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第一話 変なスイッチをもらった
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男の友情に、年の差は関係ない。
それがケンゴの持論でした。
確かに傍から見れば、頭の禿げ上がった皺くちゃのフジ博士と、平凡な小学六年生のケンゴが並んでいても友達同士には見えません。せいぜい祖父と孫でしょう。
しかし実際のところ、二人は近所に住んでいるだけで血縁関係はありませんし、一緒にやることといえば博士の珍妙な発明品で遊ぶことくらいですから、やはり“友達”と呼ぶのが一番しっくりくる関係だとケンゴは思っていました。
ある日のことです。学校からの帰り道にケンゴが公園に差し掛かると、木陰で待ち構えていたフジ博士は不審者のようにケンゴの前に飛び出してきました。
「あーびっくりした」
危うく防犯ブザーを鳴らすところでしたが、ケンゴはすんでのところで思いとどまり、年の離れた友達をジト目で見ます。
「どうしたの博士」
「ふふふ。よく来たなケンゴよ。実はまた新しい発明品が出来上がったんじゃが、一緒に試してみようかと思ってのう」
「……なんか嫌な予感がする」
ケンゴが眉間に皺を寄せていると、博士はポケットから何やら黒くて小さいものを取り出しました。
「これが“人をふにゃふにゃにするスイッチ”じゃ!」
「“人をふにゃふにゃにするスイッチ”!?」
大きな声を出してみたものの、実のところケンゴはそれほど驚いてはいません。
冷静に「こういう時は博士の言葉をオウム返しにして驚くのが基本だからなぁ」と考えての反応でした。というのも、ケンゴの反応が薄いと博士がすぐに拗ねることは、経験から明らかだったためです。
とはいえ、今日の“人をふにゃふにゃにするスイッチ”は本当にどんなものか分かりません。この時のケンゴの素直な感想は「いつにも増してヘンテコな発明品を持ってきたなぁ」というものでした。
博士は得意げな顔で説明を始めます。
「人をふにゃふにゃにするスイッチはのう。なんと、人をふにゃふにゃにすることができるスイッチなのじゃよ」
「だろうね」
「使い方はカンタン。人に向かってこのスイッチを押すと、その人はふにゃふにゃになるんじゃ」
「だろうね」
博士が持っている消しゴムくらいのサイズの黒い小箱には、小さな押しボタンが三つほど付いていました。いつもの発明品と同じパターンだとすると、これは三回まで人をふにゃふにゃにできる道具ということになるでしょう。
ケンゴは内心で首を傾げました。
そもそも、ふにゃふにゃって何だろう。もしこれが物理的に骨までふにゃふにゃになってしまうんだとしたら……比較的平和なこの町で、歴史に残る大事件が発生することになりかねない。無理無理。メンタル的に無理。博士を信じたい気持ちもなくはないけれど、過去の発明品を知っている身としては、無邪気に試すのはちょっと怖い。
そんな様々な思考を経て、ケンゴは万感の思いを込めて質問を投げかけました。
「ふにゃふにゃって何?」
すると博士は、ニヤリと笑って説明を続けます。
「そうじゃのう。より正確に言うのなら、人をふにゃふにゃにする特殊な精神波を、指向性を持たせて投射する装置なんじゃが……理解できるかのう?」
「できると思う?」
「無理じゃろうなぁ」
博士はたまにこうやって全く理解のできない言葉を並べ立てます。そのたびケンゴは「博士って実は宇宙人なんじゃないだろうか」と疑いたくなってしまいます。
「そうじゃなあ……ケンゴは、子猫は好きか?」
「うん、可愛いよね」
「そう、それじゃ。その感情を再現するんじゃよ」
博士はパンッと手を叩いて嬉しそうにします。
「つまりのう。可愛い猫を見た時や、赤ん坊を見た時などの脳のリラックス状態。それを強制的に再現する装置なんじゃよ」
「あー……じゃあ、人は死なない?」
「もちろんじゃ。精神的にふにゃふにゃになるだけじゃからのう。というか、人が死んでしまう発明品をこの場に持ってくるわけがないじゃろう?」
人が死ぬ発明品を「持ってこない」だけで、「作らない」とは言わないんだなぁ……ケンゴはそう思いますが、まぁ博士だもんなと軽く受け流すことにしました。
すべての説明をちゃんと咀嚼できたわけではありませんが、ふにゃふにゃとはつまり、子猫を見た時のように気持ちが優しくなるってことなんだろう。それがケンゴの理解です。
「この装置で三回まで人をふにゃふにゃにできる。効果は丸一日くらいかのぅ。どうじゃ、ちょっと商店街にでも行って試してみんか?」
「うーん……ちょっと待ってね」
ケンゴはふと、自分の家の状況を思い浮かべました。
このスイッチを使えば……もしかしたら、お父さんとお母さんの夫婦喧嘩を止めることができるかもしれない。そう思うと、なんだか居ても立ってもいられない気持ちになったのです。
「博士。そのスイッチ、持って帰っちゃダメかな」
「構わんが、身近な人にでも使いたいのか?」
「うん。両親が……最近ちょっと仲が悪くて」
仲が悪い、というのは控えめな表現かもしれません。ちょっとしたことで怒鳴り散らすようになったお父さんと、陰でグチグチと文句ばかり言っているお母さん。仲良く会話しているところなど、ケンゴはもうずっと見ていなかったのですから。
さすがに小学六年生ともなれば、これが“リコン”の危機であることくらいは察しがついておりました。
「いつも遊んでもらっているからの。良いぞぅ」
「ありがとう、博士!」
ケンゴはスイッチを受け取ると、何だかソワソワした気持ちのまま家に向かって駆け出しました。
* * *
家についても誰もいないので、ケンゴは冷蔵庫から取り出した夕飯を勝手に温めて食べて、お風呂に入りながらスイッチのことを考えていました。使用回数は三回。効果は一日限り。果たして、これだけで二人の喧嘩を止めることができるのでしょうか。
お父さんとお母さんも、昔から仲が悪かったわけではありません。共働きなので平日は遅く帰ってくるけれど、週末になれば三人でいろいろな場所に出かけました。あの時はそれが普通だと思っていたから何も感じませんでしたが……今振り返れば、なんと幸せな日々だったことか。
喧嘩をする二人にスイッチを使えば、脳がふにゃふにゃ状態になる。そうすればきっと、その時だけは昔みたいに楽しく会話できるでしょう。
しかし、それも一日限りのこと。翌日には二人とも元通りになってしまう……その点が悩ましいのです。ずっとそのまま仲良くしてくれればいいのに。ケンゴはそう考えながら湯船に浸かっていました。
「どうしようかなぁ……どうしよう」
そうやってずっと考えていても、ケンゴの頭に何か良い案が浮かぶことはありませんでした。
お風呂から上がって、歯を磨いて、宿題をやって……ゲームのコントローラを握りながら、ケンゴはどうしてもポケットに忍ばせたスイッチのことを考えてしまいます。
もう開き直って「今日だけの仲良し家族」を素直に楽しむべきなのか。そんなことも考えましたが、それもなんだかもったいない気持ちになり……どうせ使うのなら、考えて考えて、効果的な使い方をしたい思うようになりました。
ケンゴがうんうんと唸っているところへ、玄関の扉がガチャリと開く音がして、お母さんの「ただいま」の声が聞こえてきます。
「……ケンゴ。またゲームばっかり。宿題は?」
「全部終わってるよ」
「そう……それならお皿くらい洗っておいてくれればいいのに。気が利かないんだから」
お母さんはそうブツブツと文句を言いながら、風呂場へと向かっていきます。しかし、前にお皿を洗った時には「私の家事が不十分だって言いたいのね。誰に似たのかしら、厭味ったらしく育って」みたいなことをブツブツ言っていましたから、おそらくもう何が何でも文句を言うつもりだったのでしょう。仕事のストレスって凄いらしいからな、オトナは大変なんだな。ケンゴは意識してそう考えることで、心の平静を保つようにしていました。
彼はゲームの電源を切って、少し悩みます。
今お母さんにふにゃふにゃスイッチを使ったら、このお母さんでもふにゃふにゃになるのかもしれません。けれど、かなり疲れてる様子でしたから、ふにゃふにゃになったままお風呂で寝てしまい溺れでもしたら大変なことになってしまいます。やるとしても、今ではないでしょう。
「ただいま……ケンゴ」
「おかえりなさい、お父さん」
「あぁ」
お父さんは口数も少なく台所に向かいます。きっとお母さんがお風呂に入っているうちに、いつものように一人で夕食を取るつもりなのでしょう。それで、お母さんが出てきたら入れ替わるようにしてお風呂に向かうのです。二人の間には何の会話もありません。
このような状態で夫婦関係が長続きするようには思えませんが……一応お母さんは毎日料理を作って冷蔵庫に入れておいてくれますし、お父さんは洗濯やアイロンがけなんかを淡々とやっていたりしますから、完全に破綻しているわけではないのです。だからこそケンゴは期待してしまいます。また昔のように、仲の良い家族に戻れるんじゃないかと。
ケンゴは“人をふにゃふにゃにするスイッチ”を手に取って眺めます。
よくよく考えてみると、スイッチの使用回数は三回です。お父さんとお母さんに一回ずつ使ったとしても、残り一回は余ることになります。なにも焦って今日使うことはない。明日学校に行って、誰かを相手に一回だけ試してみて、その結果を元に両親の仲直り作戦を立てても良いんじゃないだろうか。そんな風にこの時のケンゴは考えていました。
* * *
翌朝、ケンゴはポケットに“人をふにゃふにゃにするスイッチ”を入れたまま学校へと向かいました。あの後もいろいろと考えましたが、やはりいきなり両親で試すのは怖いという結論に至ったためです。
こう言っては酷い話に聞こえてしまいますが「あまり心の傷まない相手を使って実験した方が良い」というのが、ケンゴなりに一生懸命考えて出した答えです。そして、スイッチを試しに使う相手はもう心に決めていました。
教室に入ると、隣の席のシホちゃんはなぜか体育のジャージ姿で座っています。その髪の毛は濡れて水が滴り、寒いのか体が少し震えています。これはいつものアレだろう、とケンゴは判断しました。
「シホちゃん。おはよう」
「お、おはよう……ケンゴくん」
「ちょっと待って、タオルあったかな」
ケンゴがごそごそとランドセルを漁っていると、教室の中からクスクスと忍び笑いが聞こえてきました。ケンゴは意識して視線を向けないようにしていましたが……きっとまたリカコちゃんを中心とした何人かで、シホちゃんをイジめて楽しんでいたのでしょう。正直、気分が良いものではありません。
そして案の定、イジめっ子のリカコちゃんはケンゴの前までやってきます。
「あらケンゴくん。地味シホにずいぶん親切なのね。もしかして好きなのー? やっぱり平凡な男は地味な女に惹かれちゃう運命なのかなー? あははっ」
そう話すリカコちゃんは、確かに整った顔をしていますし、いつも大勢の友達に囲まれていている派手な女子です。先生のウケも良い。
だけど女王様のように君臨して、毎日シホちゃんをイジめています。今朝だってきっと、シホちゃんにわざと水をかけて笑っていたのでしょう。
「リカコちゃんって……お笑い芸人目指してるの?」
「……は?」
――今日の僕には秘密兵器がある。
ケンゴは意を決して立ち上がりました。ポケットに入れたスイッチを握りしめ、いつでも取り出せるようにします。
「リカコちゃんって、そこまででもないじゃん?」
「ん? 何の話よ」
「いやね。たしかにリカコちゃんはそこそこの美少女だとは思うよ……でも、人をイジめて許されるほど、突き抜けて可愛いかと言われると……そこまででもないよね、正直」
「…………は?」
リカコちゃんの顔は徐々に赤くなっていき、目に涙を溜め始めます。
これはケンゴのことを責め立てる準備でした。いつだって、涙を流せば周囲は彼女の味方をしてくれる。それは彼女が今までの人生で理解してきた絶対の真理だったのです。
――いいぞいいぞ。どうせ実験するのなら、怒らせるだけ怒らせてからスイッチを押さないと。
「君がイジめるシホちゃんは、去年まで少しぽっちゃり系だったけど……今はすらっと痩せて可愛くなったよね。まぁ、もともと可愛かったと僕は思ってるんだけど」
口をパクパクと開いているリカコちゃんは、なんだか縁日の金魚のようで、思わず「ププッ」と吹き出してしまいました。ケンゴには煽る気持ちなど少ししかなかったのですが、リカコちゃんの怒りは加速する一方です。
「そこそこレベルのリカコちゃんが、可愛いシホちゃんを、容姿を理由にイジめるのかぁって思ったら……本当に滑稽だなぁって。お笑い芸人を目指してるなら応援するよ。あんまり面白くはないけど」
畳み掛けるようなケンゴの言葉に、プライドの高いリカコちゃんはいよいよ我慢できなくなって、平手打ちをかまそうと腕を大きく振り上げました。
――よし、ここだ。
ケンゴはポケットから秘密兵器を取り出すと、怒れるリカコちゃんに向けて、スイッチをポチッと押しました。
それがケンゴの持論でした。
確かに傍から見れば、頭の禿げ上がった皺くちゃのフジ博士と、平凡な小学六年生のケンゴが並んでいても友達同士には見えません。せいぜい祖父と孫でしょう。
しかし実際のところ、二人は近所に住んでいるだけで血縁関係はありませんし、一緒にやることといえば博士の珍妙な発明品で遊ぶことくらいですから、やはり“友達”と呼ぶのが一番しっくりくる関係だとケンゴは思っていました。
ある日のことです。学校からの帰り道にケンゴが公園に差し掛かると、木陰で待ち構えていたフジ博士は不審者のようにケンゴの前に飛び出してきました。
「あーびっくりした」
危うく防犯ブザーを鳴らすところでしたが、ケンゴはすんでのところで思いとどまり、年の離れた友達をジト目で見ます。
「どうしたの博士」
「ふふふ。よく来たなケンゴよ。実はまた新しい発明品が出来上がったんじゃが、一緒に試してみようかと思ってのう」
「……なんか嫌な予感がする」
ケンゴが眉間に皺を寄せていると、博士はポケットから何やら黒くて小さいものを取り出しました。
「これが“人をふにゃふにゃにするスイッチ”じゃ!」
「“人をふにゃふにゃにするスイッチ”!?」
大きな声を出してみたものの、実のところケンゴはそれほど驚いてはいません。
冷静に「こういう時は博士の言葉をオウム返しにして驚くのが基本だからなぁ」と考えての反応でした。というのも、ケンゴの反応が薄いと博士がすぐに拗ねることは、経験から明らかだったためです。
とはいえ、今日の“人をふにゃふにゃにするスイッチ”は本当にどんなものか分かりません。この時のケンゴの素直な感想は「いつにも増してヘンテコな発明品を持ってきたなぁ」というものでした。
博士は得意げな顔で説明を始めます。
「人をふにゃふにゃにするスイッチはのう。なんと、人をふにゃふにゃにすることができるスイッチなのじゃよ」
「だろうね」
「使い方はカンタン。人に向かってこのスイッチを押すと、その人はふにゃふにゃになるんじゃ」
「だろうね」
博士が持っている消しゴムくらいのサイズの黒い小箱には、小さな押しボタンが三つほど付いていました。いつもの発明品と同じパターンだとすると、これは三回まで人をふにゃふにゃにできる道具ということになるでしょう。
ケンゴは内心で首を傾げました。
そもそも、ふにゃふにゃって何だろう。もしこれが物理的に骨までふにゃふにゃになってしまうんだとしたら……比較的平和なこの町で、歴史に残る大事件が発生することになりかねない。無理無理。メンタル的に無理。博士を信じたい気持ちもなくはないけれど、過去の発明品を知っている身としては、無邪気に試すのはちょっと怖い。
そんな様々な思考を経て、ケンゴは万感の思いを込めて質問を投げかけました。
「ふにゃふにゃって何?」
すると博士は、ニヤリと笑って説明を続けます。
「そうじゃのう。より正確に言うのなら、人をふにゃふにゃにする特殊な精神波を、指向性を持たせて投射する装置なんじゃが……理解できるかのう?」
「できると思う?」
「無理じゃろうなぁ」
博士はたまにこうやって全く理解のできない言葉を並べ立てます。そのたびケンゴは「博士って実は宇宙人なんじゃないだろうか」と疑いたくなってしまいます。
「そうじゃなあ……ケンゴは、子猫は好きか?」
「うん、可愛いよね」
「そう、それじゃ。その感情を再現するんじゃよ」
博士はパンッと手を叩いて嬉しそうにします。
「つまりのう。可愛い猫を見た時や、赤ん坊を見た時などの脳のリラックス状態。それを強制的に再現する装置なんじゃよ」
「あー……じゃあ、人は死なない?」
「もちろんじゃ。精神的にふにゃふにゃになるだけじゃからのう。というか、人が死んでしまう発明品をこの場に持ってくるわけがないじゃろう?」
人が死ぬ発明品を「持ってこない」だけで、「作らない」とは言わないんだなぁ……ケンゴはそう思いますが、まぁ博士だもんなと軽く受け流すことにしました。
すべての説明をちゃんと咀嚼できたわけではありませんが、ふにゃふにゃとはつまり、子猫を見た時のように気持ちが優しくなるってことなんだろう。それがケンゴの理解です。
「この装置で三回まで人をふにゃふにゃにできる。効果は丸一日くらいかのぅ。どうじゃ、ちょっと商店街にでも行って試してみんか?」
「うーん……ちょっと待ってね」
ケンゴはふと、自分の家の状況を思い浮かべました。
このスイッチを使えば……もしかしたら、お父さんとお母さんの夫婦喧嘩を止めることができるかもしれない。そう思うと、なんだか居ても立ってもいられない気持ちになったのです。
「博士。そのスイッチ、持って帰っちゃダメかな」
「構わんが、身近な人にでも使いたいのか?」
「うん。両親が……最近ちょっと仲が悪くて」
仲が悪い、というのは控えめな表現かもしれません。ちょっとしたことで怒鳴り散らすようになったお父さんと、陰でグチグチと文句ばかり言っているお母さん。仲良く会話しているところなど、ケンゴはもうずっと見ていなかったのですから。
さすがに小学六年生ともなれば、これが“リコン”の危機であることくらいは察しがついておりました。
「いつも遊んでもらっているからの。良いぞぅ」
「ありがとう、博士!」
ケンゴはスイッチを受け取ると、何だかソワソワした気持ちのまま家に向かって駆け出しました。
* * *
家についても誰もいないので、ケンゴは冷蔵庫から取り出した夕飯を勝手に温めて食べて、お風呂に入りながらスイッチのことを考えていました。使用回数は三回。効果は一日限り。果たして、これだけで二人の喧嘩を止めることができるのでしょうか。
お父さんとお母さんも、昔から仲が悪かったわけではありません。共働きなので平日は遅く帰ってくるけれど、週末になれば三人でいろいろな場所に出かけました。あの時はそれが普通だと思っていたから何も感じませんでしたが……今振り返れば、なんと幸せな日々だったことか。
喧嘩をする二人にスイッチを使えば、脳がふにゃふにゃ状態になる。そうすればきっと、その時だけは昔みたいに楽しく会話できるでしょう。
しかし、それも一日限りのこと。翌日には二人とも元通りになってしまう……その点が悩ましいのです。ずっとそのまま仲良くしてくれればいいのに。ケンゴはそう考えながら湯船に浸かっていました。
「どうしようかなぁ……どうしよう」
そうやってずっと考えていても、ケンゴの頭に何か良い案が浮かぶことはありませんでした。
お風呂から上がって、歯を磨いて、宿題をやって……ゲームのコントローラを握りながら、ケンゴはどうしてもポケットに忍ばせたスイッチのことを考えてしまいます。
もう開き直って「今日だけの仲良し家族」を素直に楽しむべきなのか。そんなことも考えましたが、それもなんだかもったいない気持ちになり……どうせ使うのなら、考えて考えて、効果的な使い方をしたい思うようになりました。
ケンゴがうんうんと唸っているところへ、玄関の扉がガチャリと開く音がして、お母さんの「ただいま」の声が聞こえてきます。
「……ケンゴ。またゲームばっかり。宿題は?」
「全部終わってるよ」
「そう……それならお皿くらい洗っておいてくれればいいのに。気が利かないんだから」
お母さんはそうブツブツと文句を言いながら、風呂場へと向かっていきます。しかし、前にお皿を洗った時には「私の家事が不十分だって言いたいのね。誰に似たのかしら、厭味ったらしく育って」みたいなことをブツブツ言っていましたから、おそらくもう何が何でも文句を言うつもりだったのでしょう。仕事のストレスって凄いらしいからな、オトナは大変なんだな。ケンゴは意識してそう考えることで、心の平静を保つようにしていました。
彼はゲームの電源を切って、少し悩みます。
今お母さんにふにゃふにゃスイッチを使ったら、このお母さんでもふにゃふにゃになるのかもしれません。けれど、かなり疲れてる様子でしたから、ふにゃふにゃになったままお風呂で寝てしまい溺れでもしたら大変なことになってしまいます。やるとしても、今ではないでしょう。
「ただいま……ケンゴ」
「おかえりなさい、お父さん」
「あぁ」
お父さんは口数も少なく台所に向かいます。きっとお母さんがお風呂に入っているうちに、いつものように一人で夕食を取るつもりなのでしょう。それで、お母さんが出てきたら入れ替わるようにしてお風呂に向かうのです。二人の間には何の会話もありません。
このような状態で夫婦関係が長続きするようには思えませんが……一応お母さんは毎日料理を作って冷蔵庫に入れておいてくれますし、お父さんは洗濯やアイロンがけなんかを淡々とやっていたりしますから、完全に破綻しているわけではないのです。だからこそケンゴは期待してしまいます。また昔のように、仲の良い家族に戻れるんじゃないかと。
ケンゴは“人をふにゃふにゃにするスイッチ”を手に取って眺めます。
よくよく考えてみると、スイッチの使用回数は三回です。お父さんとお母さんに一回ずつ使ったとしても、残り一回は余ることになります。なにも焦って今日使うことはない。明日学校に行って、誰かを相手に一回だけ試してみて、その結果を元に両親の仲直り作戦を立てても良いんじゃないだろうか。そんな風にこの時のケンゴは考えていました。
* * *
翌朝、ケンゴはポケットに“人をふにゃふにゃにするスイッチ”を入れたまま学校へと向かいました。あの後もいろいろと考えましたが、やはりいきなり両親で試すのは怖いという結論に至ったためです。
こう言っては酷い話に聞こえてしまいますが「あまり心の傷まない相手を使って実験した方が良い」というのが、ケンゴなりに一生懸命考えて出した答えです。そして、スイッチを試しに使う相手はもう心に決めていました。
教室に入ると、隣の席のシホちゃんはなぜか体育のジャージ姿で座っています。その髪の毛は濡れて水が滴り、寒いのか体が少し震えています。これはいつものアレだろう、とケンゴは判断しました。
「シホちゃん。おはよう」
「お、おはよう……ケンゴくん」
「ちょっと待って、タオルあったかな」
ケンゴがごそごそとランドセルを漁っていると、教室の中からクスクスと忍び笑いが聞こえてきました。ケンゴは意識して視線を向けないようにしていましたが……きっとまたリカコちゃんを中心とした何人かで、シホちゃんをイジめて楽しんでいたのでしょう。正直、気分が良いものではありません。
そして案の定、イジめっ子のリカコちゃんはケンゴの前までやってきます。
「あらケンゴくん。地味シホにずいぶん親切なのね。もしかして好きなのー? やっぱり平凡な男は地味な女に惹かれちゃう運命なのかなー? あははっ」
そう話すリカコちゃんは、確かに整った顔をしていますし、いつも大勢の友達に囲まれていている派手な女子です。先生のウケも良い。
だけど女王様のように君臨して、毎日シホちゃんをイジめています。今朝だってきっと、シホちゃんにわざと水をかけて笑っていたのでしょう。
「リカコちゃんって……お笑い芸人目指してるの?」
「……は?」
――今日の僕には秘密兵器がある。
ケンゴは意を決して立ち上がりました。ポケットに入れたスイッチを握りしめ、いつでも取り出せるようにします。
「リカコちゃんって、そこまででもないじゃん?」
「ん? 何の話よ」
「いやね。たしかにリカコちゃんはそこそこの美少女だとは思うよ……でも、人をイジめて許されるほど、突き抜けて可愛いかと言われると……そこまででもないよね、正直」
「…………は?」
リカコちゃんの顔は徐々に赤くなっていき、目に涙を溜め始めます。
これはケンゴのことを責め立てる準備でした。いつだって、涙を流せば周囲は彼女の味方をしてくれる。それは彼女が今までの人生で理解してきた絶対の真理だったのです。
――いいぞいいぞ。どうせ実験するのなら、怒らせるだけ怒らせてからスイッチを押さないと。
「君がイジめるシホちゃんは、去年まで少しぽっちゃり系だったけど……今はすらっと痩せて可愛くなったよね。まぁ、もともと可愛かったと僕は思ってるんだけど」
口をパクパクと開いているリカコちゃんは、なんだか縁日の金魚のようで、思わず「ププッ」と吹き出してしまいました。ケンゴには煽る気持ちなど少ししかなかったのですが、リカコちゃんの怒りは加速する一方です。
「そこそこレベルのリカコちゃんが、可愛いシホちゃんを、容姿を理由にイジめるのかぁって思ったら……本当に滑稽だなぁって。お笑い芸人を目指してるなら応援するよ。あんまり面白くはないけど」
畳み掛けるようなケンゴの言葉に、プライドの高いリカコちゃんはいよいよ我慢できなくなって、平手打ちをかまそうと腕を大きく振り上げました。
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