れ、自らが女王だと言わんばかりに王宮に乗り込んできた、身の程知らずの女。グラフィーラ王妃は自分が清廉潔白だとはさすがに思ったことはない。しかしそんなグラフィーラ王妃から見ても、ヘロイーズ妃はあまりに邪悪だった。ガドフリー国王も最初は彼女を諫めていたが、かえって彼女を刺激して当時は幼かったユージーンを危険にさらすと気づいてからは、王宮での行動を制限するのが精一杯だった。
 幾度となく暗殺者を差し向けられ、食事もいちいち毒見役なしではできなくなり、巻き込まれた使用人たちは命を落とした。にも拘わらず、彼女は彼女を推したルーズヴェルト王国の貴族たちに守られ続け、横暴の限りを尽くし、ヘイスティングズのような無能な息子を作った。
 フィオレンツァはどうだろうか。
 いいや、決まっている。彼女もルーズヴェルト王国の貴族なのだ。悪意のなさそうな顔をしているが、きっと側妃という立場に満足せず、テルフォード女公爵やバーンスタイン伯爵夫人を味方につけてこちらに牙をむくことだろう。

 「フィオレンツァは始末するわ」

 はっきり言いきったグラフィーラ王妃に、周囲の女官たちが息をのむ。
 対するイリーナ公女はすっと目を細め、隣に控える彼女の従者は微動だにしなかった。
 「…あら、側妃にするのでは?」
 「いいえ、決してアレクシスの側妃にはしないわ。禍根を残すつもりはない」
 「そうですか。ちなみに二人いるというご令嬢は?」
 「明日のアレクシスの態度次第よ。…抵抗するならば、どちらか一人は見せしめに死ぬかもしれないわね」
 「…」
 あなたの、実の孫娘たちですよ?
 誰もが心の中で思ったが、誰も口に出すことはしなかった。
 そして。
 「安心しましたわ、おば様」
 イリーナ公女は唇を三日月に形作る。
 美しくて、妖しい微笑みだった。
 
 「今宵はよく眠れそうです」
 
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