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7話-1

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 静かな夜道に、二人分の足音が響く。時折吹く冷たい風に身震いをすれば、隣を歩く葵くんも寒そうに身体を縮こませた。

 まっすぐに前を見つめる横顔をじっと見つめる。何度も見てきたその顔が、学生服に包まれているだけで新鮮味を帯びて見える。

 分かっていたはずなのに、こうして目の当たりにするとやはり現実を突きつけられた気持ちになる。彼の日常は私とは全く違う場所にあるのだと、打ちのめされる。

 視線に気づいたのか、葵くんが私を見下ろした。不思議そうな目を向けられ、慌てて顔を背ける。あれだけ大泣きした後なので、顔を見られるのが恥ずかしい。

 あれから、路上で座り込む私たちを現実に引き戻すかのように、携帯の着信音が鳴り響いた。葵くんの携帯からだった。第一声を発すると同時に男の人の怒声が聞こえてきて、二人そろって肩をびくつかせた。

 声の主はお兄さんだった。どうやら、葵くんは学童の仕事を無断欠勤してしまったらしい。職場から家族に連絡がいき、そこから自分の携帯に何度もかけたようだと、着信履歴の嵐を眺めながら葵くんが淡々と言った。

 一人で帰ろうとする私に、葵くんは首を振り続けた。「絶対に家まで送る」と言う彼の目には、私が乱暴された時の光景が映っているようだった。

 あの人は、きっともう現れない。根拠があるわけではないけれど、確信に近いものを感じている。あれだけ私に強気に出て、暴力を振るい続けていたのは、私自身が弱かったせいだ。嫌だと声を上げて、ちゃんと抵抗していれば、あんなことにはならなかった。大人しく言うことを聞いてしまったから、あの人の歪んだ感情を助長させてしまったのだ。

 マンションの入り口が見えてきた。足を止め、同じように立ち止まった葵くんを見上げる。

「ここでいいよ、ありがとう」
「部屋の前まで行く」
「大丈夫だよ」
「でも……」

 大丈夫、と再び言えば、眉を寄せたまま口を閉じた。

 私のピンチに駆けつけてくれたのは、半分偶然で、半分、必然だ。なぜなら、高校があるあの場所を選んだのは私だから。会えるだなんて思っていなかった。ただ、心の拠り所にしようと思っただけだ。挫けそうになったら彼を思い出そう、そうすれば頑張れる、と、そんなささやかなお守り代わりにしようとした。

 自分の弱さを乗り越えて、そうしたら、ちゃんと思いを伝えよう。決意していた感情が、溢れ出てくる。もう乗り越えたのだから、今がその時なのかもしれない。

「あの」

 私が言うよりも前に、葵くんが声を上げた。中途半端に吸った息を、そっと吐いて捨てる。

「あ、花さん、なんか言おうとした?」
「ううん、なに?」

 卑怯だな、と、心の中で自嘲する。葵くんのじっと見つめる目を、黙って受けとめる。この人はいつも、こうやって、何かを伝えようとする時に私の目を見据える。逃がさないとばかりに、捉えられる。暗い夜空の下だというのに、瞳の中に光が見えた気がした。

「俺、花さんが好き」

 冷たい空気の中に、透き通った声が広がっていく。全身から染み込んでいくように、熱い感情が心臓へと届く。

「本当は、イブにデート誘おうと思った。それで、告白しようと思った。けど、それまで我慢できそうになくて……」

 視線を外して言い、再び私の目を見つめる。

「好きです。付き合ってください」

 はい、と言えたら、どんなに良かっただろう。欲望のままに彼を受け入れ、楽な道を選べたら、私はきっと、幸福感で満たされていく。

 でも駄目だ。あれからずっと考えていた。前に進もうと決めた、あの一時の感情から冷静になると、見えていなかったものが沢山見えてきた。だから、こうする道を選んだ。本当は私の方から思いを伝えるつもりだったから、少し予定が狂ってしまったけれど。

「……ごめんなさい、付き合えない」

 自分で言った言葉に、胸が苦しくなった。それ以上に、驚いた葵くんの表情がみるみる悲しそうに歪んでいくのを見るのが、耐えられなかった。

「私も、葵くんのこと、好きだよ」
「……っなら、なんで」
「だって、葵くんは高校生で」

 あぁ、ほら、そうやって辛そうな顔をする。そんな顔をさせたいわけじゃないのに。私だって、大好きなのに。

「これから、受験だってあるし」
「そんなの絶対受かるから大丈夫」
「保育士目指して、まだまだ頑張らなきゃいけないし」
「関係ないだろ。お互い好きなのに、どうして一緒にいちゃいけないんだよ」
「……バイトで、初めての体験をして、私のこと好きだって勘違いしてるだけだよ」

 手をとって握られた。両手できつく力を込める仕草が、まるで懇願でもしているかのように見えて泣きそうになる。

「なんでそんなこと言うんだよ……っ」
「葵くん」
「俺には花さんしかいない。本当に好きなのに、俺の気持ちを勝手に否定すんなよ……」

 最初は、引け目のような感情が大きかった。高校だって、大学だって、同い年の女の子たちが沢山いて、きっと、私なんかよりも素敵な子に自然と惹かれていくのだろう、と。

 私は釣り合わない。私じゃないほうがいい。そういう思いが、次第に不安へと変わっていった。真っすぐにぶつけてくれる愛情が、一時のものだとしたら、そう思うだけで怖くて溜まらなくなる。失ったら最後、きっともう立ち直れない。

「……じゃあ、葵くんが大人になって、まだ私のこと好きだって思ってくれたら、もう一回告白してくれるかな」

 私の苦し紛れの言葉に、は? と訳が分からない様子で顔を歪める。

「なんだよ、それ、大人って何、何歳?」
「大人は大人だよ……。今じゃないって、分かるでしょ」

 掴まれたままの手が、強く、強く、握られる。心の痛みがダイレクトに伝わってくるようで、罪悪感が広がっていく。失恋なんて、させてごめん。嫌な思い出を作って、ごめん。

「花さん、嫌だ……っ」
「ごめん」
「花さん……」
「ごめんなさい」

 何度も謝る私の言葉が、冷たい夜空に消えていく。きっと、今日のことは一生忘れない。胸の痛みも、葵くんの悲しそうな顔も、この、冬の訪れを告げるような寒さも。その頃にはお互いに、過去の出来事として思い流すくらいには、前に進めていればいいと思う。

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