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第三十二話 彼女の願い

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「待ってくれ」

 蒼汰が叫びながら朝比奈さんを捕まえた。
 お互いに息が上がった状態で、境内から少し離れた雑木林の中で立ち止る。
 
「離してくれない?」
「ああ、ごめん」

 朝比奈さんの声はいつも通り冷静だった。
 まさかの反応に、蒼汰は少し驚いた様子で手を離す。
 朝比奈さんは後から追いついた私たちの方を見て、物憂げな表情で微笑んだ。

「そうね。アリサさんには話しても良いかな?」
「え!? 私ですか?」
「そう。アリサさんにしか話さない」

 まさかのご指名だった。
 関係値的に朱里に話すのは無いにしても、普通話すなら付き合いの長い蒼汰だと思っていたから意外だった。

「はぁ……仕方ない。アリサ、頼む」
「え、でも」
「いいから。どうやら元々アリサには話すつもりだったみたいだしな」

 蒼汰は諦めた様子で朱里の背中を押す。
 二人が境内の方に戻っていったのを確認し、朝比奈さんはため息をついた。
 一体なんなのだろう?
 最初から話すつもりみたいって蒼汰は言っていたけど、なんで私に?

「朝比奈さん?」
「ごめんアリサさん。これだけは言っておこうと思ってたのよ。言わないと不公平だしね」
「不公平?」
「ちょっと言いづらいことなんだけど、私ずっと影井くんのことが好きだったの」

 ハンマーで頭を殴られたみたいだった。
 にわかには信じられない。
 なんて表現したら良いんだろう?
 彼女の告白を聞いた時、その言葉の意味が理解できた時、両腕に一瞬力が入った気がした。
 まるで何かを守ろうとするように、無意識に力が入った。
 なんだこの機能は?

「……朝比奈さんが蒼汰を?」

 言葉の意味は理解できているのに、思わず聞き返してしまった。
 飲み込むのに時間がかかる。

「信じられない?」

 朝比奈さんは申し訳なさそうに私を見つめる。
 どうして彼女はそんな目をするの?
 別に人が人を好きになるのに、誰かの許可はいらないはず。
 私は彼女の考えが分からない。
 どうしてわざわざ私に伝えるの?

「信じられないというか、どうして私にそれを? 蒼汰が好きなら蒼汰に言わないと意味が……」

 私は最後まで言葉が続かなかった。
 キョトンとした様子で立ち尽くす彼女を見て、私は自分がとんでもないことを言い出していることに気がついた。

「ご、ごめんなさい! 私、少し混乱してて、不躾な言い方になってしまいました」

 私は頭を下げる。
 あまりにも無神経な言い方だった。
 蒼汰に直接言わないと意味がないことぐらい、彼女だって分かっている。
 分かっていてあえて言っていないというのに、そしてその原因はおそらく私にあるというのに、本当に心ないことを言ってしまった。

「いいから頭を上げてアリサさん。謝らなくてはならないのは私なんだから」

 彼女がなぜ謝るのか、ようやく分かった。
 これは彼女なりのけじめなのだろう。
 
「本当はこの気持ちはずっとしまっておくつもりだったのに……でもやっぱり無理だった。蒼汰に仕事で会うたびに、貴女たちのことを聞かされる。アリサさんも、会うたびに表情が豊かになっていって、本当の人間になったと思わされた。だけどそのたびに、私は自分の内面に闇が発生するのを感じるようになっていった。ずっとずっと黙っておくつもりだったのに、墓場まで持って行くつもりだったのに、どうしても我慢できなくなったの」

「それじゃ、朝比奈さんが初詣で祈ろうとしたのって……」

 私は悪い想像をしてしまう。
 そうじゃなきゃ彼女はここまで逃げてこないし、謝ることも無いだろう。
 
「そう、本当に魔が差したの。心の中にずっと巣くっていた醜い感情。それを発散してしまった。祈ってしまった、願ってしまった。貴方たちの仲が拗れることを祈ってしまった。ごめんなさい!」

 朝比奈さんは涙ながらに謝罪する。
 やっぱりそうだ。
 彼女は蒼汰に恋していた。
 どう考えても私は邪魔者。

 よくよく考えてみれば、彼女が蒼汰を好きでなければここまで協力などするはずがない。
 自殺防止プログラムを一緒に構築するのは、ビジネスとして考えれば理解できる。

 だけど国からの資金を横流ししてまで私を作るだろうか?
 彼女にだって立場はあるし、それなりにいいポストにいるはずだ。
 それらを棒に振る危険を犯してまで、私の制作を請け負わない。
 やっていることは普通に越権行為。
 
 そんな危険を犯してまで蒼汰の意思に従った理由は単純、蒼汰が好きだったから。
 最初は彼の境遇への同情だったのかもしれない。
 もしかしたら一目ぼれかもしれないし、彼の論文に恋をしたのかもしれない。それは分からない。こればかりは彼女しか知らないことだ。
 ただこれだけはハッキリしている。
 朝比奈さんは蒼汰を愛していたからこそ、私という禁忌を犯した。

「別に祈るぐらい良いんじゃないですか?」
「え?」

 朝比奈さんは驚いた様子で私を見る。
 
「だって心の内は自由であるべきですし、それに、貴女が蒼汰を愛してくれていなければ、私はいまここにいない」

 ハッと息を飲む音が聞こえた。
 事実、彼女の恋心が私をこの世に生み出したのだ。
 彼女の叶わぬ恋の結末が私という存在。
 ある意味、本当に彼女は私の母親なのだ。
 
「そう言ってくれるの? 貴方たちの不幸を願った私に、そんなことを言ってもらう資格があるの?」
「資格の有無は私には分かりません。私はAI、死んでしまったアリサをトレースした存在。もしも私が完璧にアリサを演じていたら、私こそ存在する資格がなくなりますから……資格なんて考えはやめました」

 私は胸を張って宣言する。
 半年前の私だったら、きっとこんな言葉は出てこない。
 これがアリサの思考なのか、私オリジナルの思考なのか、そんな答えの出ないことを考えていたのだろう。
 だけど蒼汰や朱里、朝比奈さんに出会い、偽装されたカラフルな社会と灰色の街を見て、いろんな人間たちを観察していく過程で、私という人格は作られていった。
 
「蒼汰には言いませんけど、どうしますか?」
「どうって?」
「蒼汰を諦めますか?」
「……」

 朝比奈さんは答えを言わなかった。
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