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第四章 公爵夫人フィオレンツァは、王宮に思いを馳せる暇がない
閑話 ハーヴィーという男(3)
しおりを挟むさらにあれから一年半が経過した。
ユージーン王太子とエステル妃の関係は悪化し、とうとうエステル妃は自室から籠って出てこなくなってしまった。エステル妃の父であるパルヴィン伯爵が慌てて二人の関係を修復しようと奔走しているが、エステル妃は離婚を口にしているらしい。一方のガドフリー国王とグラフィーラ王妃は、ただエステル妃を悪者にするばかりで、重臣たちの失笑を買っていることにも気づいていない。
王宮の、特に本館と東館の雰囲気は悪くなり、その様子は西館…ひいては王都に詰める高位貴族の間でも噂になっていた。王太后アレクザンドラが、このところすっかり病がちで離宮に籠っているのも一因だろう。それまで手綱を引いていた王太后の存在感が薄れ、国王一家の規律が乱れていた。
側室の子として生まれながらアレクザンドラに後継ぎとして育てられたガドフリーは、彼女を敬愛しながらも同時に圧迫感も感じていたようだった。優秀とは言えないまでも、真面目で勤勉な態度で公務に臨む姿が評価され、これまで何とかやってこれたのだ。
それがアレクザンドラ王太后が離宮で静養するようになると、公務をさぼるようになった。年間行事など派手な式典の参加や、重要な書類の押印などはさすがに続けているが、重臣との会議は一ヵ月に参加するかしないかになってしまった。なので会議の決定が先送りになったり、問題にすぐに対応することが難しく、テッドメイン宰相をはじめとする重臣に負担がかかっている。
幸いと言えるのは、さぼったからと言って遊興にふけるというわけでもないことだろうか。歴代の王と比べても金遣いが荒いわけではなく、女性関係も王妃公認の愛人たちで満足しているようだ。
一方のグラフィーラ王妃も、ヘロイーズという脅威がなくなったことで、公務にあまり真面目に取り組まなくなっていた。やはり人前に出る公務などには参加するが、孤児院や学業施設の慰労などを敬遠するようになっている。
代わりに熱心にするようになったのが、王妃主催のお茶会だった。いいや、お茶会という名の王太子の側室選考会だ。そうして選んだ女性を王太子の元へ送り込んでいるが、反応はいまいち。その苛立ちをエステル妃へとぶつけ、エステル妃はますます閉じこもるという悪循環ぶりだ。
肝心のユージーン王太子も、重臣たちからの評価を下げていた。
かなり無理を通してエステル妃を王太子妃に据えたというのに、熱が冷めたら冷淡だった。両親からの攻撃からかばうわけでもなく、子供ができない原因がエステル妃にあると言われるのを放置していた。国王夫妻と違って公務はきちんとこなしているようだが、それだけで重臣たちの評価が好転するわけはない。
父王も決して人格者ではないが、アレクザンドラ王太后の教えをよく守っていたし、何より男児を三人も設けて最低限の役割を果たした。ユージーン王太子は…後ろ盾はあの国王夫妻でしかない彼は、次期国王として相応しいのだろうか。臣下たちはより厳しい目で王太子を観察するようになった。
そうして王宮を張り詰めた空気が覆う中、大事件が勃発した。
テッドメイン宰相の屋敷を訪れていたユージーン王太子が、自分の従者まで巻いて突然姿を消したのだ。宰相をはじめ屋敷の者たちが慌てて探せば、屋敷の一室で王太子がメイドの少女を組み敷いている最中だった。最初に見つけた女中が悲鳴を上げ、駆け付けた宰相と宰相夫人のポーリーナが慌てて二人を引き離そうとする。しかし邪魔をされたユージーン王太子は激高し、護身用の小刀でテッドメイン宰相の腹を刺した。
テッドメイン家は大混乱に陥った。テッドメイン宰相は意識不明の重体、ポーリーナ夫人の判断で王太子は拘束され、駆け付けた王宮の衛兵に引き渡された。
国王夫妻は、この事件を何とか揉み消そうとした。こうなったのは子供を設けられないエステル妃のせいなのだからと、彼女と彼女の実家に尻ぬぐいをさせようとしたのだ。
ところがそれが裏目に出た。エステル妃は襲われたメイドがまだ12歳の少女だったと知り、ようやく悟った…どうして自分が妃に選ばれたのか、どうして女性らしい体つきになった途端、夫に興味を示されなくなったのかを。エステル妃は素早く離縁状をしたためると、僅かな伴だけつれて夜のうちに実家のタウンハウスへと脱出、さらに親戚の領地へと出奔してしまった。
テッドメイン宰相とエステル妃が同時に王宮から姿を消したことで、不審に思った重臣の何人かが密偵を放ち、ユージーン王太子が引き起こした事件はあっという間に知られることとなった。国王夫妻はメイドの方が王太子を誘惑したと主張したが、それだけでテッドメイン宰相への傷害を説明することはできない。慌てて宰相に怪我を負わせたのもメイドということにしようとした。しかしメイドは性的暴行を受けただけでなく、王太子は黙らせようと暴力も振るったようで、顔面と手足の数か所が骨折するほどの重傷を負わされていた。加えて各家の密偵が詳しく調べつくした後だったため、メイドに罪を擦り付けるのは不可能だった。
結局ユージーン王太子は謹慎という名目で、王宮の奥に存在する屋敷に幽閉されることになった。
そこはかつて失脚したヘイスティングズが命を落とした場所であり、なんとも皮肉な巡り合わせだった。あそこに幽閉されては、おそらくユージーン王太子も廃嫡になるだろう。
グラフィーラ王妃はしばらく取り乱し、ユージーンの不遇を嘆き、エステルや襲われたメイドの少女に対する呪詛を吐いていた。しかしこれまで八つ当たりしていたエステルが王宮から消えてしまったことで、逆に現実が見えたらしい。一週間と、わりと早い段階で冷静さを取り戻していた。
「ユージーンのことは諦めるわ」
これ以上彼をかばうことはできないだろう。大体、無理を通してこの事件をなかったことにしたところで、根本の問題は解決できない。ユージーンは未発達の少女にしか情欲を感じないのだ。どう転んでも子供など作れるはずがなかった。
「そうよ、私にはまだあの子が…アレクシスがいる…。ハーヴィー、便せんを…いいえ、それは侍女に頼むわ。あなたは封筒を三つ手配してきて頂戴。…ひとつはバザロヴァ王国に送るわ」
バザロヴァ王国とはグラフィーラ王妃の祖国だ。
「…かしこまりました。残り二つは通常の封筒でよろしいのですね?」
「そうよ」
また良からぬことを企んでいるな。
そうは思うが、ハーヴィーには知ったことではない。アレクシス元王子やその妻がこれから王宮の後継者争い、ひいては派閥争いに巻き込まれるのだろうが、心配してやる義理もなかった。言われた通りに封筒を手配して王妃の自室に戻れば、グラフィーラ王妃は真剣な面持ちですでに手紙を書き始めていた。
オルティス公爵夫妻が国王夫妻の求めに応じて王都へと出発する、一ヵ月前のことである。
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