12 / 39
第五章 腫れ物 1
しおりを挟む
翌朝目覚めると、ぐっしょりと汗をかいていた。
「何だったんだ?」
何か夢を見ていた気がするが、憶えていない。
前もこんなことがあったっけ?
その時も何も憶えてはいないけど、こんな感じで汗を異様にかいていた。
きっと悪夢だ。
俺はなんとなくそう思った。
悪夢以外で、寝ている最中にここまで汗をかくというのは不自然だ。
カーテンを開けると、外はあいにくの雨。
軽くシャワーを浴びてから着替え、玄関で靴を履いているとドアが不意に開けられた。
「おはよう真希人。遅刻するよ?」
「急に開けんなよ」
俺は靴を履いて立ち上がり、傘を持って外に出た。
「桜……最近元気ないな」
俺は天音の家とのあいだにある桜の木を見て呟く。
「そうね……確かに最近元気がないかも。ずっと私たちのあいだに生えているから、気になっちゃうよね」
天音も俺と同じことを思っていたらしい。
この桜の木はいつから埋まっていたのか分からないが、少なくとも俺たちの思い出の中に常に映りこんでいる。
「早くいくよ!」
ぼやぼやしている俺に業を煮やした天音が、俺の手を引く。
俺はそんな彼女の背中を見つめる。
握られた手の体温にホッとする。
「ダメだよ。拒絶したら」
天音は顔を見せないまま、唐突にそう言った。
「真希人は昔からそうだけど、人と距離をとりすぎる。ダメだよ。ありきたりな言い方になっちゃうけど、人は独りでは生きていけないんだよ?」
天音は諭すように語る。
面と向かって言うのが気恥ずかしいのか、俺より一歩前を歩きながら……。
「天音、お前何言って……」
俺は自分の心の内を覗かれた気がした。
心の底まで見透かされているような、そんな感覚。
だけど不思議と嫌な気持ちはない。
他の人に言われたら間違いなく聞く耳を持たないのに、彼女に言われると素直に聞いてしまう。
「良いから。真希人は何も答えなくていい。だけどそれだけは心の内に留めておいて」
珍しく天音の声色が固い。
緊張しているのか?
昨日からずっと考えていたことなのだろうか?
昨日の俺の態度が彼女を心配させてしまった。
きっとそうだ。
普段はこんなこと言うタイプじゃない。
俺がどんな考えでどんなことをしようと、黙ってニコニコしながらついてくるタイプだ。
こういうことを言い慣れてるわけじゃない。
「……分かった」
俺は彼女の手を強く握り返す。
強まる雨の中、耳に聞こえるのは雨の音と彼女の息遣いだけだった。
教室について授業を受ける。
そのまま部活には顔を出さずに帰る。
そんな毎日を過ごす。
もちろんテレビの仕事もちょくちょく入っていたが、例のプロデューサーが手がける番組には出ていない。
一度テレビ局の廊下ですれ違ったが、やはり向こうの言葉は届かず、俺はなんとなく口の動きなどで曖昧に返事をしていたが、やがて限界を迎えてその場を去った。
いつのまにやらほとんどの芸能関係者にも、俺のことが広まり始めていた。
あの天才ピアニスト、菅原真希人はよりにもよってピアノの音が聞こえなくなったらしいと。
医師会に相談するとあの医者が言っていた時点で、これは広まると確信していた。
当然マネージャーの黒井さんには話してあるが、彼は驚きはしたが案外静かに受け入れてしまった。
こういう人間が一番強い人だ。
俺は内心そう思った。
俺の耳が治るかどうかを試すために、仕事と学校のあいだにたくさんの名医と会って話や検査をしたが、どれも芳しくない結果だった。
そうなると当然だがピアノ関係の仕事は無くなっていく。
俺がメディアに露出する回数が目に見えて減っていき、それと反比例する形で学校への登校頻度は上がっていた。
天音をはじめとしたクラスの半数ぐらいはそれを素直に喜んでくれたが、他の連中は違う意味で喜んでいたようにも思う。
ひそひそ話というのは、意外と聞こえるものだと知ったのはここ最近だ。
別に聞き耳を立てているわけではない。
聞きたい音は届かないのに、聞きたくない音は拾ってくる。
実に性能の悪い耳だ。
学校のあちこちから聞こえてくるひそひそ話を総括するとこんな感じだ。
”菅原って最近テレビで見ないよな”。
ちゃんと声をひそめて言っているあたり、余計に質が悪い。
相手に聞かれてはマズいということを理解したうえで話している。
それならここで話すなと、俺は言いたい。
別にテレビの出演が減ったことはどうでもいい。
個人的には、少し時間ができてホッとしているぐらいだ。
だがお前たちにとやかく言われる筋合いはない。
いまはそれどころじゃないんだ。
テレビがどうとかじゃない。
あれから二ヶ月経過しようと、この耳は相変わらずピアノの音を拾えない。
母さんは何も言わない。
あえてピアノや仕事の話題には触れない。
なんなら将来の話もしない。
俺に配慮して話そうと思うとそうなるのだろう。
すべてが薄っぺらい会話しかなく、やがて俺は母さんとあまり話さなくなった。
クラスに馴染もうという努力すら俺はやめてしまった。
部活もやめた。
芸能関係の人間関係も疎遠になっていった。
「面白いくらい日常って崩れるんだな」
俺は部屋の外を窓から眺めながら、独り言を発した。
視線の先にはいつもの桜の木。
もう時期がズレているから当然花弁は無いが、それにしたって元気がなさすぎる。
まるで俺の現状を映し出しているようで、見るのをやめた。
「何だったんだ?」
何か夢を見ていた気がするが、憶えていない。
前もこんなことがあったっけ?
その時も何も憶えてはいないけど、こんな感じで汗を異様にかいていた。
きっと悪夢だ。
俺はなんとなくそう思った。
悪夢以外で、寝ている最中にここまで汗をかくというのは不自然だ。
カーテンを開けると、外はあいにくの雨。
軽くシャワーを浴びてから着替え、玄関で靴を履いているとドアが不意に開けられた。
「おはよう真希人。遅刻するよ?」
「急に開けんなよ」
俺は靴を履いて立ち上がり、傘を持って外に出た。
「桜……最近元気ないな」
俺は天音の家とのあいだにある桜の木を見て呟く。
「そうね……確かに最近元気がないかも。ずっと私たちのあいだに生えているから、気になっちゃうよね」
天音も俺と同じことを思っていたらしい。
この桜の木はいつから埋まっていたのか分からないが、少なくとも俺たちの思い出の中に常に映りこんでいる。
「早くいくよ!」
ぼやぼやしている俺に業を煮やした天音が、俺の手を引く。
俺はそんな彼女の背中を見つめる。
握られた手の体温にホッとする。
「ダメだよ。拒絶したら」
天音は顔を見せないまま、唐突にそう言った。
「真希人は昔からそうだけど、人と距離をとりすぎる。ダメだよ。ありきたりな言い方になっちゃうけど、人は独りでは生きていけないんだよ?」
天音は諭すように語る。
面と向かって言うのが気恥ずかしいのか、俺より一歩前を歩きながら……。
「天音、お前何言って……」
俺は自分の心の内を覗かれた気がした。
心の底まで見透かされているような、そんな感覚。
だけど不思議と嫌な気持ちはない。
他の人に言われたら間違いなく聞く耳を持たないのに、彼女に言われると素直に聞いてしまう。
「良いから。真希人は何も答えなくていい。だけどそれだけは心の内に留めておいて」
珍しく天音の声色が固い。
緊張しているのか?
昨日からずっと考えていたことなのだろうか?
昨日の俺の態度が彼女を心配させてしまった。
きっとそうだ。
普段はこんなこと言うタイプじゃない。
俺がどんな考えでどんなことをしようと、黙ってニコニコしながらついてくるタイプだ。
こういうことを言い慣れてるわけじゃない。
「……分かった」
俺は彼女の手を強く握り返す。
強まる雨の中、耳に聞こえるのは雨の音と彼女の息遣いだけだった。
教室について授業を受ける。
そのまま部活には顔を出さずに帰る。
そんな毎日を過ごす。
もちろんテレビの仕事もちょくちょく入っていたが、例のプロデューサーが手がける番組には出ていない。
一度テレビ局の廊下ですれ違ったが、やはり向こうの言葉は届かず、俺はなんとなく口の動きなどで曖昧に返事をしていたが、やがて限界を迎えてその場を去った。
いつのまにやらほとんどの芸能関係者にも、俺のことが広まり始めていた。
あの天才ピアニスト、菅原真希人はよりにもよってピアノの音が聞こえなくなったらしいと。
医師会に相談するとあの医者が言っていた時点で、これは広まると確信していた。
当然マネージャーの黒井さんには話してあるが、彼は驚きはしたが案外静かに受け入れてしまった。
こういう人間が一番強い人だ。
俺は内心そう思った。
俺の耳が治るかどうかを試すために、仕事と学校のあいだにたくさんの名医と会って話や検査をしたが、どれも芳しくない結果だった。
そうなると当然だがピアノ関係の仕事は無くなっていく。
俺がメディアに露出する回数が目に見えて減っていき、それと反比例する形で学校への登校頻度は上がっていた。
天音をはじめとしたクラスの半数ぐらいはそれを素直に喜んでくれたが、他の連中は違う意味で喜んでいたようにも思う。
ひそひそ話というのは、意外と聞こえるものだと知ったのはここ最近だ。
別に聞き耳を立てているわけではない。
聞きたい音は届かないのに、聞きたくない音は拾ってくる。
実に性能の悪い耳だ。
学校のあちこちから聞こえてくるひそひそ話を総括するとこんな感じだ。
”菅原って最近テレビで見ないよな”。
ちゃんと声をひそめて言っているあたり、余計に質が悪い。
相手に聞かれてはマズいということを理解したうえで話している。
それならここで話すなと、俺は言いたい。
別にテレビの出演が減ったことはどうでもいい。
個人的には、少し時間ができてホッとしているぐらいだ。
だがお前たちにとやかく言われる筋合いはない。
いまはそれどころじゃないんだ。
テレビがどうとかじゃない。
あれから二ヶ月経過しようと、この耳は相変わらずピアノの音を拾えない。
母さんは何も言わない。
あえてピアノや仕事の話題には触れない。
なんなら将来の話もしない。
俺に配慮して話そうと思うとそうなるのだろう。
すべてが薄っぺらい会話しかなく、やがて俺は母さんとあまり話さなくなった。
クラスに馴染もうという努力すら俺はやめてしまった。
部活もやめた。
芸能関係の人間関係も疎遠になっていった。
「面白いくらい日常って崩れるんだな」
俺は部屋の外を窓から眺めながら、独り言を発した。
視線の先にはいつもの桜の木。
もう時期がズレているから当然花弁は無いが、それにしたって元気がなさすぎる。
まるで俺の現状を映し出しているようで、見るのをやめた。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる