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そして……

022 取っ組み合い

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 眩しい朝日に目を刺激されて、頭のスイッチがようやく入った。寝ぼけ眼をこすり、薄目を開ける。

 外はすっかり明るくなっていて、裏庭の木々が青々と茂っているのが分かる。昨晩は何も見えなかったのだから、田舎の灯りの少なさが身に染みる。

 布団から出たいのはやまやまなのだが、まだ体が重くて出る気にはならなかった。昨日の疲労が脚に溜まっていて、あれほど寒くならないようにとくるまっていたのに末端部が冷えている。

 右手にポッカリ穴が空いているような気がして、後方を手探りでさぐった。そこはもうもぬけの殻で、未空は和室を抜け出した模様だった。シーツが温かいということは、先程までは隣同士に並んで寝ていたということだ。

 寝相が悪くて掛け布団を蹴とばしやしないかと内心不安だったのだが、体全体にかかっている所を見る限り一安心だ。周りのものを何でも蹴るという恐ろしい寝相が週に一度はあるので、抽選が外れてよかった。

 外を向いていてもガラス窓の向こうにいるチョウチョや蚊にちょっかいをかけられるだけなので、体の向きを反転させた。部屋には寿哉一人ぼっちで、襖から零れている光は未空が何やら作業をしていることを示している。

 使われなかったもう一つの方の掛け布団は、丁寧に角を折りたたまれた状態で隅に大人しく座っていた。これも、未空が起きてからしたのだろう。習慣化しているとすれば、すごいことだ。

 空っぽになったお隣からは、女の子ににおいと言うべきものが漂ってきていた。それもそうだ、未空が寝ていたところなのだから。

 幼馴染の異性と一晩を共にしたわけだが、漫画やドラマで起こるようなハプニングと言える出来事は特に無かった。最も、ハプニングに入らないもっと大きなイベントはあったのだが。

 ……夢、じゃないか……。

 朝起きてみたらよく見た自宅の天井が、とはならなかった。何処からどう見ても未空の家にある和室であり、未空のにおいが空中に浮かんでいる。家の居住者なのだから当然と言えば当然だ。

 ……俺、未空に告白されたんだよな……。

 後は、寿哉の気持ちで決まる。未空は、その決断を待っている。

 彼女を幸せにすることは出来るのだろうか。自分がいたからもっと幸せになれたと、彼女自身の口から言ってくれる存在になれるのだろうか。まだ、自信は持てない。

「……入るよー?」

 ノックする音がして、するすると襖が開いた。昨日と変わらず赤白スプライトのパジャマを着た未空が、息子を起こしに来る母親のように見えた。

 寿哉が起きていると一目で気付いた未空は、布団を引きはがしにかかった。没収されては凍えてしまうと防戦に徹したのだが、寝起きでは力が入らなかった。

 最早寝転んでいる意味が無くなり、渋々起き上がった。何故か未空は、正座をして目の前に構えていた。

「……おはよう! 昨日は、ぐっすり眠れた?」
「このとおり、バッチリ」

 同級生に子守歌を歌われ、頭を撫でられて眠りについたと知られれば、学校中の笑いものになること間違いなし。黒板に書かれた問題を自信満々に間違えて恥をかくことの百倍恥ずかしい。不登校になるかもしれない。

 それでも、赤ちゃんに効果てきめんなことは十五歳にも通用した。寝かしつけ方が上手かったのか、安心して意識を未空にゆだねることが出来たのである。

 未空としては、手出しをしたことで一晩中まともに寝付けなかったのを気にしたのだろう。いつもの枕が無いと寝られない人がいるように、初めてのことをされると気が散る可能性はある。頭を撫で始めてすぐ眠りに落ちたことに気付いていなかったとすれば、十分にあり得る話だ。

「昨日のカレーライスの時、寿哉、何て言ってたっけ……?」

 のほほんと楽しそうだった雰囲気がガラリと変わった。大切なものを壊されたことが分かったかのように、ピリピリと焼け付いている。

 カレーライスの話で、寿哉が放った言葉。覚えているのだが、ここで言いたくはない。爆発するかもしれないガスボンベを蹴り飛ばす輩はいない。

 話の流れで行きついたのではないので、最初からこの話に持ってこようとしていたということになる。これは、相当根に持っている。

 事実だから追及されることは無いだろうと高をくくっていたのは間違いだった。言った瞬間にカミナリが落ちなかっただけで、時限爆弾は設置されていたのだ。時刻が今日の朝になるようにセットして。

 犯罪の容疑で捕まった容疑者にも、黙秘権がある。見えないところで拷問されていた時代もあったらしいが、基本的にそのようなことは許されない。寿哉も、人権まで剥奪されてはいないはずだ。

 だんまりを決め込もうと、敵対する視線を未空に送った。長期戦にはお互い持ち込みたくないので、早い所向こう側から講和を申し込んでもらいたい。

 ……口が裂けても、言えないよな……。

 『一人で料理なんか完成できっこない』、事実とは言えもっと柔らかく出来なかったのか。小説家でも国語の先生でもない一般人の寿哉には、適当な言い換えが思いつかなかった。

「……寿哉は、その気なんだね……。それじゃあ、いくよ!」

 一週間に一回はやっている取っ組み合いの火蓋が切られようとしている。水入らずの仲といえど、ひょんなことからケンカに発展するものなのだ。長袖や長ズボンに隠れて見つけづらいが、寿哉も未空も両腕と両脚に細かい傷が無数についている。

 どちらかが短気ということでは無い。未空は当たり前だが日が暮れるまで待てる人であり、寿哉も気が短くはない。猫がじゃれ合っているのと同じで、ケンカをしたくなったからするのだ。本気と本気のぶつかり合いとは程遠い、遊び半分の戦いだ。

 未空が、頭から飛び込んできた。下には敷布団が引かれているので心配ご無用だ。全身で飛び掛かってくるものとばかり思っていて、反応が遅れた。

 防御線の外にあった足首を、がっちりと決められた。全体重がのしかかっていては、脚力で押し返せない。体育の筋トレをバカにしていたが、こんなところで役立つものだったのだ。真っ向勝負すると勝てるものでも、局所を狙われるとパワーバランスは容易に逆転する。

 関節を破壊されてはシャレにならない。グーパンチは流石にためらったが、何とかして未空をどかそうと引き離しにかかった。丸まっている形は難関で、簡単に離れてはくれない。

 と、足裏にこそばゆさを感じた。素足から直接くるくすぐったいゾクゾクとするものは、身をもだえさせるには十分だった。

 未空の狙いに気付いた時には、もう手遅れになっていた。むず痒さに体がいうことを聞かず、逆襲することはおろか抵抗することも叶わない。脚は痙攣しっぱなしであり、一本取られた。

「どうだ、まいったか! 降参して言ってくれるならやめてあげるよ?」
「……だれが、……未空に……」

 体格差が響いて、未空に負けたことはほとんどなかった。ただのじゃれ合いで勝ち負けを気にしていなかったことはあったにしろ、力で押し切ることが多かったのだ。

 頭脳戦では、未空に分がある。純粋な力勝負では劣っていても、頭を使えば勝てると言うことを証明するいい例だ。負けられない戦いでは、まだまだ寿哉は弱い。

 ……このままだと、体が壊れる……!

 腹筋も張ったままで、この状態が長時間続けば体力が持たない。朝から面倒ごとに巻き込まれるのは勘弁してほしいのだが、招いたのが自分なのだから不満のはけ口がない。

 勉強でもスポーツでも未空には勝てないと思っているが、負けず嫌いっぷりだけは張り合える。冷水の我慢比べ大会で、寿哉と未空だけが最後まで耐えきったのを思い出す。凍傷になる寸前まで無言が続き、主催者がギブアップしたのだ。

 未空の手は、とどまることを知らない。陸に上がった魚のようにバタバタ跳ねようとする足を固めて、執拗にくすぐり続けている。

 ……むり……だ……。

 歯がゆいなどというレベルではない。指で撫でられるだけでかゆくなるのに、五本で器用にこすられては頭がどうにかなってしまう。

 星が頭の周りをクルクル回っている。意志通りに体が動かないというのは、脳にとって相当な負担になる。危険信号なのだろう。

「……大丈夫? もう、やめた方がいいんじゃなーい?」
「いや……、まだまだ……」

 それでも、自分の口から敗北を告げることだけはしたくなかった。十秒以内に白旗を上げなければ罰として家を追い出されるとしても、歯を食いしばって耐えてやる。女子なんかに、と言うと性差別だとバッシングを受けそうだが、負けたくないものは負けたくない。

「……まだ、頑張るの? 虚勢張らなくてもいいのに」

 筋肉がこわばっているのを気にかけてくれてはいるが、解放はしてくれないらしい。面白がっている声を出しているところを見るに、勝ちを確信している。

 ……どうするんだ……これ……。

 もがいて支配から外れようとしても、関節が制圧されている今は逃れられない。この状態が長引けば、強制的に降伏宣言を言わされる。これ以上我慢しても、ジリ貧にしかならない。

 もう、一発逆転に賭けるしかなくなった。ギャンブルでの高倍率は、ほとんど外れるがたまに当たる一発が大きい。賭け事にのめり込む人が多いのはそのためだ。

 借金で首が回らなくなった会社経営者や、明日を生活するお金にも苦心している浮浪者は一縷の望みをルーレットや競馬につぎ込む。人生が好転することを祈って、運任せにする。大抵は虚しく全財産を散らすだけだが、一部の強運な者は大金を手にする。その姿を見て、また養分がこぞって押し寄せるのだ。

 ギャンブルとはほぼ無縁の将棋にも、勝負手というものが存在する。流れで進めては勝ちづらい局面で、相手が対応を間違えれば優勢に出来るような手のことだ。正しく対処されれば敗北に繋がるが、元々負けるしかない手順に踏み込むよりは勝算が見込める。

 チャンスは、一度しかない。警戒心が薄まって未空が油断している今が、唯一の好機だ。これを逃せば、今度こそ両手をバンザイするしかなくなる。

 腹筋には、何もしなくともかゆみをどうにかしようと力が入る。その反動を利用して、一気呵成に飛び掛かる。

「……未空、……俺、もう……」
「なになに? ギブアップするのかなー?」

 どうして、煽り性能が飛びぬけているのだろう。チャットで言論をしていたらアンチが大量に湧きそうな一言だ。

 それはともかくとして、反撃されるとは夢にも思っていないだろう未空がこちらを向いた。自慢のし過ぎで鼻が天高く伸びていきそうな顔であった。

 計画通り、寿哉は飛び上がった。腹筋をするときは自らの意志で脚が動かないよう調節する必要があるが、それは上手い具合に未空が抑えつけてくれている。

 眠れる獅子が牙をむいてきたことに、未空が動転して後ずさりした。蛇に睨まれた蛙のように、びくついている。これでは、寿哉が変質者のようだ。

 しまったと足首を保持し直そうとしてきたが、もう不覚は取られない。逆に掴もうとした腕をつかみ、脱臼しない程度にグイグイと引っ張っていく。

 押し問答の末に両肩を取った寿哉は、そのまま布団の上に未空を押し倒した。脚はまたで挟んで絡めとり、肩を押さえているので腕もばたつかせられない。

 ……さて、どうしてやろうか……。

 さんざんもだえ苦しませた代償は大きい。同じやり方では能が無いと思われそうなので、もっと懲らしめられる方法は無いものかを模索することにする。

 未空に音を上げさせるほど、耐えきれないこと。もちろん体の身動きを取れなくしたくらいでは動じないだろう。かと言って痛みだけを与えるのは出来ない。彼女を懲らしめたいのであって、体を傷つけるつもりはないのだ。

「……寿哉、これ……」
「まやかしは通じないぞ」

 気を抜いたことで、形勢をひっくり返すことが出来た。同じような手口には、引っかからない。

 足の裏と同等かそれ以上にくすぐられるとたまらないところ。それは、脇である。通常、異性に腕を広げさせるというのは警察に補導されかねない案件だが、未空なら大丈夫だ。この村に交番が設置されていないので、仮に見つかろうとしても見つからないが。

 いちいち許可を取ろうとしては、次の狙いがバレバレだ。攻め込む地域を事前に教えてから全軍を突っ込ませる軍師はいない。

 肩の重荷を振り払おうと暴れてくれているのもあって、脇にはスキが生まれている。

 寿哉は、追撃をかけようと肩から手を離した。

「……もらった!」

 頭をバケツで冷やして考えてみよう。相手の脇と取るためには、一度手を離さなくてはならない。しかし、本格的な反乱を封じている手を離せば逆襲されているのは目に見えている。

 小さな田舎の学校で平均点付近をぷかぷか漂っていて脳も筋肉になっていた寿哉に、そこまで頭は回らなかった。ただ未空をどうやって同じ目に遭わせるかばかり考えていたのだ。

 体重を支えていた腕を、未空が払おうとしてきた。その手を、止めることは出来なかった。

 支柱を失った胴体は、当然のこととはいえ重力に従う。真下にあるのは、未空の上半身だ。

 ……危ない!

 未空を庇おうと、咄嗟に腕を彼女の背中側に回り込ませた。そして、体をグイッと引き寄せた。抱き合うような姿勢になるが、そんなことに構ってはいられない。

 このままでは、未空の体が下敷きになって墜落する。そうはさせじと、全力を振り絞って宙に浮いている体を半回転させ、寿哉が下になるようにした。

 臀部から、鈍い落下音が聞こえてきた。全身で一斉に着地するのが最も衝撃が和らぐのだが、神様はそんなことをさせてくれなかったようだ。臓器を口から吐き出しそうな気持ち悪さが、胸を襲った。

 続いて、抱きかかえた未空をキャッチする。体を密着させていたことで、二次被害は防げた模様だった。その分一人の体重がのしかかっているが、位置エネルギーで破壊させるよりはマシと言うものだろう。

「……ふぅ、良かった……」

 そう胸をなで下ろした寿哉だったが、痛みは消えてくれない。しりもちをつきそうなときは心の準備が出来ているが、脊髄反射で回避したものは余計に痛く感じる。

 グラウンドで負った擦り傷なら、水で洗い流してばんそうこうを貼っておけばいい。骨折をしてしまったなら、固定して動かせないように処置すればいずれ完治する。ただ、体の中心部が脳震盪のようになってしまったものは、時間経過でしか治ってくれない。

「……寿哉……」
「うん、どうした? ケガはしてないから、大丈夫」
「そうじゃなくて……、この体勢だと……」

 寿哉の胸にしがみつくようにしてうっすら赤色が浮き出ている未空を見て、徐々にどのようなことになっているのかを理解してきた。

 離れてしまわないように、しっかりと巻き付かせている両腕。腰を締め上げるように交差させている両脚。腹部周辺で感じることの出来る、柔らかいものが二つ。

 ……抱き合ってる!?

「もう……、恥ずかしいよ……」

 未空がのそのそと這い上がり、馬乗りの状態で顔が向かい合った。口を堅く結んで『うん』になっている。

「……でも、守ってくれてありがとう」

 叱られるのかと思ったが、一転して感謝の言葉である。

 菩薩のような照れ隠し笑いで、やっぱり彼女はゆったりしたお姉ちゃんなのだと認識させられた。
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