25 / 25
7話-2(完結)
しおりを挟む***
三月中旬、冬の寒さが名残を見せながらも、日に日に暖かさが増してきた頃。もうすぐ春になるのだな、とぼんやりと思う。この時期は服装に困る。もう上着はいらないかな、と思えば突然寒い日が戻ってくるし、次の日には忘れたかのように再び暖かくなる。
「明日は暖かいんですかねぇ」
パソコン画面を見つめたまま、隣に座る飯塚さんに言った。返事が無いので顔を向けてみれば、何故か呆れ果てた表情で私を見ていた。
「お前……明日の気温なんか心配してる場合かよ」
「なんですか」
「今のこの状況をみて! この仕事の量をみて!」
「はぁ……」
「終わんないよぉ、今日も明日も明後日も延々に終わんないよぉ」
繁忙期真っただ中である今、私達は毎日、膨大な量の仕事に追われている。去年も同じ状態だったので覚悟はしていたけれど、こうして目の前にするとやはり怖気づくほどの量だ。
「毎年のことじゃないですか」
「去年はお前が敏腕だったから乗り越えられたでしょ!」
「今年もいますが」
「ポンコツ化した宮丘じゃなんの役にも立たないの!」
なんという言い草だ、と思うも、否定が出来ない。仕事に身が入らず、プライベートでも常に頭が働かず、ただ毎日を時間に身を任せて過ごすだけの日々が続いている。理由なんて分かりきっている。三か月前のあの日、葵くんと別れてからずっと、この調子なのだから。
あれから、しばらく葵くんからの連絡が続いた。着信だったり、メッセージだったり、日によって違ったけれど、ほぼ毎日のように送り続けられた。それが、二週間が経った辺りでぴたりと止まった。
あぁ、諦めたのかな、と思った途端、喪失感が襲い掛かってきた。失ったものの大きさを再認識し、何度も一人で泣いた。
応援してくれていた真希ちゃんには、何でもないように伝えた。学童のお迎えで顔を合わせるので、その時の様子を一度だけ伝えられたことがある。なんだか元気がなかった、と言っていたのはまだ年が明ける前の頃だ。今はもう、いつも通りに振舞っているのだろう。
結局、決意をした私自身が引きずってしまっている。こうなるだろうとは思っていた。もしかしたらもう、誰かを好きになんてならないかもな、なんて思っていたけれど、それ以前の問題だ。毎日が色あせて、息が吸いづらい。
「駄目だ、俺もう無理。帰る」
飯塚さんの言葉に、時計を見た。二十時を周っている。他の社員もほとんど帰っていて、フロア内には数人がぽつりぽつりと残っているだけだ。
「宮丘は帰んないの?」
「もうちょっとやっていきます」
「あんま無理すんなよ。お疲れー」
お疲れさまでした、と早々に歩き出した背中に向かって言った。同じ部署の人がいなくなり、寂しさにそっと息を吐く。
ちゃんとしなくてはいけない。身が入らないだなんて、理由にならない。皆が優しいのをいいことに、迷惑をかけるのは最低だ。
ペットボトルの飲み物を一気飲みし、気合いを入れてパソコンを睨みつけた。よしやるぞ、と意気込んだところで、机に置いていたスマホが着信を知らせる。バイブの振動が響き、びくりと心臓が跳ねた。
画面を見ると、飯塚さんからの電話だった。今出て行ったばかりだというのに、なんなのか。
「どうしましたか?」
忘れ物でもして、持ってきてくれと言うんじゃないだろうな。
『なんかさ、下に変な男がいたんだよ』
「え……」
『お前のこと待ってるっぽいんだけど』
嫌な感覚が一気に蘇ってきた。忘れていたのに。もう、思い出すことはないと思っていたのに。
「私のこと、話したんですか……?」
『え、まぁ。まだ中にいるのかって聞かれたから、いるって答えたよ』
血の気が引いていく。どうしよう、あれだけちゃんと拒絶したのに、それでもまだ付きまとわれるなんて思わなかった。話からして、飯塚さんはもう駅に向かって歩いているようだし、今更戻ってきてくださいだなんて言えない。一人で下に行くしかない。
『もしかして彼氏?』
「違います」
『そーなの? 最初、花さん、とか言うから誰のことか分かんなかったわ』
とくりと、心臓が高鳴った。周囲の空気が途端に軽く、鮮明になる。
『親戚かなんか?』
不安感が消え、じわじわと心が高揚していく。私は本当に最低だ。あんな酷い別れ方をして、被害者かのようにずるずると引きずって、それでも、こうしてまた会えることを嬉しく思ってしまっている。
「あ、ありがとうございます!」
『え? お、おう』
慌てて席を立ちながら通話を切った。内履きのままフロアを出て、エレベーターがくるのを待ち、到着したそれに飛び乗って下のボタンを急いで押す。
もしかしたら、恨み言でも言われるのかもしれない。彼女が出来ました、なんて報告かもしれない。だけど、今はただ彼の顔が見たい一心で、足が勝手に動いてしまう。
一階に着き、エレベーターホールを駆け抜けた。遅い時間の為か誰もおらず、低めのヒールが音を響かせる。入口を出ると、目の前に暗い空が広がっていた。心地よい空気が頬を撫で、目の前の道路を車が通りすぎていく。
「花さん」
横から声がした。見なくても、誰だか分かる。その声で、その呼び方をするのは、君だけだから。
「慌ててどうした? もしかして帰りじゃないの?」
葵くんが目を丸くし、私の姿を見て言った。鞄も持たず、靴も履き替えないまま出てきた私を不思議に思っているのだろう。
三か月ぶりだというのに、まるで何年も会っていなかったように感じる。葵くんだ、目の前にいる。よく見れば、学生服のブレザーを着ていた。すぐに気づけなかったのは、前が外され、更にネクタイも付けていなかったからだ。暗い空の下では、飯塚さんも分からなかっただろう。
「……さっき、同僚の人が電話くれて」
「あぁ、あの人か。なかなか出て来ないから聞いちゃったんだ」
「なかなかって……いつからいたの?」
「夕方くらい。本当は式終わってすぐ来たかったんだけど、なんか色々掴まってた。まぁ、花さんも仕事中だろうから急いでも会えないだろうしと思って」
ブレザーのボタンが付いていないことに気付いた。ネクタイが無いのも、きっとそういうことだ。モテるんだね、と言ったら、おかしな空気になってしまうのだろうか。足元に置かれている学生鞄から花束が飛び出していて、私の視線に気付いたのか、葵くんが言った。
「卒業したんだ、今日」
「……おめでとう」
「うん、ありがとう」
卒業してすぐ、その足でここに来た。その意味がまだ計り知れなくて、どう反応したらいいのか分からない。
「私、会社の場所教えたっけ」
「悠希のお母さんに聞いた」
「そ、そっか……」
「ごめん」
怒ってるわけじゃないのに、悪いことをしているという自覚があるのか、眉を下げて謝ってくる。
向かい合い、言葉を探す。どうしてここに来たの。どうしてまた、会いに来てくれたの。私のこと嫌いになってないの? 期待と不安が入り混じり、口から出ないままずっと頭の中をぐるぐると周る。
「俺、あの日、花さんに振られてすごいショックだった」
葵くんが話し出した。遠い過去を思い出すように言う姿に、心が準備を始める。
「もう立ち直れないくらい落ち込んで、このまま一生苦しいんだろうなって思った」
今の私と同じだ。目の前の表情を見ると、この人はもう、乗り越えたのだろう。
「でも、冷静になって花さんが言ってたこと考えたんだ」
「私が言ってたこと……?」
「好きだって勘違いしてる、って言ったの、覚えてる?」
覚えている。その後、怒ったように必死に声を上げたのも。
「なにか、わかったの……?」
「ほとんど、分かった」
「……そ、っか」
「で、最後の一押し、確認しにきた」
そう言うと、周囲をきょろきょろと見回した。人通りの少ない夜道には、今は誰の姿も無い。それを確認したのか、私に向き直る。
「このへん、見てて」
自分の顔の前あたりで、指先をくるくると回転させる。言われた通りにそこを見つめると、下は見ないで、と念押しされた。
小さな光が下から昇ってきた。次の瞬間、無数の光が円形に散らばり、色とりどりに煌めいていく。わ、と思わず声が出た。いつだったか、悠希くんの家で見せてくれた手品だ。すぐにまた下から光が現れ、花火のように咲いて輝く。次から次へと繰り返し咲き誇る小さな大輪に、ただ魅了された。
「すごい」
まるで魔法だ。手元を見たくて、でも見ないでと言われた言葉を思い出し、ぐっと堪えた。やがて消えた光の中、宙を彷徨う視線が葵くんの瞳とぶつかった。今見た花火のようにきらきらと輝き、まっすぐに見つめられる。
何度も見たその瞳に、意識が吸い込まれていく。いつだってこの人は真っすぐで、自分に正直で、私を捉えようとする。
「花さん、好きです」
顔が近づいたかと思えば、唇が触れていた。柔らかい感触が力強く押し付けられ、ちゅ、と小さく音を立てる。
驚いて言葉が出ず、固まった私を綺麗な瞳が至近距離で見つめる。ゆっくりと離れていく中、その目がすっと細められた。途端に胸が締め付けられる。ずるい、こんな時にずっと見たかった笑顔を見せるなんて、本当にずるい。
「花さんは優しくて、でも、すごく臆病な人だから、怖くても助けてって言えない。不安でも平気なふりする。俺のこと好きでも、離れる日がくるのが嫌で、付き合えないって言った。それが俺の答え。……合ってる?」
じわりと目の奥から込み上げてくるのを感じ、顔を俯かせた。答えって、それ、私の投げかけた言葉と噛み合ってないよ。勘違いだよって言っただけなのに、どうしてそこまで分かってしまうの。
「大丈夫。俺はずっと、花さんの傍にいる」
涙が一滴落ちてしまい、慌てて拭った。少しおかしそうな声が降ってくる。
「また泣くのかよ」
「泣いて、ない」
「泣いてないの?」
「泣いてないよ……っ」
大きな手が髪を撫で、耳の後ろをなぞり、両頬を包み込む。顔を覗き込まれ、再び近くなった距離に心臓が高鳴った。
「もう一回キスしたい」
「ま、待って……っ」
「駄目?」
慌てて押し返すも、全く距離が広がらない。
「先に、言わなきゃいけないことがあるから」
見上げれば顔がくっついてしまいそうで、制服のシャツを見つめたまま言った。
「私も、葵くんが好き……です。付き合って、ください」
恥ずかしさの余り、声が尻すぼみに小さくなってしまった。沈黙に耐えながら反応を待っていると、顔から手が離れ、背中に回された。キスされるという思いは外れ、ぐっと抱き寄せられる。身体が密着し呆気に取られていると、はい、という泣きそうな声が耳に届いた。
終
0
お気に入りに追加
2
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
お見合い相手は極道の天使様!?
愛月花音
恋愛
恋愛小説大賞にエントリー中。
勝ち気で手の早い性格が災いしてなかなか彼氏がいない歴数年。
そんな私にお見合い相手の話がきた。
見た目は、ドストライクな
クールビューティーなイケメン。
だが相手は、ヤクザの若頭だった。
騙された……そう思った。
しかし彼は、若頭なのに
極道の天使という異名を持っており……?
彼を知れば知るほど甘く胸キュンなギャップにハマっていく。
勝ち気なお嬢様&英語教師。
椎名上紗(24)
《しいな かずさ》
&
極道の天使&若頭
鬼龍院葵(26歳)
《きりゅういん あおい》
勝ち気女性教師&極道の天使の
甘キュンラブストーリー。
表紙は、素敵な絵師様。
紺野遥様です!
2022年12月18日エタニティ
投稿恋愛小説人気ランキング過去最高3位。
誤字、脱字あったら申し訳ないありません。
見つけ次第、修正します。
公開日・2022年11月29日。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
極道に大切に飼われた、お姫様
真木
恋愛
珈涼は父の組のため、生粋の極道、月岡に大切に飼われるようにして暮らすことになる。憧れていた月岡に甲斐甲斐しく世話を焼かれるのも、教え込まれるように夜ごと結ばれるのも、珈涼はただ恐ろしくて殻にこもっていく。繊細で怖がりな少女と、愛情の伝え方が下手な極道の、すれ違いラブストーリー。
先生!放課後の隣の教室から女子の喘ぎ声が聴こえました…
ヘロディア
恋愛
居残りを余儀なくされた高校生の主人公。
しかし、隣の部屋からかすかに女子の喘ぎ声が聴こえてくるのであった。
気になって覗いてみた主人公は、衝撃的な光景を目の当たりにする…
隠れ御曹司の愛に絡めとられて
海棠桔梗
恋愛
目が覚めたら、名前が何だったかさっぱり覚えていない男とベッドを共にしていた――
彼氏に浮気されて更になぜか自分の方が振られて「もう男なんていらない!」って思ってた矢先、強引に参加させられた合コンで出会った、やたら綺麗な顔の男。
古い雑居ビルの一室に住んでるくせに、持ってる腕時計は超高級品。
仕事は飲食店勤務――って、もしかしてホスト!?
チャラい男はお断り!
けれども彼の作る料理はどれも絶品で……
超大手商社 秘書課勤務
野村 亜矢(のむら あや)
29歳
特技:迷子
×
飲食店勤務(ホスト?)
名も知らぬ男
24歳
特技:家事?
「方向音痴・家事音痴の女」は「チャラいけれど家事は完璧な男」の愛に絡め取られて
もう逃げられない――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる