恋を奏でるピアノ

四条葵

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1、初恋の音

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「はぁ…」
 思わずこぼれてしまった大きなため息に、私、柏崎 愛華かしわざき あいかはあわてて口元に手をあてた。

 聞こえちゃったかな?

 さっと辺りに目を走らせる。
 ここは私の通うピアノ教室から最寄りの駅であり、学校からもほど近い駅のホーム。
 ちょうど帰宅ラッシュの夕方の時間帯とあって、みんなせわしなく歩いている。
 私に気をとめる人なんてだれひとりいない。
 思わず出てしまった大きなため息は、どうやらだれにも聞こえなかったみたい。

 よかった…。

 私はほっと胸をなでおろした。
 気を抜くとつい出てしまいそうになるため息をぐっとこらえて、私は姿勢を正した。
 無意識に大きなため息が出てしまったのには、重なってしまった三つの要因があった。

 ひとつめは、今日の体育の授業で指先を少し切ってしまったこと。
 五限目のバレーボールの授業中。
 パスやトス練習をしていると、乾燥からか人差し指が切れてしまった。
 少し血が出たくらいで、突き指になったりはしなかった。
 だけど、ピアノを習っている私にとっては少し指を怪我するだけでも、演奏が変わってきてしまうから、少ししょんぼりしていたんだ。

 ふたつめは、それに関すること。
 放課後は音楽室のピアノを借りて、練習をしてからピアノ教室に行くんだけど、今日に限っては同じクラスで、同じピアノ教室に通う、水原 奏みずはら かなでくんが私の練習を見に来ていたの。
 見に来ていた、というよりあれはもはや監視!じーっと私の演奏をチェックしてた。
 その水原くんが私の指の怪我を見て、不注意だの、ドジだの、大事な発表会の前なのだからもう少し気を付けろだの、お母さんみたいなお小言をひらすらに言ってきたのだ。
 水原くんは自分の演奏だけじゃなくて、他人の演奏にも厳しいから私に対するお小言もいつものことではあるんだけど、今日はいつも以上にスパルタだった。

 というのも、近々行われるピアノ教室の発表会で、水原くんとペアになったのが私だから。
 私と水原くんのふたりで、二台のピアノを使ってひとつの曲を弾くことになっているんだ。
 私がミスをすれば、それは水原くんにも迷惑がかかるということで、私ももちろんちゃんと練習をしてはいるのだけれど、水原くんはそれ以上に力を入れているみたいだった。
 指は怪我するし、水原くんにさんざんお小言を言われるしで、精神的にとっても疲れちゃった…。

 そして大きなため息の三つ目の要因。
 私にとってはこれが一番しょんぼりなことだった。
 それは、今日一日、気になっている男子の顔を一度も見られなかったこと。
 そんなこと?と思うかもしれないけれど、恋する乙女にとっては、すっごく大事なことなの!

 それは、いつもみたいに音楽室のピアノで練習をしていた、ある日のことだった。
 その日は息抜きに音楽室のベランダに出て、なんとはなしに校庭をながめていたんだ。
 音楽室からは校庭がよく見える。
 サッカー部や野球部、いろんな運動部が練習をする中で、最後に目を向けたのが陸上部だった。
 ちょうど陸上部がタイムを計測していて、部員たちが次々にトラックを走りぬけていく。
 私は走るのが得意ではないから、早く走れるって、どれだけ楽しくて気持ちのいいことなのかなぁ、なんて思いながらぼーっとながめてた。
 そこで目にとまったのが、ひとりの男子生徒だった。
 目にもとまらぬ速さで校庭のトラックを駆け抜けていく姿に、文字通り目をうばわれた。
 走り終わってタイムを聞いたのか、うれしそうに笑う姿に私はくぎづけになった。
 走るの、すっごく好きなんだろうなぁ。
 彼の笑顔につられて、私も笑顔になっていたことに気がつく。
 好きなことに全力で取り組む姿に、私も刺激を受けたんだ。

 走ることとピアノを弾くこと。
 それぞれ土俵は違うけれど、目標に向かって一生懸命に取り組む気持ちは同じ。
 最近はピアノの発表会やコンクールが続いていて、ひたすらに精度をあげるため演奏し続けていた。
 楽しむ、という気持ちを少しおろそかにしていたかもしれない。
 もともとはクラシックが好きではじめたピアノだ。
 私も好きを大事に、楽しみながらがんばらなくちゃ!
 楽しそうに走る彼を見て、そう気合が入ったんだ。

 それから毎日のように、ピアノの練習の息抜きに彼の走りを見るのが習慣になった。
 いつ見ても彼は楽しそうに走るし、部員同士で笑い合っていて、笑顔だった。
 そんな風に見ているうちに、私は彼のことが気になり出してしまった。
 何年何組のひとなんだろう?名前はなんていうのかな…。好きなひととか、いるのかなぁ…。
 学年もクラスもわからない男子生徒。
 わかっているのは、陸上部に所属しているということだけ。
 そんな彼に、私は人生ではじめての恋心を抱いていた。

 けれど今日は、その大事な時間がまったくとれなかった。
 水原くんが付きっきりで私の演奏をにらんでいたせいで、休憩もとれなかったし。
 私が練習を終えて、あわてて校庭を見る頃には、陸上部の姿はもうすでにそこにはなかった。
 私はまた不意に出そうになったため息を、ぐっとこらえた。
 今日はどんなふうに走っていたのかなぁ…。
 目に焼きついた彼の姿に想いをはせる。
 定刻よりも電車の到着が遅れているせいか、駅のホームが混みあってきた。

 脳内に、とあるピアノ曲が流れる。
 それはさっきまで練習していた曲のひとつ。
 そうだ、今日の演奏で水原くんに注意されたところ、よく練習しておかなくちゃ。
 水原くんはピアノがすっごく上手で、コンクールでもいつもいい成績を残している。
 もちろん尊敬できる友人ではあるんだけど、他人に要求するレベルも高い。
 顔はまぁまぁかっこよくてモテるのに、性格がきついので女子は水原くんに近づけないみたい。
 口も悪くてとっても冷たいから、全然ほめてくれないし。
 他の人に比べて、なんだか私にはさらに厳しい気がするし…。
 うん、楽譜少し見直しておこう!
 これ以上お小言を言われないように、今日の復習をしておかなくちゃ。
 そう思って肩からかけているスクールバックから楽譜を取り出そうとしていると、ようやく電車の到着を告げるアナウンスが流れはじめた。
 電車が遅れたせいで、気がつくとホームは人であふれかえっていた。

 次の電車にしようかな……。

 一番前に並んではいたので、乗れないことはないと思うけれど、きっと車内はぱんぱんになるに違いない。

 どうしよう…?

 私はかばんをぎゅっと握りしめながら、電車の到着を待った。
 足元の黄色い線からはみ出してしまっている人がいるのか、電車は大きな警笛を鳴らしながらホームにすべりこんできた。
 そのときだった。
 どんっと、私の肩にだれかがぶつかった。

「わっ…!」

 私は押し出されるようにして、電車の目の前に飛び出してしまった。
 自分の身になにが起きているのか、一瞬わからなかった。
 電車が右手にせまっていて、真下には線路があった。

 うそ、ひかれる…っ!!

 なにかを考える余裕なんてなかった。
 私はぎゅっと目をつむった。
 耳をつんざくような電車の警笛の音が聞こえたとき、お腹になにか衝撃を感じて、私の身体はものすごい勢いでホームに引き戻された。

「きゃあっ…!!」

 そのまま真後ろにしりもちをつくと、目の前に電車がすべりこんできた。
 心臓が激しく脈打っていて、私は自分の身になにが起きたのかわからなかった。

 助かった、んだよね…?

 頭の整理が追いつかなかった。

 今のはなに?現実?

 でもたしかになにかが肩にぶつかる感覚がしっかりと残っていて、耳に残る大きな警笛も、目の前に迫る電車も、絶対妄想なんかじゃない。
 走ったあとよりも激しく動く心臓にふるえる手足。

 大丈夫…、どこも怪我してない…。

 自分の身体を確認して、そこでようやくほっと胸をなでおろすことができた。

「大丈夫かっ!?」

 真後ろから大きな声が聞こえて、私ははっとした。
 私のお腹にはだれかの腕がまわっていて、きっとこのひとが、落ちそうになった私をホームに引き戻してくれたんだ。

「す、すみません!ありが、……!!」

 あわてて振り返った私は、目を見開いた。
 目の前にある顔をまじまじと見て声が出なくなってしまう。
 見間違えるわけがない。
 毎日のように見ていたのだから。

 目の前にいたのは、私を助けてくれたのは、私がずっと音楽室から見ていた、陸上部の男子だった。
 あまりの驚きになにも言えなくなった私を、心配そうにのぞきこんでくる彼。

「おーい、えっと、平気か?」

 ぼーっとしてしまった私の目の前で手をひらひらさせる。
 私ははっと我にかえった。

「あ、は、はい!へ、平気っ!です!あの!ありがとうございましたっ!」

 私は深々と頭を下げた。
 私のようすに安心したみたいに、彼は大きく息を吐き出した。

「よかったぁ…、怪我とかしてない?」
「はい!大丈夫ですっ。あの、あなたは怪我ないですか?」

 私を助けたせいで怪我などさせてしまっていたら大変だ。

「俺は全然平気!」

 そう言って笑った顔は、やっぱり音楽室のベランダから見ていた彼だった。
 向けられる笑顔に、胸が高鳴った。

 まさかこんな風に話す機会がやってくるなんて…!

 今まで遠くから見つめることしかできなかった。

 それなのに危ないところを助けてもらって、それがあこがれていた男子だなんて…。
 そんなの、運命なんじゃないかって思っちゃうよ。
 私の運命の人は、きみなんじゃないかって。

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