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3日目

016 向こう側の世界

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 親友と過ごした一日は、予想以上にエネルギー源を消費してしまっていた。猫じゃらしと勉強の手にかかり、活力を吸い取られてしまったのだ。

 陽介の体は、日光の刺激で起きるまでに数時間を費やした。休日の起床時間は元から遅いのだが、更に二時間オーバーしてしまった。お天道様はこのような日でも職場がブラックらしく、毎朝規則正しく出勤していた。

 朝から昼まで彩と絡んでいた副作用なのか、女子の声が周辺から消え失せると歩みが早くなる。いてもたってもいられなくなり、外へ飛び出しそうになるのだ。ランニングを日課にしても、解消されそうにない焦燥感である。

 今日は、世にも珍しい連絡船がやってくる予定になっている。近くに港のない都市には、無用の長物だとあしらわれる船舶だ。

 ……早くかかってこないかな……。

 時代遅れの黒電話を前にして、陽介は廊下で腕組みをしていた。少なくとも夜行性でない彩は、もう身支度をして何か自らの趣味に没頭している頃あいだ。便りがあってもおかしくない。

 『留年』の二文字がちらついてからと言うもの、陽介の意識を半分以上彩が占領している。無論彼女と遊んだ日に埋め尽くされることは有っても、オフにまでランキングを独占されたのは始めてだ。

 洗面所で顔を冷水につけていても、気晴らしに太陽を観察しに行っても、彩がいる。幻想の女の子が、陽介の横でぼんやりしている。笑顔でないのが不気味であるが、悲しみを訴えていなければ何だってよかった。

 ゲームやアニメに集中できるはずの自由時間も、隙あらば近所の女子高生が脳内で冷たく語り掛けてくる。貶されてばかりなのに、自然と受け入れてしまっている。

 実の妹だとしても、思考の主導権を奪う真似はしてこない。見方によっては、直接血がつながっているより強固な絆が形成されていると言っても良いのではないか。

 時刻は、早くも十時。朝飯は冷え切った白米と味噌汁を胃にかきこんだだけで、腹の足しにはなっていない。家族はもう出払っていて、食器を洗う羽目になった。

 突如、受話器が上に飛んだ。今のが高跳びの本気なのだとしたら、代表コーチに指導してもらわなければならない、練習不足の高度だ。

 古い電話は、どうも自宅外に掛けるのがややこしい。一個の数字を入力する毎にダイヤルを回さねばならず、陽介が持っている携帯電話の方が百倍効率的だ。

 彩に、自身の番号は教えていない。授業中に電話が掛かってくる事態を防ぐためだ。彼女にも根気よく説明し、なんとか了承を貰っている。マナーモードを設定画面に載せなかったメーカーが元凶だ。

『……郵便ですか、……訪問ですか……?』
「彩からかけてきてるのに、それは無いだろ……?」

 受話器の向こう側には、近所に住む一個下の女の子。遠距離だと、機械質な音声がさらに平坦化されてしまっている。ロボットがここまで進化したかと感動しそうになった。

 家族が引き払って無人地帯となった陽介の自宅は、何でもやり放題。水をぶちまけても、何もせず昼寝しても、気付かれない。ガールフレンドと称して彩を連れ込んで、押し入れにかくまうことも出来る。

 だがしかし、長電話は禁物だ。旧式が故、不具合で電話料金がかさんではたまらない。彩との会話と言えども、手短に終わらせなければならないのだ。

「ゴキブリとか、ハチとか、大丈夫だったか……?」
『……ベッド……、刺さった……』

 物騒な動詞が聞こえてきた。立った二語、されど二語。ぶつ切り日本語で、何故か当時の光景が浮かんでくる。

 ゴキブリを頭に乗せ、胸元へ逃げ込んできた彩。涙を服で拭く女の子は、確かに陽介を頼ってくれていた。タオルの代用ではなく、陽介を頼ってくれていた。

 ……彩には申し訳ないけど、一番心が揺れ動いた。

 彩が背中に回した腕は、血流がよく行き届いていた。熱気に帯びて、体温というものを良く知れたような気がした。あの時、二人は一心同体になっていたのだ。

「ハチの針が刺さったのか……? 念には念を入れて、病院に行った方が……」
『ささくれ……』

 文脈全振り少女には、致命傷となる弱点がある。可視光線を瞳で吸収するのもそうだが、根幹となる単語が抜け落ちる事だ。脳内で欠落した映像を補おうとすると、彼女が伝えたいものとは異なってしまう。

 ハチが最後っ屁で残していた毒針に引っ掛かったのではなく、ベッドのささくれ。トゲを抜き、つばを付けておけば今日二は治っている。使った心配を二倍にして返してほしい。

 受話器の向こうは、久慈宅。いつも彩が独りぼっちとは限らず、親が在宅している時も当然ある。それが分かっていても、未知なる先の怪奇な音が気になる。

 ……何なんだ、バックグラウンドの叫び声は……?

 金属音が鳴り響いては、愚痴を絶叫する誰かがいる。平然と通話を続けている彩も、後ろで起こっているケンカを止めないのだろうか。家庭環境が険悪だとは一言も聞かされていない。

 突っ込んではいけない家庭の事情だとすると、斬り込んでいかなくてはならない。後回しにしていては、彩の身に災厄が降りかかる。『留年回避』の目標にも、悪影響だ。

「……彩、後ろで鳴ってる奇声は……?」

 不満を頬に溜めているだろう彩は、一拍置いて、

『……料理中……。……陽介も、……こんな感じ?』
「誰が市街戦みたいな音を出すと思ってるんだよ」

 金属同士がかち合う激音は、弾丸と弾丸がぶつかる戦場そのもの。野菜の炒め物を作るにしても、フライパンに鉄製の箸を打ち付けでもしなければ受話器まで響かない。『料理は戦場』を真に受けたのではなかろうか。

 そんなことよりも、陽介が料理下手だと見なされていることに納得がいかない。塩コショウの使い分けは完璧で、レシピ通り進行出来る男のどこが下手認定されるのだろう。

 仮にも、自作のお菓子を彩に分け与えたことがある陽介。純真な目をしていた彼女が頬を落としそうになっていた出来で、とても木炭と一緒くたにされた失敗作だとは考えられない。

 彩の目玉をひっくり返す前に、陽介の地盤がぐらついている。彼女が彼女なら、彩を生んだ親も親だ。遺伝子は親から子に引き継がれる大原則を、忠実に再現しているのだ。

 先制攻撃を仕掛けられずに、撤退を選択したくない。隠していた秘密兵器を、解放する時だ。

 勇猛果敢に、陽介は敵陣へと斬り込んでいく。

「彩は、俺のことを頼ってくれてるんだったよな。嘘だとは言わせないぞ? ……ところで、もしかしたら俺を好きなんじゃ……」

 実も蓋も無い、直球ストレートど真ん中だ。打者にとっては絶好球で、ホームラン待ったなしのコース。強打者なら、簡単にスタンドまて持っていかれる。

 恋愛感情に、人間は蝕まれてきた。政治が男女の乱れで腐敗した歴史は数知れず、これからも続いていくだろう。屈強な肉体を持つ戦士も、恋人を人質に取られると途端に不穏な氾濫因子となってしまうのだ。

 悪気はない。鉄心が軸となって回転する彩を、傾けてみたかった。

 向こう側の世界で、凍結が始まった。彩が冷温停止して、熱が奪われている。陽介が受話器を持つ手からも、冷気が押し寄せてくる。

 ……もしかして、トラウマでも掘り当てたか……?

 原野を車で走行していて、地雷に遭う。動物園から逃げ出したライオンに襲われる可能性より低い事象だ。日本に暮らしている以上、地雷に遭遇することはまずないと断言していい。

 今は、リスク回避だ。彩の禁断ボックスを開いてしまっては、取り返しがつかなくなる。拒絶されてしまえば、二週間で修復する手段は残されていない。

 泡を吹いて倒れていないことを祈りつつ、陽介は弁明の言葉をつぎ込んだ。

「……ごめん、馬鹿なこと言ったよな……。気分悪くしたら、俺のせいにしていい……」
『……悪くない……』

 聖徳太子の生まれ変わりには程遠い陽介でも、透き通った暗い声がよく聞き取れた。透明なガラスが、電話線を通じて切っ先を突き立てていた。

 電話の反対側で、何やら物にぶつかる音がした。遠方の出来事ではなく、はっきり電話が音を拾っているくらいに近い。彩の親がフライパンを持って廊下を往復する姿が、不覚にも具現化してきた。

 ワンテンポ遅れて、彩の冷淡な答えが返ってきた。

『……今のは……、取り消し……』
「もちろん、取り消す。……気にしないでくれ」

 もごもご妹君が唸っているが、不満を本体にぶつけられないストレスで言葉が砕けているのだろうか。日本語にすらならない音声で、解読不能だ。

 電話は、送信したメッセージを取り消せない。言葉を発したが最後、電話相手に認識されるのである。手紙なら修正テープで上書きできるものが、誤字脱字も全て伝わってしまう。

 ……実際に会ってないからな……。

 対面で先刻の告白をしたのなら、陽介も足が地に着かなくなることは無かった。さざ波の一つも立たない彼女にちょっかいを出す気が満々で、その雰囲気が伝播していただろう。誤解を気にせず、挑発の文句を投げつけられた。

 現在、陽介は壁に向かって話している。彩が何処を見ているのか、何を感じているのかは、声で判断するよりない。音波を反射する白壁は、何も答えてくれないのである。

『……陽介、……起きるの遅い……。第一、私は……』

 ナマケモノも木を登り始めた時刻になって、ようやく布団を抜け出した陽介。十トントラックを脳天から落とされて、不平不満を主張することは許されない。支えていきたい人からの便りを寝坊ですっぽ抜かすとは、重罪だ。

 ……こりゃ、ずっと聞いとかないといけないパターンだな……。

 彩の申し出を了承している以上、こちらから電話を切れない。電話代の数字に怯えながら、彩のお言葉に延々と相槌を入れるしかない。

 結果として、彩の声が枯れて咳き込むまで黒電話の受話器を持つことになった陽介なのであった。
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