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食堂編

004 終わりの始まり

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『さ・い・ふ・わ・す・れ・て・き・た』

 一点の傷を、無心で見つめている。受験票を電車に置き忘れた受験生の生き写しだ。立派な革のバッグには、何も入っていないのだろう。

 お金がないのでは、手の打ちようがない。クラウドファンディングを立ち上げるネットワーク設備もなければ、恵みの配給も行われない。袋小路で行き止まりだ。

「……弁当は持ってきてるわけ……ないか」
「……うん……」

 ありつけない牛丼のにおいが漂って来る食堂内は、椅子に縛り付けられるより拷問に決まっている。責任をなすりつけられないだけに、報われない。

 飢餓スイッチが入れば、今にも隣のテーブルからかっさらって来る目をしている。能ある鷹は爪を隠すと言うが、これはサンマを茂みに隠れて狙う泥猫だ。

 あまり時間の猶予がない昼休みに、財布を忘れて飯抜きになりそうな美少女が一人。女友達から借りればいいと思うのは早計で、何らかの事情があってそうできないのかもしれない。

 ……まさか、一人で券売機に並ぶなんてできないしな……。

 まだ二日目とは言え、恋人の正面で悠然と牛丼にかぶりつきたくない。彼女に気を配らずに自分勝手な振る舞いをする人に、他人は引きついてこないのだ。

 男だ女だと性差の違いに触れることがタブー視されつつある世の中でも、男らしさは確かにステータスの一つ。ここは一つ、いいところを見せておくのが筋というものだろう。

 奢ったり奢られたりという関係は、金銭トラブルの元。友達を失くしたくないのなら我慢しておけ。そう、厳しく小中学校でしつけられてきた。

 ……そうは言っても、お金を出さなきゃいけない時もあるんですよ。

 どこかで、恋人に慈悲の手を差し伸べる自分を神々しく偽装工事していたのかもしれない。行為に酔いしれているだけで、目の前の結莉の為にはならないことは十分承知している。

「……本当に、そのバッグには入ってないんだよな? 二人分、買ってくるから」

 学生の身である隆仁のお小遣いは、他の家庭と遜色ない額に収まっている。漫画やゲームにつぎ込むために、仕掛けられている浪費の罠をかいくぐって貯金をしているのだ。

 その努力の結晶を取り崩すのは、砂場でアセアセ働いて作った砂山を壊すようで気が気ではない。どの用途で使うと言えども、開き直れる覚悟が必要だ。

「……牛丼じゃなくて、日替わり定食食べて見たかったんだけどな……」
「あれは、食べたが最後売店がしばらく信用できなくなるからやめとけー」

 おんぶ抱っこしてもらっている結莉から不平不満が垂れてきた。立場の強さを思い知らせるつもりは無いが、次回同じような言動があれば彼女の分を買わないでおくつもりだ。

 隆仁は、『何かを奉納したからお礼が欲しい』とはならない。純粋な気持ちは源流から無限に湧き出てくる産物であり、いくら相手に贈っても無くなるものではない。

 『食費』という部分を偏向報道よろしく切り取ると『貸し』になるのだろうが、ほんの気遣いとすれば同じことだ。

「……奢ってくれて、ありがとう……」
「礼なんかいらないから。次に忘れてこなかったいい」

 ブドウ糖が尽きて手も上がらない様子の結莉に引き止められたが、対価を請求するつもりはない。

 ……結莉って、意外と親しみやすい性格だな……。

 お堅いクール系美女で能無しヘタレに聞く耳も持たない想像上の結莉は、少なくとも食堂でテーブルに突っ伏している彼女ではない。いやはや、頭の回転が速いと対応力まで神の領域に脚を踏み入れられるのだろう。

 出会って間もない付き合い人を席に残した隆仁は、目的地である券売機を目指す。

 券売機付近もだが、食堂全体が群衆であふれかえっている。キュウリに塩を刷り込ませる工程に誤って入ってしまったか、進行方向の制御が出来ない。

 結局、僅か十メートルを往復するだけで貴重な食事タイムを三分もロスしてしまった。

 今度は正真正銘汗だくになって二人掛けのテーブルまで帰ってきたのだが、革バッグを遺して隆仁の恋人は煙に消えてしまっていた。

 ……ドタキャン? いや、私物がある以上はまた戻ってくるか……。

 ドッキリの延長線上の疑いをかけそうになって、思いとどまった。仕掛けがバレて暴れ出すことを想定すると、高そうな革製の品物を無防備に置いては行けない。

 高級そうと幼稚な形容で飾ったが、チャックは流石に鉄製である。衝撃で壊れないように世界最強と名高い純度マックスのダイヤモンドを想像してしまった自分は恥ずかしい。冷静になってみて、そんな危なっかしい材料でバッグを作るはずがない。

 光の届かない暗所には、初見の真顔証明写真があった。きっと飾り気のない高校の生徒手帳だろう。どれだけ家の敷居が高くとも、単色黒カバーという夏のことを考えられていない手帳を携帯しなければならないのだ。

 スマホのロック解除はもちろんだが、人の持ち物を盗み見るのもモラルに反する。そういう類の警察がSNS上で蔓延していて、発見され次第炎上させられる。

 暇つぶしの漫画でも持ち込んでおけばよかったと、あきらめの境地で席に着こうとして。

「……なにやってるんだよ!」
「すみません」

 肉のとりこになった生徒の一人が、結莉の椅子に体当たりをかましていたのだ。食器ごと頭からかぶらなかったのは悪運高い。

 端に軽くかけてあっただけの肩かけバッグは、無抵抗で内容物を地へとぶちまけた。住所付きであろう生徒手帳も、その他小物類も、蛍光灯の光にさらされた。

 食堂の出入口を見渡すが、ショートヘアーもいなければ道を開ける様子も見受けられない。まだ時間がかかりそうだ。

 丸裸にされた内の一つに、やる気のない巻き数の卵焼きらしきこれまた革の品物があるのを見つけた。格式の高い売店で見られるようなもので、特別に奮発したものと考えられる。

 ……これがあったらいけないでしょうに……。

 隆仁など、まだチャック式の子供用を使っている。これの良し悪しで人間の格付けをされることはないだろうが、戦う前から勝負に負けている感じがする。

 学校に持ち込むのは合法であり、生きつないでいくために欠かせない。失くして心が落ち着かなかった人もいるのではないか。

 ……平常時なら、何も思わなかったんだろうけど。

 ここに、革財布があってはいけないのである。

 それでも、とマラカスよろしく結莉の社会人かぶれ財布を振ってみた。硬貨が正面衝突して痛みを訴える音がした。バカにされた金欠の諸君は武器を手に取って立ち上がってもいい。

 ……財布が入ってることに気付かなかった可能性は?

 弁護士として不利な判決が下されないように悪あがきをしようとしたが、彼女自身の行動がその希望を頑なに打ち崩していく。

 『お金が払えない』と断言するなら、その事実を確定させるためにバッグの確認くらいするだろう。バッグの中身を手探りしなかった時点で、おごってもらおうと言う意志が強い。

 嘘だと言って欲しかった。告白の仕方が強引なところで気付くべきだったのだ。隆仁は恋愛対象ではなく、ぶら下がるための木として映っているのだろう。樹液が出て来なくなれば捨てられる、いわば彼女は時限爆弾だ。

 ……お金、勝手に抜いていいのかな……。

 窃盗罪で訴えられた時、正当性が証明できるのか。全く自信はない。

 それに、裏切られたことに対する失望の爆風に吹き飛ばされて、勘定がどうでも良くなっていた。
背もたれに深く体を預け、被告人を待つ。短い付き合いでも、情が移って打開策を見つけたくなるが、この度は覆しようがない。

 ちょっぴり照明で導かれた崖と隣り合わせの山道が、また暗闇に戻ってしまった。運命を司る神々はイタズラが趣味のようだ。下界の民の苦悩は知ろうともしない。

 身から錆が出た美少女は、正体が見破られているとも知らず、能天気にスキップをしている。上下運動でつくしのように頭が出てくるのは、春の到来を感じさせる。

「おまたせー……。……カバン、どうしたの?」
「誰かがぶつかったから、元に直しただけ」

 一ミリ単位で元あった位置に戻したはずだったのだが、精密機械は誤魔化せなかった。そのコンピュータで、自身が役者を演じきれるかどうかを計算しなかったのだろうか。

 結莉は、血眼になって財布を探っていた。仕返しで懐に入れられていないかが心配にでもなったのだろう。不自然極まりない。

「……須藤くん、何も触ってないよね?」
「……その前に、名前呼びさせるなら自分も名前呼びするのが筋なんじゃないの?」
「……須藤くんは須藤くんだし」

 呼べなかったところを見るに、納得するだけの理由が付けられなかったか。

 親しくも無ければ、縁が繋がってもいない。いくら手計算で鉛筆を走らせても交点は見つからず、こじ付け出来そうなハプニングすら起きていない。隆仁と結莉の二人が交わるのには、余りにも交友が白紙なのだ。

 クーラーは、百人を超える大所帯を養うように設計されているはずがない。効きは不十分で、数分離席しようものなら食中毒を起こしてしまう。体育会系が乗り込んでくる日など蒸し風呂で、精神をリフレッシュできない。

 そんなこともあって、彼女のオーバーヒートした頭は冷やされないまま。遂には、隆仁の前で財布の小銭を一枚づつ机に置き始めた。全身を鋼でコーティングしても尚、平然と発言をちゃぶ台返しはしたくない。

「……お金、取っては無かったんだね……」
「罪悪感が働いて、流石に……」

 こちらを焦らして愛嬌を振り撒いてくるのならば足元を掬われてもいいものだが、こうも一六〇キロストレートを胸元に投げ込まれては避けようがない。裁判長に異議ありと上げかけた手を、力なく下した。

 隠す気も無く、結莉が牛丼代をバックレようとしたのは確定事実になってしまった。亀裂どころか、割れ目から火が吹き出すのも時間の問題だろう。

「……払わなきゃ、ダメ?」
「……嘘付くのがもう少し上手かったら、全額出してたんだけどな……」

 美少女に対して哀れな男が奢るのは、私財を投げうってでも手元に引き止めておきたいからだ。慈善事業を経営してでもいない限りは、全額負担という経済に大打撃を与える行為は慎む。

 彼女に、金を投資して将来がつかみ取れるのか。解説書を見なくとも、提示されている答え分かる。

「……綺麗な人には心とお金を捧げろって、小学校の時に習わなかった?」
「何の教科だよ……」

 戦時中でも奉納するのは心臓だけだと言うのに。これは、骨の髄までしゃぶり取る駆除対象の規制ちゅうに他ならない。

 あれだけ冗談を振り撒いていた結莉が、さもリンゴから手を離せば地面に落ちるだろうと首をかしげている。自覚していない症状ほど恐ろしいものはない。

 ……こういう系の女子は、死んでも追いかけてきそうだけどな……。

 甘い汁に飛びつきたい彼女は、隆仁ではなくその向こう側に映る何かを捉えていたに決まっている。利用価値が無くなれば、使用済み図書カードのようにゴミ箱へ捨てられるのだろうか。

「人にお金を出させておいて、罪の意識はない?」
「……よく聞かれるなぁ、その質問……。答えなんか決まってるのに……」

 結莉は、恵まれた容姿と力いっぱいの愛くるしさで幾人もの男子を地獄にたたき堕としてきたのだろう。騙された本人たちが被害を感じなさそうなのも凶悪だ。

 ……ここで、別れでも切り出すか……?

 恋愛ゲームをしていると、必ずと言っていいほど地雷系の女子に遭遇する。攻略本でもそうなるので、プレイヤーの能力を超えたメーカーの都合がそうさせている。この類いの輩は選択肢を間違えるだけで好感度が地に落ちるため、難易度がメーターを振り切っていることが多い。

 加えて、推しにしたくとも彼女らの『地球は自分を中心に回っている』自己基準説に妨害される。プレゼントをしなければ視界にすら入れて貰えず、苦労の結晶を下水に投棄されることもしばしば。付き合いたいと望むのはゲーム廃人だけだ。

 間違いなくゲームで脚切り対象にされる仮初めの恋人に、どのような判決を下せばいいのか。

 思い出アルバムには写真が載っているものだが、ここには音声データが収録されているだけ。振り返るだけの軌跡をまだ創造していないのだから当たり前ではある。

 常識という杓子定規で結莉を断罪するとすれば、この始まりもしていない上辺だけの関係は終幕だ。

「……聞いてる? 女子が困ってたら、男子は奢るのが常識じゃないの?」
「……」

 どうして、彼女は偏屈なショートした思考回路になっているのか。すぐに解き明かすことは不可能だ。

 ……切り出す勇気がないから、あの不可解な告白にもメスを入れられなかったんだよな……。

 隆仁が選んだ明日は。

「……今日のところは許すけど、次からはダメだからな?」
「……はーい」

 大部分の不信感と、一部の淡い望み。限りなく黒に近い灰色の濁流にのみ込まれて、現状維持のボタンを押すので精一杯だったのだ。結莉の気が抜けた生返事は、水面に虚しく吸収されていくだけであった。

 ……どうすれば、彼女は本心で振り返ってくれるんだろうな……。

 座席に姿勢よく座っている美少女は、もう恋人と言うには遠い存在に成り下がっていた。
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