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2日目
012 ペットちゃん
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昼飯を胃に書き込むと、すぐに午後の部はスタートした。具なしおにぎりを一個くすねられそうになり、やむなく猫じゃらしで彩を制したのは正当防衛に該当するのだろうか。インターネットで刑法と照らし合わせるしかない。
なけなしの食糧を搾取しようとする彼女に非がある。昆布も梅干しも入っておらず、海苔すら外周に巻かれていない三角白米など、ドブに落とした一円玉にしか見えなかったのだろう。一円を笑うものは一円に泣く……とことわざを炸裂させたいのは山々なのだが、肝心の体験談が一つも無い。
基本的な内容は、ありがたい陽介の授業を耳栓で塞いだ彩が終わらせてしまった。第二段の復習をさせようとすると、無意味に吐き気を催す彼女は拒否してしまう。
……いくら留年がどうこうだからって、同じ範囲を繰り返しても、なぁ……。
彼女が知識の水を吸収することが活力となるように、水やり済みの花に消防車のホースで放水することは好かない。脳を騙し騙し勉強を叩きこんでも、それは一過性にしかならないからだ。
「……くすぐったい……」
ノート一式を机の引き出しに片付けた彩は、猫じゃらしと戯れている。キャットタワーを増設すれば、最上階を寝床とするのだろうか。ペットの隠し飼いと彼女が疑われては酷であり、乗り気はしない。
残念なことに、陽介はマタタビを持っていなかった。彩の皮を被った猫か、彩の皮を被った彩かを識別するキーアイテムを、あろうことか持参しなかったのである。今夜化け猫に食われても文句は受け付けてくれない。
久慈宅のリビングには、どういう訳か猫じゃらしが常備してある。彩が幼いころに猫を飼っていたらしく、その名残で居間に猫じゃらし入れがあるのだとか。母なる大地から分離されて、今日まで毛が取れていないのは手放しで喜んでいい。大学の研究機関に譲渡し、褒美の賞状を貰うかどうかは彩に一任する。
拳で猫じゃらしを撫で、顔にこすりつける。こお行動を猫と例えずしてどうするのか。『AYA』の名札が首からぶら下がっていないか、つい確認してしまった。
「……彩、猫になりたかったのか……? 今からでも、ペットショップで交渉してこようか……?」
「……劣悪……、死んでもいいの……?」
少々体は大きいが、ペットショップに頼み込めば店頭に飾らせてもらえる。たちまち店の一番人気となった彩は、高値を付けられて売り飛ばされるだろう。飼い主の一番手は、もちろん陽介である。
仮初めのペットとして、家で『飼って』みるのも面白そうだ。同じ食卓に着き、同じ屋根の下で温かいご飯を食べる。正真正銘、陽介の妹となった世界線の彼女も見てみたい。
猫じゃらしから目を置いた彩は、冷淡な目で陽介を睨みつけている。冗談でも、第三者に引き渡そうとしたのが許し難かったに違いない。自意識過剰とクラスメートから指摘されるのは、都合のいいストーリーを創造してしまうのが問題なのだろう。
……睨まれても、怖くない……。
強面の男に睨みつけられようものなら、神経が凍結して全身が麻痺する。これから起こり得る事態を脳が勝手にイメージし、その風景に恐れおののいてしまうのだ。蛙が逃げる事すら叶わず蛇に食われる気持ちも分かる。
光が反映されない彩の睨みは、事情を知らない他者からすると不気味だ。ヤンデレ系統のブラックホールに魂を吸い取られ、思考停止に追い込まれる。昔の時代に生を授かっていたのならば、地獄からやってきた使者だとして始末されていたかもしれない。
「……もうちょっと……、驚いて……?」
「……迫力が無いと言うか……、いつも通りで新鮮味が無いと言うか……」
驚愕が心を独占するには、厳しい条件を潜り抜けなければならない。万人に大うけするネタでも、百回見返すと笑えなくなってくる。
彩には、風格も備わっておらず、陽介との接触が多すぎる。強い者が黄金の甲冑を着るから恐れられるのであって、たかが一等兵に変装した猛者は嬲り殺しにされるのがオチだ。
もはや猫じゃらしなど机に置き去りにして、陽介と彩の電撃バトルが始まった。抑えきれなくなった静電気が、二人の目に雷を落とす。家が丸焦げになっても責任は持てない。
酸素で出来た即席剣を、彩の顔面に構えた。柄の部分の感触が無く、衝撃波で斬れるかどうかは不透明。ハッタリだと見破られたら最後、身柄を確保されてしまう。
……まだ、猫っぽさは残ってるから、何とか使えないか……?
耳を逆立てて吠える彩。口を鋭く開けて威嚇し、隙あらば飛び掛かる体勢だ。形式ばかりで仕掛けてこないのは、丸め込める実力が無いからだろう。所詮、底力勝負になれば陽介が圧勝する。
机に放置された猫じゃらしは、現状彩の支配下にある。領域へと伸ばした手に彼女の歯型
が残りそうな今、強奪するのは得策ではない。賄賂のマタタビが使えないことがモロに響いている。
「……にゃー……、にゃー……」
「それはもう猫なんだよ。頭を撫でられたいなら、お願いしないとやってあげないぞ?」
野生動物の群れを襲うライオンかと思われた少女は、牙を抜かれた猫だった。腕を噛まれるとしても甘噛みで、愛情表現の一種である。おかずを手に載せて、直接給餌する日は近い。
試しに、腕を上下に振ってみた。不規則に速度を変えながら、細目で見つめる彼女の前に垂らす。全治数週間のケガを負う覚悟の上で、よだれを誘発するおとり玉を決行した。
設定に乗るべきか、断固拒否して徹底抗戦を貫くか。彩に、厳しい二択を突きつけた。退くは死、進むも死。難所を越えたその先にも、まだ深い渓谷が待ち構えている。
鋼の精神を手に入れた彩がどぎまぎする姿は、目新しくて現代の風を吹かせてくれる。ギャップ萌えとでもいうのだろうか。何もかも投げ出したい内心と健気な理性が衝突して、渋滞してしまっているようだ。
仮に『飼う』としても、取扱説明書は必須である。利用規約を読み飛ばすコスパ重視ユーザには気を付けてもらわなければならない。掟を破ったら最後、内臓や骨まで食い荒らされる。
かと言って口を南京錠で封じておくのは、余りにも倫理に反す。近所から虐待だと通報されたら、打つ手がない。唇を物理的に閉じさせられたのでは、彩も擁護してはくれない。
……何考えてるんだろうな、俺……。
愛玩動物と彩を同じスペースに陳列して、どうするのか。金を出して買える安っぽい幸福は、今の陽介には必要ない。長い間育成してきたガラス棒の絆を、この手で叩き割りたくはいのだ。
「……手を、……置いてみる?」
「なんで疑問形なんだよ。……猫として、生きていくんだな」
彩は首をかしげて、丸まって爪を潜めた手を手のひらに乗せてきた。芸を仕込まなくとも演技できる猫など、津々浦々のサーカス団が欲しがる存在だ。
疑問からスタートした彼女の心の揺れは、体と共鳴して肉眼で確認できるまでになった。澱んで底の見えない目が、上下左右に振動している。猫としての第一歩を踏み出してしまった自らと、乖離が生じているらしい。
注意力が部屋全体にばらけた瞬間を、陽介は見逃さない。すかさず机の上から猫じゃらしを奪取し、自身の影響下に含んだ。
リビングで補給される前に、打開策を見出していかなくてはならない。ヒットポイントを赤信号に追い込んでおいて、取り逃がすと心身が削り切られてしまう。
陽介は、猫化した彩に猫じゃらしを吊り下げた。机を這わせ、ネズミと同じ挙動を模す。手なずけられたら儲けものだ。
「……そんなもの……、通用……」
「体は正直なんだから、口も従えばいいのに……」
口だけ達者な年下の異性は、薄緑の植物に目を惹かれていた。飛び込んでも受け止めてくれる高級ベッドのような毛の並びに、体が疼いて仕方ないようだ。飛び掛からんと目を充血させている。
彩の心と肉体は、糸がほどけて分離してしまった。多勢に無勢の旗が上がる戦場を、脳だけが無謀な抵抗をしている。勇猛果敢と勝ち目のない突撃は別物だと教える軍師が必要だ。
耳が、にわかにうるさくなった。玄関が突破される音は響いておらず、部外者が忍び込んだ線は否定できる。耳鼻科で診断してもらわなくてはならない、と一抹の不安が増幅されていく。
正体は、全くの見当はずれだった。人類に貴重な甘味を提供してくれる、同盟関係のブツであったのだ。人間があまり近寄らないのは、心証が悪いからに他ならない。
……ここ、木が生えてない住宅街だぞ……?
植樹をするには庭が狭く、ここら一帯の住人で木の生えている民家は無い。隠れ家もエサも見つからないコンクリート街にこやつが出没するとは、異常気象もいいところだ。その内、飴が空から降ってくるのではないだろうか。
黄色と黒の警告色で、自らの存在を主張している。がたいが小さい癖して、態度が大きい。危険人物に指定されていなければ、叩き潰しているところだ。
「……ハチ……」
恐怖にさいなまれると、動物擬態は解除されるようだ。彩の呼吸は荒くなり、部屋中が酸欠になるほど急速に酸素を消費していく。お尻に少々鋭い針が付いている虫に、過剰反応し過ぎである。
どこの家庭にもある虫取り網が、部屋にない。外から中への一方通行標識が新設されていて、ハチも外に逃げようとしない。人間を刺す快楽を覚えたハチなのだろうか。ミツバチに二度刺しは出来ないはずなのだが。
羽音が、血管を風で裂いてしまいそうだ。彩が染み込んだ部屋を飛び回る幸福をかみしめられるとは、このハチも幸せ者である。あまり虫殺しに積極的でない彩に出会えたことを、誇りに思ってほしい。
彩が、陽介のノートをカバンから取り出した。ハチに刺される危険を冒してでも勉学を優先させる、正に優等生そのものだ。筆記用具をしまったままなのは、暗算でも十分という宣言の表れだろう。
「……許すまじ……、陽介との……!」
文章がぶつ切りになっていて、陽介がどの文脈で出てきたかは無限通りある。日本語が語句の順番を入れ替えても通じる特性を以てして、彼女と意思疎通は難しい。
プライベートの学習用で陽介が作ったノートを、ハチの上空へ振り上げた彩。物を粗末にしてはいけないと幼い時期に習った陽介には、理解に苦しむ。
反撃を食らう想定など最初からしていないかのように、単身でハチに飛び込んでいく。
避ける場所が無くなり、陽介はやむなくベッドに飛び乗った。神聖な場所を汚す意図は無い。
彼女は、復習を好まない。一度定着した内容を掘り返すことは効率が悪いと主張したくなる気持ちは、誰もが経験するものだ。
だが、彩は知識を応用するつもりは無かったようである。
憎き空中に留まるハチに、正義の鉄槌が下された。裁判の判決で振り下ろされる木槌を優に超えている。
「……覚悟……!」
陽介のノートが、罪の無いハチから生命を奪った。フルスイングされ、ハチの体をカーペットに押し付ける。
……そんなことしたら……。
Gの時に何も学ばなかった、猪突猛進で周りが見えなくなる彼女。新聞紙でGを始末しなかった理由を、百文字以内で述べられなさそうだ。間違えた問題は、次回の試験で必ず正答できなければならないのだが。
潰されたハチは、ノートにこびり付いていた。文字を記録する用途以外で使われて、さしものノートも眼球が飛び出している。手術費用の請求書をポストに投函して、不足したお小遣いの代替としよう。
まあ、最悪ノートは買い替えれば何とかなる。大問題は、その次だ。
ハチの死骸は、粉々になって飛び散った。大部分はノートに吸着されて事なきを得たが、少数の欠片は遮蔽物の無かった方向へと飛んでいく。
例えば、陽介が避難したベッドの上に。
パソコンで描写した曲線を描き、滲み出た体液と共にハチの残骸がベッドへ着地した。受け身など取れるはずがなく、普段彩に被さっている掛け布団へと飲み込まれた。
一呼吸、間が空いた。絶対零度になって、固体酸素や窒素が優希となって降り積もる。
「……あっ、……あっ……」
嗚咽が、虚しく部屋に響く。意識の支柱を失った身体は、平衡感覚が停止していた。
彩は、その場に崩れた。ベッドにハチの死体が飛んだことについてなのか、陽介にプライベート空間へ侵入されたことについてなのか。陽介には、知る由も無かった。
なけなしの食糧を搾取しようとする彼女に非がある。昆布も梅干しも入っておらず、海苔すら外周に巻かれていない三角白米など、ドブに落とした一円玉にしか見えなかったのだろう。一円を笑うものは一円に泣く……とことわざを炸裂させたいのは山々なのだが、肝心の体験談が一つも無い。
基本的な内容は、ありがたい陽介の授業を耳栓で塞いだ彩が終わらせてしまった。第二段の復習をさせようとすると、無意味に吐き気を催す彼女は拒否してしまう。
……いくら留年がどうこうだからって、同じ範囲を繰り返しても、なぁ……。
彼女が知識の水を吸収することが活力となるように、水やり済みの花に消防車のホースで放水することは好かない。脳を騙し騙し勉強を叩きこんでも、それは一過性にしかならないからだ。
「……くすぐったい……」
ノート一式を机の引き出しに片付けた彩は、猫じゃらしと戯れている。キャットタワーを増設すれば、最上階を寝床とするのだろうか。ペットの隠し飼いと彼女が疑われては酷であり、乗り気はしない。
残念なことに、陽介はマタタビを持っていなかった。彩の皮を被った猫か、彩の皮を被った彩かを識別するキーアイテムを、あろうことか持参しなかったのである。今夜化け猫に食われても文句は受け付けてくれない。
久慈宅のリビングには、どういう訳か猫じゃらしが常備してある。彩が幼いころに猫を飼っていたらしく、その名残で居間に猫じゃらし入れがあるのだとか。母なる大地から分離されて、今日まで毛が取れていないのは手放しで喜んでいい。大学の研究機関に譲渡し、褒美の賞状を貰うかどうかは彩に一任する。
拳で猫じゃらしを撫で、顔にこすりつける。こお行動を猫と例えずしてどうするのか。『AYA』の名札が首からぶら下がっていないか、つい確認してしまった。
「……彩、猫になりたかったのか……? 今からでも、ペットショップで交渉してこようか……?」
「……劣悪……、死んでもいいの……?」
少々体は大きいが、ペットショップに頼み込めば店頭に飾らせてもらえる。たちまち店の一番人気となった彩は、高値を付けられて売り飛ばされるだろう。飼い主の一番手は、もちろん陽介である。
仮初めのペットとして、家で『飼って』みるのも面白そうだ。同じ食卓に着き、同じ屋根の下で温かいご飯を食べる。正真正銘、陽介の妹となった世界線の彼女も見てみたい。
猫じゃらしから目を置いた彩は、冷淡な目で陽介を睨みつけている。冗談でも、第三者に引き渡そうとしたのが許し難かったに違いない。自意識過剰とクラスメートから指摘されるのは、都合のいいストーリーを創造してしまうのが問題なのだろう。
……睨まれても、怖くない……。
強面の男に睨みつけられようものなら、神経が凍結して全身が麻痺する。これから起こり得る事態を脳が勝手にイメージし、その風景に恐れおののいてしまうのだ。蛙が逃げる事すら叶わず蛇に食われる気持ちも分かる。
光が反映されない彩の睨みは、事情を知らない他者からすると不気味だ。ヤンデレ系統のブラックホールに魂を吸い取られ、思考停止に追い込まれる。昔の時代に生を授かっていたのならば、地獄からやってきた使者だとして始末されていたかもしれない。
「……もうちょっと……、驚いて……?」
「……迫力が無いと言うか……、いつも通りで新鮮味が無いと言うか……」
驚愕が心を独占するには、厳しい条件を潜り抜けなければならない。万人に大うけするネタでも、百回見返すと笑えなくなってくる。
彩には、風格も備わっておらず、陽介との接触が多すぎる。強い者が黄金の甲冑を着るから恐れられるのであって、たかが一等兵に変装した猛者は嬲り殺しにされるのがオチだ。
もはや猫じゃらしなど机に置き去りにして、陽介と彩の電撃バトルが始まった。抑えきれなくなった静電気が、二人の目に雷を落とす。家が丸焦げになっても責任は持てない。
酸素で出来た即席剣を、彩の顔面に構えた。柄の部分の感触が無く、衝撃波で斬れるかどうかは不透明。ハッタリだと見破られたら最後、身柄を確保されてしまう。
……まだ、猫っぽさは残ってるから、何とか使えないか……?
耳を逆立てて吠える彩。口を鋭く開けて威嚇し、隙あらば飛び掛かる体勢だ。形式ばかりで仕掛けてこないのは、丸め込める実力が無いからだろう。所詮、底力勝負になれば陽介が圧勝する。
机に放置された猫じゃらしは、現状彩の支配下にある。領域へと伸ばした手に彼女の歯型
が残りそうな今、強奪するのは得策ではない。賄賂のマタタビが使えないことがモロに響いている。
「……にゃー……、にゃー……」
「それはもう猫なんだよ。頭を撫でられたいなら、お願いしないとやってあげないぞ?」
野生動物の群れを襲うライオンかと思われた少女は、牙を抜かれた猫だった。腕を噛まれるとしても甘噛みで、愛情表現の一種である。おかずを手に載せて、直接給餌する日は近い。
試しに、腕を上下に振ってみた。不規則に速度を変えながら、細目で見つめる彼女の前に垂らす。全治数週間のケガを負う覚悟の上で、よだれを誘発するおとり玉を決行した。
設定に乗るべきか、断固拒否して徹底抗戦を貫くか。彩に、厳しい二択を突きつけた。退くは死、進むも死。難所を越えたその先にも、まだ深い渓谷が待ち構えている。
鋼の精神を手に入れた彩がどぎまぎする姿は、目新しくて現代の風を吹かせてくれる。ギャップ萌えとでもいうのだろうか。何もかも投げ出したい内心と健気な理性が衝突して、渋滞してしまっているようだ。
仮に『飼う』としても、取扱説明書は必須である。利用規約を読み飛ばすコスパ重視ユーザには気を付けてもらわなければならない。掟を破ったら最後、内臓や骨まで食い荒らされる。
かと言って口を南京錠で封じておくのは、余りにも倫理に反す。近所から虐待だと通報されたら、打つ手がない。唇を物理的に閉じさせられたのでは、彩も擁護してはくれない。
……何考えてるんだろうな、俺……。
愛玩動物と彩を同じスペースに陳列して、どうするのか。金を出して買える安っぽい幸福は、今の陽介には必要ない。長い間育成してきたガラス棒の絆を、この手で叩き割りたくはいのだ。
「……手を、……置いてみる?」
「なんで疑問形なんだよ。……猫として、生きていくんだな」
彩は首をかしげて、丸まって爪を潜めた手を手のひらに乗せてきた。芸を仕込まなくとも演技できる猫など、津々浦々のサーカス団が欲しがる存在だ。
疑問からスタートした彼女の心の揺れは、体と共鳴して肉眼で確認できるまでになった。澱んで底の見えない目が、上下左右に振動している。猫としての第一歩を踏み出してしまった自らと、乖離が生じているらしい。
注意力が部屋全体にばらけた瞬間を、陽介は見逃さない。すかさず机の上から猫じゃらしを奪取し、自身の影響下に含んだ。
リビングで補給される前に、打開策を見出していかなくてはならない。ヒットポイントを赤信号に追い込んでおいて、取り逃がすと心身が削り切られてしまう。
陽介は、猫化した彩に猫じゃらしを吊り下げた。机を這わせ、ネズミと同じ挙動を模す。手なずけられたら儲けものだ。
「……そんなもの……、通用……」
「体は正直なんだから、口も従えばいいのに……」
口だけ達者な年下の異性は、薄緑の植物に目を惹かれていた。飛び込んでも受け止めてくれる高級ベッドのような毛の並びに、体が疼いて仕方ないようだ。飛び掛からんと目を充血させている。
彩の心と肉体は、糸がほどけて分離してしまった。多勢に無勢の旗が上がる戦場を、脳だけが無謀な抵抗をしている。勇猛果敢と勝ち目のない突撃は別物だと教える軍師が必要だ。
耳が、にわかにうるさくなった。玄関が突破される音は響いておらず、部外者が忍び込んだ線は否定できる。耳鼻科で診断してもらわなくてはならない、と一抹の不安が増幅されていく。
正体は、全くの見当はずれだった。人類に貴重な甘味を提供してくれる、同盟関係のブツであったのだ。人間があまり近寄らないのは、心証が悪いからに他ならない。
……ここ、木が生えてない住宅街だぞ……?
植樹をするには庭が狭く、ここら一帯の住人で木の生えている民家は無い。隠れ家もエサも見つからないコンクリート街にこやつが出没するとは、異常気象もいいところだ。その内、飴が空から降ってくるのではないだろうか。
黄色と黒の警告色で、自らの存在を主張している。がたいが小さい癖して、態度が大きい。危険人物に指定されていなければ、叩き潰しているところだ。
「……ハチ……」
恐怖にさいなまれると、動物擬態は解除されるようだ。彩の呼吸は荒くなり、部屋中が酸欠になるほど急速に酸素を消費していく。お尻に少々鋭い針が付いている虫に、過剰反応し過ぎである。
どこの家庭にもある虫取り網が、部屋にない。外から中への一方通行標識が新設されていて、ハチも外に逃げようとしない。人間を刺す快楽を覚えたハチなのだろうか。ミツバチに二度刺しは出来ないはずなのだが。
羽音が、血管を風で裂いてしまいそうだ。彩が染み込んだ部屋を飛び回る幸福をかみしめられるとは、このハチも幸せ者である。あまり虫殺しに積極的でない彩に出会えたことを、誇りに思ってほしい。
彩が、陽介のノートをカバンから取り出した。ハチに刺される危険を冒してでも勉学を優先させる、正に優等生そのものだ。筆記用具をしまったままなのは、暗算でも十分という宣言の表れだろう。
「……許すまじ……、陽介との……!」
文章がぶつ切りになっていて、陽介がどの文脈で出てきたかは無限通りある。日本語が語句の順番を入れ替えても通じる特性を以てして、彼女と意思疎通は難しい。
プライベートの学習用で陽介が作ったノートを、ハチの上空へ振り上げた彩。物を粗末にしてはいけないと幼い時期に習った陽介には、理解に苦しむ。
反撃を食らう想定など最初からしていないかのように、単身でハチに飛び込んでいく。
避ける場所が無くなり、陽介はやむなくベッドに飛び乗った。神聖な場所を汚す意図は無い。
彼女は、復習を好まない。一度定着した内容を掘り返すことは効率が悪いと主張したくなる気持ちは、誰もが経験するものだ。
だが、彩は知識を応用するつもりは無かったようである。
憎き空中に留まるハチに、正義の鉄槌が下された。裁判の判決で振り下ろされる木槌を優に超えている。
「……覚悟……!」
陽介のノートが、罪の無いハチから生命を奪った。フルスイングされ、ハチの体をカーペットに押し付ける。
……そんなことしたら……。
Gの時に何も学ばなかった、猪突猛進で周りが見えなくなる彼女。新聞紙でGを始末しなかった理由を、百文字以内で述べられなさそうだ。間違えた問題は、次回の試験で必ず正答できなければならないのだが。
潰されたハチは、ノートにこびり付いていた。文字を記録する用途以外で使われて、さしものノートも眼球が飛び出している。手術費用の請求書をポストに投函して、不足したお小遣いの代替としよう。
まあ、最悪ノートは買い替えれば何とかなる。大問題は、その次だ。
ハチの死骸は、粉々になって飛び散った。大部分はノートに吸着されて事なきを得たが、少数の欠片は遮蔽物の無かった方向へと飛んでいく。
例えば、陽介が避難したベッドの上に。
パソコンで描写した曲線を描き、滲み出た体液と共にハチの残骸がベッドへ着地した。受け身など取れるはずがなく、普段彩に被さっている掛け布団へと飲み込まれた。
一呼吸、間が空いた。絶対零度になって、固体酸素や窒素が優希となって降り積もる。
「……あっ、……あっ……」
嗚咽が、虚しく部屋に響く。意識の支柱を失った身体は、平衡感覚が停止していた。
彩は、その場に崩れた。ベッドにハチの死体が飛んだことについてなのか、陽介にプライベート空間へ侵入されたことについてなのか。陽介には、知る由も無かった。
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