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自動販売機編

006 一枚上手

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 こうも熱帯を彷徨う暑さだと、氷風呂に頭から突っ込みたくなる。心臓がショック死するリスクを負ってでも、べたつく汗に纏わりつかれるのは我慢ならない。

 こんな猛暑の日に気を付けなければならないこと。それは、脱水による熱中症である。根性だけで太刀打ちできる相手なら、部活動中に死亡事故は起きなかったはずだ。

「……飲みたいものは?」
「えーっと……。まず、コーラでしょ? それから、メロンソーダ……」

 羅列される商品名でも、水分補給をする気はなさそうだ。

 炭酸に隠された刺客である角砂糖は、甘ったるさを感じさせずに体内へと侵入してくる。甘味が身体を廻ることで、追加の水分を取らなければならなくなる。嘘だと思うのなら、かき氷を溶かして一気飲みしてみればいい。

「あのなあ、水分補給するのにコーラなんて……」
「それなら、安心しててよ。水筒のお茶、まだ余ってるから」

 疑惑の目を向けて止まらない隆仁を落ち着かせようとしたのか、結莉はチャックが弾け飛ぶ一歩手前のバッグからブラックホールの水筒を取り出した。『女の子はピンク』といった色は、現代では正しくない。

 ……根本的に、違うような……。

 自動販売機のジュースは、手軽さの対価として値段が割高だ。大富豪の息子たちならまだしも、一般市民が好んで手を出してはいけない。

 彼女の可愛らしいストラップ一つついていない殺風景な通学カバンから水分が出てきたということは、ハナからジュースを飲む気満々だったのだろう。

 隆仁は、結莉の手元に端数を支払える程度の小銭がストックされていることを承知済みだ。

 ……一日に二回も巻き込まれ事故に遭うのは、勘弁してくれよ……。

 せめて、冷や汗が熱気を追い払ってくれればいいのだが。

「……なあに、水筒持ってるなら買わなくていいだろ、って? 野暮だなあ、須藤くんは。そこに自販機があったから、買いに行くんだよ」

「普通の人は素通りするんだよなぁ……」

 結莉の目は品定めモードに入っており、昨日作った彼氏は眼中に無い。子供が買いに来ても正面のベストポジションを譲らなさそうだ。サッカーのゲームでは重宝されることだろう。

 有名登山家の言葉に、『そこに山があるから』という名言がある。登山に理由などないということだ。無駄なことを肯定したいがために乱用する彼女とは月とスッポンだ。

 ……これは、すり抜けるしかないか……。

 隆仁が四コマ漫画作家なら、今後の展開が読める。お金をせびられて、おごるまででワンセットだ。伏線初心者でも優しい、導入付きである。

 彼女とのデート中に無断退席するなど、言語道断も甚だしい。親から絶縁を告げられて、放浪の身になっても世間からは冷たい目で見られる。

 それでは結莉との今も同じだろう、と短絡するのは視野が狭い。眼科に行って手術を受けてから、もう一度来てもらいたい。

 結莉は、もう『寄生系』彼女である。置物として持っているだけで赤字を生み出すと言う、経営者からすればたまったものではない代物だ。

「……見てよ、今だけ増量中だって! 10ミリリットルくらい!」
「誰が気にするんだよ、そんな量……」

 体積の単位をリットルしか知らなそうな頭の悪い質問を切り払いながら、隆仁はカバンの両端を握りこんだ。次に彼女が目を離したタイミングで、煙に巻いてしまおうという魂胆だ。

 ……自販機に目を取られるスキを待って……。

 結莉の目が、細くなった。怪しい者でもないのに懐疑的に見られていては、いい気持がしない。

 ……スキを待って……。

 彼女の重量オーバーの無機質バッグが、地に落ちた。もっと、親から買ってもらったものは大切にしましょう。

 ……スキを……。

 レンズの倍率を上げた訳でもないのに、汚物を見下している結莉が突き刺さる。道路を緩慢な動作で渡るのは交通の妨げになるので、警官がいれば連れていかれてしまいそうだ。

 ……。

 感嘆に脱走できると思っていた一メートルの堀は、水が溢れかえって渡渉をすれば命の保障がないほど氾濫していた。背後からは、血が上った追ってが日本刀を両手に突進してきている。

「佐田さん、何かご用事ですか?」
「だから結莉だって……。ほら、カバンの後ろ、虫がついてる」

 そう言うやいなや、背面をはたかれた。重量が減少した感じは全くしないが、当たり前だ。

 全身の神経が興奮して、立っているのもやっとだ。あの華奢な手足のどこに哺乳類最強のオーラが流れていたのだろうか。目をこすっても、結莉は結莉のまま、いつ見ても見とれてしまう美少女が気にかけてくれているだけだった。

「……これでよし。……誰かが来る前に、戻らないと」
「自動販売機って、ポジションが大切か……?」

 再び身を翻し、結莉は規定の守備位置へと駆け足で戻っていった。時間短縮に協力するいいプレーのお手本だと、サッカーのビデオ教材で使われそうな一面だった。

 あちこちのボタンに指が右往左往し、完全に隆仁のマークが外れた。今なら、ゴールキーパも出払っている白枠の中にボールを放り込める。

 一歩、二歩、三歩。石ころに躓かないよう、低空姿勢を保って滑走路に入る。管制塔は停止命令を出しているが、そんなものお構いなしにエンジンの出力をマックスにした。

 数メートルほど後方で、聞こえてはならない不気味な高温が響いたような気がした。今更フライトを中止しようとしても、飛行機は赤信号で急に止まれない。

「……須藤くーん、逃げようとしたって無駄だよー!」

 豆粒になった地上の結莉から、グラスコップのように透き通った無線が入ってきた。もう離陸しているのに、負け惜しみが過ぎる。

 ……今更追いかけてきたって、捕まらないくらいには足に自信あるぞ……。

 昨日から合算して初めて、彼女を出し抜いた。その事実に、高空の窓を全開にして号砲を撃ちたくなったほどだ。

「流石に負けを認めたら? いくら佐田さんでも、どうにもならないことはあるから」
「……これを見ても、そう言える?」

 勝利宣言をした隆仁が目視できたのは、結莉が真っ黒の筆箱ケースを大手で振っているところだった。もちろん、彼女の持ち物ではない。

 ……まさか、そんなはずは……。

 半信半疑でチャックへ手を伸ばすと、アリ一匹逃さないはずの戸締りがされていなかった。何者かが窃盗に入った模様だ。

 心当たりは無い……と言いたいところだが、不自然な動きは鮮明に覚えている。

 ジュースに夢中になっていたはずの結莉が、口をへの字に曲げて距離を詰めてきたこと。気にも留めない虫をわざわざはたきとしたこと……。ピースだけでは情報に欠けていたものが、ピッタリはまることにより歯車が動き出す。

「……ここで110番通報するって言ったら、どうする?」
「……須藤くんは、そんなことしないと思うなぁー。……そもそも、返すつもりだしね」

 てのひらの上で転がされている。見えない壁を壊そうとピッケルを取り出しても、システムで定義されていない空間へと飛び出すことは出来ない。

 銃を人様に突きつけるということは、発砲されても文句は言えないと言うことだ。高校生ともなれば、全発言に責任を負わなければならない。

 隆仁は、ポケットに隠し持っていたスマホを取り出した。校則で禁止されているが、露見しなければ問題無いのだ。

「……ほらほら、返してくれないと通報しちゃうかもなぁ……」
「いいよ。かかってきなさーい!」

 結莉が啖呵を切って、決勝ラウンドのコングが打ち鳴らされた。対格差の不利を、人質によって挽回している女子選手に注目である。

 しかし、こちら側にも必殺技が残っている。戦局をひっくり返してしまうような、創造神の禁止技だ。

 ……適当に番号を打ったら、諦めてくれないかな……。

 彼女の爆風にも動じない肝には、感嘆するしかない。面識のない男子を押せ押せで陥落させ、今のところ計画表通りに事が運んでいる。勝機は薄いだろう。

 ひとまず、スマホを起動させないと始まらない。

 ……電源ボタンを押して……。

 空になった電池マークが天高くそびえ立つ液晶画面から映し出され、次いで赤色灯が点滅した。人目を忍んでゲームに明け暮れていたツケで、秘蔵の刀は錆びだらけになっていたのであった。

 結莉は、勝ち誇ったように次の矢を見守っている。自軍の旗を大きくたなびかせて、戦が大勝に終わることを予期していた。

 ウルトラCを封じられて四肢が拘束されている状態からでも入れる保険というものはない。流れに身を任せて、なるようになるしかない。アリ地獄と同様で、悪あがきしようとすればするほど立場が沈んでいく。

 カウンターを受けきったと判断して、一筋縄で降伏させられない仮の彼女は口を開いた。攻守逆転だ。

「赤いのが光ってたから、電池切れなのは分かってたよ。それより、学校に持ってきちゃいけないんだけどなー」
「……どうすれば許してくれる?」

 勇猛果敢に教師の欠伸が出る授業でランキングあげに励んでいた隣の席のヤツは、チョークの粉が顔面に降りかかった上で職員室へと消えて行った。その日中に彼を目撃したものはいなかったという。

 ともかく、目を付けられることだけは避けたい。黄色信号で道路を横断しても見て見ぬふりをしていたものが、厳密に反則切符を切られるようになってしあう。

 ……寛大な心で、釈放してくれないかな……。

 恋愛漫画でも、『仕方ないから許してあげる』と地平線の彼方まで伸びている心の器を持っているヒロインのなんと多い事か。被害が発生していないのだから、大目に見てもらいたいものだが。

 結莉は、迷わず自動販売機のコーラを指差した。舌なめずりをしていて、一度捕獲した獲物を檻から出してくれそうな気配はない。

「……そうだなぁ……。コーラ、おごってくれないかな?」
「……またおごりかよ……。俺にも財政事情ってものが……」
「なら、職員室に連れていかれる?」

 理想論よりも、現実論。利害に勝る思想は存在しえないのである。隆仁は、頭をガックリうなだれた。

 結莉に踊らされ、逃げ道を潰されて自ら奢りの口実を与えてしまう……。軍法裁判で処刑されてもおかしくないほどの大戦犯だ。

 このまま、鳥になって大空へ羽ばたいていきたい。何もかも忘れて、家に帰ってしまいたい。

「……分かりました……」

 希望を胸に抱いて翼をはためかせた道を、ずっしりとした荷物を背負って舞い戻ってくるハメなったのであった。
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