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序章

001 終わりの始まり

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 やかましい野次馬が皆まで引き払った、赤色光差し込むクラスルーム。サイレンが鳴っていないところを見るに、自然光だろう。

 とある契りを結ばされて、健介(けんすけ)はここにいる。無駄なひとときを過ごすくらいなら、まだ塾の机に張り付いて講義をかじる方が有意義というものである。

「……健介……、いいかな……?」

 血管が沸騰寸前なのは、ロッカーの隅に縮こまっている悠奈(ゆうな)。場合が場合なら、熱中症で保健室に運んでいる所だ。燃える感情と発熱を見分けるのは、なんと難しい事か。

 教室内は、妙に蒸し暑い。エアコンは当然のようにスイッチを切られており、除湿もしてくれなければ冷やしもしないガラクタと化していた。
 エアコンを操作できるのは、大本営の職員室からだけ。通常日程を完遂した空室に割く光熱費など無いのである。
 皮膚の表面から煙が立ち上がっているのも、脆く柔い恋心に焦がれたからではない。季節外れの夏日がそうさせている。

 ……二人だけで教室にいるとか、勘違いする要素が満載だからな……。気を付けないと……。

 ロマンティック映画を鑑賞した経験を有していると、異性との空間を特別視する傾向にある。偶然の産物で二人きりの部屋が出来ると、途端に恋愛アンテナが反応するのだ。
 それが友達というプラスを帯びた付き合いであれば、なおさら。電波が強烈で、壊れてしまいそうになる。

 元来、悠奈は引っ込み思案な性格ではない。授業中の指名にネタで返す肝っ玉があって、誰が内気と言えようか。

「……あんまり遊んでる時間はないんだけどな……」
「そんなこと言わないで……」

 折り畳み傘のように収納されていた悠奈が、留め具から解放された。天使の跳躍で高らかに空へ身を預け、健介の元へと駆け寄ってくる。
 女子の扱いに難があると定評がある健介でも、異性の友達を躱す真似は出来なかった。願わくば、平等に無私公平な接し方ができる人間でありたかったのだが。

 窓の外からは、威勢の良い雄たけびがなだれ込んできている。不純異性交遊の場を撮影されたようではなくてなによりだ。

 ……俺以外なら、また違った感情を持ってたんだろうな……。

 血液を顔に昇らせて、ひたすらに一歩踏み出してこない女子。胸がときめかない健全な男子学生はいない。
 本能は、高校生程度の理性で抑え込める代物では無いのだ。メスとオスという古代から続いてきた伝統は、人間と言えど免れない。

「……もうちょっと、心の時間をちょうだい……?」
「もうちょっとだけだぞ……。まったく、手を焼くんだから……」
「何か言った?」
「いやあ、悠奈は手のかかる子だな……」
「……私は健介の子供じゃない!」

 拳を二つ作成した悠奈は、苦しみの渦から絞り出した笑い声を上げた。今日が雑談だけで終わってくれたら、と切に願う。

 心臓の拍動は、いつも通り。医者をよこして検査をさせたら、異性を目の前にして心拍数が変動しないことを病気判定されるのではないだろうか。

 壁板は、人間関係に幸あれと暖色系に塗りたくられている。空気孔がペンキで塞がれているのは見なかったことにしておこう。
 街灯のブルーライトは、犯罪者の衝動を和らげるために設置されているもの。暖色系は、言わずもがな逆転現象を発生させる。

 それでいてなお、健介は微動だにしない。指の先一本も、悠奈へ向かない。何とも統率の取れた軍隊だ。

「……私と健介は、最初の方、あんまり親しくなかったよね……」
「そうだな……」

 昔話を引っ張り出してくる意図は掴みかねるが、言葉にしたためているのは事実だ。

 健介と悠奈。起伏の激しい濁流をさかのぼっていけば、小学校から巻物語はスタートしていた。

 ただし、大半のシーンは近所で出会い頭の雑談であり、特にアクションも無く年月が経て行っただけ。敵対関係にランクダウンすることも無ければ、一緒に登校する仲にも昇華していなかった。

 ……同じ高校に入るとは、夢にも思ってなかったけど。

 学力層が大きくズレていた二人が同一の高校に入学できたのは、世界七不思議に登録されてもおかしくない珍事件である。九対一で悠奈の頑張りが占めているのは内緒だ。
 悠奈が、手を差し伸べてきた。グループに弾かれて泣きじゃくっているちびっ子を救済する神の手が霞む、凝り固まった手であった。

「……健介、ほら、これ」
「課題テストの点数で俺を煽ろう、っていう魂胆じゃないだろうな……」
「いっつもそうやってあしらってくるんだから……」
「前科があるんだから仕方ない」

 注射器として使えそうな、長細い巻かれた紙。心臓に突き刺してとどめを刺せばいいのだろうか。伏線回収の手段には最適だ。

 悠奈の手は、絶えず継ぎ足される湯であった。流石女の子と声をかけてやるべきか、力を込めれば込めるほど沈み込む。

「……うぅ……、イタズラするのはやめて……」
「ただの健康診断だよ。異常は無かったから、ひとまず安心だな」
「……裏に何か隠れてそうだなぁ……」

 悠奈が影に職務質問をかけようとしたが、無生物相手では歯が立たなかったようだ。
 健介の後ろポケットを探られても、逮捕に至るやましい薬物は見つからない。悠奈には、刑事ドラマの視聴過多疑いが浮かび上がってきた。

 燃え上がる彼女の瞳は、派手。セレブ気取りの時代錯誤ファッションと同義だ。心に訴えかけてくるものが、屈折してこちらまで届かない。

 手紙を開く手に、悠奈の目は注がれていた。宝くじの当選券が宙に舞っても、視線が揺らぐことはないだろう。

 巻物をほどいていくと、まず小柄なイラストが現れた。フリー素材ならば、クオルティの進化に驚かされる。

『けんすけ!』

 悠奈を二次元へ投影したそのキャラは、そう一言叫んでいた。ご丁寧に、お手製のビックリマークを添えて。

 ……応募予定の漫画でも、見せに来たのか……?

 そうでないことを頭で理解しつつも、最悪の未来が訪れないことを祈ってしまっていた。

 イラストオタクを公言している悠奈は、世の中にキャラクターを送り出してもいる。将来は専業漫画家になると言い出した時は、現実をしっかりと突きつけておいた。

 漫画のコマ割りがされていることを信じて、健介は手紙を全開封した。

『私 多田(ただ)悠奈は、健介が好きです』

 黒鉛を染み込ませた文字は、くっきりと目に写った。消しゴムで証拠を隠滅しようにも、こう濃く刻み込まれた勢いのある文章は消せないだろう。

 悠奈の額からは、うっすらと汗が滲んていた。蒸し暑い環境一つで、皮膚の表面が洪水になることは無いはずだ。

 雰囲気政府に言論を抑圧されて、口が開かない。次のステージに進むための扉は、体当たりでも爆薬でも動きそうにない。

 ……悠奈……。

 健介と悠奈の歯車は、いつから軋みだしたのだろう。相互に行き交っていた電信は、いつを境に途切れてしまったのだろう。

 紛れも無い事実が、世界に一つ。故障の原因を作ったのは、悠奈である。

「……健介、私のこと……」
「断る」

 一年前、健介の告白を手紙一本で引き下がらせたのは悠奈なのだから。
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