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大好きな気持ちの伝え方④-3

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 目が覚めると、ベッドの中にいた。カーテンの隙間から明るい日の光が差し込んでいる。働かない頭で呆け、時計を見ようと寝返りを打った。途端に秘部にズキンと痛みがはしり、身を固まらせる。

 昨夜のことを思い出し、そっと下に手を伸ばした。下着の布が指先を滑り、息を吐く。事後の記憶はあまり無いけれど、颯太が拭いてくれていたのは何となく覚えている。こうしてちゃんとベッドで寝ているところを見ると、あの後、身の回りのことを全てやってくれたようだ。

 肝心の颯太はといえば、姿がない。時計の時刻は、昼の十二時を過ぎている。痛む身体を起こし、寝室を出た。狭い部屋の中を探してみるも、やはりどこにもいない。

 ローテーブルに置き去りになっている携帯が、チカチカと点滅していた。見れば颯太からのメッセージが届いていた。

『鍵、ポストの中に入れた』

 端的な内容に促されるように玄関へ行き、ポストを開ける。そこには家の鍵が入っていて、虚しい気持ちで取り出した。

 ベッドに戻り、横になって身体を丸める。

 どうしてあんなことをしたのだろう。いつだって行為を求めるのは私からで、たとえ性欲の捌け口だとしても、颯太から私に手を出すことは一度もなかったのに。

 ドライブデートをした日から、距離を置かれているのは感じていた。恋人ごっこで気を悪くさせたんじゃないかと思ったら、私から連絡するのも憚られて、それでも二週間も会えない現状に耐えられず思い切ってご飯に誘った。

 だから、夜中に突然やってきて、驚いたけど嬉しかった。また今まで通りでいられる。そう思った矢先、あんなことになってしまった。

 携帯に指を滑らせ、開いたままの颯太の画面に打ち込んでいく。

『今、家にいる?』

 すぐに既読が付かないのを見て、ベッドに放り投げた。

 大きくため息をつき、毛布に顔を埋める。偽物のデートに浮かれた罰かもしれない。調子に乗って、キスを強請って、まるで本当に恋人同士なのではないかと思うほど甘いセックスをして。なんとなく距離が縮んだ気がしていた。ただ颯太は付き合わされているだけなのに、何を勘違いしていたのだろう。

 携帯に手を伸ばし、まだ既読のついていないそこに続けて打ち込む。

『見たら連絡ちょうだい』

 しばらく画面を見つめ、また放り投げる。

 今、どこで何をしているのだろう。黙って帰ってしまったということは、後ろめたさを感じているのかもしれない。理由もなくあんなことをする性格じゃないのは分かっている。明らかに思い詰めた顔をしていたし、始終余裕が無さそうだった。

 待てど暮らせど返事が来ず、思い立ってシャワーを浴びた。おそるおそる下を触ってみても血が出ているわけでもなく、ぴりつく痛みも気づけば治まっていた。

 素早く風呂場を出て、逸る心で携帯を見る。返事はまだ来ていなかった。だんだんと不安感が増していき、胸が苦しくなっていく。

 このまま返事がこなかったらどうしよう。いつもすぐに返信してくるのだから、これは確実にわざと無視されている。

『颯太、無視しないで』
『しゃべりたい』

 送りながら、一方的に溜まっていく吹き出しを虚しい気持ちで見つめる。あまり私から触れない方がいいと思っていたけれど、『昨日のことは平気だから』と打ち込み、送る寸前で携帯が震えた。メッセージの着信を知らせるバーを見て、縋る気持ちで画面をタップすれば、表示されたのは颯太の名前ではなかった。

『久しぶり。元気にしてる?』

 マイちゃんからだ。高校時代の友人の中でも、未だに連絡を取り合っている数少ない存在だ。連絡無精の私を見捨てず、こうして定期的に送ってくれる優しい子だ。

 ふと、ドライブデートをした日、車の中での会話を思い出した。あの時なんとなく感じた違和感が、ずっと心のどこかに引っかかっていた。気づけば通話ボタンを押していて、コール音を緊張しながら聞く。

『未羽?』
「あ……、ごめん、急に。連絡ありがと」
『うん。どしたの?』

 冷静なその声を聞いていると、心が落ち着いていく。

「あのさ、二年生のとき、海でゴミ広いしたの覚えてる?」
『え、うん。……随分懐かしい思い出引っ張り出したね。もちろん覚えてるよ』

 おかしそうな声で言う。

「あの時私さ、颯太のこと、その……、恋愛対象として無いって言ったみたいなんだけど、けっこう酷い言い方してたのかな、って……」

 そんなこと、覚えてるわけがない。勢いで電話を掛けてしまったけれど、突然こんなことを聞かれても困らせるだけだ。ただ、車の中で颯太に言われた時、まるで酷い悪口に傷ついたかのような言い方だったのが気になった。

『ごめん、覚えてないや』
「だよね……、急にごめんね」
『でも、そういう感じのことって未羽はよく言ってたよね』
「うん」

 それは私と颯太の間柄を茶化す声に対する、決まり文句みたいなものだった。深い意味はないし、颯太も平然と受け流していたように思う。

『あれ、見ててちょっとつらかったけどね』
「なんで?」
『だって、未羽が言うたびに矢野つらそうな顔してたし』
「……え」

 そんな顔、してたっけ。覚えてない。いつも淡々としてて、つらそうな顔なんて向けられたことがない。

『先手打たれて、言うに言えないって感じだったんじゃないの』
「言うって、なにを……」
『そりゃあ、未羽に好きだ、って』

 好きだ。その言葉が頭の中でリフレインし、一気に記憶が蘇ってくる。熱い吐息と、鈍い痛みと、快楽と。頭がぐちゃぐちゃになりながら耳元で囁かれた声は、確かにそう言っていた。

 目の前が真っ白になり、唇が震える。どうしよう、わけわかんない、どうしよう。分かんないよ、颯太。

『まぁ、昔の話だけどね。矢野彼女いるんでしょ』

 マイちゃんの声が遠くから聞こえて頭に入ってこない。どうして私は知らなかったの。どうしてマイちゃんは知ってたの。そんなの考えずとも明白だ。颯太が、私にバレないように振る舞っていたのだから。

『未羽? 矢野となんかあったの?』

 どう答えたら良いか分からず、なんでもないよ、と努めて明るい声で言った。また近いうちに会おう。そう当たり障りの無い会話をし、通話を切る。途端に言いようのない感情が溢れ出し、涙が滲んだ。

 トーク画面を開き、未だ既読のつかないそこに打ち込んでいく。

『返事して、颯太。なんで』

 その先を躊躇い、中途半端なまま送ってしまった。なんで言ってくれなかったの。その答えは今しがたマイちゃんが教えてくれたじゃないか。私が意味の無い嘘をついたからだ。見栄を張って、余裕のある振りをして、颯太の心を踏みにじった。

 溢れてくる涙を拭い、ベッドから下りた。下着を着け、外出用のTシャツを着て、短パンに手を伸ばしかけ、ちゃんとしたスカートを引っ張り出して足を通す。携帯だけを握りしめて家を出ると、久しく行っていない彼の家へと足を進めた。

 頭の中がパニックを起こしたかのように感情が定まらず、涙が止まってくれない。きっと通りすがりの人から異様な目で見られているだろうけれど、それを確認する余裕すらない。

 溢れる涙を手で拭い、早足で歩き続け、さほど遠くないアパートの前に着いた。勢いのままチャイムを押し、当たり前のように反応がなく、縋るような気持ちで何度も何度も押す。

 嫌だよ、このまま会えなくなるなんて、絶対に嫌だ。ぼたぼたと涙が地面に落ち、それでもチャイムを押す指を止めずにいると、鍵の開く乾いた音が鳴った。驚いてその指を止めれば、ドアノブが下りてそこが開いていく。

 颯太が顔を出し、戸惑い、言葉を失ったように私を見つめていて、とっくに崩壊した涙腺から更に雫が溢れてきた。

「颯太ぁ……っ」

 腕が引かれ、中に入ると同時に颯太が声を上げる。

「ごめん、未羽、ごめん……っ!」

 指先で目元をぐいぐいと拭われ、目を閉じるとまた零れ落ちた涙を雑に拭う。

「ほんとごめん、どうかしてた、俺……」

 しゃくり上げるほどに涙が込み上げ、それでも感情のままに動く身体は止まらずに颯太の手を掴んだ。

「無視、しないで」
「ごめん……」
「だまって、帰らないで」
「……ごめん」

 これ以上ないほどに落ち込んだ様子で、ただ謝り続けている。こんな顔の颯太を初めて見た。

「もう、俺、未羽になんて思われても」
「あんなことで、嫌いなんてならないから……っ」

 私の言葉に驚いたように目を大きくし、すぐに悲しそうに歪ませる。

「でも」
「今まで散々、傷ついてきたもん。彼女できるたび、つらくて、い、息、できなくなって。別れても、すぐまた他の子好きになっちゃうから……っ」

 颯太の反応を見るのが怖くて、俯き、握る手に力を込めた。

「もう、何年も、同じこと繰り返して……」

 馬鹿みたいだ、本当に。自分が醜くて、嫌いで、どうしようもない。

「離れたくなかったから、いっぱい嫌なことお願いして」

 身体を重ねている間は安心出来た。愛されているかのような錯覚が、押しつぶされそうな心を麻痺させてくれたから。

「……ごめん、ごめんね……」

 そう謝れば、握っている手が遠慮がちに握り返された。

「颯太、昨日の、もう一回言って……」

 握る力が強くなり、は、と吐き出す息づかいが届く。

「好きだ」

 言葉が、手の温もりと共に身体の中へと浸透していく。落ち着きかけてきた涙が再び込み上げ、頬を伝って落ちた。

「未羽、好きだ。ずっと、好きだった」

 僅かに震えるその声が、好きだ、と何度も繰り返す。握っているのと反対の手が私の頬に触れ、涙を拭って包み込んだ。

「私も、ずっと……、好きだったよ」

 どれだけ遠回りしたのだろう。何年も隠し続けてきた想いは、一生口にすることなどないと思っていた。好き、と発した途端その気持ちが止まらなくなって、颯太の胸元にしがみついた。
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