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保健室編
018 保健室
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白のレースに遮られた照明が、柔らかい白色光を浴びせてくる。ライブ会場のミラーボールの激しさとは正反対だ。
暗がりに安置されてある、清潔に保たれたベッド。手のひらを押し込んでも、弾力で跳ね返ってくる材質で作られているようだ。隆仁の下敷きと交換してくれれば嬉しいのだが、学校の備品を横流ししてくれる業者は見つからないだろう。
背中にいつまでも残る、ほのかな温かさ。人体を流れる血流の効果と断言するのは味もそっけもない。信頼して身を委ねてくれた少女が、寄りかかっていたのだ。
……佐田さん、意識無くなってたのかな……?
お姫様を担いでから、ピッタリ言葉が絶えた。荒野を走り抜けていく暴走車のように荒々しい息を上げて、三度ずり落ちそうになった。
結莉を繋ぎとめていた手には、振動して落ち着かなかった感触がこびりついている。遊園地のお化け屋敷なら喜んで出口までリードするのだが、現状で晴れやかになれるわけも無い。
体力の残量を示す電源ランプが、オレンジ色に点灯している。稲妻が電池に入り込んでいるイラストは、充電中を表す。充電式乾電池は、コンセントに接続しておくだけで回復するという便利な仕様だ。
寄生系少女のバッテリーも、雀の涙ではあるが盛り返し始めていた。チューブが身体に突き刺さっていないのは、正常な人間の証である。ケーブルなど繋がなくとも自力で立ち直れることに、安堵の溜息が地面に滞留した。
保健医によると、結莉は単なる電池切れ、体力を使い果たしただけだったようだ。精々二百メートルのダッシュで溜め込んだエネルギーを消費するとは、急加速がいかに限界を超越していたかを物語っている。
……消費エネルギーの絶対量があるなら、授業中とか放課後に倒れそうなものだけどな……。
携帯会社には、一日に使用できるデータ量を制限したプランが存在する。動画広告を見ても回復することは無く、むしろ静止画など比べ物にならないほど減少してしまう。
結莉のバッテリーが同様の契約で使われていたとするのならば、朝方の全力疾走で通信制限に引っ掛かりようがない。仮定が正しいとして、先週隆仁が振り回されて地球の重力を振り切った無理強いは何だったのだろうか。美少女と付き合いたい願望が生み出した幻覚とは言わせない。
魅惑の少女、佐田結莉の謎は一層深まっていくばかりである。名探偵のように納得のいく推理をひらめかない隆仁には、大人しく濃い霧が晴れるのを待つよりない。
病院に足を運ぶと、独特の慣れない匂いに苦しむことになる。何度通院しても鼻に障る、薬か器具か分からない特有の刺激臭。この匂いが嫌で病院嫌いになる子供もいることだろう。
学校の保健室に入ったことは無かったが、案外本能が避けるほどの悪臭は漂ってこない。医療機関で使用される器具が悪さをしていた疑惑が強くなる。
「……安静にしてなきゃ、ダメかな?」
「また俺に運ばれたくなかったら、そこでじっとしといてな」
「……須藤くんに背負ってもらうのも、いいかもね……」
平べったいベッドに仰向けで横たわっているのが、結莉だ。隆仁が被せたそのままの状態で、ふかふかお布団が乗っている。お見舞いに来た友達ではないので、お土産は持参していない。
扉のある保健室側とは、レース一枚で隔てられているだけ。やることなすこと、向こう側に筒抜けだ。好き勝手な行動は許されない。
……まさか、減点されてないよな……。
心配事が解消されたことで、また新しい問題に直面することとなった。
人命救助に携わった人間が、不真面目だと心証を悪くしようがない。結莉の容体が結果的に大事ではなかったとしても、うつ伏せで倒れている女子を見逃すことは考えられなかった。
仮にそのような横暴が通ってしまうことがあれば、全力で抵抗してみせる。お金だけを捻出して、天才美少女に丸投げだ。法廷で無知な人間が証言しても、状況は悪化する一方であるからこその措置である。
「……須藤くんは、そこに座ってるんだ。嫌らしいこと、考えて無いといいけどなぁ……」
「俺がそんなこと思ってたら、今頃赤色灯に顔が照らされてる気がするけど」
パトカーのサイレンが街中にこだまし、強制わいせつの罪で補導される少年Sの再現図がニュースで報道される光景が目に浮かぶ。顔モザイクを突破する武器を兼ね備えた被害者女子高生が『裏切られた』と吐き捨てていそうである。
何年も使われているこの布団がしなびて固くならないのは、手入れが行き届いているからだ。押し入れにしまわれてタイムスリップすることなく、定期的に復活作業が行われているのだろう。
ベッドの下敷きを伝ってきた結莉の手が、隆仁の太ももに辿り着いた。断崖絶壁を這いあがって、手のひらを押し付けるように乗った。
「……近いよ、家族じゃないんだから。私が大声を出したら、須藤くんの高校生活は終わりだね」
「さらっと他人の人生を台無しにしようとするなよ……」
隆仁たちのクラスで熱愛疑惑が浮上しているとは言えど、それは狭いコミュニティでのお話である。客観的に見つめてみると、男子高校生が疲労で動けない女子を襲おうとしている風に捉えられないことも無い。
壁に貼り付けてあるカレンダーは、桜をバックにした四月になっている。始業式と書き込まれた日時から、早くも一週間以上。濃密な金欠アタックの日々で、昨日の事が一年前に感じてしまう。
新学期は、まだ始まったばかり。今月が終わりを告げるまでに、あとどのくらい不測の事態が発生するのだろうか。白紙だった日記帳は、文字でびっしりと蓋をされてしまいそうだ。
……ぼんやりとしたプランだけで、よく付き合って行こうと思えたな、自分……。
一朝一夕で覚えてきたかのような台本読みに、腕を組めば至近距離からでもヘッドショットを決められるという軽い気持ちで乗り込んできた結莉。思考停止をしてしまわなければ、不自然な点がいくつも見つかる。
ネットで調べても、『クレクレ』の検索候補にマイナスイメージの語句ばかりがふんぞり返って並んでいる。茨をかいくぐる対処法の記載はこぞって出てくるが、軌道修正については匙を投げているのだ。本人の性格が正しい方向を向くことは二度とない、と決めつけているのである。
「……そういえば、呼ばれ方は気にならなくなったのか?」
「……結莉って呼んでほしいんだけど、須藤くん?」
結莉が手のつけようがない問題児だとは信じられない。間近で突風に弾き飛ばされたt隆仁が証言するのだから間違いは無いはずだ。魔法が迷信という条件だが、誰からも見捨てられる子供部屋おばさんの道など、地図アプリで百キロ先を調査しても見当たらないのだ。
……だって、佐田さんじゃないとダメな理由が、いくつも見つかる。
女性の容姿は、年齢とともに劣化していく。若い頃のフィーバータイムが続いていると誤解して周りと接すれば、人が蜘蛛を散らすように離れるのは当然のことと言える。
需要があるからこそ、供給に価値が見出される。仕事経験もスキルもない家事手伝いがノコノコ就職面接に来たところで、前向きに採用する企業には当たってくれない。
結莉の武器には、何があるのか。本人の弁を引用すると『可愛さ』で戦っていると言うが、そのような狭い世界から飛び出して暮らしていける力が彼女にはある。
……金クレが欠点で補えないのはそうなんだけど、もっと他の……。
だからこそ、結莉に金目当てを辞めさせたい。後付けの理由にしては、最もらしいものが完成した。
「……持久走、さ。なんであんなに全力疾走したか、分かる? もし外れたら、彼女失格にしちゃおうかな……」
「……わざと倒れるため、か……? いや、いくら何でもそれはないか」
現に、疲労困憊で彼女はベッドから上体を起こすことが出来ていない。持久走を抜け出すにしても、荒業の上に健康も害している。
体育嫌いの女子がクラスに何人もいることは把握しているが、だからと言って保健室の世話にはなりたくないだろう。苦痛から逃れるために体を不自由にするなど、本末転倒だ。
「……よく分かったね、正解だよ。景品は……、私に何かプレゼントできる券かな」
結莉は本気だった。プレゼントが換金できない不用品なのは放っておいても、意図が分かりかねる。
結莉の弁明を聞きたくない。何を企んでいたかは不明でも、自らの身を窮地に追いやる手段に打って出て欲しくなかった。彼女の常識がダイヤル半周分しか重なっていなかったとしても、倫理観まで違えてはならないのだ。
ベッドに横たわっているのは、準備体操もせずにプールに飛び込む頭無しではなく、恐らく実力考査で学校が公表してしまう程の天才少女だ。一蹴してしまいそうになる言い分も、聞く価値が生まれる。
いつの時代も、天才秀才には甘くなるのだ。心情的ではなく、理性的に。
総合取締役の、謝罪会見が始まった。聴衆兼カメラマンは、隆仁ただ一人である。
「私って、体力が少ないわけじゃないんだ。もし体力がすぐ尽きるんだったら、放課後に徒歩で帰れるはずないでしょ?」
空気を詠もうとしていないのに、相槌を打ってしまう。その意見については、隆仁も同意であった。
ベールに包まれて見通しが立たないのは、その先。外側からは遮蔽物が邪魔で見えなくなっている、工事中の区間だ。ドリルやブルドーザーの騒だけが、ブラックボックスから聞こえてくる。
「私の身体は、特殊らしくて。病院に行ってないから詳しいことは説明できないけど、体力が一定値以下になると回復機能が働く感じかな。ゼロになったら、そこで気絶」
「RPGの主人公みたいだな……」
HPという概念が現実世界に搭載されたパラレルワールドは、スポーツの技術が追加されていることだろう。闇雲に相手の自滅を待つのではなく、可視化された相手体力も考慮に入れて戦術を編み出さなくてはならなくなるのだ。
その世界で、結莉は回復の鎧を装備している。体力が黄色ゾーン以下になると、時間経過で回復を始めると見なしてよい。どの武器屋でも売られていない、貴重な代物だ。
「持久走って、長い時間走るでしょ? ずっと走ってると、蓄積ダメージで体力が減っていくのは分かるかな。過去の記憶を掘り返すなら、乳酸が筋肉に溜まるのと一緒」
「佐田さん、生物出来たんですね……。常識だからか」
継続ダメージは、ゲームに入り込むと『毒』というステータスになって出現する。毒消しを使用しなければ改善することは無く、戦闘画面から撤収すれば自動的に解除される。
ランニングの厄介なポイントは、筋力を使い果たして減速してもダメージを受け続ける事だ。そしてリザルト画面まで耐え抜いても、状態異常が消えることは無い。
「……去年の持久走は、真面目に走って、終盤に倒れちゃって。ジョギングみたいなスピードで走ってたのに、持たなかった」
……ジョギングもダメだったのか……。
結莉が作ったおとぎ話であるのなら、騙された隆仁に非がある。いくらふざけ倒していても、実績と実力を首からぶら下げている人の説得力は段違いだ。
バグから生まれた美少女の過去編が、映画館で上映されているよう。文字で拾っているだけで、三次元の壮大な絵面が再生される。
「そのことがあるから、今日はこんなことしちゃった。どうせ倒れちゃうなら、早い方がいいしね」
彼女の目に据えられた真剣は、曲がることなく隆仁を突き刺している。冗談が全て排除された、二人だけの記者会見なのだ。
身体に生じる不具合を見越して、どちらが得かを計算している。ロシアンルーレットの場でも、結莉は迷わず期待値の高い選択肢を取るのだろう。
……だとしても、だよ。
窓から飛び降りるのが非常手段だとすれば、避難ハシゴや非常階段はそれ以前で切っておくべきカードだ。運任せになるカードは最後まで取っておき、確実に効果が期待できるものを放出するのが定石である。
「……それをするとしても」
「先生にも、ちゃんと申告したよ? 『甘えだ』って突っぱねられちゃった。見学したら何も起こらないけど、通信簿の数字は欲しいし……。須藤くんだったら、どうする?」
逆質問を投げつけられて、受け止めきれなかった。ボールがワンバウンドして、隆仁は外野に強制連行された。
『須藤くんだったら、どうする?』
一部の高校では金で買えてしまうところもあるらしい。その例外を除くと、基本的に成績は授業とテストで決定される。保健体育の評定が若干落ちるくらいで受験が不利になるのは考えづらいのだが、貰えるものは全て貰っておきたい。街頭で塾のティッシュ配りを見かけると、真っすぐに向かって行くくらいには無料コレクターなのだ。
……一年の時のデータって、引き継がれないのか……?
教師同士のネットワークが引き継がれていないことは、隆仁も知らない事実だった。この高校は、教師より生徒の方が自立しているのではないかと檄文を校門に貼り付けたいくらい大人がだらしない。風紀委員会の顧問がシャツを出しっぱなしにしているのでは、信用も自然と落ちていく。
こうなると、授業に参加しないという方法は選べない。残ったのは、体力の限界で崩れ落ちる未来だけとなった。
共感の言葉を上げようとしても、形にならずに風化していく。濁流にのみ込まれて浸食され、最後は砂となって河原に溜まるのみだ。
「……私が考えてたこと、分かってくれたかな?」
彼女の胸が、時の流れを遅延させているかのように上下する。両端が僅かに上へとカーブした唇が、隆仁の返信を心待ちにしていた。
……とどのつまり、最初から最後まで理詰めだったのか……。
とある計画を実践しようとしたとして、想定外の事態が発生してしまえば終幕になる。考え得る対策を施しても失敗するのが現実と言うもので、完遂は難易度が高いのだ。
数式と予測から構成された、結莉の作戦。ドミノ倒しでスタートからゴールまで走り切ったという事実は、練られた内容が緻密だったことを語っている。
隆仁は、大きくうなずいた。そうするしか、出来なかった。
容赦のない土砂降りの中を生き抜いた疑問が、一つだけ。
「俺が助けるとは限らなかっただろ? 後ろから近づいただけで『須藤くん?』って言えたのはどうやったんだ?」
愚問とばかりに、結莉が頬の緊張を解いた。コーラを奢らされそうになった時も、牛丼を余計に買わされた時も……。見世物代を払いたくなるくらいの、微笑みだった。
「誰かがコース外で倒れてたら、須藤くんは助けてあげるでしょ?」
暗がりに安置されてある、清潔に保たれたベッド。手のひらを押し込んでも、弾力で跳ね返ってくる材質で作られているようだ。隆仁の下敷きと交換してくれれば嬉しいのだが、学校の備品を横流ししてくれる業者は見つからないだろう。
背中にいつまでも残る、ほのかな温かさ。人体を流れる血流の効果と断言するのは味もそっけもない。信頼して身を委ねてくれた少女が、寄りかかっていたのだ。
……佐田さん、意識無くなってたのかな……?
お姫様を担いでから、ピッタリ言葉が絶えた。荒野を走り抜けていく暴走車のように荒々しい息を上げて、三度ずり落ちそうになった。
結莉を繋ぎとめていた手には、振動して落ち着かなかった感触がこびりついている。遊園地のお化け屋敷なら喜んで出口までリードするのだが、現状で晴れやかになれるわけも無い。
体力の残量を示す電源ランプが、オレンジ色に点灯している。稲妻が電池に入り込んでいるイラストは、充電中を表す。充電式乾電池は、コンセントに接続しておくだけで回復するという便利な仕様だ。
寄生系少女のバッテリーも、雀の涙ではあるが盛り返し始めていた。チューブが身体に突き刺さっていないのは、正常な人間の証である。ケーブルなど繋がなくとも自力で立ち直れることに、安堵の溜息が地面に滞留した。
保健医によると、結莉は単なる電池切れ、体力を使い果たしただけだったようだ。精々二百メートルのダッシュで溜め込んだエネルギーを消費するとは、急加速がいかに限界を超越していたかを物語っている。
……消費エネルギーの絶対量があるなら、授業中とか放課後に倒れそうなものだけどな……。
携帯会社には、一日に使用できるデータ量を制限したプランが存在する。動画広告を見ても回復することは無く、むしろ静止画など比べ物にならないほど減少してしまう。
結莉のバッテリーが同様の契約で使われていたとするのならば、朝方の全力疾走で通信制限に引っ掛かりようがない。仮定が正しいとして、先週隆仁が振り回されて地球の重力を振り切った無理強いは何だったのだろうか。美少女と付き合いたい願望が生み出した幻覚とは言わせない。
魅惑の少女、佐田結莉の謎は一層深まっていくばかりである。名探偵のように納得のいく推理をひらめかない隆仁には、大人しく濃い霧が晴れるのを待つよりない。
病院に足を運ぶと、独特の慣れない匂いに苦しむことになる。何度通院しても鼻に障る、薬か器具か分からない特有の刺激臭。この匂いが嫌で病院嫌いになる子供もいることだろう。
学校の保健室に入ったことは無かったが、案外本能が避けるほどの悪臭は漂ってこない。医療機関で使用される器具が悪さをしていた疑惑が強くなる。
「……安静にしてなきゃ、ダメかな?」
「また俺に運ばれたくなかったら、そこでじっとしといてな」
「……須藤くんに背負ってもらうのも、いいかもね……」
平べったいベッドに仰向けで横たわっているのが、結莉だ。隆仁が被せたそのままの状態で、ふかふかお布団が乗っている。お見舞いに来た友達ではないので、お土産は持参していない。
扉のある保健室側とは、レース一枚で隔てられているだけ。やることなすこと、向こう側に筒抜けだ。好き勝手な行動は許されない。
……まさか、減点されてないよな……。
心配事が解消されたことで、また新しい問題に直面することとなった。
人命救助に携わった人間が、不真面目だと心証を悪くしようがない。結莉の容体が結果的に大事ではなかったとしても、うつ伏せで倒れている女子を見逃すことは考えられなかった。
仮にそのような横暴が通ってしまうことがあれば、全力で抵抗してみせる。お金だけを捻出して、天才美少女に丸投げだ。法廷で無知な人間が証言しても、状況は悪化する一方であるからこその措置である。
「……須藤くんは、そこに座ってるんだ。嫌らしいこと、考えて無いといいけどなぁ……」
「俺がそんなこと思ってたら、今頃赤色灯に顔が照らされてる気がするけど」
パトカーのサイレンが街中にこだまし、強制わいせつの罪で補導される少年Sの再現図がニュースで報道される光景が目に浮かぶ。顔モザイクを突破する武器を兼ね備えた被害者女子高生が『裏切られた』と吐き捨てていそうである。
何年も使われているこの布団がしなびて固くならないのは、手入れが行き届いているからだ。押し入れにしまわれてタイムスリップすることなく、定期的に復活作業が行われているのだろう。
ベッドの下敷きを伝ってきた結莉の手が、隆仁の太ももに辿り着いた。断崖絶壁を這いあがって、手のひらを押し付けるように乗った。
「……近いよ、家族じゃないんだから。私が大声を出したら、須藤くんの高校生活は終わりだね」
「さらっと他人の人生を台無しにしようとするなよ……」
隆仁たちのクラスで熱愛疑惑が浮上しているとは言えど、それは狭いコミュニティでのお話である。客観的に見つめてみると、男子高校生が疲労で動けない女子を襲おうとしている風に捉えられないことも無い。
壁に貼り付けてあるカレンダーは、桜をバックにした四月になっている。始業式と書き込まれた日時から、早くも一週間以上。濃密な金欠アタックの日々で、昨日の事が一年前に感じてしまう。
新学期は、まだ始まったばかり。今月が終わりを告げるまでに、あとどのくらい不測の事態が発生するのだろうか。白紙だった日記帳は、文字でびっしりと蓋をされてしまいそうだ。
……ぼんやりとしたプランだけで、よく付き合って行こうと思えたな、自分……。
一朝一夕で覚えてきたかのような台本読みに、腕を組めば至近距離からでもヘッドショットを決められるという軽い気持ちで乗り込んできた結莉。思考停止をしてしまわなければ、不自然な点がいくつも見つかる。
ネットで調べても、『クレクレ』の検索候補にマイナスイメージの語句ばかりがふんぞり返って並んでいる。茨をかいくぐる対処法の記載はこぞって出てくるが、軌道修正については匙を投げているのだ。本人の性格が正しい方向を向くことは二度とない、と決めつけているのである。
「……そういえば、呼ばれ方は気にならなくなったのか?」
「……結莉って呼んでほしいんだけど、須藤くん?」
結莉が手のつけようがない問題児だとは信じられない。間近で突風に弾き飛ばされたt隆仁が証言するのだから間違いは無いはずだ。魔法が迷信という条件だが、誰からも見捨てられる子供部屋おばさんの道など、地図アプリで百キロ先を調査しても見当たらないのだ。
……だって、佐田さんじゃないとダメな理由が、いくつも見つかる。
女性の容姿は、年齢とともに劣化していく。若い頃のフィーバータイムが続いていると誤解して周りと接すれば、人が蜘蛛を散らすように離れるのは当然のことと言える。
需要があるからこそ、供給に価値が見出される。仕事経験もスキルもない家事手伝いがノコノコ就職面接に来たところで、前向きに採用する企業には当たってくれない。
結莉の武器には、何があるのか。本人の弁を引用すると『可愛さ』で戦っていると言うが、そのような狭い世界から飛び出して暮らしていける力が彼女にはある。
……金クレが欠点で補えないのはそうなんだけど、もっと他の……。
だからこそ、結莉に金目当てを辞めさせたい。後付けの理由にしては、最もらしいものが完成した。
「……持久走、さ。なんであんなに全力疾走したか、分かる? もし外れたら、彼女失格にしちゃおうかな……」
「……わざと倒れるため、か……? いや、いくら何でもそれはないか」
現に、疲労困憊で彼女はベッドから上体を起こすことが出来ていない。持久走を抜け出すにしても、荒業の上に健康も害している。
体育嫌いの女子がクラスに何人もいることは把握しているが、だからと言って保健室の世話にはなりたくないだろう。苦痛から逃れるために体を不自由にするなど、本末転倒だ。
「……よく分かったね、正解だよ。景品は……、私に何かプレゼントできる券かな」
結莉は本気だった。プレゼントが換金できない不用品なのは放っておいても、意図が分かりかねる。
結莉の弁明を聞きたくない。何を企んでいたかは不明でも、自らの身を窮地に追いやる手段に打って出て欲しくなかった。彼女の常識がダイヤル半周分しか重なっていなかったとしても、倫理観まで違えてはならないのだ。
ベッドに横たわっているのは、準備体操もせずにプールに飛び込む頭無しではなく、恐らく実力考査で学校が公表してしまう程の天才少女だ。一蹴してしまいそうになる言い分も、聞く価値が生まれる。
いつの時代も、天才秀才には甘くなるのだ。心情的ではなく、理性的に。
総合取締役の、謝罪会見が始まった。聴衆兼カメラマンは、隆仁ただ一人である。
「私って、体力が少ないわけじゃないんだ。もし体力がすぐ尽きるんだったら、放課後に徒歩で帰れるはずないでしょ?」
空気を詠もうとしていないのに、相槌を打ってしまう。その意見については、隆仁も同意であった。
ベールに包まれて見通しが立たないのは、その先。外側からは遮蔽物が邪魔で見えなくなっている、工事中の区間だ。ドリルやブルドーザーの騒だけが、ブラックボックスから聞こえてくる。
「私の身体は、特殊らしくて。病院に行ってないから詳しいことは説明できないけど、体力が一定値以下になると回復機能が働く感じかな。ゼロになったら、そこで気絶」
「RPGの主人公みたいだな……」
HPという概念が現実世界に搭載されたパラレルワールドは、スポーツの技術が追加されていることだろう。闇雲に相手の自滅を待つのではなく、可視化された相手体力も考慮に入れて戦術を編み出さなくてはならなくなるのだ。
その世界で、結莉は回復の鎧を装備している。体力が黄色ゾーン以下になると、時間経過で回復を始めると見なしてよい。どの武器屋でも売られていない、貴重な代物だ。
「持久走って、長い時間走るでしょ? ずっと走ってると、蓄積ダメージで体力が減っていくのは分かるかな。過去の記憶を掘り返すなら、乳酸が筋肉に溜まるのと一緒」
「佐田さん、生物出来たんですね……。常識だからか」
継続ダメージは、ゲームに入り込むと『毒』というステータスになって出現する。毒消しを使用しなければ改善することは無く、戦闘画面から撤収すれば自動的に解除される。
ランニングの厄介なポイントは、筋力を使い果たして減速してもダメージを受け続ける事だ。そしてリザルト画面まで耐え抜いても、状態異常が消えることは無い。
「……去年の持久走は、真面目に走って、終盤に倒れちゃって。ジョギングみたいなスピードで走ってたのに、持たなかった」
……ジョギングもダメだったのか……。
結莉が作ったおとぎ話であるのなら、騙された隆仁に非がある。いくらふざけ倒していても、実績と実力を首からぶら下げている人の説得力は段違いだ。
バグから生まれた美少女の過去編が、映画館で上映されているよう。文字で拾っているだけで、三次元の壮大な絵面が再生される。
「そのことがあるから、今日はこんなことしちゃった。どうせ倒れちゃうなら、早い方がいいしね」
彼女の目に据えられた真剣は、曲がることなく隆仁を突き刺している。冗談が全て排除された、二人だけの記者会見なのだ。
身体に生じる不具合を見越して、どちらが得かを計算している。ロシアンルーレットの場でも、結莉は迷わず期待値の高い選択肢を取るのだろう。
……だとしても、だよ。
窓から飛び降りるのが非常手段だとすれば、避難ハシゴや非常階段はそれ以前で切っておくべきカードだ。運任せになるカードは最後まで取っておき、確実に効果が期待できるものを放出するのが定石である。
「……それをするとしても」
「先生にも、ちゃんと申告したよ? 『甘えだ』って突っぱねられちゃった。見学したら何も起こらないけど、通信簿の数字は欲しいし……。須藤くんだったら、どうする?」
逆質問を投げつけられて、受け止めきれなかった。ボールがワンバウンドして、隆仁は外野に強制連行された。
『須藤くんだったら、どうする?』
一部の高校では金で買えてしまうところもあるらしい。その例外を除くと、基本的に成績は授業とテストで決定される。保健体育の評定が若干落ちるくらいで受験が不利になるのは考えづらいのだが、貰えるものは全て貰っておきたい。街頭で塾のティッシュ配りを見かけると、真っすぐに向かって行くくらいには無料コレクターなのだ。
……一年の時のデータって、引き継がれないのか……?
教師同士のネットワークが引き継がれていないことは、隆仁も知らない事実だった。この高校は、教師より生徒の方が自立しているのではないかと檄文を校門に貼り付けたいくらい大人がだらしない。風紀委員会の顧問がシャツを出しっぱなしにしているのでは、信用も自然と落ちていく。
こうなると、授業に参加しないという方法は選べない。残ったのは、体力の限界で崩れ落ちる未来だけとなった。
共感の言葉を上げようとしても、形にならずに風化していく。濁流にのみ込まれて浸食され、最後は砂となって河原に溜まるのみだ。
「……私が考えてたこと、分かってくれたかな?」
彼女の胸が、時の流れを遅延させているかのように上下する。両端が僅かに上へとカーブした唇が、隆仁の返信を心待ちにしていた。
……とどのつまり、最初から最後まで理詰めだったのか……。
とある計画を実践しようとしたとして、想定外の事態が発生してしまえば終幕になる。考え得る対策を施しても失敗するのが現実と言うもので、完遂は難易度が高いのだ。
数式と予測から構成された、結莉の作戦。ドミノ倒しでスタートからゴールまで走り切ったという事実は、練られた内容が緻密だったことを語っている。
隆仁は、大きくうなずいた。そうするしか、出来なかった。
容赦のない土砂降りの中を生き抜いた疑問が、一つだけ。
「俺が助けるとは限らなかっただろ? 後ろから近づいただけで『須藤くん?』って言えたのはどうやったんだ?」
愚問とばかりに、結莉が頬の緊張を解いた。コーラを奢らされそうになった時も、牛丼を余計に買わされた時も……。見世物代を払いたくなるくらいの、微笑みだった。
「誰かがコース外で倒れてたら、須藤くんは助けてあげるでしょ?」
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そんな絶望に拍車をかけるように、親の再婚により明莉は月森三姉妹と一つ屋根の下で暮らす事になってしまう。義妹としてスタートした新生活は最悪な展開になると思われたが、徐々に明莉は三姉妹との距離を縮めていく。
三姉妹に溺愛されていく共同生活が始まろうとしていた。
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サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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