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一日目 夜

013 浴衣

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 何が来ても動じないとしていた心が、急ブレーキで押しつぶされた。驚愕が度を超すと、体が凍り付くというのはよく分かった。

 何も、言葉にならない。斜め上の回答に、思わず瞳を覗き込んでしまった。澄んだ茶色の、大きくて優しそうな目であった。

 マッチ棒を折ったと証言しているわけだが、マッチ棒の用途に当然折るなどと言う行為は含まれていない。わざとではないとするのなら、思いつくのは一つしかない。

 未空がこする面を間違えて火をおこせなかった時、寿哉は意識が流れていた。すぐ起こしてくれるだろうと思い、自らの世界に入り込んでいた。

 弱い力では、火が付かない。そんなことは、マッチを使ったことのある人間なら誰でも知っていることであり、未空も例外でない。

 ある有力な仮説が立ったところで、確認していく。

「……火をつけようとしてた時か?」
「うん。間違えてたのに声掛けなかったのは、何本も折れてたから」

 そして最後の一本になったので、手詰まって立ち往生していたということだ。

 考えても見て欲しい。マッチ棒は、落としただけで割れるような不良品の木材ではない。火が付いたまま中折れしてはボヤ騒ぎになりかねず、そんな強度のものが混じっていたとなれば会社も責任を問われる。ある程度は頑丈に作られているものなのだ。

 それを、一本を残して全て折ってしまった未空という猛者がいる。押し付ける力が強すぎだ。木の棒を絶対に曲がらない魔法の素材で出来ていると思い込んでいたのだろうか。

 新しいのを取り出してくる、と未空は恥ずかしそうに身をすぼめて石段を上がっていった。本日二回目の居残りタイムだ。

 段ボール紙の上にある線香花火は、あと二本。上手くいかなかったからと再挑戦する余裕はない。

 踏切の警報機が鳴るのを待たずして、ガタゴトと線路が揺れる音が響いてきた。いつもは家の中にいて届かない環境音が聞こえてくるのは、新鮮な気分だ。

 過疎地域をぶち抜いている路線と言うこともあり、運行されている列車本数は数えるほどしかない。時刻としてはまだ午後八時を過ぎたころだろうが、ここら一帯では終電になる。

 列車に乗っていてうなりを上げるエンジン音が身体にまで伝わってくることは何百回と経験しているが、空気を介してとなると久しぶりだ。勇ましく坂道を登っていくときにフル稼働するディーゼルエンジンは、レース用の車がサーキットを爆走しているかのようだ。

 列車に表示されている行先は、山をいくつも超えた県境のさらに向こうだ。行く用事も無ければ、人が多い訳でもない。名前だけは知っているが、興味は湧いてこない。

 警報機が鳴らないと言ったが、整備されていなくて壊れてしまっている。遮断機が作動するからいいだろうと、放置されているのである。実際、その踏切で事故に遭ったという話は聞いたことが無い。

 一両編成の短いものが往復運動をしているだけの路線なのだが、その歴史も終わりに向かおうとしている。余りに乗客が居ないということで、廃線案が持ち上がっているという噂があるらしい。自分たちの利用している駅の状況からしても仕方のない事なのだろう。

 かつては広大な範囲にわたって存在していた山奥の集落も、主要産業の変化や人口流出によって地図から消えていっている。宇宙からの写真では分かりづらいかもしれないが、確実に集落は姿を消している。

 顕著なのは、中心の基盤がしっかりしているとはいいづらい市町村に属する地域だ。財政に余裕が無い事で末端部へのサポートがおろそかになり、またコストを減らすために町の中心部へ移住させようとしてくる。

 交通が便利になるのは紛れも無い事実で、人口が減る一方では地方のコミュニティが維持できないのは分かり切っている。それでも、愛着のある故郷を失うのは心苦しいというものだ。

 救急車が通り過ぎていくように、レールの音も低くなっていく。始発は、寿哉たちが通学していた列車だ。

 ……未空、長いな……。

 ロウソクを取りにいっていた時は随分早く戻ってきていたが、まだ未空が姿を現さない。玄関の灯りに影が無いのを見る限り、もうすぐ来ると言う事でもなさそうだ。

 これは、つじつまが合わない。と言うのも、ロウソクは探すのに手間がかかっていたかもしれないが、マッチ箱は前回一緒に持ってきている。つまり、ありかは割れているはずなのだ。

 泥棒でも入っていたら、未空が危ない。田舎で人も滅多に訪れないこの地域で、裏口はおろか正面玄関も鍵がかかっていないことが多い。正面は寿哉が見張っているから大丈夫だが、裏口からは易々と侵入できる。

 だが、この何もない地の家屋に盗みに入る犯罪者が居るとも思えない。泥棒も、リスクとリターンを加味して侵入しているのだ。せいぜい数千円しかため込んでいなさそうな家に入るより、警戒がされていても一攫千金を狙える家に挑戦するはずだ。

 冗談抜きで、カギをかけていなかったがために盗みに入られたことは一度も無い。今日は家を一晩不在にするので戸締りをしているが、いつもはがら空き。それでも、誰も入って行かない。

 そうこうしている内に、やっと玄関の向こうから人の影が見えてきた。気持ち出っ張りや凹みが増えているが、光の当たり方によるものだろう。

「寿哉、こういうの、どうかな?」

 引き戸の向こうにいたのは、薄ピンクを基調とした簡易的な浴衣を羽織ったお祭り少女だった。

「……お姉さん、って言う感じかな」
「そうかな……。とにかく、寿哉が良いなら何でもいいけど」

 和風になると、より一層普段の面倒見体質が強調されている。目の色を変えて屋台に並んでいるのではなく、一通り回ってからヨーヨー釣りをたしなんだり、りんご飴をかじったりしているお姉さんのようだ。

 女子に対する『似合っている』は、可愛い系とかっこいい系の二系統に分かれるものだと思っている。どちらも好意を込めているが、その意味するところは大きく異なる。

 可愛い系というのはそのままで、愛おしさや庇護欲が搔き立てられる人に対して使われる。クラス内で美少女だともてはやされるのはこのタイプで、高嶺の花になっていることも珍しくない。

 カッコいい系は、特徴が真逆と言ってもいい。頼りがいがあり、面倒を見てくれそうな人だ。女子が同性に惚れるのは、このタイプなのではないだろうか。

 凛と引き締まっている脇は、付け入るスキを与えさせない。控えめに出されている手は、最低限の親しみを込めたもの。長身の彼女は、大人の女性だという風格をにおわせている。

「寿哉も浴衣になったら、お揃いになるね。もちろん、思うままで構わないよ?」
「……なろうにも、持ってない」

 祝い事以外に使い道のない浴衣を買う財源が、寿哉の家庭には無かった。一応お古と言うべき浴衣はあるが、帯が何処かに行ってしまったらしく着ることが出来ない。

 未空の浴衣を見るのは、これが初めてなのではないだろうか。綺麗なお姉さんとなって帰ってきて、より未空自身の魅力が増幅されているように見える。

 同級生の浴衣姿というものは、これほどまでに目を釘付けにするものだったのか。いや、花火とセットになっていて、相性でより絵になっているのかもしれない。

 マッチは寿哉がやると言い張ったのだが、今度は失敗しないという強硬に押し戻された。何とか折らずにすることが出来たようで、通常ではありえないほど自慢げになっていた。決して人に自慢できるようなことでは無い。

 ついに、三本目に火がともされる時が来た。気の緩みは微塵も感じられず、何が何でもこれで決めてやると顔がこわばった。定期テストよりも緊張しているようで、動きがぎこちない。

 教訓を生かして、何も言葉を発さない未空。風を起こすことは勿論、頭の位置一つも変えない。試験会場に張りつめていた空気そのものが流れていた。

 努力の甲斐あって、それまでに見せたことの無い顔が見られた。火球の周りからジグザクの線が放出されたかと思うと、静電気のようにパチパチを音が出た。

「……あ、やった……」

 それでも、表情一つ動かさない、歓喜の声が漏れそうになって押しとどめた未空は、本心が吐き出せずに苦しそうだった。自分で決めたルールに縛られている。

 ……未空の気持ちも分かるけど。

 花火は、楽しむためにしていたのであって、芸術的な絵画をデッサンするために真っ暗闇の外でしているわけではない。あまり見る事の無い未空の無邪気で大人な笑顔が見たくて、参加しているのだ。

 この瞬間を写真に収めた時、それは本当に素晴らしいものだと胸を張って言えるか。恐らく、言えない。当の未空が真剣な目つきで線香花火を見つめている様子は、本来の意志表現ではないように思える。

 枝分かれした火花が、他を寄せ付けない。絶対防衛圏を堅持しようと、半径数センチに光の折れ線を飛ばしている。

 寿哉も未空も、無言のままだった。素晴らしさを教えようとしたのが空回りして、何とも言えない空気になってしまっていた。今更態度を軟化出来るはずがなく、早く終われと願っている。

 誰からも望まれていないことを知ったか、二十秒持たずして明かりは消えた。重力と絶望に逆らえず、本体とつないでいた手を自ら離したかのようだった。

「……未空。聞いて欲しいことがある」
「……なあに?」

 一瞬ドキッとして、未空の体が後ろに揺らいだ。

「残ってるの、一本だけだろ?」

「そうだよ? 次は、もっと長持ちさせて、最高の……」

 まだ、芸術とは何かを見せようとしてくれている。人のことを気にし過ぎて自らを犠牲にする悪癖が、動作している。

「そういうことじゃないんだ。……俺は、一秒でも長く未空と話していたい。未空の姿を見ていたい。それだけだから」

 求めているのは、夜空と対比した真っ赤に灯るオレンジ色の球ではない。高校に入ってしまえば交流する時間が減ってしまうだろう未空との、最後の二日間を目一杯楽しみたい。

 間を置いて、最後の一本である線香花火を手に取った。

「最後は、俺にやらせてくれないか?」

 見慣れない和風の正装を身に着けている未空は、花火を取られるとは思ってもみなかったようで、しきりに花火セットの段ボール紙を手探りしていた。

 何もない一点を見つめて考え事をしていた彼女の真っすぐな目つきは、すぐにまぶたがたるんだ穏やかなものになった。緩んでいなかった頬っぺたも、指で突いたらそのまま入り込んでいきそうなほどに降りてきていた。

「どーうーぞ」

 嫌がることなくロウソクをこちら側へ寄せてきた未空は、親戚の子供を相手にするしっかり者のお姉ちゃんそのものだった。
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