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一節 女の子を拾いました。

002 助けようとしたら、逆に助けられた。

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 病院で、余命宣告を受けた時、人はどう感じるだろう。人生に絶望し、すべてを投げ出したくなるはずだ。運命に抗おうと無駄な努力を重ね、貴重な残り時間をさらに浪費していく。

 広海の衝撃は、それ以上だった。今日あったばかりの赤の他人にここまで志の芯を揺さぶられるものなのか。驚きを隠せない。

「今年の四月だったかな……、家賃が払えなくなったらしくて、……家を追い出された」

 毎日をぬくぬくと暖房の効く一軒家で腹いっぱい飯を食べている広海には、幸紀の送って来た生活をイメージできなかった。高校生にして道路に放り出され、後は自力で食べて行かなくてはならないのだ。

 幸紀への同情は、同時に好奇心も生んだ。生い立ち、日々の生活……。

しかしそれを裏返すと、彼女にとって辛い事ばかりだ。それこそ軽々しく尋ねることはしてはならない。

「……今日は、どうしてここに?」

 広海の質問はこれが精いっぱいだった。これ以下は聞くことがなく、これ以上は幸紀を追い詰めてしまうかもしれない。

 幸いなことにトラウマには引っかからなかったらしく、幸紀が何度か頷いて、

「……今日はクリスマスイブ、なのかな? とにかく人がいっぱい集まってて、そのせいで炊き出しが無かった。だから、食べ物がありそうなところに来てみただけ」

 社会科か何かの時間で、ホームレスについての討論会が高校で一度行われたことがある。その時の広海の意見は、『家を借りれば生活保護を申請できるのに。自業自得だ』とホームレスに冷たい目線を向けていた。

 その討論会は盛り上がりに欠け、結論としては『生活保護をどうすれば受けられるようになるか告知することが重要』という誰かがインターネットから意見文を切り取ったものになった。

 今、広海は一人のホームレス少女を目の前にしている。幸紀は、自業自得でホームレスを続けているのだろうか。果たして、彼女は無知で頑固な路上生活民なのだろうか。答えは否だ。

 知らないことだらけのものに、人は拒否反応を示す。最先端技術の結晶のような商品が現れたとして、今までの製品を知らない若者はすんなりと受け入れる。が、既に愛用のものを持って『しまって』いる人たちは『最近のものは』と変人扱いするのである。

 もちろん、これは『年寄り』『若者』でなくとも当てはまるものは数多とある。全世界で差別が発生しているのも、ひとえに無知から来るものだと言っていいだろう。

 ……幸紀のことを、もっと知りたい。

 過去に無知を改めようとしなかった自分の行いを償う意味でも、彼女を知りたくなった。

「……炊き出し、週どれくらい?」

 とはいえど、当たり障りのない質問しかする勇気がないのは平常運転なのだが。

「週五日くらいかな。本当は毎日あちこちでやってるんだろうけど……。近くにないからいけない」

 ひっくり返すと、あとの二日間は団体からの供給無しでやっていかなくてはならない。

「……高校生?」
「高校には入ってるはず、なんだけど……。学費も払えて無いし、退学になっちゃってるかも。入学式も、電車賃がなくて行けなかった」

 高校での生活を羨ましく感じているのか、どこか上の空だった。

 幸紀の言いぐさからだと、入学金や受験料などの基本的な支払いは終わっていそうだ。娘にだけは普通に暮らしてもしいと、親が頑張ったのだろうか。いや、それだとなぜ彼女を一人見捨てて行ったのかの理由がつかない。

 しかし、電車賃が払えないほどに金欠なのだとすると、生活必需品なども当然不足しているはずである。

「……働いてる?」
「……ううん。住所も携帯もないから、どこのところも雇ってくれなくて。肉体労働もしてみたけど、体が壊れそうになって炊き出しに並べなくなったからなぁ……」

 住所不定、連絡先無しの高校生が職にありつけるかというと、困難なのが実情だろう。唯一といっていいほどの働き口の日雇い肉体労働は、アスリートでもない一般女子高生にはハードルが高すぎる。

 『働ける場所があって働かないのは、その人の怠慢』だと鼻を高くして言う人もいるのだろうが、幸紀に面と向かってそれが言えるのか。体をぶっ壊して死ねと、悪魔の宣告を突きつけられるのか。広海には、それは出来ない。

 今までの常識が、あっという間に崩れ去っていく。右も左も分からず路上につまみ出され、嵐の吹き荒れる海を渡ってきた少女の存在も知らずに、机上の空論で満足していたのが腹立たしくなる。

「……この先、どうやって生きて行ったらいいんだろう……」

 光の見えない下水管を我武者羅に歩いてきた幸紀。未来に希望が見えずに、しおれてしまっている。

 ……もう十分、苦しんできただろうに。これが幸紀に対する天罰なら、もう終わらせてもいいんじゃないですか、神様。

 宗教など信じていないくせに、困った時の神頼み。手のひらを返してでも、幸紀の境遇が不憫で不憫でならなかった。

 ……俺より、数段幸紀は強いよ。一人で炊き出しに並んで、どこかで襲われる恐怖にさいなまれながら夜を明かして。冬になっても、防寒着なんか着れやしない。俺だったら、一週間も持たない。

 ホームレスの中には、刑務所に入った方がまだ三食が保障されるだけマシ、というくらい飢えている人もいる。炊き出しにありつけている分彼女はまだ恵まれている方かもしれないが、到底それだけで成長期の体は満足できないはずだ。

 我慢に我慢を重ねて、犯罪の衝動をなくしている。あるいは、そんなことを考えもしない。踏んづけられても茎が折れない葦のような強靭さを、幸紀は身に備えている。

 ……助けてあげたい。でも、具体的にはどんなことが幸紀の助けになるだろう……?

 食料を配給する、というのは良い解決手段にはならない。そのお金の供給源は広海の貯金箱であり、また根本的な解決にはならないからだ。小手先の技では、一時的に崩壊を防ぐことは出来ても全体の倒壊は見守るしかない。

 次に挙がるのは、幸紀を広海の家に住まわせてしまうということである。上手くいけば、もう幸紀が食べ物や寝る場所に苦労することはなくなる。

 ……でも、問題はアリアリだよな……。

 しかし、越えなければならない関門が多い。

 第一に、少なくともどちらか片方の親を説得しなければならない。家の中に人が一人増える以上、出費が増えるのは当然のこと。家計を握っている親の協力は不可欠である。

 第二に、日々の生活の問題である。『いつまで住むのか?』『高校に通うのか?』『住所は広海の家で良いのか?』など、問題は山積みである。

 ……これしかない、のか?

 だからといって、その他の手の打ちようがない。一番スッキリするのは聞かなかったふりをすることだが、それはどこの鬼だということである。

「……希望を捨てたら、何が残るんだよ。諦めずに、奇跡を信じる。何も起こらなそうでも、まずは信じてみるしかないだろ、未来を」

 広海が言う資格があるのかは置いておいても、幸紀に生きることを諦めてもらっては困る。人生は、安易に捨ててしまっていいものではない。

「……そうだよね。ごめん、初対面なのにこんな愚痴聞いてもらって」

 ……いや、感謝したいのは俺の方だよ。

 幸紀は、広海の至らなさを気付かせてくれた。それだけで、金メッキの賞状を手渡したいくらいである。

 ……親の了解を取るのに、一日かかる。

 本心では今すぐ幸紀を自宅に連れて行きたいのだが、そうは問屋が卸さない。確認を取らなければいけないため、最速でも明日になる。

「……幸紀、明日もこの場所これるか?」
「……うん、いい……けど?」

 幸紀が、きょとんと首をかしげた。瞳にはクエスチョンマークが映っている。

「……また、会ってくれるの?」

 どうやら、この一回限りの関係だと思っていたらしい。

 ……俺も話しかけた時はそのつもりだったよ。

 幸紀を見つけた時は、ただの話し相手のつもりだった。三十分ほど話して、気持ちをすっきりさせるだけのつもりだった。

 それが、どうだろう。幸紀の経歴の残酷さに心を寄せて、暗黒へと続く道をねじ曲げてやりたいと思う自分がここにはいる。

 それではホームレス全員を救うための案を提案するのかと言うと、そうでもない。あくまでも、『理不尽な理由でホームレスにならざるを得なかった少女』に深く同情しただけである。

 綺麗ごとを言っていても、心の中まで一色に染まっているとは限らない。人間とは、一生涯かけても完璧には程遠い存在であるのだから。

「……広海は、帰りたくないんじゃなかったの?」
「気が変わった。俺は、幸紀に比べてなんて小っちゃな理由でここに座ってるんだろう、って」

 幸紀は、確固たる決意でこのイルミネーションの通りにやってきた。広海は、しょうもないケンカでいら立ってここに来た。どちらがどうにでもなるのかは、一目瞭然だ。

「……そっか。私が、助けになったんだ」

 幸紀の顔が、パッと明るくなった。こんな自分でも役に立てた、と誰かに尽くすことの喜びを感じたのかもしれない。

 ……『誰かに尽くす』じゃなくても、『誰かと楽しむ』の喜びをまた取り戻して欲しいな……。

 この行き当たりばったりな計画が成就することがあれば、その時幸紀は本当に救われる。友達と当たり前のように雑談をして、どうでもいいネタで馬鹿笑いする。その当たり前が、今の幸紀にはない。

 ホームレス生活に陥る前は、彼女にもきっとそういった日常が広がっていたのだろう。過去の栄光を取り戻せるその日を、見届けたいと思った。

「それじゃな、幸紀。また明日」
「……また明日ね、広海」

 来た時よりも随分少なくなった人通りの中に入り込んでいく。幸紀は石垣にちょこんと座ったままで、手をこちらに振っている。

 周りの視線は、白いものがほとんどだった。それはそうだろう。第三者視点では、二人のホームレス高校生が並んでいるようにしか見えないのだから。まだ偏見の残っている社会では、どうしても腫れ物のように見られてしまうのだ。

「……本当に、来てくれるよね?」
「絶対来る」

 幸紀の念を押す声に、拳で胸を叩いて応えた。

 ……初めて会ったどこから来たのかも分からない男子に心を許してたんだよな、幸紀は……。

 危なっかしく、しかしそれだけ潔白の身であるということだ。人をビジネスの道具としか見ていない悪徳商人に捕まるよりは、この偽善かもしれないが助けたい気持ちは本物の広海の方が良かった、そういう未来を作りたい。

 ……幸紀が安定した生活を送れますように。

 天にそう祈った広海は、やや軽くなった足で自宅を目指した。
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