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何が悪で、何が善なのか。
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優希はまだクラスに、とりわけ女子陣には敬遠されているようで、行くところ全てで意図的に避けられているように見える。
女子のネットワークが複雑なのは想像で何となく思い浮かぶが、思想だけで敷居を作ってしまうのはどうなのだろう。他人に迷惑をかけるわけではない考え方ならば、誰もが持っている。それを制限してしまうのはおかしい。
隅で固まって行われている女子会のヒソヒソ話からは、しきりに『あの子がね』『皮被っちゃって』と、とある女子生徒を指していると思われる単語が漏れてきている。
空気に徹しようとしても、すぐ隣でぺちゃくちゃ喋っているのでは嫌でも耳に入ってくると言うものだ。
教壇付近で黒板消しを手にしているのは、日番となった優希である。大雑把にしてチョークの粉がぼんやり残っていることが多い黒板だが、今日は珍しく丁寧にされていた。
もう一方の黒板消しは、誰も触れた様子がなかった。二人一組のはずなのだが、相方がサボっている。
日番と書かれた文字の下には、バッテンで大きく消されている『○○』という苗字。このクラスから消えて無くなれという、強い悪意を持ったメッセージ性を感じる。
……何か、してやれることは……。
直接的な手段で訴えかけるのならば、制止することが出来る。そんなことを許すつもりは無く、引く気も無い。真っすぐな心が力で捻じ曲げられることは、会ってはならないのア。
間接的な攻撃は、防ぎようがない。登校した時には、全て終わっている。もしくは、休み時間で目を離したスキに行われている。
これの厄介な点は、身体的な暴力行為ではないことだ。
言葉の暴力は分かりづらいと言うが、本当にその通りである。心が傷ついていようとも、直視しない者には気づかれない。会話してみて初めて、ダメージを受けていることが分かるのだ。
『友達、だからね?』
そう優希に言われて手を握られた時の満開タンポポを、壊したくない。雑草でもないのに、根っこから抜かれて欲しくない。
「……桜葉さん、って言うんだよな、あの子?」
「……何の話だよ」
独り占め欲が先行して、思わずため息をついてしまった。そんな権限など、与えられていないと言うのに。
塾ごときでヤケクソになる航生には、友達を作ろうと言う意欲が湧いてこなかった。世紀末ばかり思い描いている妄想勢に、近づこうとする男子も少なかった。
その中でできた数少ないため口で絡めるのが、独りぼっちを狙って突撃してきた高崎(たかさき)だ。
こいつはこいつで大分変わっており、ずっと妄想の世界を具現化している。この前など、『全人類が元素に分解されたら』という、頭のネジが何本外れたらその発想に行きつくか分からないことを口にしていた。
それにしても、優希に巻き付いてくるとは予想外だ。ナンパして落とそうと提案してきた時点で、脳天をかち割ることにした。
「見たぞ、園部が桜葉さんのこと名前で呼んだところ」
言われていることが、よく分からなかった。
これまでに優希と一緒だったのは、学校の裏庭と下校中、それと公園だけだ。周りに野次馬が潜んでいた気配は無かった……はずなのだが。
噂話で突っかかって来たのなら撃退できるが、自身の耳で聞かれてしまったとなれば、誤魔化しは効きそうにない。しらばっくれるだけ、逆効果だろう。
「……どこで」
「お、否定はしないんだな。ほら、昨日花壇でしゃがみこんでただろ?」
正直言って、通りに人が入ってこなかったことしか覚えていない。遠くから聞き耳を立てていたのであれば、十分あり得る話だ。
「女子に当たる勇気もない園部が、まさか女の子落とすとはな……。同盟解消だな」
「待て待て! どこに話持って行ってるんだよ!」
「……これ、小説のネタに使えるな……」
「勝手に話を改変するんじゃない!」
この自称小説家は、何でも文章の材料にする。自作小説を面白くするためならば、事実改変もいとわないのだ。
「……それで、桜葉さんのことを見ながら何か悩んでる様子に見えたけど?」
鋭い指摘が航生に突き刺さった。他人が分かる程、思いつめていたというこどだ。
友達になってくれと優希に頼まれたのは、紛れもない事実だ。信用が置けそうだと思ってくれたからこそお願いをしてきたのであり、航生もそれに応えたいと心が燃えたのだ。
「……クラスの女子陣が、どうも優希を毛嫌いしてるんだよな……」
偏見や忖度なしに、もっとクリアになったレンズを通して人を見られないのか。人を貶めるような行為をする奴は、いずれ我が身に返ってくるというのに。
「女子は、そういうところ自分勝手だからよ。気にすんな」
茶化してはいなさそうにニンマリとして、肩を思いっきり叩いてきた。
自分の意見を真っ向から発射できるのは、子供の頃から養成されてきた能力だ。性格が固定されてしまった高校生になって修正しようとするのは至難の業で、根暗な人が一日で代表に立候補などできやしない。
持たざる者は、持つ者に妬みを抱くというものが通説だ。いくら努力を怠らなくとも、天才には負けることがある。どうしても埋まらない溝を嘆き、人は上位ランカーを『才能でのし上がっただけ』と一方的に非難する。
後ろを向いていては、上手く前には走れない。徒競走でそんなことをすれば、世界チャンピオンでも負ける。
目の前にぶら下がっているパンという可能性に食いつけるのは、ただ真っすぐすすんできた者だけだ。近道を模索して脇道に逸れてしまったり、絶望して頭がうなだれてしまった敗者にチャンスなど与えられるはずがないのだ。
優希にしろ、高崎にしろ、ひよって妥協しない。話し合いで折れることはあれど、議論もせずに譲歩するということは辞書に記載されていないに違いない。
人への妬み心は、向上心を阻害する。正当な他者にレッテルを貼り付けてしまえば、それ以上の発展はしなくなる。一瞬の快楽に溺れて、将来の芽を自ら摘み取ってしまっているのだ。
隣であれだけざわめいていた女子会が、静かになった。皆高崎に白い目を向けている。場所が場所なら、女性差別でメディアに取り上げられてもおかしくない。多少、言い過ぎなところではあっただろう。
しかし、何の罪もない優希を悪人に仕立て上げようとする会話の流れには賛同できかねる。
単純明快な男子のピラミッド構造と比べて、女子の関係性はブラックボックスに隠されている。乙女心を読み取れという試験は、九分九厘無理な相談だ。
しょうもない恋愛話は勝手に盛り上がってくれて構わないのだが、特定の人物を名指しで虐げようとするとなると話は変わってくる。
第一に、彼女たちが主張している『皮を被っている』とは、どの根拠を以っているのだろう。
公園の芝生ですら立ち入らず、一輪のタンポポだけで授業が出来てしまうほど知識が豊富。自然界の掟を守り、不用意な介入をしない。まさに、本来あるべき自然は人間の姿だ。
優希がクラスの女子と馴染めないのは、女子会常連が暗躍しているからではないのか。そういう陰謀論を信用してしまうほど、言いがかりの程度がひどい。
正義の味方を散々貶していた航生がいえることでは無いが、彼女のためならいくらだってヒーローになれる。
地獄まっしぐらになっていた線路の分岐器を動かしてくれたのは、他でもない優希だ。錆びついていて動かしにくかっただろうに、何とか絶望への道を回避させてくれだのだ。
心が純粋な人は、損得無しに応援したくなる。今や、タンポポを見るだけでうっとりしている自然少女の笑顔が浮かんでくるようになった。
「……ここにいたら、園部まで変な目で見られるぞ?」
「もう見られてるよ」
優希を庇おうとした時点で、このクラスの女子を半分敵に回したようなものだ。今更心証を上げようとしてもムダだろう。
少し目を離していたスキに、黒板掃除も終わっていたようだ。文字の切れ端が一つ残らず消え去っていて、さぞかし次の授業を担当する教師は気持ちがいいに違いない。
日番印の下には、書き直された跡があった。角ばった大きな文字は、チョークが不慣れだと言っていた優希の手書き文字とするのが普通だ。
僅かに、胸の血管が収縮した。やるせない気持ちで、胸が満たされていく。何とも歯がゆくて、落ち着かない。
……優希は、どう思ったんだろうな……。
自身の苗字にバツを付けられて、いい気にはならない。正規で消去されていたとしても公衆の面前に晒されるのは嫌だというのに、悪意が感じ取れるというのだから不快にならないわけが無い。
こういう時にフォローしに行けるのが、友達なのではないか。気に留めるなとお節介でも言えるのが、分かち合った仲の行動というものではないのか。
何はともあれ役目を果たした優希は、クリーナーのスイッチを押し上げた。まだ朝早く、チョークの粉で汚れ切っているとまでは言えないが、これも次に使う人を考慮しての事だろう。
いつもなら、読書勢に嫌われるほどの爆音が教室中に鳴り響く。放課後以外でクリーナーを使う人がいないのは、この爆音が会話や思考を遮ってくるからだろう。
教室内は、やけに静けさがあった。耳に入ってくるのは、女子会からのクスクス笑いだけ。故障と思って何度もスイッチを上下させているが、クリーナーは働く気を見せない。
見慣れないコードが、床面に落ちていた。無断でスマホの充電をしていた奴らを見たことは有るが、そのケーブルとは似ても似つかない。掃除機の末端についているような、ガッシリとしたプラグが備え付けられている。
それが何の電源コードなのかは、明白だった。
一日に一回の頻度でしか使われないとはいえ、節電するほどの電力量を消費することは考えにくい。プラグが外れているのを見たことも今日が初めてで、長さにも余裕がある。
普段から優希の悪口ばかり口にしている女子陣を見てきた航生には、すべてが彼女を妬む集団が起こした行動にしか思えなかった。
陰湿ないじめは、れっきとした犯罪だ。それは万引きと同じで、学生でも関係なく処罰される。
しかしながら、加害者が不透明であると中々立証しずらいという面はある。現場を目撃したとしても、『節電のため』などともっともらしい理由を付けられては手が出せない。
優希もようやく電源が抜けていることに気付いたようで、いそいそとプラグを差し込みに行った。
……何も思わない、って考えるのは楽観的だよな。優希も、人間なんだし。
態度に不満が含まれていないので、彼女としては何もダメージを負っていないかもしれない。あるいは寛容な心をもって、いかなる行為でも赦しているのかもしれない。
完璧そうに見える人間でも、欠点は存在する。頭の回転が速くても運動が得意でないのはお決まりのパターンであるが、きちんと弱点を持っている。
短所が平然と見え隠れするのなら、たいした問題は起こらない。長所と短所が組み合わさって個性であり、場合によっては相乗効果でもっと魅力的に見られることもある。
気を付けたいのが、短所を意図的に人から隠そうとすることだ。周りの人から期待されている姿を追い求めている人が陥りやすく、根が真面目なのが災いして他人に相談もできない。
重くて吐き出せない鉛は、ヘドロが底から溜まっていくように積み上がっていく。それが許容量を超越してしまった時、鬱や自殺などの残念な結果に繋がってしまうのだ。
世間から見られている理想の人物像と言うのは、偏見と過大評価の塊だ。そんなものに人生を道連れにされてはたまったものではない。
無理のある我慢も同様で、ストレス過剰になってしまう可能性が高い。心の不調と身体の不調は連鎖していき、いずれ倒れてしまう。
優希には、そうなってほしくない。欲を言えばもっとのびのび暮らせるクラスに移籍させてあげたいくらいだが、それを高校に交渉しても効果は無いだろう。
……無理してなければいいけど……。
透明な色は、一度黒に染まってしまえばもう元には戻らない。輝きを取り返すことは、二度と出来なくなる。
「……ほらみてよ。桜葉さん、何も気づいてない」
「ほんとだー! 天然アピールすることもないのにねー」
胸糞悪い会話が、すぐ隣で行われている。ここで止めたとしても、再発してしまうだろう。航生は、現状無力だ。
黒板消しを元の位置に戻した優希は、一歩窓側に歩き出そうとして、その場に止まった。窓の向こう側に、視線が固定されている。
そんな彼女の行動が気になったらしく、つるんでいる女子たちも目線を辿って行った。
……あ、あの目は……。
縁の下で力強く咲いているタンポポを見ているかのような、好奇な目。生き物に対する興味が、爆発していた。自然と頭が窓の方へと伸びている。
黒い点が、徐々に大きくなってきた。軽いゴミは風に流されてしまうだろうから、きっと虫である。まるで、羽ばたいているかのような……。
「……あれ、虫じゃない!?」
「……ほんとだ!?」
野生の虫にたじろがない優希がこの世界でスタンダードと言う説は、たった今否定された。定説通り、基本的に嫌っている人が多そうである。
換気のためにと半開きにしてあった窓から、何やら大きな黒い虫が飛び込んできた。ふわふわ下降していき、教卓に着地した。もちろん、優希は逃げ出していない。
彼女よりも距離が離れている女子陣は、逃げ出すのが癪だと、腰が抜けながらも踏ん張っている。勝手に逸れる目を引き戻し、大きな黒い虫に集中しようとしていた。
長い触覚に、すばしっこい動き。机の上を縦横無尽に駆け巡る様子は、どこかでみたような光景に似ていた。
冷蔵庫の下から出てくる、集団生活をして暮らす厄介な害虫。スプレーや新聞紙で撃退する、人間の大敵。
「……あれ、ゴキブリじゃない……?」
女子陣の一人が言葉に出すと、その恐怖は伝染していった。例え嘘だったとしても、真のように広がっていく。
固められていた机を強引にどけて、教室外へと走り去っていく。悲鳴こそ出さないが、ゴキブリ嫌いなことくらいは分かる。
セミやカブトムシならまだ耐えられたはずの女子たちも、恐怖心を植え付けられたゴキブリ相手では敵わなかった。残っているのは、恐怖より優希への憎しみが勝った者だけだ。
根性を褒め称えればいいのか、そこまでして固執するなと呆れればいいのか。
怖気ることなく、優希はそっとゴキブリらしきものに手を伸ばした。真っ黒な背中に魅入られたかのように、隅で起こったドタバタ騒ぎをシャットアウトしている。
もうちょっとで手の中に収まる、というところになって、いきなりゴキブリは手のひらを潜り抜けた。巨人に捕まってしまっては何をされるか分からないので、当然と言えば同然だ。
皆が注目する目の前で、未確認虫は優希のてっぺんへと降り立った。黒髪とその体色が重なって、擬態する形になった。航生から見えやすいのは、水平に見ているからである。
自分の身になって想像したのが仇となって、しきりに髪の毛を振り払いながら残っていた女子も教室から逃げ出していった。まるで優希が人ではないような軽蔑顔で、吸う空気が一段と重くなった。
あまり虫を気にしない運動系男子も、流石に気遣って寄って行こうとしたが、そのような心配は無用だったらしい。
「……ゴキブリはゴキブリでも、家にいるようなのじゃないんだけどな……」
言うなり、優希は頭頂部に乗っかっていたゴキブリをつまみ上げた。
……開口一番、ゴキブリの種類なんだ……。
これは、航生でなくともそう思ったに違いない。
昆虫が人から嫌われやすいのは、その見た目の気持ち悪さからだ。弾力のある幼虫の体や中で蠢く脚の動きは、吐き気を催しても仕方のない部分がある。
手で直接触れなければ、そこまでヘイトが向くことも無い。虫取り網でセミを捕獲することは、虫嫌いでもなんとかできる。道具というワンクッションを挟むことで、虫と関わっている感覚を薄れさせているからである。
「……あの子、ちょっとおかしくないか……?」
「……でも、自然を大切にするって言ってたような……?」
ゴキブリを手にして熱気のこもった演説をする優希に、困惑が向けられている。クラス開きでの『自然を大切に』発言もあって、やや肯定しているような口素振りが多そうだ。
頭文字をとってGとも言われる害虫が排除対象に含まれているのは、実害が発生するからだ。
台所の隙間に潜み、夜間に食物を食い荒らす。細菌や汚れを体に付着させ、病気をはこんで来る。これが、害虫以外の何であろうか。
一方的に虐げられている生き物は保護しようとするが、双方向に矢印が伸びているものは大人しく見守る。そういったスタイルをとって来た優希は、ゴキブリのことをどう見ているのだろう。
即座に叩き潰さないのを見ていると助けたい気持ちが溢れているように思えるが、害虫としての働きを無視しているのだろうか。
バッタやカマキリが自然循環の流れに入っているというのは周知の事実だが、人間も輪に加わっている。娯楽目的で絶滅させられた生物ならまだしも、人に害を与えるゴキブリが助ける対象に入ってもいいのだろうか。
授業時間でもないのに、挙手してしまった。理系に進むつもりが毛ほども無い人間が、生態系について疑問を持っている。
ノリに乗って、優希に指名された。教壇の前でチョークを手にしている彼女は、すっかり生物専攻の教授だ。
「……ゆ……、桜葉さん、ゴキブリは病気を持ってくるけど、それでも助けなくちゃいけない?」
危うく、名前呼びをするところであった。今は、火に注ぐ油のような材料を追加注文したくはない。
……人間は保護の対象外だと伝えられたら、幻滅することになるかもしれない。
優希がその独特の思想で友達が出来なかったのは、れっきとした過去の事実だ。誰にも理解されない思考を持っているというだけで学校生活が楽しくないものになる気持ちは、想像しがたいものがある。
救われなかった道筋に、光を。白馬にまたがって悠々と現れる勇者ではなく、通りすがりの同級生として、優希をクラスに馴染ませてあげたいと思った。
自らの願望が少なからず入っているのが懸念事項ではあるが、それはどうしても取り除けない。
しかし、航生にも思想というものがある。人間をやたらめったら否定する自然回帰は生理的に受け付けない。例え人間が不利益を被るのが最善だとしても、感情は全く天秤に関与していない。
恋人から、人間は生まれてはならない生き物だったと説得されたとしよう。はいそうですかと二つ返事で納得するわけにはいかない。それを認めるということは、自分も彼女もこの世に出てこなかった方がいいということになる。
生まれてきた以上は、その枠組みの中で力いっぱいもがくしかないのだ。人数調整など人権無視の殺人であり、正当化されるべきものではない。長期的に見れば滅亡してしまうとしても、そのためにたくさんの個体を切り捨てることが正しいとは思えない。
どんな種も絶滅させてはいけないと主張しているのにも関わらず、人間は滅んでも良いと言う。実際にそんな人がいるのかどうかは分からないが、一文で矛盾していることは分かるだろう。
脇腹を指で保持していた優希は、窓枠でそっとゴキブリを空に放った。高速で羽ばたきながら、山々の見える向こう側へと飛び立っていく。
「……勘違いしてないかな? ゴキブリだって、全部が全部家の中に住んでるんじゃないんだよ?」
これは、航生への返答と言うよりかはクラス内への講義だ。
桜葉教授は、黒板を中央から二分割した。それぞれに『家にいるゴキブリ』『山にいるゴキブリ』と分かれている。
……山にもいるんだ……。
見たことないと反論しようとしたが、航生よりも優希の方が知識量で遥かに上回っているのは察する通りだ。そもそも、山登りに行ったことが一回しかない。
成人にしてはごじんまりとした先生が、みんなの疑問に逐一丁寧に答えていく。
「……家の中にいるゴキブリっていうのは、体が茶色いのが多いかな。カサカサって音を立てるのも、それ」
これは、よくあるゴキブリのイメージだ。殺虫剤を吹きかけても逃げ回り、どうにか動きを止めたころには容量がだいぶん減っていることがある。
興味が無さそうだった男子までもが、優希の授業につかれていた。真剣に考察する者、ふざけてばかりいる者と多種多様だが、この場は支配されていた。
航生がゴキブリの話を延々と語っていても、優希以外には見向きもされなかっただろう。その差は、何なのか。
断定するまでには至らないが、有力な候補は思いついている。それは、純粋さだ。
人の性格は、普段の行動に現れる。模範的な生徒会長を演じていても、肩がぶつかっただけで悪態を付くようでは人が離れていく。教師からの評価と生徒からの評価が反比例しているのは、性格によるものだ。
初日から、優希はアクセル全開だった。グラウンドに点々と生えている雑草を極力避けながらグラウンドを一周し、ふざけて机の端を破損させた男子へ瞬時にお叱りを飛ばしていた。一目、変人に見える。
その後も、行動パターンは全く変わらない。間違ってふらっと窓から虫が入ってきたときは、率先して元の世界に戻す。猫を被っていると痛烈な野次を飛ばされていたこともあったが、信念を曲げはしなかった。
利害関係が絡まずにフラットな目で見ることの出来る男子からは、特異だがやっていることは何となく分かる子だったのだ。もちろん、中にはレッテルを貼って無視していた男子もいるだろうが。
同性に嫌われることはあるだろう。ただ、とてもではないが男子からも敬遠されるようなキャラではない。小学校、中学校といじめのような排除を受けていたらしいが、一体全体何があったのだろう。
暗い過去を引っ張り出したくはないので、真相は知りたくない。
「……叩き殺したことあるけど、桜葉さん的には説教?」
ついに、接点のない生徒から質問が飛び出した。
無用な殺生について、優希ほど厳しい顔色を示す人はいないのではないだろうか。電子レンジで猫をチンしたと冗談でも告げた日には、絶交されてしまうだろう。
そんな自身の理論を一番実践している彼女は、何一つ顔色を変えなかった
「家の中に住むタイプのゴキブリは、はさっき航生の言ってた通りで、病気を運んできちゃうんだよね……。……仕方ないと言えば、仕方ないかな」
積極的に推奨はしないものの、害を与えてくるものならば文句は言えないとする立場だ。危惧していた、人間を不必要に蔑む宗派ではなかったようでなによりだ。
「……でも、ゴキブリは攻撃しようと思って病気を持ってくるわけじゃないから……。どうしたらいいのか、優希も分からない」
数学に曖昧さは許されないが、倫理観は割と緩い事がある。基準をギチギチに固めていれば仕分けが楽になるだろうが、数少ない例外に当たった時にどうしようもなくなってしまう。
曖昧なゾーンを作っておいた方が、もしもの逃げ道にもなるのだ。
意図なく害がある生き物には、この優希をもってしても決断を下しづらいようである。
「桜葉さんは、家のゴキブリをどうしてるの?」
クリティカルヒットだ。白黒つけられないものに色を塗るにはこれが一番である。が、回答者にとってはどちらに転んでも追及が待っている。
ここまで何の澱みもなかった優希が、初めて言葉に詰まった。思考を整えようとする深呼吸が、何度も教室から聞こえる。
質問者の男子は、齟齬を見つけてはしゃいでいた。粗さがしが目的なようで、悪用しようという意図がある。
優希は、逃げなかった。悪ふざけをしている言い出しっぺを真っすぐと見つめていた。厳しい目線ではないものの、見つめられた男子が後ろへ少したじろいだのが見えた。
「……家のゴキブリは、殺してる……」
「これはこれは、どういうことかなー? 思ってることと言ってることが、矛盾してない?」
悪意のある人物というのは、どうしてこれほどまでに煽り性能も高いのだろうか。ドン引きされてしまっても気にしない図太さだけは褒めてやってもいい。
「やっぱり、桜葉さんは嘘つきだったんだねー」
いつのまにか、退散していたはずの女子陣が戻ってきていた。ゴキブリを逃がしたという情報が、どこからか伝わったのだろう。
よくよく観察していると、無理難題を吹っ掛けた男子と教室に舞い戻って来た女子会陣営が目配せをしていた。
……優希に集中砲火して、何が楽しいんだか……。
一人、全員の目の前でゴキブリについての考え方を語りたかっただけの優希。それを、良く思わない陣営が攻撃し、周りも同調圧力に流される。
おそらく、前の学校でも同じようなことが起こっていたのだろうと簡単に推測が出来る。クラスの中で段々とスケープゴートになっていき、批判の墓場と化していたのだろう、と。
『友達らしいことって、何かな?』
これを言われた時は、一緒に遊ぶことくらいしか思いつかなかった。貧相なことしか捻りだせない頭は、相変わらずポンコツだ。
最奥の席で観衆となっていた航生は、椅子を大きく後ろへ引いた。金属製の脚とコンクリートの床が擦れる音で、一気に注目の的となる。
「くだらないな……。優希が悩んでそう決めたなら、それでいいんじゃないのかよ?」
バージンロードを歩くゲストのように、真っすぐ教壇へと歩んでいく。尻尾を逆立てた猫の鋭い目を感じるが、そんなものを気にしているヒマはない。
心にたぎっていた熱い怒りが、洪水となって教室内を渦巻いていく。
「殺したら、罪のないゴキブリに申し訳ない。殺さなかったら、害がどう転ぶか分からない。こんなの、どっちを選んでも責められることじゃないのか?」
はっきりと、標的を定めた。日和見で呼び捨てにすることがはばかられた航生は、追撃をかまそうとしていた男子を指差した。
立ち上がられたのが想定外だったようで、明らかに口がもごもごしている。浮足立っているのを、逃す手はない。
……矛盾した選択を迫られることなんか、誰にでもあるだろうよ。
いくら自然を愛していようとも、山中で熊に襲われて死ぬのが本望という人はそう多くはない。大切にするということは、盲目的に守ることに繋がらない。
ゴキブリの話に戻すと、害虫でもむやみやたらに生かすのが正義ではない。不衛生から病気で入院しては確実に人生の質が下がると言うもので、確実に心は蝕まれる。一方的な殺戮ではなく、敵を排除しているようなものだ。
むしろ、普通の人ならば気に留めもしないだろう『ゴキブリの命』の重さを量ろうとすること自体が、自然保護意識の高さを表している。
本人に生命を大切にする感覚が備わっていなければ、何も考えることなくスプレーを噴射して終わらせているのだから。
「……ほ、ほら、殺してるんだったら、命を粗末にしてるってことだろ……?」
「自分の健康を粗末にしろとでも?」
何と何を比べているのかが、全く分かっていない。
巣にエサを運んでいるアリを潰したのなら、それは無駄死にだ。アリがいることによって不利益を受けないのに殺してしまっては、無駄というものだろう。
ゴキブリが害虫指定を受けているのならば、その理由は何処かにあるはずだ。人間の生活に少なからずの影響を及ぼすからに決まっている。
人が自然界の生活圏に入り込む分には、自己責任だ。野山でハチに刺されるのはハチの生活圏内に侵入した人間に非があり、避ける努力をしなかった怠慢になる。
逆に、野生の生き物が人間の世界に迷い込んでしまったらどうするのか。
答えは簡単で、その大きな頭を使って考えて見ればいい。他の生物を凌駕する知識をフル回転させれば、追い返すのが温和な策だということに気が付くだろう。
アブが部屋の中に迷い込んできたとして、大事なのは窓へと誘導することだ。刺激を与えてしまえば刺されるのは当たり前で、慌てないことが重要なのだ。
……ゴキブリも外に帰してやれば、野山に戻って行ってくれないのか……?
ここは、脇にいる生物博士に尋ねてみる事にしよう。分からないことをそのままにして嘘を固める手法はいずれ失敗する。
「……優希、ゴキブリは野に帰してやれないのか?」
「……家に住み着くやつは、放しても戻ってきちゃう。他の家が被害を受けるだけだよ」
冷静になってみれば、優希が泣く泣く始末しないといけなかった時点でその選択肢が残っているわけが無かった。
ともかく、家を居住地とするゴキブリは野に帰せない。自分の家から離れたとしても、他の家に行くだけのループだ。
他人にまで迷惑が広がるのなら、自分で蹴りをつけてしまうのも致し方ない。あくまで、個人の感想である。
「……こういう人の価値観を問うものっていうのは、答えなんてないんだ」
正解が、何処かにかかれているわけではない。自分で根拠となる資料を集め、総合的に判断していかなくてはならないのだ。価値観は、機械的に基準を置けるものでは無いのである。
人を罪人がそうでないかを裁くのは裁判所の役割だが、全く同じ状況の裁判というものは無いに等しい。各事件で動機や被害状況、悪質さが異なるのだ。そういったものをまとめて判決を出すのが、裁判長なのである。
優希は、ただ航生を見守ってくれている。言いたいことを言えるように、無用な口出しはしてこない。
友達というものは、仲良く遊ぶだけが能ではない。苦楽を共にし、絆を育む。綺麗ごとのように聞こえるかもしれないが、本質はそうなのだろう。
……今、友達の意味がやっと分かったような気がする。
航生は、優希を庇うように右腕を横に真っすぐと伸ばした。
「答えのないものは、自分で道を切り拓いていくしかないと思う。優希は試行錯誤しながら突破してるんだから、何も悪くない」
これ以上因縁をつけてくるようなら、こちらにも考えというものがある。
「……これでも優希をバカにするって言うなら、俺が全力でぶつかるぞ」
航生の腕力は、高校生平均より劣るだろう。が、それは問題にならない。
女子陣に偏りかけていた漂流する意見たちを、引き戻すことが出来た。今や、クラスの男子は一名を除いて優希たちの味方になっている。そんな雰囲気が、教室内に出来上がっていた。
やられっぱなしで我慢ならなかったらしいグルの男子が、懲りずにどうでもいい質問を投げかけてきた。ヤケクソな姿は、あの日芝生で花を摘んでいた航生のようだった。
「……じょ、女子を名前で呼ぶなんて、気持ち悪いにもほどがある……」
皆までは言えなかった。各方面から、氷の矢が降り注いでいる。冷や汗がダラダラと垂れて来ていて、無い頭を振り絞っても良い案は出てこないらしい。
この愚かな男子は、あろうことか女子陣の一部をも敵に回らせてしまっていた。口は禍の元とはよく言ったものだ。
ガコン、と机が押し倒された。論破されて後ろ盾を失ったその男子だ。チャイムが鳴る時刻が迫っているというのに、一目散にドアから出て行った。
女子陣はすっかり静かになってしまっていた。反論する取っ掛かりを掴むこともできずに、優希を睨みつけているだけ。数の暴力には太刀打ちできないと見て、行動を起こしてくる様子はない。
教室内に、拍手が巻き起こった。己を貫いた優希と、消極的な性格のはずの航生に。
意欲的に創作へと取り組んだことのない航生にとって、拍手喝采の中心にいるというのは居心地が悪かった。
元々、感謝されるようなことも尊敬されるようなこともしていない。優希が攻撃されることにいたたまれなくなって、静かな感情が暴走してしまっただけだ。
そう言っても、祝福ムードを終わらしてはくれなさそうだが。
一通り拍手が収まり、口々に『すごい』『よくやった』との声が飛び交った。『よくやった』は、クラスにのさばってカーストトップとして支配してきた女子陣を退散させたことに対してだろうか。
「……航生、大丈夫? あんなことして、体ちゃんと持つ?」
……自分が攻撃されてたって言うのに、なんて人だ。
慣れっこだったら反対に問題として挙がりそうだが、優希が持っている生命を大切にする力には脱帽だ。
「……優希は、『友達になってほしい』って言ってたよな? 友達を守るのも、役目かな、と」
こんな純真な子と友達でいいのかと、まだかしこまった語尾が抜けきらない。
いつもより僅かに頬を赤らめて、優希が照れ笑いをした。とろけてしまったのかと心配するほどに、頬っぺたが零れ落ちそうである。
「そうだったんだ……。ありがとう、航生」
この言葉が聞けるだけで、十分というものだ。
「……桜葉先生! ゴキブリの授業の続き、よろしくお願いします!」
「桜葉先生……? ……優希のことか」
自分の苗字も忘れてしまっていたようで、とろけそうになっていた顔が途端に引き締まった。
生徒の一声で、残り時間少ない講義が再会された。教師としてチョークを使うことが無いので、長文を書くのには苦労している。
「えーっと……。そもそも、なんでゴキブリが家にいるのかと言うと……」
居眠り魔も、勤勉でワークばかりをやっているような子も、全員が優希の身振り手振りに魅入られていた。『ゆきわーるど』に、クラス全体が引き込まれていく。
……生物の授業、全部優希がやってくれたらな……。
高校生からでも教員免許を取れやしないかと、脳内検索エンジンを稼働させた航生なのであった。
女子のネットワークが複雑なのは想像で何となく思い浮かぶが、思想だけで敷居を作ってしまうのはどうなのだろう。他人に迷惑をかけるわけではない考え方ならば、誰もが持っている。それを制限してしまうのはおかしい。
隅で固まって行われている女子会のヒソヒソ話からは、しきりに『あの子がね』『皮被っちゃって』と、とある女子生徒を指していると思われる単語が漏れてきている。
空気に徹しようとしても、すぐ隣でぺちゃくちゃ喋っているのでは嫌でも耳に入ってくると言うものだ。
教壇付近で黒板消しを手にしているのは、日番となった優希である。大雑把にしてチョークの粉がぼんやり残っていることが多い黒板だが、今日は珍しく丁寧にされていた。
もう一方の黒板消しは、誰も触れた様子がなかった。二人一組のはずなのだが、相方がサボっている。
日番と書かれた文字の下には、バッテンで大きく消されている『○○』という苗字。このクラスから消えて無くなれという、強い悪意を持ったメッセージ性を感じる。
……何か、してやれることは……。
直接的な手段で訴えかけるのならば、制止することが出来る。そんなことを許すつもりは無く、引く気も無い。真っすぐな心が力で捻じ曲げられることは、会ってはならないのア。
間接的な攻撃は、防ぎようがない。登校した時には、全て終わっている。もしくは、休み時間で目を離したスキに行われている。
これの厄介な点は、身体的な暴力行為ではないことだ。
言葉の暴力は分かりづらいと言うが、本当にその通りである。心が傷ついていようとも、直視しない者には気づかれない。会話してみて初めて、ダメージを受けていることが分かるのだ。
『友達、だからね?』
そう優希に言われて手を握られた時の満開タンポポを、壊したくない。雑草でもないのに、根っこから抜かれて欲しくない。
「……桜葉さん、って言うんだよな、あの子?」
「……何の話だよ」
独り占め欲が先行して、思わずため息をついてしまった。そんな権限など、与えられていないと言うのに。
塾ごときでヤケクソになる航生には、友達を作ろうと言う意欲が湧いてこなかった。世紀末ばかり思い描いている妄想勢に、近づこうとする男子も少なかった。
その中でできた数少ないため口で絡めるのが、独りぼっちを狙って突撃してきた高崎(たかさき)だ。
こいつはこいつで大分変わっており、ずっと妄想の世界を具現化している。この前など、『全人類が元素に分解されたら』という、頭のネジが何本外れたらその発想に行きつくか分からないことを口にしていた。
それにしても、優希に巻き付いてくるとは予想外だ。ナンパして落とそうと提案してきた時点で、脳天をかち割ることにした。
「見たぞ、園部が桜葉さんのこと名前で呼んだところ」
言われていることが、よく分からなかった。
これまでに優希と一緒だったのは、学校の裏庭と下校中、それと公園だけだ。周りに野次馬が潜んでいた気配は無かった……はずなのだが。
噂話で突っかかって来たのなら撃退できるが、自身の耳で聞かれてしまったとなれば、誤魔化しは効きそうにない。しらばっくれるだけ、逆効果だろう。
「……どこで」
「お、否定はしないんだな。ほら、昨日花壇でしゃがみこんでただろ?」
正直言って、通りに人が入ってこなかったことしか覚えていない。遠くから聞き耳を立てていたのであれば、十分あり得る話だ。
「女子に当たる勇気もない園部が、まさか女の子落とすとはな……。同盟解消だな」
「待て待て! どこに話持って行ってるんだよ!」
「……これ、小説のネタに使えるな……」
「勝手に話を改変するんじゃない!」
この自称小説家は、何でも文章の材料にする。自作小説を面白くするためならば、事実改変もいとわないのだ。
「……それで、桜葉さんのことを見ながら何か悩んでる様子に見えたけど?」
鋭い指摘が航生に突き刺さった。他人が分かる程、思いつめていたというこどだ。
友達になってくれと優希に頼まれたのは、紛れもない事実だ。信用が置けそうだと思ってくれたからこそお願いをしてきたのであり、航生もそれに応えたいと心が燃えたのだ。
「……クラスの女子陣が、どうも優希を毛嫌いしてるんだよな……」
偏見や忖度なしに、もっとクリアになったレンズを通して人を見られないのか。人を貶めるような行為をする奴は、いずれ我が身に返ってくるというのに。
「女子は、そういうところ自分勝手だからよ。気にすんな」
茶化してはいなさそうにニンマリとして、肩を思いっきり叩いてきた。
自分の意見を真っ向から発射できるのは、子供の頃から養成されてきた能力だ。性格が固定されてしまった高校生になって修正しようとするのは至難の業で、根暗な人が一日で代表に立候補などできやしない。
持たざる者は、持つ者に妬みを抱くというものが通説だ。いくら努力を怠らなくとも、天才には負けることがある。どうしても埋まらない溝を嘆き、人は上位ランカーを『才能でのし上がっただけ』と一方的に非難する。
後ろを向いていては、上手く前には走れない。徒競走でそんなことをすれば、世界チャンピオンでも負ける。
目の前にぶら下がっているパンという可能性に食いつけるのは、ただ真っすぐすすんできた者だけだ。近道を模索して脇道に逸れてしまったり、絶望して頭がうなだれてしまった敗者にチャンスなど与えられるはずがないのだ。
優希にしろ、高崎にしろ、ひよって妥協しない。話し合いで折れることはあれど、議論もせずに譲歩するということは辞書に記載されていないに違いない。
人への妬み心は、向上心を阻害する。正当な他者にレッテルを貼り付けてしまえば、それ以上の発展はしなくなる。一瞬の快楽に溺れて、将来の芽を自ら摘み取ってしまっているのだ。
隣であれだけざわめいていた女子会が、静かになった。皆高崎に白い目を向けている。場所が場所なら、女性差別でメディアに取り上げられてもおかしくない。多少、言い過ぎなところではあっただろう。
しかし、何の罪もない優希を悪人に仕立て上げようとする会話の流れには賛同できかねる。
単純明快な男子のピラミッド構造と比べて、女子の関係性はブラックボックスに隠されている。乙女心を読み取れという試験は、九分九厘無理な相談だ。
しょうもない恋愛話は勝手に盛り上がってくれて構わないのだが、特定の人物を名指しで虐げようとするとなると話は変わってくる。
第一に、彼女たちが主張している『皮を被っている』とは、どの根拠を以っているのだろう。
公園の芝生ですら立ち入らず、一輪のタンポポだけで授業が出来てしまうほど知識が豊富。自然界の掟を守り、不用意な介入をしない。まさに、本来あるべき自然は人間の姿だ。
優希がクラスの女子と馴染めないのは、女子会常連が暗躍しているからではないのか。そういう陰謀論を信用してしまうほど、言いがかりの程度がひどい。
正義の味方を散々貶していた航生がいえることでは無いが、彼女のためならいくらだってヒーローになれる。
地獄まっしぐらになっていた線路の分岐器を動かしてくれたのは、他でもない優希だ。錆びついていて動かしにくかっただろうに、何とか絶望への道を回避させてくれだのだ。
心が純粋な人は、損得無しに応援したくなる。今や、タンポポを見るだけでうっとりしている自然少女の笑顔が浮かんでくるようになった。
「……ここにいたら、園部まで変な目で見られるぞ?」
「もう見られてるよ」
優希を庇おうとした時点で、このクラスの女子を半分敵に回したようなものだ。今更心証を上げようとしてもムダだろう。
少し目を離していたスキに、黒板掃除も終わっていたようだ。文字の切れ端が一つ残らず消え去っていて、さぞかし次の授業を担当する教師は気持ちがいいに違いない。
日番印の下には、書き直された跡があった。角ばった大きな文字は、チョークが不慣れだと言っていた優希の手書き文字とするのが普通だ。
僅かに、胸の血管が収縮した。やるせない気持ちで、胸が満たされていく。何とも歯がゆくて、落ち着かない。
……優希は、どう思ったんだろうな……。
自身の苗字にバツを付けられて、いい気にはならない。正規で消去されていたとしても公衆の面前に晒されるのは嫌だというのに、悪意が感じ取れるというのだから不快にならないわけが無い。
こういう時にフォローしに行けるのが、友達なのではないか。気に留めるなとお節介でも言えるのが、分かち合った仲の行動というものではないのか。
何はともあれ役目を果たした優希は、クリーナーのスイッチを押し上げた。まだ朝早く、チョークの粉で汚れ切っているとまでは言えないが、これも次に使う人を考慮しての事だろう。
いつもなら、読書勢に嫌われるほどの爆音が教室中に鳴り響く。放課後以外でクリーナーを使う人がいないのは、この爆音が会話や思考を遮ってくるからだろう。
教室内は、やけに静けさがあった。耳に入ってくるのは、女子会からのクスクス笑いだけ。故障と思って何度もスイッチを上下させているが、クリーナーは働く気を見せない。
見慣れないコードが、床面に落ちていた。無断でスマホの充電をしていた奴らを見たことは有るが、そのケーブルとは似ても似つかない。掃除機の末端についているような、ガッシリとしたプラグが備え付けられている。
それが何の電源コードなのかは、明白だった。
一日に一回の頻度でしか使われないとはいえ、節電するほどの電力量を消費することは考えにくい。プラグが外れているのを見たことも今日が初めてで、長さにも余裕がある。
普段から優希の悪口ばかり口にしている女子陣を見てきた航生には、すべてが彼女を妬む集団が起こした行動にしか思えなかった。
陰湿ないじめは、れっきとした犯罪だ。それは万引きと同じで、学生でも関係なく処罰される。
しかしながら、加害者が不透明であると中々立証しずらいという面はある。現場を目撃したとしても、『節電のため』などともっともらしい理由を付けられては手が出せない。
優希もようやく電源が抜けていることに気付いたようで、いそいそとプラグを差し込みに行った。
……何も思わない、って考えるのは楽観的だよな。優希も、人間なんだし。
態度に不満が含まれていないので、彼女としては何もダメージを負っていないかもしれない。あるいは寛容な心をもって、いかなる行為でも赦しているのかもしれない。
完璧そうに見える人間でも、欠点は存在する。頭の回転が速くても運動が得意でないのはお決まりのパターンであるが、きちんと弱点を持っている。
短所が平然と見え隠れするのなら、たいした問題は起こらない。長所と短所が組み合わさって個性であり、場合によっては相乗効果でもっと魅力的に見られることもある。
気を付けたいのが、短所を意図的に人から隠そうとすることだ。周りの人から期待されている姿を追い求めている人が陥りやすく、根が真面目なのが災いして他人に相談もできない。
重くて吐き出せない鉛は、ヘドロが底から溜まっていくように積み上がっていく。それが許容量を超越してしまった時、鬱や自殺などの残念な結果に繋がってしまうのだ。
世間から見られている理想の人物像と言うのは、偏見と過大評価の塊だ。そんなものに人生を道連れにされてはたまったものではない。
無理のある我慢も同様で、ストレス過剰になってしまう可能性が高い。心の不調と身体の不調は連鎖していき、いずれ倒れてしまう。
優希には、そうなってほしくない。欲を言えばもっとのびのび暮らせるクラスに移籍させてあげたいくらいだが、それを高校に交渉しても効果は無いだろう。
……無理してなければいいけど……。
透明な色は、一度黒に染まってしまえばもう元には戻らない。輝きを取り返すことは、二度と出来なくなる。
「……ほらみてよ。桜葉さん、何も気づいてない」
「ほんとだー! 天然アピールすることもないのにねー」
胸糞悪い会話が、すぐ隣で行われている。ここで止めたとしても、再発してしまうだろう。航生は、現状無力だ。
黒板消しを元の位置に戻した優希は、一歩窓側に歩き出そうとして、その場に止まった。窓の向こう側に、視線が固定されている。
そんな彼女の行動が気になったらしく、つるんでいる女子たちも目線を辿って行った。
……あ、あの目は……。
縁の下で力強く咲いているタンポポを見ているかのような、好奇な目。生き物に対する興味が、爆発していた。自然と頭が窓の方へと伸びている。
黒い点が、徐々に大きくなってきた。軽いゴミは風に流されてしまうだろうから、きっと虫である。まるで、羽ばたいているかのような……。
「……あれ、虫じゃない!?」
「……ほんとだ!?」
野生の虫にたじろがない優希がこの世界でスタンダードと言う説は、たった今否定された。定説通り、基本的に嫌っている人が多そうである。
換気のためにと半開きにしてあった窓から、何やら大きな黒い虫が飛び込んできた。ふわふわ下降していき、教卓に着地した。もちろん、優希は逃げ出していない。
彼女よりも距離が離れている女子陣は、逃げ出すのが癪だと、腰が抜けながらも踏ん張っている。勝手に逸れる目を引き戻し、大きな黒い虫に集中しようとしていた。
長い触覚に、すばしっこい動き。机の上を縦横無尽に駆け巡る様子は、どこかでみたような光景に似ていた。
冷蔵庫の下から出てくる、集団生活をして暮らす厄介な害虫。スプレーや新聞紙で撃退する、人間の大敵。
「……あれ、ゴキブリじゃない……?」
女子陣の一人が言葉に出すと、その恐怖は伝染していった。例え嘘だったとしても、真のように広がっていく。
固められていた机を強引にどけて、教室外へと走り去っていく。悲鳴こそ出さないが、ゴキブリ嫌いなことくらいは分かる。
セミやカブトムシならまだ耐えられたはずの女子たちも、恐怖心を植え付けられたゴキブリ相手では敵わなかった。残っているのは、恐怖より優希への憎しみが勝った者だけだ。
根性を褒め称えればいいのか、そこまでして固執するなと呆れればいいのか。
怖気ることなく、優希はそっとゴキブリらしきものに手を伸ばした。真っ黒な背中に魅入られたかのように、隅で起こったドタバタ騒ぎをシャットアウトしている。
もうちょっとで手の中に収まる、というところになって、いきなりゴキブリは手のひらを潜り抜けた。巨人に捕まってしまっては何をされるか分からないので、当然と言えば同然だ。
皆が注目する目の前で、未確認虫は優希のてっぺんへと降り立った。黒髪とその体色が重なって、擬態する形になった。航生から見えやすいのは、水平に見ているからである。
自分の身になって想像したのが仇となって、しきりに髪の毛を振り払いながら残っていた女子も教室から逃げ出していった。まるで優希が人ではないような軽蔑顔で、吸う空気が一段と重くなった。
あまり虫を気にしない運動系男子も、流石に気遣って寄って行こうとしたが、そのような心配は無用だったらしい。
「……ゴキブリはゴキブリでも、家にいるようなのじゃないんだけどな……」
言うなり、優希は頭頂部に乗っかっていたゴキブリをつまみ上げた。
……開口一番、ゴキブリの種類なんだ……。
これは、航生でなくともそう思ったに違いない。
昆虫が人から嫌われやすいのは、その見た目の気持ち悪さからだ。弾力のある幼虫の体や中で蠢く脚の動きは、吐き気を催しても仕方のない部分がある。
手で直接触れなければ、そこまでヘイトが向くことも無い。虫取り網でセミを捕獲することは、虫嫌いでもなんとかできる。道具というワンクッションを挟むことで、虫と関わっている感覚を薄れさせているからである。
「……あの子、ちょっとおかしくないか……?」
「……でも、自然を大切にするって言ってたような……?」
ゴキブリを手にして熱気のこもった演説をする優希に、困惑が向けられている。クラス開きでの『自然を大切に』発言もあって、やや肯定しているような口素振りが多そうだ。
頭文字をとってGとも言われる害虫が排除対象に含まれているのは、実害が発生するからだ。
台所の隙間に潜み、夜間に食物を食い荒らす。細菌や汚れを体に付着させ、病気をはこんで来る。これが、害虫以外の何であろうか。
一方的に虐げられている生き物は保護しようとするが、双方向に矢印が伸びているものは大人しく見守る。そういったスタイルをとって来た優希は、ゴキブリのことをどう見ているのだろう。
即座に叩き潰さないのを見ていると助けたい気持ちが溢れているように思えるが、害虫としての働きを無視しているのだろうか。
バッタやカマキリが自然循環の流れに入っているというのは周知の事実だが、人間も輪に加わっている。娯楽目的で絶滅させられた生物ならまだしも、人に害を与えるゴキブリが助ける対象に入ってもいいのだろうか。
授業時間でもないのに、挙手してしまった。理系に進むつもりが毛ほども無い人間が、生態系について疑問を持っている。
ノリに乗って、優希に指名された。教壇の前でチョークを手にしている彼女は、すっかり生物専攻の教授だ。
「……ゆ……、桜葉さん、ゴキブリは病気を持ってくるけど、それでも助けなくちゃいけない?」
危うく、名前呼びをするところであった。今は、火に注ぐ油のような材料を追加注文したくはない。
……人間は保護の対象外だと伝えられたら、幻滅することになるかもしれない。
優希がその独特の思想で友達が出来なかったのは、れっきとした過去の事実だ。誰にも理解されない思考を持っているというだけで学校生活が楽しくないものになる気持ちは、想像しがたいものがある。
救われなかった道筋に、光を。白馬にまたがって悠々と現れる勇者ではなく、通りすがりの同級生として、優希をクラスに馴染ませてあげたいと思った。
自らの願望が少なからず入っているのが懸念事項ではあるが、それはどうしても取り除けない。
しかし、航生にも思想というものがある。人間をやたらめったら否定する自然回帰は生理的に受け付けない。例え人間が不利益を被るのが最善だとしても、感情は全く天秤に関与していない。
恋人から、人間は生まれてはならない生き物だったと説得されたとしよう。はいそうですかと二つ返事で納得するわけにはいかない。それを認めるということは、自分も彼女もこの世に出てこなかった方がいいということになる。
生まれてきた以上は、その枠組みの中で力いっぱいもがくしかないのだ。人数調整など人権無視の殺人であり、正当化されるべきものではない。長期的に見れば滅亡してしまうとしても、そのためにたくさんの個体を切り捨てることが正しいとは思えない。
どんな種も絶滅させてはいけないと主張しているのにも関わらず、人間は滅んでも良いと言う。実際にそんな人がいるのかどうかは分からないが、一文で矛盾していることは分かるだろう。
脇腹を指で保持していた優希は、窓枠でそっとゴキブリを空に放った。高速で羽ばたきながら、山々の見える向こう側へと飛び立っていく。
「……勘違いしてないかな? ゴキブリだって、全部が全部家の中に住んでるんじゃないんだよ?」
これは、航生への返答と言うよりかはクラス内への講義だ。
桜葉教授は、黒板を中央から二分割した。それぞれに『家にいるゴキブリ』『山にいるゴキブリ』と分かれている。
……山にもいるんだ……。
見たことないと反論しようとしたが、航生よりも優希の方が知識量で遥かに上回っているのは察する通りだ。そもそも、山登りに行ったことが一回しかない。
成人にしてはごじんまりとした先生が、みんなの疑問に逐一丁寧に答えていく。
「……家の中にいるゴキブリっていうのは、体が茶色いのが多いかな。カサカサって音を立てるのも、それ」
これは、よくあるゴキブリのイメージだ。殺虫剤を吹きかけても逃げ回り、どうにか動きを止めたころには容量がだいぶん減っていることがある。
興味が無さそうだった男子までもが、優希の授業につかれていた。真剣に考察する者、ふざけてばかりいる者と多種多様だが、この場は支配されていた。
航生がゴキブリの話を延々と語っていても、優希以外には見向きもされなかっただろう。その差は、何なのか。
断定するまでには至らないが、有力な候補は思いついている。それは、純粋さだ。
人の性格は、普段の行動に現れる。模範的な生徒会長を演じていても、肩がぶつかっただけで悪態を付くようでは人が離れていく。教師からの評価と生徒からの評価が反比例しているのは、性格によるものだ。
初日から、優希はアクセル全開だった。グラウンドに点々と生えている雑草を極力避けながらグラウンドを一周し、ふざけて机の端を破損させた男子へ瞬時にお叱りを飛ばしていた。一目、変人に見える。
その後も、行動パターンは全く変わらない。間違ってふらっと窓から虫が入ってきたときは、率先して元の世界に戻す。猫を被っていると痛烈な野次を飛ばされていたこともあったが、信念を曲げはしなかった。
利害関係が絡まずにフラットな目で見ることの出来る男子からは、特異だがやっていることは何となく分かる子だったのだ。もちろん、中にはレッテルを貼って無視していた男子もいるだろうが。
同性に嫌われることはあるだろう。ただ、とてもではないが男子からも敬遠されるようなキャラではない。小学校、中学校といじめのような排除を受けていたらしいが、一体全体何があったのだろう。
暗い過去を引っ張り出したくはないので、真相は知りたくない。
「……叩き殺したことあるけど、桜葉さん的には説教?」
ついに、接点のない生徒から質問が飛び出した。
無用な殺生について、優希ほど厳しい顔色を示す人はいないのではないだろうか。電子レンジで猫をチンしたと冗談でも告げた日には、絶交されてしまうだろう。
そんな自身の理論を一番実践している彼女は、何一つ顔色を変えなかった
「家の中に住むタイプのゴキブリは、はさっき航生の言ってた通りで、病気を運んできちゃうんだよね……。……仕方ないと言えば、仕方ないかな」
積極的に推奨はしないものの、害を与えてくるものならば文句は言えないとする立場だ。危惧していた、人間を不必要に蔑む宗派ではなかったようでなによりだ。
「……でも、ゴキブリは攻撃しようと思って病気を持ってくるわけじゃないから……。どうしたらいいのか、優希も分からない」
数学に曖昧さは許されないが、倫理観は割と緩い事がある。基準をギチギチに固めていれば仕分けが楽になるだろうが、数少ない例外に当たった時にどうしようもなくなってしまう。
曖昧なゾーンを作っておいた方が、もしもの逃げ道にもなるのだ。
意図なく害がある生き物には、この優希をもってしても決断を下しづらいようである。
「桜葉さんは、家のゴキブリをどうしてるの?」
クリティカルヒットだ。白黒つけられないものに色を塗るにはこれが一番である。が、回答者にとってはどちらに転んでも追及が待っている。
ここまで何の澱みもなかった優希が、初めて言葉に詰まった。思考を整えようとする深呼吸が、何度も教室から聞こえる。
質問者の男子は、齟齬を見つけてはしゃいでいた。粗さがしが目的なようで、悪用しようという意図がある。
優希は、逃げなかった。悪ふざけをしている言い出しっぺを真っすぐと見つめていた。厳しい目線ではないものの、見つめられた男子が後ろへ少したじろいだのが見えた。
「……家のゴキブリは、殺してる……」
「これはこれは、どういうことかなー? 思ってることと言ってることが、矛盾してない?」
悪意のある人物というのは、どうしてこれほどまでに煽り性能も高いのだろうか。ドン引きされてしまっても気にしない図太さだけは褒めてやってもいい。
「やっぱり、桜葉さんは嘘つきだったんだねー」
いつのまにか、退散していたはずの女子陣が戻ってきていた。ゴキブリを逃がしたという情報が、どこからか伝わったのだろう。
よくよく観察していると、無理難題を吹っ掛けた男子と教室に舞い戻って来た女子会陣営が目配せをしていた。
……優希に集中砲火して、何が楽しいんだか……。
一人、全員の目の前でゴキブリについての考え方を語りたかっただけの優希。それを、良く思わない陣営が攻撃し、周りも同調圧力に流される。
おそらく、前の学校でも同じようなことが起こっていたのだろうと簡単に推測が出来る。クラスの中で段々とスケープゴートになっていき、批判の墓場と化していたのだろう、と。
『友達らしいことって、何かな?』
これを言われた時は、一緒に遊ぶことくらいしか思いつかなかった。貧相なことしか捻りだせない頭は、相変わらずポンコツだ。
最奥の席で観衆となっていた航生は、椅子を大きく後ろへ引いた。金属製の脚とコンクリートの床が擦れる音で、一気に注目の的となる。
「くだらないな……。優希が悩んでそう決めたなら、それでいいんじゃないのかよ?」
バージンロードを歩くゲストのように、真っすぐ教壇へと歩んでいく。尻尾を逆立てた猫の鋭い目を感じるが、そんなものを気にしているヒマはない。
心にたぎっていた熱い怒りが、洪水となって教室内を渦巻いていく。
「殺したら、罪のないゴキブリに申し訳ない。殺さなかったら、害がどう転ぶか分からない。こんなの、どっちを選んでも責められることじゃないのか?」
はっきりと、標的を定めた。日和見で呼び捨てにすることがはばかられた航生は、追撃をかまそうとしていた男子を指差した。
立ち上がられたのが想定外だったようで、明らかに口がもごもごしている。浮足立っているのを、逃す手はない。
……矛盾した選択を迫られることなんか、誰にでもあるだろうよ。
いくら自然を愛していようとも、山中で熊に襲われて死ぬのが本望という人はそう多くはない。大切にするということは、盲目的に守ることに繋がらない。
ゴキブリの話に戻すと、害虫でもむやみやたらに生かすのが正義ではない。不衛生から病気で入院しては確実に人生の質が下がると言うもので、確実に心は蝕まれる。一方的な殺戮ではなく、敵を排除しているようなものだ。
むしろ、普通の人ならば気に留めもしないだろう『ゴキブリの命』の重さを量ろうとすること自体が、自然保護意識の高さを表している。
本人に生命を大切にする感覚が備わっていなければ、何も考えることなくスプレーを噴射して終わらせているのだから。
「……ほ、ほら、殺してるんだったら、命を粗末にしてるってことだろ……?」
「自分の健康を粗末にしろとでも?」
何と何を比べているのかが、全く分かっていない。
巣にエサを運んでいるアリを潰したのなら、それは無駄死にだ。アリがいることによって不利益を受けないのに殺してしまっては、無駄というものだろう。
ゴキブリが害虫指定を受けているのならば、その理由は何処かにあるはずだ。人間の生活に少なからずの影響を及ぼすからに決まっている。
人が自然界の生活圏に入り込む分には、自己責任だ。野山でハチに刺されるのはハチの生活圏内に侵入した人間に非があり、避ける努力をしなかった怠慢になる。
逆に、野生の生き物が人間の世界に迷い込んでしまったらどうするのか。
答えは簡単で、その大きな頭を使って考えて見ればいい。他の生物を凌駕する知識をフル回転させれば、追い返すのが温和な策だということに気が付くだろう。
アブが部屋の中に迷い込んできたとして、大事なのは窓へと誘導することだ。刺激を与えてしまえば刺されるのは当たり前で、慌てないことが重要なのだ。
……ゴキブリも外に帰してやれば、野山に戻って行ってくれないのか……?
ここは、脇にいる生物博士に尋ねてみる事にしよう。分からないことをそのままにして嘘を固める手法はいずれ失敗する。
「……優希、ゴキブリは野に帰してやれないのか?」
「……家に住み着くやつは、放しても戻ってきちゃう。他の家が被害を受けるだけだよ」
冷静になってみれば、優希が泣く泣く始末しないといけなかった時点でその選択肢が残っているわけが無かった。
ともかく、家を居住地とするゴキブリは野に帰せない。自分の家から離れたとしても、他の家に行くだけのループだ。
他人にまで迷惑が広がるのなら、自分で蹴りをつけてしまうのも致し方ない。あくまで、個人の感想である。
「……こういう人の価値観を問うものっていうのは、答えなんてないんだ」
正解が、何処かにかかれているわけではない。自分で根拠となる資料を集め、総合的に判断していかなくてはならないのだ。価値観は、機械的に基準を置けるものでは無いのである。
人を罪人がそうでないかを裁くのは裁判所の役割だが、全く同じ状況の裁判というものは無いに等しい。各事件で動機や被害状況、悪質さが異なるのだ。そういったものをまとめて判決を出すのが、裁判長なのである。
優希は、ただ航生を見守ってくれている。言いたいことを言えるように、無用な口出しはしてこない。
友達というものは、仲良く遊ぶだけが能ではない。苦楽を共にし、絆を育む。綺麗ごとのように聞こえるかもしれないが、本質はそうなのだろう。
……今、友達の意味がやっと分かったような気がする。
航生は、優希を庇うように右腕を横に真っすぐと伸ばした。
「答えのないものは、自分で道を切り拓いていくしかないと思う。優希は試行錯誤しながら突破してるんだから、何も悪くない」
これ以上因縁をつけてくるようなら、こちらにも考えというものがある。
「……これでも優希をバカにするって言うなら、俺が全力でぶつかるぞ」
航生の腕力は、高校生平均より劣るだろう。が、それは問題にならない。
女子陣に偏りかけていた漂流する意見たちを、引き戻すことが出来た。今や、クラスの男子は一名を除いて優希たちの味方になっている。そんな雰囲気が、教室内に出来上がっていた。
やられっぱなしで我慢ならなかったらしいグルの男子が、懲りずにどうでもいい質問を投げかけてきた。ヤケクソな姿は、あの日芝生で花を摘んでいた航生のようだった。
「……じょ、女子を名前で呼ぶなんて、気持ち悪いにもほどがある……」
皆までは言えなかった。各方面から、氷の矢が降り注いでいる。冷や汗がダラダラと垂れて来ていて、無い頭を振り絞っても良い案は出てこないらしい。
この愚かな男子は、あろうことか女子陣の一部をも敵に回らせてしまっていた。口は禍の元とはよく言ったものだ。
ガコン、と机が押し倒された。論破されて後ろ盾を失ったその男子だ。チャイムが鳴る時刻が迫っているというのに、一目散にドアから出て行った。
女子陣はすっかり静かになってしまっていた。反論する取っ掛かりを掴むこともできずに、優希を睨みつけているだけ。数の暴力には太刀打ちできないと見て、行動を起こしてくる様子はない。
教室内に、拍手が巻き起こった。己を貫いた優希と、消極的な性格のはずの航生に。
意欲的に創作へと取り組んだことのない航生にとって、拍手喝采の中心にいるというのは居心地が悪かった。
元々、感謝されるようなことも尊敬されるようなこともしていない。優希が攻撃されることにいたたまれなくなって、静かな感情が暴走してしまっただけだ。
そう言っても、祝福ムードを終わらしてはくれなさそうだが。
一通り拍手が収まり、口々に『すごい』『よくやった』との声が飛び交った。『よくやった』は、クラスにのさばってカーストトップとして支配してきた女子陣を退散させたことに対してだろうか。
「……航生、大丈夫? あんなことして、体ちゃんと持つ?」
……自分が攻撃されてたって言うのに、なんて人だ。
慣れっこだったら反対に問題として挙がりそうだが、優希が持っている生命を大切にする力には脱帽だ。
「……優希は、『友達になってほしい』って言ってたよな? 友達を守るのも、役目かな、と」
こんな純真な子と友達でいいのかと、まだかしこまった語尾が抜けきらない。
いつもより僅かに頬を赤らめて、優希が照れ笑いをした。とろけてしまったのかと心配するほどに、頬っぺたが零れ落ちそうである。
「そうだったんだ……。ありがとう、航生」
この言葉が聞けるだけで、十分というものだ。
「……桜葉先生! ゴキブリの授業の続き、よろしくお願いします!」
「桜葉先生……? ……優希のことか」
自分の苗字も忘れてしまっていたようで、とろけそうになっていた顔が途端に引き締まった。
生徒の一声で、残り時間少ない講義が再会された。教師としてチョークを使うことが無いので、長文を書くのには苦労している。
「えーっと……。そもそも、なんでゴキブリが家にいるのかと言うと……」
居眠り魔も、勤勉でワークばかりをやっているような子も、全員が優希の身振り手振りに魅入られていた。『ゆきわーるど』に、クラス全体が引き込まれていく。
……生物の授業、全部優希がやってくれたらな……。
高校生からでも教員免許を取れやしないかと、脳内検索エンジンを稼働させた航生なのであった。
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