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5話-1
しおりを挟むキッチンで湯を沸かし、コーヒーを淹れる準備をする。もう夜だし、ノンカフェインがいいだろう。いや、それ以前に彼はコーヒーが飲めるのだろうか。部屋へ顔を覗かせ、コーヒーでいい? と聞こうと思いきや、割と目の前で立ち止まったままの背中を見て驚いた。
「なんでそんなところで突っ立ってるの」
「……あ、いや」
コートも脱がず、何をするでもなく立ったまま少しだけ振り向く。
玄関に入った時もそうだった。中に入るのを躊躇うかのように立ち止まり、靴を脱いで一歩を踏み出してくれるまでそこそこ時間がかかった。
「俺、やっぱ廊下にいる」
「どうして? 部屋、汚かった?」
「全然綺麗だけど」
なら、やはり無理を言ってしまったか。バイト終わりで、本当なら真っすぐ家に帰っているところを、わざわざ寄り道して送ってくれたのだ。そんな彼を更に呼び止めたのは、やっぱり非常識だった。心配そうに戻ってきてくれた優しさに、つい甘えてしまった。
「コーヒーだけ、飲んでいってくれないかな。長居はさせないから」
私の言葉に、何か言いたげに口を開き、すぐに俯いて頷いた。
社会人二年目の給料で借りられる部屋など、高が知れている。狭い1Kの間取りはよくあるタイプだが、一つだけ珍しいのは、キッチンが独立したスペースにあることだ。廊下に併設されているわけではないので、使い勝手は良い。
コーヒーの入ったマグカップを二つ、両手に持って部屋に入る。ローテーブルに適当に置き、相変わらず立ったままの葵くんに手を伸ばした。
「コート、掛けるから脱いで」
「あぁ、ありがとう……」
妙に視線が泳いでいる。かといって部屋中を物色されているわけでもなく、どちらかというと、目のやり場に困っているような仕草だ。もしかしたら、と思ってはいたけれど、女の一人暮らしの部屋に入ることに対して、躊躇いを感じているのかもしれない。大学生ならまだしも、高校生では、そんな経験もあまり無いだろうから。
座ってと促し、マグカップを移動させれば、ようやくそこに腰を下ろした。正面に座ると、さっきまで定まらなかった視線が突然見据えるように真っすぐに向けられる。まじまじと顔を見られ、今度は私が俯いた。きっと、泣いた痕だまだ残っている。
恐怖に負けて恥ずかしい姿を見せてしまった。エントランスでのことを思い出すと、顔から火が出そうになるほどだ。いい大人が、怖いから一緒にいて欲しいだなんて、みっともない。
「ごめんね……、迷惑かけちゃって。それ飲んだら、すぐ帰っていいから」
「迷惑なんて思ってない。落ち着くまで傍にいる」
その言葉に、心がひどく安心していく。あれだけ怖かった一人の空間が、今はとても安全な場所に思える。男の人だから、とか、そういうことではなくて、この人は私の味方でいてくれる、という根拠のない思いが、彼自身から伝わってくるようだった。
葵くんの手がマグカップにのび、口を付ける。熱そうにすぐ離す仕草を見て、心が和らいでいく。
「あの人ね、昔、付き合ってた人で……」
目の前で息を呑むような気配を感じ、視線を落とした。これは、伝えなくてはいけない。ここまで巻き込んでおいて、何も事情を聞くな、なんて勝手なことは言えない。
「大学四年の時、ちょっとだけ同棲もして、このまま結婚するのかなって、そういう雰囲気だったんだけど」
私の話を、葵くんは黙って聞いている。顔は見れないけれど、きっと、あの真っすぐな目で見つめられている。
「手を上げる人、だったの」
「……暴力振るわれたってこと?」
「うん」
最初は、些細な事だった。初めて殴られて、そこまで怒らせてしまったのか、と驚きつつも反省した。けれど、それを何度か繰り返し、頻度が増すにつれて異常さに気付いた。これは普通じゃない。そう思ってから、仲の良かった真希ちゃんに相談した。彼女はとても心配して、近くに引っ越してくるように言ってくれた。
「別れようって言ったんだけど、聞いてくれなかったから、逃げるみたいに引っ越して、就職先も教えないまま卒業したの」
「ずっと連絡とってなかったんだろ」
「そうだよ。番号も変えたし、直接の繋がりは全部断たった。だから、すごく頑張って探したんだと思う」
誰から聞いたのかは分からないけれど、大学伝いで就職先を見つけるのが一番容易かっただろう。
あの日、職場に電話があった後、怖くてなかなか帰り支度ができなかった。当時の記憶が一気に蘇り、冷や汗が止まらず、身体が震えた。
私の様子があまりにもおかしかったのか、飯塚さんが事情も聞かずに一緒に会社を出てくれた。どこかで見られているのではないかと始終身を縮こませていたけれど、目の前に現れることはなかった。
次の日も、念のために三十分だけ早退させてもらった。定時を狙って待ち構えていたら、と不安だったからだ。そんな心配も虚しく、あの電話以来、今日まで何事もなかった。だから、油断していたのかもしれない。
「ごめんなさい。気を付けてたつもりなんだけど、まさか電車乗ってつけられてるなんて思わなくて……」
「会社から学童まで? なんで声かけなかったんだろ」
「たぶん、家を見つけようとしたんだと思う。駅降りたら、普通、家に帰ると思うでしょ」
「……なるほど」
学童に着く前に気付いてよかった。あのまま学童の中に入っていたら、あそこにいる人たちに、子供たちに、迷惑がかかってしまう。いや、もう遅いか。すでに一人、巻き込んでしまったのだから。
「葵くん、もし何かあったら、ごめんね。すぐに教えて」
「何かって?」
「あの人が学童にきて、葵くんに何かしたり、とか」
言いながら、想像して恐ろしくなった。咄嗟にかばってくれたあの時、葵くんはコートを着ていなかった。内履きのままだったし、明らかに建物の中から飛び出してきた恰好だった。
それに、首から職員用の名札を下げていた。あの状況で冷静にそこまで見られていたかは分からないけれど、後から調べれば、近くに学童クラブがあることは簡単に分かる。
「俺の心配なんか、しなくていい」
少し低い声でそう言われ、驚いて顔を上げた。不機嫌そうに目を細め、私を見ている。
「また我慢してるように見える」
「そんなの、してないよ」
「さっきみたいに、いっぱい弱音吐けばいいのに」
途端に顔が熱くなった。
「な、なんで掘り返すの……!」
「ごめん、嫌だった?」
「嫌だよ、恥ずかしい……」
わざわざ口にすることないのに、私の気持ちが理解できないのか、へぇ、と意外そうな声を出す。
「でも俺は、頼ってもらえて嬉しかった」
「え……」
「もっと頼って、わがまま言ってほしい。怖いっていう気持ち、我慢しないでぶつけてほしい。そういうの全部受け止める。そのために俺、ここにいると思ってるんだけど」
この人は、自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。そんなふうに言われたら、不安定な私の心は簡単に崩れてしまう。手を伸ばして、縋ってしまいそうになる。
俯き、自分の手を見つめた。指先を握りしめれば、締め付けられる感覚に安堵し、ずっと不安感が消えていなかったことに気付く。時間が刻一刻と過ぎていく。マグカップの中身は、あとどれくらい残っているのだろう。
「いいよ」
「なに、が……」
見透かしたように、落ち着いた声が私の頭に降り注ぐ。
「なんでも言って」
迷う心が、は、と小さく息を吐き出させた。
「……かえら、ないで」
零れた小さな声に、自分自身で驚いた。何を言っているんだ私は。慌てて顔を上げれば、同じように驚いた顔の葵くんが私を見つめ、瞬きをする。
「ご、ごめん、うそ、今のなしだから……っ」
「ちょっと待ってて」
「えっ、待っ」
突然立ち上がり、廊下の先へと行ってしまった。呆気に取られているとすぐに玄関のドアが閉まる音が聞こえ、思わず頭を抱える。さすがにまずかった。いくら恐怖に負けて出た本音だからと言って、冷静に考えれば女が男に「帰らないで」なんて、なんの関係も無い間柄では非常識にもほどがある。
怒ったのかな、それとも、呆れられたのかな。追いかけようかと立ち上がりかけた時、また玄関の方から音がした。開閉し、鍵が掛けられ、足音が近づいてくる。携帯を手にした葵くんが、私を見てぎょっとした顔をした。
「何、どうした?」
「え、えっと」
「泣きそうな顔してる。一人で怖かった?」
「あの、出て行っちゃったのかと……」
「なんで……?」
心底分からないという顔で言い、再びテーブルの前に腰を下ろした。
「家に電話してきた。今日は帰らないって」
「うそ……」
「でも、さすがにここには泊まれないから、玄関の前にいるよ」
「な、なに言ってんの」
当たり前のように言う葵くんを、信じられずにただ見つめる。そんなこと、どうして二つ返事でしてしまうの。頼ってもらえて嬉しかった、という先ほどの言葉が、頭の中に蘇り広がっていく。
きっと、何を言っても帰るつもりはないのだろう。そんな彼の優しさに、私はもう、受け入れること以外、できない。
「ごめんなさい、……ありがとう」
有難くて、でも情けなくて、視線を逸らしてお礼を言った。うん、と小さく漏らす声が妙に柔らかく聞こえて、咄嗟に顔を上げた。不思議そうに見つめ返す表情はいつも通りだったけれど、今の声は、微笑んでいるように聞こえた。
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