自分の事を兄だと慕ってくれる無口系箱入り娘(物理)を、闇の沼底から救い出せ! ~留年、回避、ゼッタイ!~

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5日目

023 彩の日常

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 高校の授業は、なんと退屈なものなのだろう。椅子に縛り付けられた生徒は、寒いネタを交えて侵攻する教師の餌食だ。給料面で大変なことは重々承知の上で、もっと興味の枠授業を行ってほしい。アンケート調査を取って、生徒会から何か働きかけてはくれないだろうか。他力本願人間の考え方である。

 授業時間は、ざっと六時間。実質潰れるコマを加味しても、全体的に学習意欲よりも眠気が勝る。プラネタリウムで子守歌を流されるより、よっぽど脳が働かないのだ。携帯を教科書に隠れていじくる不届き者が現れるのも致し方ない。昔の漫画が、携帯へと変化しただけだ。

 昨日力説した高校の有用性は、あくまで将来に限定したものだ。高校生の身分では、扱いきれない。友達と遠征したり自宅で趣味に没頭する時間を、学習機関に吸い込まれるのは納得しがたいものがある。

 ……彩は、あと二週間も残ってないのに……。

 放課後からでは、彼女を手伝える量に限界がある。意識改革を実行しようとしても、軌道までに二時間もかかっていては無意味だ。

「……ボーっとして……。……嫌なら……、休んだら……?」

 彩に鉛筆で小突かれ、感覚細胞が痛みをあげた。架空の世界にのめり込んでいた陽介の意識は、肉体に閉じ込められた現実世界へと帰還した。削られた方で頬を突くのはやめていただきたい。

 彩の部屋に鎮座する漫画は、一冊増えていた。彼女曰く、ネット注文をしていた最新刊が届いたのだそうだ。プレミア価格を気にして初版を祈っていた姿でも分かる通り、転売屋の素質が備わっている。ネット民の琴線に触れないよう、微生物も踏み殺さない注意を払って事業を始めよう。

 閉め切られた窓から入り込む日差しは、時を追うごとに影を縮小させていく。入った直後は壁に投影されていた陽介の影も、今となっては床に収まってしまっている。

 ……マンツーマンで教えて、って頼まれたけど……。

 いつもの対面形式と異なり、今日は彩と机の一辺を共有している。手の止まった問題を解説してくれとお願いされているのだが、今のところ特急久慈号は定刻より早くチェックポイントを通過している。早発しては、旅客に怒られてしまうと言うのに。

 初夏に似つかない毛深く分厚い部屋着が、陽介の肩に当たっている。押し込めば押し込むほど彩が傾いて、体付きの丸さが良く感じられる。

「……ここ、分からない……」

 陽介が手を持っていかされたのは、長々と連なっている国語の文章。鍵カッコが付いているので、物語文だ。最近のワークは、横書きスタイルも出てきたらしい。

 日本語の読解は、得意でない。特に、省略された主語や述語を予測する問題の正答率が悪い。『……へへ……』と微笑みかけられて、『陽介が』『面白い』という二語を導き出すのは不可能だった。

 いっそ、国語の問題は彩が話した内容だけで出題してみてはどうだろうか。付き添い人の陽介で半分も正解しないのだから、テストで皆平等に失点する神教科となる。三点リーダのオンパレードで、読みにくい事は間違いなしだ。

「国語の問題は、勘弁だぞ……。記述なんて、分かったものじゃない」
「……一番上……、見て……」

 苦手分野の解説を放棄しようとしたところに、塾生徒の久慈さんから鋭い指摘が入った。触れなくとも、周囲一メートルに侵入すると脳に穴が開く威力だ。

 彩は、ページの左上に表示してある教科名を指した。

 そこには、絶対に会ってはならないものがあった。

 ……数学……!?

 数学とは、名が示す通り数の学問である。計算やグラフが主な内容で、登場人物の心情を読み解く問題が出題されるのはカテゴリーエラー。漫画コーナーに大賞の小説を並べても、購買層が違うのだから売れるはずがないのだ。

 寝ぼけているのかと目をこすってみた。ワークの端には、『数学』の二文字が刻まれていた。膨大な文章量を蓄えた問題は、確かに数学であった。

「……ね……? ……これ、どういう……?」

 わざとっぽく、肩をぶつけて顔を寄せてきた。磨かれた白い歯を出して、微笑みかけていた。目に住む泥は拭い去れていないが、ハッとさせられる。

 彩が持つ魔力は、一通り付き合った男子を取り囲む。まだ闇に支配される前の彼女は、隠れファンも多かったに違いない。

 彼女を所有物にしようとアタックをかけても、そのガラスより脆い目論見は破壊される。人の邪な命令に素直な子という幻想は、早いうちに思い出袋へしまってしまった方がいい。

 彩は、効率に偏る女子高生だ。ベッドの横に置いて鑑賞するぬいぐるみでも、餌をあげて眺めるモルモットでもない。無口で単語を省略する、運動音痴な女の子なのだ。誰かに飼われるために生きてはいない。

 ……俺だって、一つ間違えたら欲望の眼差しになるしな……。

 陽介は、一切の欲を捨てた目を持っている。主観的な目と客観的な目を使い分け、自身の心をコントロールしているのだ。強情にものを言わせて暴力をふるうなど、謹慎の上切腹に自らを処す決意である。

 魂を上空に隔離して、彩を見ている気分だ。勢いで手を出しそうになっても危害が加わらない位置で、本体を保管している。

 真の陽介が解き放たれる時は、来るのだろうか。ちょっとやそっとの風で倒れなくなった葦に成長して、やっと念願の一時に辿り着ける。

『ピリリリ!』

 机に設置していたキッチンタイマーが、授業終了の合図を告げていた。とは言っても、陽介を迎えた時間が繰り下がっているので、日がやや高くなっている。

「……時間だ……。……休憩……、だよ……」

 全力で取り組んでいた壁から手を離し、ノートの上に彩が伏せた。まず見られない彼女の授業風景は、普通の女の子そのものだった。

 休憩時間中、講師の陽介は部屋から出られない。脱走されるから、と外出を禁止されている。先刻のハチ問題もあり、窓を開けて換気をすることも許されない。彼女は、エラ呼吸をしろと言っているのだろうか。

 ……ただただ、女子高生の私生活を覗いてるみたいで……。

 休日の勤勉な女子の一日を、特等席で観戦しているようだ。通報されない程度の信頼を持った男子に憑依して、映画の世界に入り込んだ状態になっている。

 しかし、その信頼は石油が生成するよりも長い時間をかけて積み上がってきたもの。よその世界から転生してきたどこの馬の骨とも分からない輩に、この座を明け渡したくはない。少なくとも、ハーレムが恋愛の基本だと考えるピントズレには。

 部屋の中でほのかに鼻を突く、住人のにおい。すれ違いざまに香って、胸をときめかせる。魅力に溺れて彩に強烈な恋心を抱くのは、陽介以外で待ったなしだ。

 カチ、カチと秒針が時を刻む。貴重な十分の空き時間が、消化されていく。

「……トイレ……」
「いちいち言わなくてもいいんだぞ……?」

 正直に申告して、彩は部屋を出て行った。

 目的を隠すくらいは罰が当たらない。嘘も方便……と使いたいところだが、彩は嘘をつくのが絶望的に下手である。子供でも疑問心を持ち、たまらず本人が真実を暴露してしまうのだ。間違ってもスパイに抜擢してはならない。

 彩が集めた漫画は、主としてスポーツ漫画と少女漫画。最近は専らスポーツに傾倒しているらしく、やたら目の大きい作画の表紙は奥に押し込まれている。

 最新刊を避けて、序盤の巻を手に取った。プレミアだの指紋が付くなどで怒鳴られそうだ。読み終わって転売したくなる気持ちは、よく分からない。

 彩から、漫画を読む許可は得ている。汚したりネットに出品したりしなければ、いくらでも読み進めていいとのこと。他人の物を売りさばく発想が出てくる事が、彼女が想像力に長けていることを示している。

 表紙を開くと、挟まれていた紙がひらひらと落ちた。肖像画が描かれていないので、へそくりではない。隠すにしても、表紙の裏にはしづらい。

 陽介は、紙切れを拾い上げて元のページへ挟もうとした。と、何やら彼女直筆の文言が視界に入ってくる。

『……ようすけ……』

 第一文を読んで、すぐに目を天空へ退避させた。

 ……これ、読んじゃいけないやつだな……。

 全文を見てしまうと、目を離せなくなる。彼女が収納しておきたい感情をいたぶっているようで、彩に申し訳なくなる。

 取った漫画を、棚に戻そうとして。

「……陽介、見つけ……」

 息を切らして、階段を駆けあがって来た彩。紋所を目に入れようとスマートフォンを見せつけたが、机の前で待機しているはずの陽介はいない。漫画の棚が死角になって、煙に消えてしまった格好だ。自宅の階段ごときで体力を削られるとは、体力の無い女の子である。

 彩がエネルギーを持て余しているのは、余り良い兆候ではない。猟銃を手にした時も、BB弾の片付けも、彼女は意味も無くその場で駆け足をしていた。余ったエネルギーを発電所に送る太陽光発電より、コスパは悪い。

 突然対象者がいなくなって混乱する彼女を、棚の陰からそっと確認してみる。

 ……高校の日程表だな、あれ……。

 彩が提示したスマートフォンには、高校のホームページが表示されていた。カレンダーで日程表を配信していて、今月のものが拡大されている。

 火曜日である今日は、どの列を見ても『通常授業』という予定が書きこまれている。赤色の帯も出ておらず、臨時で休校になった様子も読み取れない。

 これから、台風と竜巻と雷雲が一斉に押し寄せてくる。避難所は何処にもなく、陽介は平原で制裁を受けることになる。未来予測はたやすくとも、逃れる手段は尽きていた。

 首を少しだけ伸ばしていた陽介に、衝動に駆られた少女が気付いた。部屋全体に満遍なく散らばっていた酸素が彩に吸収されて、呼吸が苦しい。

「……陽介……。学校……あるよ?」
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